第01話 今はまだ何も知らず
「ふっ!?」
鬱蒼とした森の中を半日以上も歩き続けて、収穫は野ウサギが一羽。
その収穫量の少なさから『居る』という確信はあったが、それはどうやら正解だったらしい。
深呼吸を一回。もう一度、繰り返して今度は息を素早く飲むと同時に左手のソレ。杖代わりにもしている樫の木で作った身長大の棒の尻で大地を叩いて手放す。
「そこ!」
代わって、背後へ振り向き様。右腰脇の短弓を左手に持ち、背負った筒から抜いた矢を右手に持つ。
即座に弦を引いての速射。狙いを違わず、矢が十五メートルほど先の藪の中へ飛び込んだ次の瞬間。
「ガウウゥゥッ!?」
矢を右肩に突き刺した茶色の毛並みをした大熊が雄叫びをあげながら立ち現れた。
予想していたより随分とデカい。接近したら見あげるほどの大きさ。四メートルは確実にある。
だが、驚いている暇など無い。矢を立て続けに速射する。三本中、二本が大熊の両脚に当たる。これで少しは動きが鈍る筈だと思わず口の端を吊り上げる。
「ガウウ! ガウウウウ!」
しかし、大熊は痛みなどモノともせず、再び四つん這いとなり、俺へ猛然と突進してきた。
それならと今度は弓を捨て、未だ倒れず立ったままでいる棒を取り、俺自身も大熊に向かって走る。
「ふん!」
「ガフゥッ!?」
そして、大熊が俺に飛びかかろうとした瞬間を狙い、両手首を捻りながら棒を突き出す。
所謂、ボクシングで言うところのカウンターを喉元に浴び、大熊が悲鳴をあげる。棒を通して反動が伝わり、後方へ弾き飛ばされるが、この時を逃すまいと踏み込んでの一足飛び。
完全に悶絶して立ち、防御がガラ空きとなっている大熊の土手っ腹へ捻りを加えた渾身の一撃を放つ。
「えいしゃ、おら!」
「ガブブッ!?」
手応えは十分。大熊が身体を『く』の字に曲がって、酸っぱ臭い反吐を撒き散らす。
だが、さすがはこの森のボス。すぐに体勢を立て直すと、その豪腕を振るって反撃してきた。
常人が喰らったら、たった一発で命を簡単に散らしてしまうほどの威力を持ったソレ。
その上、鋭い爪を持っており、ちょっと掠っただけで肉を深く抉るオマケ付き。
実際、一年前に喰らった時、何とか逃げ延びたが、一季節を寝込むほどの重傷を負った。
その時の傷は未だ胸元に四本の線を描いて残っており、気のせいか、疼きを発している。
「だが、当たらなければ、どうという事は無い!」
「ガウガ!」
しかし、自分自身に発破をかけて後退はしない。身体を反らして、大熊の左腕を避けると、大熊は間一髪を入れずに右腕も振り落としてきた。
とても早すぎて避けきれず、死中に活路を求め、身体を戻しながら棒を突き出して全力で巻き払う。
その結果、巻き払いは見事に成功。
大熊は右腕を外側に弾かれ、その一方で左腕は振り落としているという左右がちぐはぐな体勢。
「貰った!」
無論、その崩れた体勢を見逃す理由は無かった。
踏み込みながら棒を大地に突き、棒高跳びの要領でホップ。一旦、大熊の振り落としている左腕を足掛かりにステップを取り、更にジャンプ。
大熊の顎に左腕を回して掴むと、そのその肩へ強引に乗る。すぐさま右のブーツに仕込んである短剣を抜き、大熊の喉を深く突くと共に斬り裂いた。
「ガウウウゥゥ~~~ッ!?」
大量の血を喉から噴水の様に噴き出させる大熊。
目障りな俺を肩から振り落とそうとするが、それは当然の事ながら予想済み。その豪腕が迫るよりも早く、大熊の肩から飛び下りて、十メートルほど間合いを取る。
これで駄目なら残る武器はこの身一つ。拳しか残っていないが、まず大丈夫だろう。
「ガウ! ガウウ! ガウッ……。」
案の定、大熊はまだやれると果敢に吠えるが、三歩と歩かずに力尽きて前倒しに傾いてゆく。
その巨大な体躯を支えていた重さにドスンと森に大きな音が響く。
「はぁ……。はぁ……。はぁ……。はぁ……。
よっしゃあああああああああああああああああああああああああ!」
