幕間 その1 コゼット視点
時は少し遡り、ニートがトリオールの街を目指して、ヘクターとまだ旅をしていた頃。
ヒッキィー村はいよいよ北風が冷たさを増して、コゼットはニートが居なくなった寂しさを冬ごもりの忙しさで誤魔化していた。
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「うん、美味しい」
冬になったら、一緒に食べよう。そう言って、ニートと作った秋の初めにリンゴの蜂蜜漬け。
その瓶の封を破り、その中の一つを手づかみで摘むと、程良く浸かった甘い味が口の中に広がった。これさえ食べれば、どんなに泣いている子供だって笑うに違いない。
「はぁ……。」
ところが、今の私の口から出てくるのは溜息ばかり。
こんな事をしたところで無駄だと言うのに止められず、もう誰も住む者は居ない元ニートの家の冬ごもりの準備を行う。
去年まではニートと私、エステルの三人がわいわいと騒ぎながら行い、それをフィートさんが苦笑して、たまらず兄さんが怒鳴ると言うのが毎年の光景だった。
だけど、今年は私一人だけしか居ない。家はシーンと静まり返っていた。
この家はたった一年で誰も居なくなり、村の一番外れにある為に訪れる者は私一人だけとなってしまった。
ニートのお父さん、フィートさんはこの夏に亡くなった。
この村の誰よりも強くて逞しく、病などかかった試しは一度も無かったにも関わらず、些細な切り傷が原因で呆気なく逝ってしまった。
ニートはあの事件。エステルを手込めにした貴族様を殴ってしまい、領外追放刑となった。
貴族様は公爵家の跡継ぎらしく、これ以上の減刑はとても無理だった。そう告げて、領主様は頭を下げて詫びた。
エステルは領主様に仕える侍女見習いとして採用され、家族と共に引っ越した。
だから、この家の真向かいに川を挟んであるエステル一家が住んでいた家も今は空き家となっている。
あの事件から、もう二ヶ月が過ぎた。
村のみんなは早く忘れてしまおうと、ニートとエステルの名前そのものが禁句と化している。
また、ニートが領外追放となった為、村の猟師が居なくなり、お父さんは懸命になってニートの後釜を探している。
だから、最近は家を留守にする事が多く、帰ってきたと思ったら翌日には出かけるを繰り返して、兄さんが村を実質的に取り仕切っている。
なにせ、村に猟師が居ないのは死活問題。
春になったら、冬眠から醒めた獣達が山から下りてくる。
早く見つかってくれる事を願うばかりだが、見つかった場合、このニートの家はどうなるのだろうか。
いや、答えはとっくに解っている。領外追放刑となったニートがこの村に戻ってくる事は有り得ない。
だったら、あのニートが秘密基地だと誇らし気に言っていた山小屋も、この家も新しく来る猟師のものになるだろう。
領主様はニートの行き先を教えてくれなかった。ニート自身も私達の前に姿を現さず、何処かに行ってしまった。
その為、どうしたら良いのかが解らない。エステルのお父さんから託された言葉『ありがとう』をどうやって伝えたら良いのかが解らない。
私宛にとまでは言わない。せめて、一言でも残してくれていたって良いのに何も残してはくれなかった。
『どうして』と最近はそればかり。ニートの事ばかりを考えている。
今頃、ニートは何処に居るのだろうか。もう私の事など忘れて、新しい場所で新しい暮らしを始めているのだろうか。
「やっぱり、ここに居たか」
「んっ!? 何か用事?」
不意に背後で玄関のドアが開く。
いつの間にか、涙ぐんで詰まってしまった鼻を啜り、慌てて気持ちを切り替えてから振り向くと兄さんだった。
「ああ、冬の麦の差配がしたい。だから、共同倉庫の名簿を見せて貰えるか?」
一瞬、何かを言いた気な表情するも、兄さんはソレを飲み込んで少しぎこちない笑顔を作る。
思えば、家族にも迷惑をかけている。私がこんな調子だから、家の雰囲気も何処か陰りがあり、前は騒がしかった夕飯も全員があまり喋らない。
しかし、もう少しだけ今のままで居たい。ニートに縋っていたい。
村長の娘として、独身のままで居られないのは承知している。領外追放となった以上、ニートを幾ら待っていても無理なのも承知している。
