第01話 領主三年目
「ゴブブ」
「ゴーブゴブ?」
背を屈めながら腰を落として、森の中を足早に進む。
前方の一点に集中して、音と気配を殺して駆け、俺が通った足跡を幾人もの兵士達が続く。
今更、語るまでもないが、俺が嘗て生きていた前の世界と比べたら、この世界は文明も、文化も遙かに遅れている。
ヒトの大自然に対する武器は産業革命以前の人力を用いた道具。その為、見渡す限りの草原、見渡す限りの荒野、見渡す限りの砂漠、見渡す限りの森といった光景が当たり前の様にある。
つまり、大自然の勢力が圧倒的に強い。
村や街の外に一歩でも出たら、そこは大自然の領域である。
王都の様な巨大な街を除き、街道を小一時間も進めば、人工物は何処にも見当たらなくなる。背後にあった村や街も豆粒大となり、大自然の中に埋もれてしまう。
逆に言うと、ヒトは大自然の合間に住み良い場所を見つけると、その場所に集落を作り、それ等を道で繋いで勢力を伸ばしてきた。
その過程において、集落が発展して、村となり、街となり、王都の様な巨大な街にまで至った成功例も有れば、当然の事ながら失敗も有る。
今、向かっている森の先にある廃村もその数多に有った失敗例の一つである。
事前の調査によると、永い年月を風雨にさらされながらも石造り故に今も姿を残している家屋の数は約百五十軒。
何故、廃村になったのか。それを伝える者も、記録も残っていないが、その軒数を考えたら街と呼べる規模。在りし日は随分と栄えていたに違いない。
その証拠に廃村の敷地を石垣がぐるりと隙間無く囲んでいるらしい。
それも高さが二メートル弱。これほど立派な防壁を築ける村はそう無い。
だからこそ、領主としての身分を得た今、その雑草が生い茂り、街道から完全に切り離されて、大自然の中に埋もれかかっている廃村の歴史が気になる。
ただ単に主食となるパンの材料『麦』を植えているだけでは村は育たない。ヒトが集まって、村が育ち、街という規模に発展するには理由が必ず存在する。
ところが、廃村の位置はコレと言った特徴の無い土地。
何処にでもある広大な森の中にぽっかりと空いた草原地に作られており、川が村の西沿いに流れているが、決して大きな川では無い。
そもそも、森の中に有りながら家屋が石造りなのは何故なのか。
鉱山や石切場どころか、この周辺に山は存在しない。
交通の要衝だったという可能性は極めて低い。
もし、そうだったら街道が今も繋がっている筈であり、それ以前に廃村とはならない筈だ。
手掛かりが一つも無い為、謎は深まるばかりだが、ただ一つだけ確かな事がある。
どんな歴史が有るにせよ、領主にとって、こういった廃村は厄介事の種でしか無い。
「ゴブゴーブ?」
「ゴブゴブブ」
領主として、最大の義務。
その答えは応えた人の数だけ存在するだろうが、俺は何よりも治安の維持だと考える。
ところが、こういった廃村は盗賊やモンスターの根城となり易い。
街道から切り離されたとは言え、街道までの距離は半日足らず、最寄りの村々までの距離は一日半。定期的な監視が必要だった。
領主となった最初の一年目は良かった。
ファンタジーを知る者なら大抵は知っているだろう『ゴブリン』が数匹ほど住み着いたらしいと報告が有ったが、敢えて放置した。
他に処理しなければならない案件は山の様に有り、所詮はゴブリンであり、雑魚モンスターに過ぎないと楽観視していた。
もし、これが他の国だったら話は変わってくる。
例えば、俺が生まれ育った村の大人達なら戦う術を殆ど知らず、ゴブリンと言えども十分な驚異となっただろう。
だが、インランド王国の男達は違う。
平民の兵役期間は五年。その中で戦う術を学んでおり、覚悟さえ持てば、ゴブリン相手に負ける事は有り得ない。
最寄りの村々の住民達へ注意を呼びかけるだけで十分だった。
二年目は苦渋の決断の末に見逃した。
廃村が完全にゴブリン達の根城と化して、三十匹を超える規模になっていると報告が有ったが、インランド王国の南に位置するアレキサンドリア大王国の大規模侵攻が発生。
