第05話 疾風の如く
「ジュリアス……。どう考えても、無理だ」
また一人、勇敢な者が濁流に飲み込まれてしまい、それを助けようと百人がかりで命綱を必死に引っ張る。
その様子に溜息を漏らす伯父さんの表情は疲れ果てていた。
無理もない。実を言えば、僕自身も疲れ果てていた。
二度目となるトーリノ地方へ向けた行軍。それは出発する前から苦難の連続だった。
年が明けて、まだ雪がちらつく二月の頭。予定を一ヶ月も早めて、避寒地『ワイハ』から王都に帰ってきた父は激怒しながらも宣言した。
この二年間、睨み合いと小競り合いを繰り返すだけで新展開がまるで無いミルトン王国に対する親征を行うと。
親征とは国王自身が出馬する事を意味する。
この予定に全く無かった急遽の決定に伴い、軍は蜂の巣を突いた様な大混乱となった。
当然である。国王自らの出陣となったら、それは絶対に負けられない戦い。
だが、父が定めた出陣日は今年の騎士叙任式の翌日。準備期間は一ヶ月と少ししかなく、我が父ながら無茶振りが酷すぎた。
その皺寄せは軍の各所に飛び火して、僕のところにも影響が及んだ。
今年度からトーリノ関門に赴任が決定していた騎士、兵士が次々と引き抜かれてゆき、新たな人員を補充して名簿を作っている側から更に引き抜かれ、僕と伯父さんはてんてこ舞い。
重要度と優先度、その双方を考えたら仕方が無いとは言え、これが原因で出発が一ヶ月以上も遅れた。
しかも、王都を出発した途端、今度は雨が続く。
数百人の行軍ならまだしも、一万人を超える行軍となったら、只の雨と言えども馬鹿にならない影響を及ぼす。
予定は遅れに遅れ、軍司令部が発表している当初の予定ならトーリノ関門に到着している筈の日付になっても、まだ全体の半分にも至っていなかった。
その上、悪い事は重なり、トーリノ関門からロンブーツ教国軍が襲来したとの報が届く。
行軍速度を上げて、休憩の数も減らした強行軍を行うが、ますます雨は強くなり、土砂降りの中を行く日々が続いて、挙げ句の果てが目の前の光景だった。
「くっ……。」
昨日までとは打って変わり、今日は見事な晴天。初夏の到来を告げる入道雲すら幾つも立ち上っている。
しかし、数週間に渡り、この地方に降り注いだ雨は川を氾濫させていた。去年、渡った橋は流されて跡形も無く、あと一山を超えたらラクトパスの街というところまで来ていながら足止めを強いられてしまったのである。
それでも、誰かが川を泳ぎ切り、こちら側と対岸側にある木を紐で結びさえすれば、馬や荷物は無理でも、ヒトの渡河は出来ると考えたが駄目だった。
川幅は二百メートル弱。何人もの水練達者が命綱を挑んでみたが、その悉くが川の中程にも辿り着けず、水かさと勢いを増した濁流に飲み込まれてしまっている。
去年、この川を渡った時、不思議に思った。
川という水場に恵まれて、街道も通っているにも関わらず、この場所に村を築かないのは何故なのか。
川を間に挟み、小一時間ほど歩いたところに村が前後に在るが、その二つを併合して、この場所に村を作った方がよっぽど栄えるのではないかと。
だが、今はなるほどと納得するしかない。
彼等は知っているのだ。先祖から受け継がれている知恵によって、この川が氾濫する危険性を。
今回、水位は土手の僅か手前で止まったが、あと数日も雨が続いていたら、川の水は溢れ出していたに違いない。
そうなったら、ヒトの営みなど一溜まりも無い。
去年、渡った橋は決して粗雑な作りはしていなかった。
その事実から考えると、川が氾濫するのは何十年に一度くらいの滅多に無い確率なのだろう。
しかし、その滅多に無い確率を引き当ててしまった身としては堪らない。
今、トーリノ関門に駐留している兵力は本来の半数でしかない。