時間にしてみれば、たった30秒にも満たない戦い。疲労感が急激に襲ってくる。
その荒い息を無理矢理に飲み込むと、俺は両拳を天高く掲げながら勝利の雄叫びをあげた。
******
「ふふっ、ふんふんふ~ん! ふふっ、ふんふんふ~ん!」
どうしても駄目だ。顔が自然とにやけてくる。
なにせ、この森の主と言える大熊を遂に倒したのだから当然だった。大熊を短剣で解体しながら、ついつい口がハミングを口ずさむ。
それはこの世界では前衛が過ぎるメロディー。
俺が駄目な『ニート』だった頃、流行っていたロボットアニメのオープニングテーマ曲。
そう、俺は所謂『転生者』と呼ばれる前世の記憶を持つ者である。
最初、それに気付いた時は驚いた。いや、戸惑ったと言うのが正解か。
なにしろ、金髪美人のお姉さんがいきなり目の前で胸元をはだけて見せたのだから。
しかも、微笑みながら桜色のソレを『さあ、しゃぶれ』と差し出してきたのだから堪らない。
当時、恥ずかしながら年齢と彼女居ない歴がイコールで繋がっていた童貞の俺。
是非も無しと遠慮無く頂いた。それはもうペロペロのレロレロで全力全開で行った。お姉さんが身体を震わせてむず痒がり、甘い吐息を漏らした時なんて、最高だった。
しかし、お姉さんが首を不思議そうに傾げて、俺を名前を呼んだ時、全てを直感で悟った。
その金髪のお姉さんが母親であり、自分が赤ん坊になっていると。
すると直前の記憶。前世で体験した死の記憶がまざまざと蘇ってきた。恐ろしさのあまり叫んだが、舌足らずな口はただただ泣き喚くだけ。
挙げ句の果て、赤ん坊の身体には辛すぎたのか、高熱を出して寝込んでしまう始末。
本当にまさか、まさかの事態である。
生まれ変わりを題材とした漫画やアニメ、小説は幾つも知っていたが、自分の身に起こるとは。
幸いにして、当時の俺は何も出来ない赤ん坊。
時間だけは有り余るほどに有った為、色々と深く考えさせられた。お約束なオムツ替えの羞恥プレイに堪え忍びながら。
とにかく、起こってしまった事をくよくよと悔やむのは止めた。
そうでなければ、今の俺を自分達の子供として、愛を注いでくれた今の両親に申し訳なかった。
無論、前の両親がどうなったのか、それが心配だったが、世界が違うのではどうしようもない。
そうなのである。この世界は明らかに地球と呼ばれる星ではなかった。
何故、それが解ったかと言えば、一目瞭然。夜空に赤と青の月が二つ存在するからである。
文明や文化の進み具合も違う。この世界は地球でいう中世より前の様な気がする。
ガラスが高価な存在であり、大抵の窓は木窓。明かりも蝋燭と油皿が主流となっている。
そして、何よりもの異世界の証拠。魔法が存在した。
正確に言うと、魔術と神術。
当然、興味を覚えて、元神官だったらしい母親に師事を申し出たが、残念ながらこの通り。
「さて、火を焚くか。火打ち石はっと……。」
火を焚くにしても、ライターほどの火すら灯せない。
母親曰く、才能は有る筈。だけど、何かが邪魔をしているとの事。
当時、その言葉を親の子を思う慰めだと感じたが、今なら理解が出来る。
即ち、前世での常識を持っているが故、ハナから有り得ないと思い込んでいるのが原因らしい。
以前、今住んでいる村に立ち寄った魔術師から似た様な事を言われて、ようやく気付いた。
似た様な思い込みで才能はあっても、魔術が使えない者は意外と多いらしい。
さて、転生と言ったら、やはり強くてニューゲーム的な転生特典。
この手の漫画やアニメ、小説には絶対に欠かせないと言っても過言でないチート要素。
当然、俺も世間一般に物心がつき、自力で歩ける年頃になった時、それを期待した。
まずは容姿がチートなのか。
前世の基準で言ったら、父親はイケメン、母親は美人で間違いない。父親のアッシュブロンド、母親の蒼い目、二人の血を引いた俺もなかなかだと思う。