南方領を統括するおっさんから全南方領主へ緊急召集令が出され、この防衛戦線に参戦。ゴブリン退治など行っている暇は無かった。
そして、三年目となる今年。とうとう座視してはいられない状況に達してしまっていた。
報告によると、ゴブリンに加えて、コボルトやオークの更なる雑魚モンスターも集まり、その規模は百匹以上。見間違いでなければ、『オーガジェネラル』すらも居たとか。
正しく、前の世界で聞きかじった『割れ窓理論』通りの展開。
オーガジェネラルの存在を聞いた時は思わず茫然となって我が耳を疑い、数拍の間を空けた後に『えっ!? もう一回言ってくれる?』と聞き返したほどだ。
ちなみに、オーガとはゴブリンやコボルト、オークの様に草色の肌を持つ巨人である。
二本の短い角を額に生やしており、その身長は二メートル前後。動作はやや鈍いが、非常にタフな生命力とヒトを超越した凄まじい腕力を持ち、ただ腕を薙ぎ払っただけでフルプレートメイルを装備した者すら簡単に吹き飛ばす。
その上、ジェネラル『将軍』の称号を持つ個体である。
通常、モンスターは群れを成したとしても十数匹程度。その戦い方も個人主義と言うか、勝手バラバラで連携力を持たない。
ところが、この常識を通常個体から幾多の戦闘経験を経て『進化』した存在だと言われているジェネラルの存在は覆す。
種族の垣根を超えて、幾つもの群れを束ねた集団を作り、その戦い方もモンスターが持たない集団による連携力を発揮する様になる。
無論、力こそ全てのモンスター社会を統べる存在なのだから、その実力も通常個体を遥かに凌ぐものを持っているのは言うまでもない。
これはさすがに俺の手に余った。
数多の戦場を乗り越えて、それなりの自信を自身の実力に今では持つ様になったが、それ等の技術はあくまで対人戦用のもの。
猟とて、狩る獲物によって、その仕留める方法はそれぞれは違う。戦った経験はおろか、詳しい知識すら持っていないモンスターに挑むのは無謀が過ぎた。
しかし、幸いにしてと言うべきか、この世界にはモンスター退治を生業とする者達が居る。
そう、俺もその道を進もうかと一時は悩んだ『冒険者』である。
「はぁ……。」
廃村の出入口、門番として立つ二匹のゴブリンとの距離は約二十メートル。
森を抜けた後、生い茂った草むらの中を慎重に匍匐前進で進んできたが、これ以上は先に進めない。
モンスター達が門を何度も出入りした事によって、門周囲の草は踏み固まれており、身を隠すほどの草むらが見当たらない。
それを後続にハンドサインで伝えて、その場に留まる。
あわよくばと考えていたが、想定内である。俺達はあくまで奇襲部隊であり、強襲を行う必要は無い。
だが、知らず知らずの内、冒険者を含めた本隊による襲撃合図を待つ手持ち無沙汰もあって、『世の中、上手くいかないものだ』という思いから溜息が小さく漏れた。
「ゴブゴブン」
「ゴーブ、ゴーブ」
貴族になれば、どんな贅沢も思いのまま。
朝は惰眠を貪って、昼は紅茶の香りを楽しみ、夜は美食と美酒。優雅な調べと共に美女とダンスを踊り、時には火遊びを興じる。
そんなイメージを持っていたが、現実はどうだ。
男爵位と領地を下賜されて、三年目。思い描いていたイメージとは程遠い。
いや、猟師だった頃に比べたら、食事は断然に豪華なもの。不満は無い。
アリサとララノアも俺に尽くしてくれている。時たま、豊満な胸を思う存分に揉みたい欲求に駆られるが、不満など有り得ない。
しかし、この増えるばかりの借金は何なのか。
領内の村々の区画化と合理化を進め、ようやく今年から黒字になるかと思った矢先、このオーガ騒動である。
俺の領地『コミュショー』は南方領の最北西に位置するド田舎。
当然の事ながら、街と呼べる規模の集落は無く、冒険者ギルドも無ければ、俺が領主になるまで雑貨店すら存在しなかった。
その旅人すら滅多に訪れないド田舎に冒険者を呼び寄せるのだから、その雇用費は必然的に割り増し料金となる。
それもオーガを狩れるだけの実力を持った冒険者をだ。
冒険者ギルドにて、その雇用費を提示された時、俺は泣きたくなった。おっさんにまた借金を頼むしかないと。