なら、苦戦は必至であり、一刻も早い到着が待たれている状況下、焦燥だけが募る。
「見ろ。ここは晴れているが、上流がある西の空は曇っている。
まだ雨が降っている証拠だ。だったら、川が収まるまで何日かかるやら……。引き返して、別の道を進んだ方が早いんじゃないのか?」
伯父さんがそう助言してくるが、簡単に頷けない。
もし、それを選択したら、来た道を戻る上に大きく迂回する事となり、今でさえ遅れている予定が週単位で遅れる結果になる。
更に付け加えるなら、その迂回した先の橋も流されている可能性が有る。そうなったら、もう完全に間に合わない。
だが、目の前の現実を見る限り、それしか手段は無かった。
重すぎる決断に迷いが生まれ、そうしている間も時間は無駄に過ぎてゆき、それが更に焦りを呼ぶ。
こういった重要な場面の度、いつも助言してくれた先生は居ない。
成人を迎えた事もあり、去年の秋に僕の指南役を解かれ、新たに僕の相談役となったが、トーリノ関門は冬が厳しい場所の為、年老いた先生を連れてくるのは忍びなかった。
その先生に今まで何を学んできたのか、頭を懸命に働かせる。
それと言うのも何かが引っ掛かり、迂回による進軍を決断しきれずにいた。
先生は剣と軍略を教えてくれたが、軍略の授業に兵法書を教材とせず、戦記や歴史書に記されている戦いや自分自身が実際に経験した戦場を教材とした。
その教えられた数多の事例の中に有った筈なのだ。橋が架かっていない大河を何らかの手段を用いて渡り、敵の後背を突いて、不意打ちの大逆転劇に成功した事例が。
喉まで出かかっているのに出てこないもどかしさに耐えながらも考える。
その戦いが起こった時代を、その戦いで勝利した王の名前を、その戦いが起こった場所を、その戦いで用いた肝心のその手段を記憶の中から順々に思い起こしてゆく。
「おい、ジュリアス! 聞いているのか!」
助言に返事すら返さず、腕を組みながら対岸を黙って見つめ続けている僕に焦れたのだろう。
暫くして、伯父さんが怒鳴り声を挙げた瞬間だった。頭の中を閃きが駆け抜け、その思い出そうとしていた過去の事例が一気に蘇ってきた。
「そうだ! イカダだ!」
「イカダぁ~~? お前、何を見ていたんだ? 泳いで駄目なら、イカダはもっと駄目だろ?」
苦悩が解決した爽快感に思わず柏手を打ち鳴らすが、伯父さんの反応は冷ややか。
肩を竦めながら鼻で失笑。おまけに首を左右にやれやれと振り、溜息まで深々と漏らしてくれた。
「違います。イカダを幾つも作り、その前後を繋ぎ合わせて、イカダの橋を作るんですよ」
「んっ!? ……おおっ!?
それなら、大丈夫そうだな! さすが、ジュリウスだ! 早速、手配させよう!」
しかし、首を左右に振り返して、解説を付け加えた途端、伯父さんは態度を一変させる。
数拍の間、眉を怪訝そうに寄せていたが、想像が追いついたのだろう。目を大きく見開きながら僕の提案を絶賛すると、すぐさま善は急げと言わんばかりに休憩中の皆の元へ駆けてゆく。
街道の左右は深い森。筏の材料となる木は有り余るほどに生えている。
恐らく、森自体が自然の堤防としての役割を果たしているのだろうが、緊急事態の今、その辺りは許して貰おう。
また、率いてきた騎士、兵士の数は一万五千人。
これだけの人数が居るなら、必要数はあっと言う間に揃い、今日中にも川を渡れるだろう。
だが、その焦りをグッと堪えて、川を渡るのは明日とする。
兵士達の中には元樵が居るかも知れないが、大部分は慣れない作業で疲れ果ててしまう筈。その疲労が原因で渡河の最中に事故があってはまずい。
「これで何とかなるかな?」
余談だが、僕達がここに来る三日前、バーランド伯爵は橋が流されているのを見て、迂回ルートを選んでいた。
