第01話 出陣式
「ありがとう。本当にありがとう。
ニート、君が居なかったら、僕は……。僕は……。」
どんなに苦しい境遇の中に在ろうが、その心の内を表に出さず、気高さを常に心掛ける。
前の世界に『武士は食わねど高楊枝』という諺が有るが、その究極と呼べるものが国家の頂点に立つ王家だろう。
ところが、その王家の一員でありながら、目の前のジュリアスときたら実にお粗末が過ぎた。
精一杯に微笑んではいるが、今にも零れ落ちそうなくらいに涙を瞳に溜めながら声は万感に震わせて、今にも泣き出しそうな雰囲気。
どんな理由が有るにせよ、王家の者が人前で涙を見せるなど以ての外。
言い換えるなら、涙は弱みだ。それは付け入る隙を他者へ与え、来るべき王位争奪戦の失点に繋がりかねない。
ましてや、今日は晴れの門出。
今年度、対ミルトン王国戦線へ新たに投入される第十三騎士団の出兵式が今先ほど済み、これから戦地へ旅立とうとしているにも関わらず、その団長たるジュリアスが泣くなんて縁起が悪すぎる。
だったら、ジュリアスの評判を下げるより俺の評判を下げた方が良い。
王族相手に不敬な行為だが、交わしていた握手を強引に引き寄せて、ジュリアスを抱き締めたのはそう考えての判断だった。
「泣くな。皆が見ている」
しかし、その直後にちょっぴり後悔する。見た目はとびきりの美少女でも、ジュリアスは男だ。
それも日々の鍛練によって鍛えられており、その身体は細身ながらも筋肉質で固い。抱き締めていても面白くない。
その癖、不思議と柔らかいボリュームが尻に存在して、女性っぽいくびれが腰にも存在するのだから摩訶不思議。
抱き締めて実感したが、ウエストの細さがティラミスに及ばないにしろ、アリサと同等くらい。ルシルさんとリズの二人と比べたら確実に細い。
この世界の女性達も前の世界と同様にウエストの細さに美徳を持っている。
もし、このジュリアスの神秘を世の女性達が知ったら、どれほど羨んで嫉妬するだろうか。
なにしろ、世の女性達がウエストを少しでも細くさせようと苦労と努力を重ねているのに対して、ジュリアスは素でこれだ。
装身具のコルセットは勿論の事、ダイエットを理由とする食事制限も行なっていないどころか、反対に少しでも男らしい身体つきになろうと常にちょっと多めの食事を心掛けているほど。
それでいて、太り難い体質らしいのに合わせて、日々の鍛練が自然とダイエットにもなり、ジュリアスはジュリアスで矛盾する涙ぐましい苦労と努力を重ねていた。
本人がコンプレックスを酷く抱いている為、口が裂けても言えないが、やはり生まれてくる性別を間違えたと言うしかない。
女に生まれていたなら、政略結婚は王族故に仕方が無いにしろ、その美貌で引く手は数多で選り取り見取り。国内なら大貴族の嫡男、異国でも政権に影響力を持つ王子を選べる立場にあっただろう。
「うん、そうだね。でも……。」
「第一、気が早過ぎる。俺も、お前も、まだ何も成し遂げていない。
礼を言いたいなら、それが済んでからだ。その後の言葉はまたここへ二人で戻ってきた時の為に取っておけって……。なっ?」
今、ジュリアスの顔は左の肩に乗せられていて、その表情は見えない。
だが、苦労の甲斐も無く、しゃくり上げ始めたジュリアスの様子にますます涙ぐんでいるのが手に取る様に解った。
こうなってしまったら、ジュリアスが泣き止むまで抱き締めているしかない。
溜息を深々と漏らして、早く泣き止めというメッセージを込めるのとジュリアスのしゃくり上げを抑える為、きつく抱き締める。
インランド王国は開祖が武力で王位に就き、その後も歴代の王達も侵略によって版図を拡げて、国を富ませる事に成功してきた。
そういった歴史的な背景から王家の男は軍事的な才能が特に重要視され、軍の要職を担うのが伝統となっているが、ジュリアスは違った。
三年間、騎士叙任後に就いたトーリノ関門の総司令官の座を見事に務めて、結構な武勲も挙げたにも関わらず、その後に与えられた役目は要職とは程遠い閑職だった。