だが、おっさんは仕方が無いと苦笑しながらも借金を二つ返事で承諾してくれた。
既に多額の借金があるにも関わらず、申し込んだ金額に色を付けてくれた上に無期限、無利子でだ。
無論、その善意に甘えるつもりは毛頭無い。
このオーガ騒動が済んだら、改めての返済計画をおっさんに提出して、可能な限りの早急な返済を心掛けているつもりだが、やはり現実は厳しい。
こうなったら、市場を荒らすのは良くないだろうと控えていた相場取引を大々的に行うしか術は無い。
その点も含めて、このオーガ騒動が済んだら、ちゃんと考えてみよう。
「ゴゴゴブ?」
「ゴブゴゴブ」
ついでに愚痴を重ねると、今の季節は春。
インランド王国の貴族達が王都に集う社交シーズンであり、俺も王都へ上る予定を立てていた。
ジュリアス、ジェックスさん、姫巫女、楽しみにしていた皆との再会。やっぱり、その中でも本命はルシルさんだ。
トーリノ関門での兵役を終えて、一年ぶりの再会となった一昨年。
俺の知らないところで決まっていた話が誤解の発端となり、ルシルさんは俺を徹底的に無視。自宅へ押し掛けても会ってくれず、部屋に閉じ籠もり、扉に向かって話しかけても返事は一言も返ってこなかった。
去年、幾度の訪問の末、その固く閉ざされていた扉が遂に開き、顔を合わせる事は叶ったが、ルシルさんの態度は冷たかった。
まるで初対面の様な他人行儀。『コミュショー卿』と呼ばれる度、顔で笑いながら心で泣いた。
それでも、俺は諦めない。徐々にではあるが、ルシルさんの態度は確実に軟化している。
ルシルさんが初対面の他人行儀を装うなら、お互いに改めての恋をすれば良いじゃないかとポジティブに考えて、今年こそはと意気込み、その一方で焦ってもいた。
なにしろ、ルシルさんは俺と同い年の二十一歳。
貴族令嬢なら既に婚約どころか、結婚を済ませて、子供が居てもおかしくない年齢である。
ルシルさんが未だ独身のままでいるのはルシルさん自身の事情が、エスカ家の事情が有る為でしかない。
だったら、その事情が解ける四年後。マイルズがルシルさんから爵位を継ぐまでがタイムリミット。俺に残された時間はあまりにも少ない。
しかし、もう今年は王都へ上れない。
その旅費も、滞在費も、今回のオーガ騒動にかかった費用で消えてしまっている。
それどころか、多額の借金を抱えている以上、来年の王都への旅費と王都での滞在費を捻出するのも難しい。
今の俺に出来る事と言ったら、己の想いを切々に訴えた手紙をルシルさんへ送る事のみ。
だが、『しかし』である。
あの可憐で気立ての良いルシルさんを王都の男達が放っておく筈が無い。
マイルズは『大丈夫ですよ。姉さんを貰ってくれる人なんて、師匠くらいしか居ません』と励ましてくれるが、それは師である俺を気遣ってのものだ。
こうしている間もエスカ家にお見合いの話が続々と申し込まれているのだろうと考えたら、居ても立ってもいられなくなる。
こうなったら、この苛立ちをゴブリン共にぶつけてやると戦意をメラメラと燃やして、門番のゴブリン達を睨み付けていると、不意に廃村の奥で凄まじい爆音があがった。
「ゴブッ!?」
「ゴブブッ!?」
思わず身体がビクッと震えるが、これこそが待ちに待った本隊が襲撃を開始した合図。
俺達が潜んでいる廃村の南側とは正反対の北側。魔術師による広範囲爆発魔法『ファイヤーボール』の爆音だ。
それに驚いた門番のゴブリン達が反射的に背後を振り返った隙を突き、すぐさま草むらから跳ね立ち上がって、弓を二連射する。
同時に俺の左右をニャントーとニャンガスの二人が猫族のしなかやな素早さを存分に生かして疾風の様に駆け抜けて行く。
「ゴッ……。」
「ゴブゥッ!?」
俺にとって、二十メートルの距離は外すのが難しい距離。
ましてや、今日は無風。狙いを定める間は一瞬しか無かったが、この好条件があって、矢を外しでもしたら元猟師は名乗れない。
事実、放たれた二本の矢はそれぞれのゴブリンへと吸い込まれる様に突き進み、肉に突き刺さった鈍い音を連続で鳴らす。