だけど、とても今すぐは無理だ。いつになるかはまだ解らないが、立ち直れるその日までは今のままでいさせて欲しかった。
「うん、解った。今、行くから」
「頼む……。出来れば、早くしてくれ。今日中に終わらせたいんだ」
だから、今日も兄さんの気遣いに気付かないフリをして笑う。
すると兄さんはやっぱり少しぎこちない笑顔で頷くと、この家の中に一歩も入る事なく、そそくさと足早に立ち去った。
その寂しそうな背中で解る。兄さんもまた辛いのだと。
そう、私とは正反対に兄さんはこの家に近づこうとしない。早く忘れようと努力しているのだろう。
あの事件から数日、兄さんは夜になると一人深酒をして、私同様に『どうして』と愚痴を何度も漏らしていた。
本当に『どうして』と問いたい。あの事件の前日の夜、『俺は大丈夫だから』と言って、私を抱いたあの言葉は嘘だったのか。
私や兄さんに貴族様を殴れる度胸など有りはしないが、それでも何かしらの力になれた筈ではなかろうか。
『どうして』、何も言わずにソレを行い、去ってしまったのか。その答えが知りたい。
「……嘘つき」
溜息を漏らして、リンゴの蜂蜜漬けをもう一囓り。
やっぱり美味しい。美味しいけど、涙が零れるのは『どうして』なのだろうか。
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「ねぇ、アレって……。」
「珍しいな。こんな冬間際に……。」
兄さんの仕事を手伝い、共同倉庫から出した麦の差配を手伝っていると、村の入口に人影が見えた。
毛並みの良い見事な馬を四頭連れ。その内の一頭は荷物だけを背負い、馬上に跨るのは軽装な三人。それぞれが剣を腰に差している。
恐らく、冒険者にしては上等な服を着ており、贅沢な馬の使い方をしているところから貴族様だろう。
二ヶ月が経ったとは言え、エステルの事件はまだまだ記憶に新しい。
兄さんの目配せを受け、麦を受け取っていた村のお姉さん達を無言で促して、麦袋が背丈ほど積まれて列んでいる共同倉庫の奥に隠れ潜む。
その只ならぬ雰囲気を感じ取ってか、共同倉庫前の広場で遊んでいた子供達が自分の家に急ぎ帰ってゆく。
いざという時の為、裏口からも逃げられる様に鍵を外して、その引き戸を少しだけ開けて驚いた。
辺りをキョロキョロと見渡しながら村に入ってきた三人の貴族様は、兄さんが駆け寄ってくるのを気付くと、なんと全員が馬から下りたのである。
馬から下りる。それは庶民である私達に敬意を払い、目線を等しくする為の行為に他ならない。
その様な貴族様は一度も見た事が無い。と言っても、私達が知っている貴族様は数少ないが、優しく公平な領主様とて、村中央の広場までは馬に乗ったまま。
「これは、これは貴族様。我が村に何の御用でしょうか?
今、村長は生憎と不在にしておりまして、私は息子のケビンと申します」
それを実際に目の当たりにした兄さんはさぞや驚いたに違いない。
その表情は後ろ姿で見えなかったが、駆け寄る足が一旦止まったくらい。
しかし、本当の驚きはこれからだった。
「丁寧な挨拶を痛み入る。
私はアレキサンドリア王国に禄を貰う者。パリス・ナハト・ペリグリーニと申す」
名前が三つ。それは貴族様である証拠。
ところが、ところがである。三十代後半と思しき代表者、パリス様は挨拶と共に頭を下げた。
しかも、それに倣い、パリス様の背後に列ぶ二十代の二人までもが。
その我が目を疑う光景に驚き、声を潜めていなければならない状況と解っていながらお姉さん達がざわめく。
だが、それを咎める余裕は無かった。私自身、驚きで一杯であり、貴族様に目が奪われていた。
「そ、それは遠いところから……。さ、さぞや、お疲れでしょう。
な、何もない村ではありますが……。ゆ、ゆるりとご休憩をなさって下さいませ」
兄さんに至っては驚愕のあまり後退っている。
一拍の間を空けて、パリス様以上に頭を深々と何度も下げているが、それを情けないとは思わない。
なにしろ、貴族様が庶民に単なる挨拶で頭を下げたのだから。
エステルの事件後、領主様は私に頭を下げてくれたが、それは私が村長の娘だからであり、例外中の例外と言って良い。