そんなジュリアスへ思いがけない内示が去年の春に伝えられる。
それが今先ほど出兵式を済ませた第十三騎士団の団長の座に伴う今年以降の対ミルトン王国戦線における総司令官の座である。
数年来、国王が最も関心を寄せているミルトン王国との戦争。
ここで大きな武勲を挙げれば、当然の事ながら国王の覚えも目出度くなり、次期王位争奪戦に向かって大きな一歩も踏み出せる。
どうして、これほど大きなチャンスをジュリアスへ与えるのかと思ったら、その内情に第一王女派と第二王子派の派閥の罠があった。
過去、国王がミルトン王国戦線へ親征した時は三万の戦力が、第二王子の時は二万の兵士が戦力とされた事実が有る。
それに対して、ジュリアスへ許された戦力はたったの五千人。とても比較にならない数字であり、本来は一万の兵力を以って数える騎士団の半数だった。
当然、その程度の戦力で戦いへ出向いたところで無駄の一言。焼け石に水をかける様なものだ。
そもそも、ミルトン王国戦線で今も戦っている味方達に歓迎されない。士気を下げる結果を生み、武勲を挙げる以前に敗走をいかに防ぐかで頭を悩ます事となるに違いない。
何故ならば、貴族にとって、特に無位無官の騎士にとって、戦場は出世の花道だが、その騎士を支える兵士達は違う。
兵士にとって、戦場は地獄。そこへ敢えて飛び込むのは兵役が義務であり、その地獄で戦う事が巡り巡って、故郷の家族を救う事に繋がるからだ。
無論、兵士も武勲を挙げれば、報奨金が貰えて、貴族となれる可能性も有るが、後者の可能性は極めて低いと言わざるを得ない。
その理由は極めて簡単である。戦う為に育てられた騎士と畑を耕す為に育てられた農民のどちらが強いかなど言うまでもない。
それを考えると、俺は運が良かった。
猟師として、動物や魔物と戦う術を親父から教えられ、それを戦場で用いるのに転化が効いたのだから。
例え、この技術の格差を越えられたとしても、兵士達が持っている武器は殆どが木剣であり、長棒。装備の格差問題が次に有る。
この世界において、鉄はまだまだ高価な代物であり、剣や槍といった武器を全ての兵士に与えられる裕福な貴族は居ない。
結論として、よっぽどの運に恵まれなければ、兵士が騎士を打ち取るのは難しい。
その上、それが叶ったとしても、その武勲を仕えている騎士が横取りする可能性も有るのだから、やはり平民である兵士が貴族となれる可能性は夢物語に等しい。
だから、兵士は生き延びる事を第一として、三年間の兵役義務が明けるのを何よりの楽しみにしている。
但し、兵役義務期間が明けたからと言って、誰もが無条件で帰れる訳では無い。それは時と場合によって、無視される。
具体的に例えると、戦線を維持するには戦線を支える一定数の戦力が必要となる。
つまり、新たな騎士団が一年毎に投入されて、兵員が入れ代わり立ち代わりとなっているミルトン王国戦線へ本来は一万の兵力を以って数える騎士団の半数兵力で援軍へ向かった場合、兵役義務期間が明けたのに故郷へ帰れない兵士達が現地の予定より多く発生する。
そうなったら、その兵士と兵士の家族の不満が何処へ向かうかなど語るまでもない。
王宮内の派閥力は弱いが、下級貴族を主として、一般庶民にも人気が高いジュリアスを蹴落とす意味も含めた実に見事な策だ。敵ながら天晴と言うしか無い。
しかし、その人気の高さが第一王女派と第二王子派の派閥の思惑を覆す。
驚くべき事にジュリアスの派閥に属するほぼ全ての貴族が今年度の出兵に進んで志願したのである。
小は無位無官の騎士から大は領主持ちの貴族まで集った戦力は一万弱。
これに関して、俺的に引っかかる点は有るが、この数字に南方領からの派兵が加算されて、その合計数は二万三千。最終的に第二王子の出兵時を越える戦力がジュリアスの旗の元へ集った。
ところが、ところがである。
戦力が揃ったかと思ったら、第一王女派と第二王子派の派閥は次なる難問を仕掛けてきた。
俺がトーリノ関門から帰ってきた時に予想した通り、順調なくらい鰻登っている王都の物価。