それだけに追い抜かれた事をとても不思議がり、その種明かしをすると驚き、この川をトーリノ関門からの帰路で渡る際、イカダの橋を目の当たりにして、とても感嘆したらしい。
「いや……。何とかしてみせる! 提案した僕自身が信じなくて、どうする!」
その結果、中立派だったバーランド伯爵は僕の派閥に転向すると、親交が深い北方領主達を積極的に説き伏せてゆき、中央から遠い為に静観を決め込んでいたトーリノ関門に近い北方領は僕の派閥色を色濃くさせてゆく事になる。
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「見えた!」
トーリノ関門の後方基地として栄えるラクトパスの街に到着すると、僕は全員に到着した夕方から翌々日の朝までを完全休養とする宣言を出した。
但し、僕や伯父さん、百騎長クラスの者達は兵団の再編成を行い、足の速い騎兵と足の遅い歩兵に分け、歩兵団の指揮を伯父さんに任せると、僕は騎兵団を率いて、一刻も早いトーリノ関門の到着を目指した。
戦いを前に馬を潰せず、襲歩だけは行わないが、速歩と駆歩を交互に繰り返す強行軍を越える超強行軍である。
馬を休める為の休憩は有っても、ヒトを休める為の休憩は無く、三日目の朝になると誰もが疲労困憊。騎乗しながらも意識を失っている者すら現れた。
だが、その苦労の甲斐あって、三日目の昼。一週間から十日はかかる距離を半分以下に短縮して、トーリノ関門へ到着した。
ラクトパスの街を出発して以来、何処を見てもあった深い森を抜け、前方に荒野が見下ろす形で広がり、その先にあった光景にまずは度肝を抜かされた。
トーリノ関門、それがどんなモノなのかは事前の知識で知ってはいたが、聞くと見るとでは大きく違った。
神が山を大剣で一刀両断した様な渓谷の両端を繋ぎ、ロンブーツ教国軍の襲来を堰き止める為に建造された石造りの壁の全長は約十キロメートル。
十年以上の歳月を費やして造られたと聞くが、こんな辺境の冬が厳しい地にこれほど巨大なモノを造ってしまうヒトの執念を思い知らされる。
そして、次にトーリノ関門の城壁の上に幾つも列んではためいている我が国の国旗に誰もが沸き立った。
僕等は間に合ったのである。その喜びのあまり、まだ命じてもいないのに誰かが勝手に走り出すと、たちまち誰が一番乗りするかで競争になった。
しかし、それを怒鳴って止める気にはなれなかった。
僕自身、皆と共に笑い声をあげ、いつの間にやら馬を思いっ切り走らせていた。
僕が率いてきた騎兵団の数は三千弱。
伯父さんが率いる本命の到着は一週間後になるだろうが、僕達だけでも十分な戦力になる筈だと奮い立った。
「……酷いな」
ところが、その高揚感はすぐに消沈した。
石造りの壁の手前に作られた街と呼べるほどの集落。その北方特有の木造家屋で作られた兵舎が千を超えて建ち並んでいる場所にヒトの姿は無かった。
僕達が行く馬の蹄音だけが暫く鳴り響き、街の中程を過ぎた辺りから、ヒトの姿をポツリ、ポツリと見かける様になったが、誰もが地べたにへたり込んでいる。
馬が側を駆け抜けていると言うのに反応が無い。有ったとしても、こちらへ視線を一瞬だけ向けるのみ。
その顔は僕達が感じていた疲労困憊など笑ってしまうほどに疲れ果てていた。
まるで墨でも塗ったのかと思うくらいに目の下のクマは濃く、その瞳は虚ろ。指先をピクリとも動かさない。
厳しい到着を強いられている。それは解っていたつもりだったが、ちっとも解っていなかった。
僕達の到着を笑顔と歓声で迎えてくれるだろうと勝手に思い込み、ちょっとした英雄気取りで居た自分が恥ずかしくなった。
皆も同じ心境なのか、自然と誰もが口を噤み、ただただ馬を走らせた。
「第三王子、ジュリアス・デ・シプリア・レーベルマ・インランドだ!