間違いなく、前世よりは断然にイケメンと言える。
ただ、この世界での基準で言ったらとなると、これがちょっと解らない。
それと言うのも、基準となるサンプルが少なすぎて解らないのである。
俺の知っている世界は住んでいる村と猟を行っている幾つかの森しかない。村の街道は二つの村と繋がっているが、そのどちらにも行った事は無い。
その上、村は国の端にある田舎の為、旅人が村を訪れる回数も年に両手で足りるほど。あとは季節の初めに訪れる行商人のおっさんしか知らない。
では、出自がチートなのか。
これも残念ながら違う。俺の両親は俗に言う『冒険者』と呼ばれる何でも屋だった。
それも一箇所に長く留まらず、各地を転々とする根無し草。赤ん坊の頃、何処かに定住していた様な気がするが、当時は赤ん坊だけにあまり憶えていない。
今、住んでいる村に定住して、猟師を担う様になったのは俺が六歳の頃だったと記憶している。
なら、天稟な才能を持っていて、それがチートなのか。
残念ながら、それも違う。先ほど言った通り、まず魔法は使えない。
今、こうして倒した熊を捌き、その肉を焼いているが、これも実は大した事が無い。
もちろん、前世でなら『すげぇ! 熊殺しかよ!』と驚くところだが、俺の親父はもっと凄い。短剣、棒、弓矢、この三つだけで熊どころか、マンモスを倒す。
そう、動物園に居る様なのんびりとしたゾウじゃない。獰猛なマンモスだ。
その大きさはゾウの二倍から三倍はあるにも関わらず、突進力はイノシシ並みの素早さ。
もし、今の俺が暴れマンモスと遭遇したら、形振り構わず持っている荷物を全て捨てて逃げ出す。それを単独で倒してしまう親父こそ、チートと呼ぶべき存在だろう。
実際、俺が使う剣術、棒術、弓術は親父から習ったもの。親父と打ち合って、勝てた試しが無い。
まあ、前世の常識から見たら、チートは親父だけではない。
俺の村は人口が二百人程度の小さな村で主産業は林業なのだが、村の樵達は丸太を一人で軽々と担ぐ。その昔、俺も試してみたがこれっぽっちも上がらなかった。
「しかし、久々に食べるが……。
熊って、苦労の割に美味くないよな。獣臭くって堪らんわ」
つまり、前世と比べたら、俺の新しい人生は『強くてニューゲーム』に違いないが、俺は魔王を打ち倒す様な勇者でも無ければ、何かの運命的な使命を持った物語の主人公でも無い。
せいぜい、人より狩りが少し得意な只の村人Aでしかない。
だが、それで十分すぎる。
元ニートの俺が転生特典を貰い、新たな世界でウハウハするなどムシが良すぎるというもの。
俺に出来る事と言ったら、新たな人生を得た事に感謝して、前世では出来なかった親孝行をする。
それで十分だった。それ以外は望まなかった。いや、それ以外を望む資格が無かった。
ところが、ところがである。
母親は村に定住して間もなく、病に倒れると、呆気なく逝ってしまった。
どう考えても、それは単なる風邪を拗らしたものだったが、成す術が無く見守るしかなかった。
せっかく転生したと言うにも関わらず、ロクな医学知識を持っていない自分自身を呪った。
魔術や神術が発達したせいか、化学と科学が発達しておらず、迷信ばかりのこの世界を呪った。
「おっと……。忘れるところだった。
他は捨てても、肝だけは持ち帰らないとな。たったこれだけで半年分の収入だ。
しかし、それにしても……。こんな物が万病に効くと信じられているんだから不思議だわ」
十歳の頃から親父の後を付き従い、今年で四年目となる狩人稼業。
解体作業など慣れたもの。最初、はらわたを見て、ゲーゲーと吐いたのは良い思い出。
そして、今日はこの辺一帯の森のボスである大熊を狩る事に成功した。もう一人前を名乗っても良いだろうか、その判断に迷う。
何故ならば、その判断を下してくれる親父も今年の夏に逝ってしまった。
きっかけは足に負った切り傷。恐らく、変な雑菌が入ってしまったに違いない。