それを盾にして、第十三騎士団へ渡せる兵糧は当初の戦力だった五千人分のみと告げてきた。それも今現在の苦しい国家財政の実情をこんこんと説いて、そう言われては何も言えなくなるジュリアスの立場の弱さを利用してだ。
戦争とは戦略、戦術、兵站の三つが揃って、初めて勝てるもの。
この話をジュリアスから聞いた時、俺はもう怒りを通り越して呆れ果てるしかなかった。だったら、それを国王へ訴えて、ミルトン王国との戦いに一旦でも終止符を打てよと。
だが、俺より先に王都入りしていたおっさんは違った。
この奸計をジュリアスから相談されるなり、激怒も大激怒。既に夜も更けていたにも関わらず、槍を片手に持ち、その只ならぬ様子を心配して勝手に付いてきた陪臣達をぞろぞろと引き連れて、文字通りの殴り込みを軍の中央作戦本部へかけたらしい。
その結果、おっさんが反乱を起こしたという噂が一時は駆け巡り、王都は上へ下への大騒ぎ。
最終的にジュリアスへ対して仕掛けられた奸計が露見して、今度は国王が大激怒。トカゲの尻尾切りとして、第一王女派と第二王子派の数人が若くして隠居に追い込まれ、第十三騎士団の兵站に関する問題は解決した。
なにせ、第十三騎士団の実情をそれまで知らなかった国王の罪は大きいが、第十三騎士団の発足は国王の名においたもの。
本来なら、その兵力を整えるのは国王の義務である。それを諸侯に補って貰ったばかりか、その維持費すらも手弁当に頼ったら、面子は丸潰れに等しい。
国家財政がいかに厳しくても、国王がここで第十三騎士団の万全な兵站を保証するのは当然の結果と言えた。
また、この一連の出来事で思い知らされたのが、第一王女派と第二王子派の政治力の大きさだ。
ジュリアスを失墜させたいとは言え、兵力と兵站のどちらかでも欠けさせたら、ミルトン王国戦線は大きく後退する。
それは同時に国王の意思に逆らう事も意味する。
更に付け加えて、第十三騎士団の実情をおっさんが騒ぎを起すまで国王にすら隠し通したのだから恐れ入るしかない。
これ等の絵図を描いたのは不明だが、心当たりが居る。
政治力の大きさと王意に逆らえる度量の広さ、この二つの観点から有能な政治家であると共に苛烈な陰謀家としても名高い第一王女だろう。
そうなると辻褄が色々と合い、その思惑も見えてくるのだ。
貴族との社交で得た情報によると、実は第一王女が持っているミルトン王国との戦争に関する見解は俺と見事に一致している。
即ち、国王の親征によって得たリード差を武器にして、まずはミルトン王国と有利な条件で停戦なり、和平なりを結ぶというもの。
可能なら、現ミルトン国王を隠居させて、姫が居るなら第二王子か、ジュリアスと、王子のみなら第一王女と婚姻を結んでしまえば、それで間接統治が出来る。
あとはミルトン王家の影響力を徐々に削いで行き、同盟国から属国、属国から併合へ運んでゆく方が世代単位の長い時間はかかっても現状より全てにおいて優っている。
その理由は今現在の経済状況を見渡したら一目瞭然だ。
今や、戦時需要の絶頂期へ突入しており、国家財政が尽き次第、バブルが大きく弾けるのは目に見えている。
あと何年、国家財政が保つのかは俺に知る術は無いが、バブルが弾けたら最後、インランド王国という国は莫大な借金を背負う事となり、それは北のロンブーツ教国と南のアレキサンドリア大王国に付け入る隙を与えてしまい、版図を広げる筈が逆に縮める結果となるのは必然だった。
しかし、ミルトン王国戦線がここで大きく後退したなら、それは王意をひっくり返す十分な材料となる。
これまで大きな負担を国家財政に強いながらも戦争継続が声高らかに叫ばれてきたのは、偏に大きな敗北が無いからに他ならず、国の顔と言える王族が指揮しての敗北は戦争に熱狂している者達の頭を冷やす良い薬となる。
それこそ、ジュリアスが戦死した場合、確実にひっくり返る。王妃が戦争継続に反対するからだ。
実子では無いが、ジュリアスを可愛がり、何かと気にかけている王妃の性格を考えたら、弔い合戦を仕掛けようとするよりも喪に服そうとするに違いない。