門の左側に立っていたゴブリンは矢を後頭部に受けて、即死。短い呻き声を漏らしながら、その場に崩れ落ちる。
一方、門の右側に立っていたゴブリンが矢を受けた箇所は左肩近くの背中。
残念ながら即死とはならなかったが、その激痛に身体を仰け反らせた次の瞬間。
「ゴッ!?」
ニャントーが全速力で駆ける勢いを乗せた薙ぎ払いが陽の光を反射して閃く。
ゴブリンは首を断たれて、悲鳴をあげきる間もなく絶命すると、その断面から紫色の血を噴水の様に吹き出しながら前倒しに倒れる。
それを合図に草むらから十数人の兵士達が廃村へと駆ける。
ニャントーとニャンガスの二人は門左右の城壁に張り付き、後続の兵士達も二人同様に門左右の城壁に次々と張り付いてゆく。
門から出てくる新手のモンスターを待ち伏せて、まだ草むらに身を潜めている俺を含む兵士達で挟み撃ちにする作戦である。
ところが、緊張を強いられながら幾ら待てども新手のモンスターは現れない。
廃村の奥では爆音が幾度も立て続けに鳴り響き、それに呼応するかの様にモンスター達の雄叫びが廃村の彼方此方で湧き起こり、剣戟の音も聞こえ始めるが、ここは静寂のまま。
身を潜めている草むらから顔を大胆に出して、門の奥の様子を窺ってみれば、こちらを警戒しているモンスターは一匹たりとも存在しない。
どいつも、こいつも雄叫びをあげて、武器を振り上げながら廃村の奥へと駆けてゆき、こちらには目もくれない。門のすぐ裏にある廃屋から出てきた三匹のコボルトもだ。
やはり、所詮は雑魚モンスター。
多少の知恵は持っていると聞くが、動物とさほど変わらない。複数の可能性を持てないらしい。
せっかくの作戦も、ニャントーとニャンガスの見事な連携も台無しにされ、警戒に警戒を重ねていた自分が馬鹿の様に思えてくる。
「糞っ……。こんな奴等の為に借金までして泣けてくるわ」
思わず天を仰ぎ、顔を覆った右手の中で嘆くが、これで勝ったも同然。
モンスター達の間抜けさによって、この場での挟撃作戦は失敗したが、こちら側が無警戒の今、廃村襲撃における全体の挟撃作戦は成功した。
恐らく、この分なら廃村の東側と西側の出入口前に配置した伏兵も成功しているに違いない。
あとは難敵のオーガを冒険者達に任せて、俺達はゴブリン、コボルト、オークの雑魚を討ち漏らさない様に侵攻していけば良い。
「良し……。行くぞ! 俺に続けぇぇ~~~っ!」
草むらから立ち上げって、頬を両手で強く一叩き。
萎えてしまった戦意を無理矢理に奮い立たせて、右手に持つ槍を高々と掲げながら声を張り上げた。
******
後世、無色の騎士と名高いニート。
彼の出自に関してはいつの世も論争が絶えないが、やはり『奴隷』というのが定説である。
しかし、この定説と列んで多くの者が唱える説に『商人』がある。
この説はニート自身が奴隷だったと残す語録が無ければ、これこそがと思うほどの証拠が数多く存在する。
当時、商人の社会的な地位は決して高くはなかった。
その理由は七大教会における共通の教義『生めよ、増やせよ』の影響を多大に受けており、他者が生産したモノを右から左へと動かすだけで利鞘を得ている商人が何も生まない存在として蔑まれていた為である。
それ故、平民を導く立場にある各国の王を始めとする貴族は国を、領土を富ます為に商人を利用したが、あくまで俗事として捉え、その売買は商人の主導によって行われた。
ところが、ニートは商人も利用したが、商人による中間搾取を良しとせず、領内産物の売買を自らの主導で積極的に行うと共に革命的な商業政策を幾つも実施して、自領を加速的に富ませてゆく。
『麦の値段が豊作、不作の天次第だったのは昔の話。
彼が動けば、商人も動く。今や、麦の値段は彼次第だ』
その相場を読む目は商人顔負けとまで呼ばれ、とある豪商の手記にこんな言葉が残されている。
インランド帝国周辺において、麦は主食産物である。いかにニートが流通を牛耳っていたかが良く解る。
しかし、相場を読む目とは一朝一夕で養われるものではない。