親父が変な痩せ我慢をしていたものだから酷く化膿してしまい、傷口を火で焙った短剣で焼き削いだが、気付いた時はもう遅かった。
傷や病だけが原因ではない。
とにかく、この世界は取るに足らない理由で人が簡単に死ぬ。
その多くが貧困によるものだろう。行商人のおっちゃんが村へ来る度に言う。
うちの村は豊かで実に良いと。領主様も良い人でうちの村人は幸せだと。
村以外を知らない俺にとって、外の世界は解らないが、土地によって、差が激しいらしい。最近は特に物価が上がって苦しいところが多いとか。
それこそ、傲慢を絵に描いた様な貴族も居るという話も聞いた事がある。
何にせよ、俺はようやく大人と認められる来年の十五歳を目前にして、目標を失った。
母親は二十代後半、父親は三十代後半、どっちも死ぬにはまだ若すぎる年齢だと言うのに。
もしかすると、これも前世で親不孝を散々した俺に対する呪いだと言うのか。
そう、『これも』である。俺は生まれ変わった代償に神から与えられた呪いを知っている。
それは……。
******
「ふぅぅ~~~……。」
ようやく辿り着いた我が家。
本日の獲物を剥ぎ取った大熊の毛皮を風呂敷代わりに包んでいるソレを背負い直しての一溜息。
ちなみに、村にある本邸では無い。春から秋にかけて使っている猟用の山小屋である。
冬期間は村の本邸で過ごすが、春から秋にかけてはここで過ごす。村へ下りるのは週一程度。
「おっ!? 来てたのか?」
その山小屋に今日は珍しく来客があった。
薪割りをして、その腰まで垂らした栗色の三つ編みを揺らす後ろ姿は良く見慣れたもの。
彼女の名前は『コゼット』、住んでいる村の村長の娘であり、俺より一つ年上の幼馴染み。
コゼットが俺の呼び声に薪割りの手を止めて、満面の笑顔を振り向ける。
「あっ!? おかえりなさい! ニート!」
そう、俺の名前は『ニート』、それこそが生まれ変わりの代償に神が俺へ与えた過酷すぎる呪い。
******
人間、亜人、魔物、魔族、その四種の住人が住む巨大大陸、パンゲーニア。
今日にまで至る大陸の歴史において、最も広大な領地を持ち、最も長く王朝が続いた国と言えば、インランド帝国に他ならない。
では、そのインランド帝国における英雄を三人挙げろと言われたら、誰の名が挙がるだろうか。
恐らく、真っ先に挙がる名前は第三十八代皇帝のエドワード八世で間違いはない。
大変な色狂いという欠点はあったが、エドワード八世ほど帝国の版図を拡げた者は居ない。
百戦して、百勝と呼ばれるくらいの戦上手であり、その色狂いの面も合わせて、エドワード八世に関する逸話は多い。
次に名前が挙がるのはインランド帝国の前身、インランド王国の開祖であるエドモンド一世だろう。
なにしろ、彼無くして、その後に続く千年王国たるインランド史は有り得ない。
但し、約二千年以上もの出来事となると、記録はほぼ残っておらず、彼がどうやって国を建てたかは解らない。
そして、三番目に挙げる人物。ここで多くの者は悩むに違いない。
前者の二人が国王、皇帝だった事に準ずるなら、中興の祖たる初代皇帝のジュリアスとなる。
何と言っても、何百年に渡って続いていた周辺諸国との拮抗を打ち破り、国名を王国から帝国へと変えて、礎を築いた功績は大きい。
その結果、インランド文化が花開き、それが大陸各地に広がる事によって、庶民の生活水準が大きく上がっている。
だが、前者の二人に準じず、国王、皇帝以外から選ぶのなら、圧倒的な人気である一人が選ばれるだろう。
『我が国の幸運はあの者が居たからこそだ。
試してみるが良い。もし、あの者の心さえ手に入れられたら、予が座っている椅子など簡単に座れるぞ』
そう、初代皇帝のジュリアスのその思想に多大なる影響を及ぼして、そうまで言わしめた男。
一人の王と一人の皇帝に仕えながらも民の為に戦い、何色にも染まらなかった無色の騎士『ニート』、その人である。