もう一つの根拠として、王妃は政治に関与する事は滅多に無いが、滅多に無いからこそ、それを行なった時に国王が断れないのは過去の実績からも解っている。
もっとも、全てはあくまで俺の推測でしかない。
もしかしたら、俺の考えも及ばない更なる思惑が一つ、二つと有るのかも知れないが、これだけは言える。
ジュリアスが王位を勝ち取るには、この巨大な敵をいずれは打ち負かさなければならず、その前途はあまりにも多難だという事だ。
「ありがとう。もう大丈夫だよ」
「おう、その礼は受け取ってやるよ」
どれくらいの時間が経っただろうか、ふとジュリアスが腕の中で身悶え、それを合図に両腕を解く。
一応、確認すると、その目は明らかに充血して赤くなっているが、涙は完全に治まっている。
だが、自分の態度を省みて、今更ながら恥ずかしくなったからとは言え、耳まで真っ赤に染めながら俯いて上目遣いを向ける乙女チックな仕草は止めろ。
この場の空気を読んで敢えて口にしないが、見事なくらい様になっているから困る。不覚にも胸がドキリと跳ね、つい抱き締めたくなる衝動に駆られてしまった。
そのせいか、さっきとは違う心配が唐突に湧き起こる。
すぐさま周囲の様子をこっそりと窺い、他人のラブシーンを目の当たりにしたかの様に顔を気まずそうに背けている者は一人も居ないのを確認して、今度は胸をホッと撫で下ろす。
俺達へ向けられている視線は慈しみの目。
恐らく、寸暇の別れを惜しんで抱き合う友人同士。周囲はそう俺達を見ているに違いない。
ジュリアスが団長なら、俺は参謀長を務める第十三騎士団。
あとはジュリアスの出発の号令を待って、ミルトン王国へ旅立つばかりとなったが、第十三騎士団の全てが今日の内に旅立つ訳では無い。
最初の目的地、ミルトン王国戦線の後方基地となっている街までの距離は馬車ですら約一ヶ月半の旅路。
軍勢を率いての行軍となったら、更に倍は見積もらなければならず、その道中にある街や村に万単位の人員を受け入れられる施設や設備が有る筈も無い為、五百人から千人の集団で日毎に出発する手筈となっている。
その出兵計画によると、俺の出発は最終日となる約一ヶ月後を予定している。
これは新婚旅行を終えての王都入りしたのが五日前なら、インランド王国の貴族達へ向けた結婚披露宴を行なったのが三日前であり、第十三騎士団の出兵式が今日。
そんな俺が出兵式後も結婚の挨拶回りで社交に忙しいだろうと出兵計画の立案者であるジェックスさんが気を効かせてくれた結果だ。
それ故、今日別れたら、ジュリアスとの再会は最低でも四ヶ月後となり、先ほどの『寸暇の別れを惜しんで』とはそう言う意味となる。
ところが、胸をホッと撫で下ろした矢先だった。強烈に突き刺さる様な視線を感じたのは。
顔を動かさない様に心掛けながら、その発生源を視線だけで辿ってみると、それはすぐに見つかった。
この練兵所を見下ろせる王城三階のバルコニー。遠目にもジュリアスとは違う意味で目を血走らせて、鼻の穴を大きく開きながら鼻息をフンフンと荒くしている女の子が柵から身を乗り出していた。
その様子を右隣で困った様に苦笑しているのが王妃なら、その更に右隣で顔を引きつらせているのが国王である。
女の子の正体は必然的に王族の一人となり、第一王女で無い以上、彼女はあまり噂が聞こえてこない第二王女となる。
どうして、その様な視線を俺へ向けているのか。
思わず凝視してしまい、ふと目と目が合った瞬間、得も言われる悪寒が背筋を走り、身体がブルリと震えた。
「んっ!? どうしたんだい?」
「いや……。その……。」
当然、間近に居るジュリアスは俺の様子に気づき、小首をかしげると、目をパチパチと瞬き。不思議そうなキョトンとした表情を浮かべる。
改めて、乙女チックな仕草は止めろと叫びたくなるが、俺以上に第二王女の反応は激しかった。こちらへ両手を振り乱しながら身を柵から更に乗り出して、『むっふぅ~っ!』と雄叫びまで挙げる始末。