その証拠に自領を富まそうとニートを真似て、商業取引に手を出した貴族達が居た様だが、その大多数が失敗に終わっている。
それこそ、政敵だったニートを逆に富ます結果となり、経済戦に負けて破産した挙げ句、爵位を失った者すら存在する。
なら、その資本主義の先駆けとも言える経済観念は何時、何処で育てられたのか。
バルバロスに見出された後、ニートが商業的な教育を受けた記録は何処を探しても見つからない。
だが、ニートは領主となって間もなく、商業的な経済活動を行っている。
それ等の事実を踏まえると、答えは必然的にバルバロスに見出される以前とするのが妥当だろう。
すると新たな疑問がここで浮かんでくる。
果たして、定説とされる『奴隷』に対して、商業取引の相場が読めるほどの経済観念を学ばせる奴隷商、または雇用主が存在するだろうか。
そこで着目されるのが、未だ解けない『バルバロスの帰還路』と呼ばれる謎である。
大陸歴第三期二百三十五年にあったミルトン王国戦にて、バルバロスが敗戦後に落ち延びた先は『大樹海』とバルバロス自身が書いた手記に残されている。
その後、ジェシア公国とアレキサンドリア大王国を経由して、自領へ帰還するのに一年かかったとあるのだが、この一年という期間がおかしい。
この距離を当時の街道と照らし合わせて考えると、たった一年での帰還は困難と言わざるを得ない。
当時、大樹海は開発が進んでいる現在とは違い、各地に残る言い伝えや記録を繋ぎ合わせると、一国を凌駕するほどの面積があったらしく、大樹海を横断するハイウェイも存在しなかった。
しかし、書き間違いと言うのも有り得ない。
もし、書き間違いなら、この後のニートに関する年代記録と辻褄が合わなくなるからだ。
それ故、その逃走の旅は馬を用いていたと考えられるが、またもや新たな疑問がここで浮かんでくる。
今現在ですら、迷ったら二度と出てこられないと言われ、自殺の名所でも知られる大樹海。その深くて険しい森を進むのに馬を連れてゆく者が居るだろうか。
恐らく、馬を用いたのは大樹海を抜けた後となるだろうが、馬は今も昔も高価な乗り物。
馬を購入するとなったら札束が必要になるが、当時は『紙幣』という概念は無い。流通貨幣は全て『硬貨』であり、重くて嵩張る。
いや、金貨なら馬を買うにも数枚で足り、簡単に持ち運べる。
そう言う者も存在するが、それは当時の世相を知ろうとしない安易で愚かな考えに過ぎない。
金貨は確かに当時の最高貨幣。
数枚もあれば、馬は買えるが、当時の金の価値は現在よりも遙かに高い為、金貨を所有している者が極めて少なく、流通量も極めて低い。
金貨を使用したら真贋を疑われる以前に大騒ぎとなり、それは落ち延びている最中に危険な行為と言うしかない。
この疑問に応え、ニートの出自が『商人』だと唱える者達の根拠がこれだ。
各国を渡り歩く商人なら、インランド王国の侯爵たるバルバロスの顔を知っている者が、またはバルバロスと面識を持っている者がジェシア公国やアレキサンドリア大王国に居てもおかしくはない。
そして、バルバロスが逃亡の身であると知ったなら、馬を援助したとしてもやはりおかしくはない。
その苦境を救えば、相手は侯爵であり、義将と名高いバルバロス。見返りは確実で大きく、商人であるなら全財産を賭ける価値はある。
つまり、このバルバロスに馬を援助した商人こそ、ニートの父親。
また、馬の代価として求めた見返りこそが次男か、三男だっただろうニートの仕官であり、その後におけるバルバロスとの密接な繋がりではなかろうかと言う答え。
確かにニートはジョシア公国を中心に活動する有力商人達とのコネクションを不思議と持っており、領主となった初期から様々な取引を行っている。
インランド王国とジョシア公国は国交を行っておらず、地理的にもミルトン王国とアレキサンドリア大王国、大樹海を間に置いているにも関わらずだ。
そうした事実の数々を考えると、なかなか興味深く頷ける説ではある。
だが、冒頭でも述べた通り、ニート自身の語録に『奴隷』という言葉が残っている限り、この説が定説に取って代わる事は有り得ないだろう。