防衛司令官代理たるレスボス卿に会いたい! レスボス卿は何処に居る!」
やがて、動けずにへたり込んでいる者達の姿が目立つ様になり、遂に辿り着いた正門前。
本来なら、居て然るべきの門を守る兵が居ない。恐らく、動ける者は全てが城壁に上がり、今正に戦っているのだろう。
頭上から喧しいほどの怒鳴り声や雄叫び声が数多に降り注いでいた。
馬から下りて、城壁に寄りかかって座り込んでいる者の元へ駆け寄り、その肩を揺すって尋ねる。
すると彼は自分の手を酷く重そうに持ち上げて、その震える指先で頭上を指さすと、そのまま意識を失って横倒しに倒れた。
「ありがとう! ……お前達はここで待て!」
まさかと目を見開くが、彼の口が微かに動いているのを見つけて、一安心。
気持ちを切り替え、部下達へ待機を命じて、すぐ近くにある城壁上に登る階段を全速力で駆け上ってゆき、最後の一段を踏みしめたその時だった。
「な、何だっ!?」
まずは凄まじい閃光が目を焼いた。
視界が真っ白に染まり、思わず両手を顔の前に翳すと、今度は雷が落ちたかの様な轟音が鳴り響き、大地震が発生する。
階段から転げ落ちたら大怪我は免れない。慌てて四つん這いとなり、揺れが収まるのを待つ。
自然災害にしては不自然すぎる。もしや、ロンブーツ教国軍は宮廷魔術師を戦場に投入してきたのだろうか。
それが事実なら揺れが収まるのを悠長に待ってなどいられない。閃光の直前に一瞬だけ見えた見覚えのある背中に向かって叫ぶ。
「ウィローウィプス卿! 僕だ! ジュリアスだ! 何がどうなっている!」
不幸中の幸いと言うべきか、ラクトパスの街の代官はトーリノ関門の緊急事態に伴い、冒険者ギルドに協力を要請。傭兵として、冒険者達を近隣から雇い集めていた。
その中に魔術師や神官も居り、僕は彼等を騎兵団の中に組み込んで連れてきている。
もっとも、国同士の争いに参戦してくる魔術師となったら、それは宮廷魔術師に他ならず、宮廷魔術師とはその名の通り、国から認められるだけの実力を持った魔術師である。
冒険者にも高い実力を持った者は居るが、それは希だ。
残念ながら、連れてきた中に宮廷魔術師ほどの実力を持った者は居ないだろうが、門外漢の僕達に比べたら、きっと戦力になる筈だ。
その存在がこちらにも居るという事実を向こう側に突きつけるだけでも戦況が多少は変わるに違いない。
「殿下っ!? ……援軍か! 有り難てぇ!
着いた早々に申し訳ないが、今すぐ出てくれ! 大将が孤立している! ヤバい!」
小石の雨がパラパラと降り注ぐ。
閃光と揺れが収まり、今度は何事かと立ち上がってみれば、濛々とした土煙の波が強い風と共に押し寄せてきた。
同時に土煙の向こう側にうっすらと見える影から叫び声が返ってくる。
その想像以上に切迫している戦況に息を飲みながらも、すぐさま今上ってきたばかりの階段を急いで駆け下りて行く。
「了解した! 門を開けてくれ!」
そんな僕を追いかける様に土煙の波が城壁を乗り越え、トーリノ関門の内側に広がる。
視界は最悪の上に目を開けているのが辛く、息をするのもままならない。
だが、もどかしさは膨れあがるばかり。
駆け下りる速度を上げて、階段を一段飛ばし、二段飛ばし。意を決して、階段を折り返す踊り場から一気に飛び下りる。
着地と同時に強い痛みが足の裏から脳天へと突き抜けてくるが、歯を食いしばって耐えると、自分の馬に飛び乗って宣言する。
「これより敵中に孤立した味方を救いに行く! 総員、奮起せよ!」
重い音を立てながら、ゆっくりと開いてゆく目の前の巨大な門。
それが開ききるのを待たず、自分が通れるだけの幅が開くなり、手綱を強く振るって、馬が駈ける速度を一気に襲歩へ上げた。