それはジュリアスやこの場に居る者達にも聞こえ、全員が釣られる様に王城がある背後を振り返るが、王妃の行動の方が早かった。
右手に持っていた扇を素早く閉じ、それで左掌をパチンと打ち鳴らした途端、第二王女の背後に現れたメイドさんが第二王女を背後からガッチリと拘束して、必死に抵抗して藻掻く第二王女の口を右手で塞ぎながら退場。あたかも最初から国王と王妃の二人しか居なかった様な光景がバルコニーに作られる。
「じゃ、じゃあ、先に行って待っているよ!」
しかし、不自然さは隠せない。
国王の顔は未だ引きつったままであり、その視線も第二王女が消えた先へ向けられたまま。
それを手がかりに何かを察したのか。
ジュリアスがこちらへ顔を勢い良く戻して、まるで何事も無かったかの様に強引に締めてくる。
「あ、ああ……。ト、トリオールで会おう!」
ここは従った方が良いという勘が働き、差し出された右手に応えて握手を交わすが、やはり自分の本心は裏切れない。
ジュリアスが答えを教えてくれないならと再び視線をバルコニーへ戻してみると、満面の笑顔で手を振る王妃と目が合った。
その瞬間、強敵と戦場で出会ったかの様に俺の大事な玉々が防衛本能にキュッと縮み上がる。
慌てて視線を正面へ戻すと、既にジュリアスは目の前に居ない。今までの遅れを取り戻すかの様に早歩き、自分の馬に騎乗している。
「第十三騎士団、出陣する! 開門せよ!」
挙げ句の果て、王都から出兵する際にある独自の中間作法をすっ飛ばしての号令。
どう考えても只事じゃない。もしかしたら、俺は王家の新たな闇を垣間見てしまったのかも知れず、触らぬ神に祟りなしという先人の知恵に従って考えるのを止めた。
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後世、無色の騎士と名高いニートが活躍したのは中世初期と呼ばれる時代。
それは気が遠くなるくらい遠い遠い昔であり、残念ながら当時を感じさせる品々の殆どは時の移ろいの中に消え去ってしまっている。
それは街や村、砦や要塞といった建築物もそうだ。
特にインランド帝国の首都は最終魔王の本拠地となり、七代目勇者アオイとの最終決戦地となった場所でもある。
今も尚、伝えられている七代目勇者アオイと最終魔王の戦いの一節にこうある。
最終魔王の魔法は天すらも焦がして、七代目勇者アオイの剣は海をも斬り裂き、両者の激突に大地は激しく揺れて、インランドの帝都は全てが灰燼と化した。
そう、インランド帝国はその歴史を閉じると共に帝都もまた物理的に壊滅して滅んでいる。
良く勘違いされるが、今も観光名所として現存する城は最終魔王の滅亡後、その地を統治したアリアケ王朝によって改めて造られたものだ。
しかし、文化や風習は人々の心に残り、それ等の幾つかは現代に受け継がれている。
その中でも特に興味深いものが一つ有る。それがインランド国立公園にある老木『伝説の木』だ。
老木『伝説の木』の前に置かれた案内板にはこんな事が書いてある。
伝説の木の下で意中の相手へ愛の歌を唄い、生まれたカップルは永遠に幸せになれる、と。
どうやら、インランド地方の男性が女性へプロポーズを行う際、愛の歌を唄うのは有名な風習だが、その初まりはこの老木『伝説の木』らしい。
また、これに加えて、老木『伝説の木』に関する興味深い調査結果が解っている。
十六年前、世界でも有数の老木と知られる『伝説の木』の樹齢が現代技術を用いて計測されたのだが、その数値に前後百年の誤差はあれども、なんとニートが活躍していた時代と一致する確率が非常に高いのである。
この事実を踏まえると、前言にあった最終魔王と七代目勇者アオイの激突にも耐えたという事になり、正に『伝説の木』と呼べる存在に他ならない。
そして、ニートには数多くの妻、妾、愛人が居た歴史的事実が有る。
もしかしたら、ニートもまた女性へ告白する際、老木『伝説の木』の下で愛の歌を唄ったのかも知れない。そう考えると、時を超えたロマンを感じないだろうか。