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「はぁっ……。はぁっ……。はぁっ……。はぁっ……。」
結局、勇ましく出撃した僕達だったが、ロンブーツ教国軍は矛を交えずに撤退した。
それもトーリノ関門の先に築いた二つの陣を放棄して、渓谷最奥まで退くと、その地にあった陣を増設して引き籠もった。
当然の結果と言えた。
宮廷魔術師、とっておきの存在と言えるソレを投入していながら、討ち取られている事実は大きい。
ましてや、ニートが槍を用いて作り、今も渓谷の岩肌に残っている巨大なクレーター。
その天災にも等しい破壊の傷痕を常に見せ付けられては戦意も粉々に砕け散る。司令官や指揮官がどんなに意気込んだところで兵士達の士気は上がらないだろう。
恐らく、敵の司令部は揉めている筈だ。
戦いを継続するか、戦いを止めて撤退するか、その二つの選択によって。
宮廷魔術師を連れてきていたのだから、敵にとって、この戦いは必勝を期した戦い。
まず間違いなく、敵の陣中に敵国のVIPが居る。ニートの槍の攻撃を目の当たりにして、慌てて撤退したのもそのVIPを守るが為に違いない。
だからこそ、逆に撤退も出来ない。
このまま勝利を一度も得ずに撤退したら、宮廷魔術師を失った事実も加わり、そのVIPの威光は大きく陰ってしまう。
それ等を踏まえて考えると、敵は冬間際まで対陣を続けるのではなかろうか。
但し、積極的な攻撃は仕掛けてこない。仕掛けてきたとしても、それはちょっと押したら簡単に退く様な生温い攻撃となるだろう。
だが、この一週間。それを推測しながらも僕は緊張しっぱなしだった。
今、この瞬間に敵が本気で攻めてきたら。そればかりを考えて、夜になっても寝付けず、寝ても真夜中に何度も起きて、寝不足な毎日が続いている。
やっぱり、ニートは凄い。
この緊張に耐えながらも皆を励まして勇気付け、本当にギリギリのラインまで堪えきり、トーリノ関門を守りきったのだから。
その上、ウィローウィプス卿の話によると、トーリノ関門を放棄した場合に備えて、再び奪還する策とその準備を整えていたと言うではないか。
本当に凄いと言うしかない。ニートの目は何処まで遠くを見ているのだろうか。
そして、今日の昼前。伯父さんが率いる歩兵団も到着した。
これで敵が攻めてきたとしても何も怖くない。重くのし掛かっていた肩の荷が下り、今夜からはぐっすりと眠れそうだ。
朗報はもう一つある。
宮廷魔術師を討ち取った挙げ句、巨大なクレーターまで作ってしまう離れ業を成したニートだったが、その代償も大きかった。
半日に渡って、冒険者の神官達が祈りを絶え間なく代わる代わる捧げて、全身の傷を癒す事に成功するも意識を取り戻さず、ニートは眠り続けた。
軍医の診断によると、血を流し過ぎた影響らしい。傷を癒す奇跡の業を持つ神官と言えども、そればかりはどうにもならず、あとはニートの回復力を信じて待つしかなかった。
一日目、二日目は『きっと大丈夫だ』と他人を励ます余裕がまだあった。
しかし、三日目が過ぎると『本当に大丈夫なのか』と疑ってしまい、ニートの元へ足を何度も何度も運んだ。
なにしろ、傷は完治している。ただ眠っているだけであり、それが余計に不安を掻き立てた。
一週間目となる今日なんて、朝から不安を募らせるあまりに苛立ってさえいた。
当然、何をしても集中が続かず、八つ当たりをしてはなるまいと彼方此方を歩き回り、気を紛らわせていた。
そんな僕の元へウィローウィプス卿が『随分と探しましたよ』と溜息を漏らして現れ、ニートが目を醒ましたと教えてくれたのはそろそろ夕方になりそうな頃だった。
一日中、歩き回っていたが為、脚はむくんで疲れていたが、僕は走った。
駆けて、駆けて、顎が上がり、とっくに息切れを起こしていても足を止めなかった。
みんなが何事かと驚きながら僕を見送る。先生の『司令官が血相を変えて慌てるとは何事か!』という怒鳴り声が頭の中に響き渡ったが無視して走った。
「お邪魔します! ニートが目を醒ましたんですってね!」
「えっ!? で、殿下、お待ちを!」
曲がり角を曲がり、ニート達が住んでいる兵舎が見えると、走る速度は更にアップ。
玄関の扉をノックもせずに勢い良く開け放ち、それを閉める間すら惜しみ、玄関の目の前にある階段を駆け上ってゆく。
その途中、玄関隣のダイニングルームに居たネーハイム氏が僕を呼び止めるも耳を貸さない。
貴族にとって、取り次ぎを介さずに面会を求めるのはマナー違反だが、一週間も待たされた我慢の前にそんなモノは無意味に等しかった。
そう、この一週間。朝昼晩は勿論の事、暇を見つけては通っていた家である。
ニートの部屋が何処にあるかなど先刻承知。二階に上がった廊下の突き当たりにある部屋のドアを喜び勇んで開けた次の瞬間だった。
「ニート!」
「ラ、ララノぁはっ!?」
語尾を半音上げたニートの叫び声が響き渡り、一拍の間を空けて、時がピタリと止まった。
僕はドアを開けた体勢で固まり、ベットに寝ているニートは目をクワッと見開いて固まり、お互いに叫んだ時のまま大口を開いて。
一見すると、部屋に居るのは僕とニートの二人のみ。
だが、ニートに掛けられた布団の中にもう一人の気配があった。より正確に言うなら、ニートの両足の間に何者かが土下座しているかの様な膨らみがあった。
それが意味するモノは只一つしかない。
更に証拠を列べるなら、時が止まる直前にあった一拍の間、その刹那に垣間見た上下に躍動する膨らみ。それが全てを物語っていた。
「うぐっ!?」
不意にニートが苦しそうに呻き声をあげて、身体全体を二度、三度と跳ねさせる。
すぐさま我に帰り、一歩踏み出した。怪我は完治しても、意識を一週間も失っていた病み上がりである事実を考えたら、幾ら心配しても足りない。
しかし、二歩目を踏み出した時、別の可能性に思い当たり、三歩目が前に出なかった。
同時にソレを肯定するかの様に僕へ向かって『近寄るな』とニートの左掌が勢い良く突き出される。
「……ご、ごめん」
「い、いや、こちらこそ……。」
果てしなく気まずい空気が流れるが、もう一人にとったら、それすらも格好のスパイスらしい。
布団の膨らみが微かに動き、ニートが何かを耐える様に皺を眉間に刻みながら下唇を噛み、突き出している左掌をブルブルと震わす。
これ以上、この場にいるのが忍びなく、やっとの思いで謝罪を絞り出して、そのまま後ろ歩きで下がり、ドアを開けた時とは正反対に音を立てぬ様にゆっくりと閉める。
今にも外に飛び出してきそうなほどの猛烈な勢いで打ち鳴っている胸。
それを右手で押さえながら、その心を落ち着けようと深呼吸を何度も繰り返しながら思う。
やっぱり、ニートは凄い。
一週間も意識不明となっていながら、目が醒めた途端、あんな事を行っているとは予想外も過ぎる。とても常人には無理だ。
「殿下、お茶を煎れます。下でお待ち下さい」
暫くして、隣から声がかかる。
その何事も無かったかの様に誘ってくるネーハイム氏の気遣いが嬉しかった。
「うん、そうさせて貰おうかな」
だったら、それを無駄にしてはならない。
引きつりまくっている顔を戻して、第三王子としての仮面を被り、その招待にニッコリと微笑んだ。
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その後、紅茶を一杯飲みきる前にニートが二階から下りてくる。
だが、どうしても先ほどのハプニングが尾を引き、それ以上にララノア嬢の不機嫌で敵意たっぷりな視線が突き刺さっていては話も弾まず、この日は顔を合わせる程度で退散した。