実際、それが行われたのは夜であり、その場は立ち入りが禁止され、私と領主様、あとは父さんと兄さんを含めた四人しか居なかった。
村のみんなに対する謝罪を行ったのは領主様に仕える従士長さん。即ち、同じ庶民が領主様の心を代弁する形で頭を下げている。
「お気持ちは有り難いが、この辺は雪深いと聞く。用件を済ませたら、すぐに立ち去るつもりだ」
「用件……。ですか?」
「約十年前、正確には八年前となるが……。
この村にフィートとエクレアを名乗る子供連れの男女が冒険者として訪れている筈なのだが、誰か憶えている者は居ないか?」
「それなら、私が……。
……と言うか、この村の住人です」
「なんとっ!?」
驚きは更に続き、胸がドキリと跳ねた。
ニートのお父さん、フィートおじさんを訪ねてきたのなら解る。
何故ならば、フィートおじさんはこの辺りではかなり名前が知られた猟師。厄介な害獣や魔物が現れると、その討伐を依頼される事がたまにあった。
だが、ニートのお母さん、エクレアおばさんを訪ねてきたとなると、これはもう驚くしかない。
なにせ、エクレアおばさんはとても美人で印象的な人だったが、村に住み着いた初めての冬に病を患ってしまい、次の春を迎えずに亡くなっている。
それ故、この村の中でさえ、エクレアおばさんを憶えている人はとても少ない。
そのエクレアおばさんを訪ねてきたと言う事は、うちの村に居着く前のフィートおじさんとエクレアおばさんを知っているのではないだろうか。
もしかしたら、ニートが何処に行ったのか、その手掛かりも知っているかも知れない。可能性は低いかも知れないが、藁にも縋る思いとはこの事か。とにかく、ニートに関する情報が欲しかった。
そう思ったら、ますます興味が湧き、もっと話し声が聞こえる様に裏口の引き戸をもう少し開けた。
「パリス様、おめでとうございます!」
「遂に辿り着きましたね!」
「ああ、我々の長い旅が終わる! ようやく、これで国に帰れるな!」
どうやら、パリス様達はフィートおじさんとエクレアおばさんの二人を随分と探していたらしい。
その行方に辿り着き、これ以上ないくらいに喜び合い、パリス様に至っては涙ぐみ、それを零すまいと天を仰ぎながら感無量といった様子で肩を振るわせている。
きっと兄さんは困り果てているに違いない。
なにしろ、これから二人が既に亡くなっている事を告げて、その喜びに水を差さなければならないのだから。
「あ、あのぉ~~……。」
「おお、勝手に盛り上がって済まない! ケビン殿、早速だが御二人の元に案内を……。」
「お喜びのところを申し訳有りません。フィートおじさんも、エクレアおばさんも、既にお亡くなりになっています」
「な゛っ!? ……い、何時だっ!? い、何時、お亡くなりになられたのだっ!?」
案の定、それを告げると、パリス様達は態度を激変させた。
喜びから一転、驚愕へと変わり、その真実を受け入れたくないのか、パリス様は首を左右にゆっくりと振った後、兄さんの肩を両手で掴みながら怒鳴り詰め寄った。
「エクレアおばさんはもう随分と昔です。フィートおじさんは今年の夏に……。」
「な、何て事だ……。ま、間に合わなかったのか。わ、私は……。
ご、五年もかけて、この様とは……。こ、国王様と御館様に何と詫びたら……。」
しかし、兄さんが尚も真実を告げると、パリス様は両手を大地に突いて項垂れ、涙をポタポタと落とし始めた。
それは見るからに深い絶望を感じさせるものであり、お供の貴族様二人もまた肩を振るわせて泣いていた。
大の男が、それも貴族様が庶民の目を憚らず、ここまで泣く理由は何なのだろうか。
その理由がパリス様の言葉の中にある様な気がするが、それは私にとって聞き捨てならない激しく動揺を誘うものだった。
五年と言う長い年月をかけての人捜し。
しかも、その捜索に一国の王様と御館様なる高位な貴族様が関わっているらしき事実。
それに加えて、最初は隠していたが、フィートおじさんとエクレアおばさんを明らかに敬ったパリス様の言葉遣い。
その三つのヒントから、まさかという考えが頭を過ぎる。
外に聞こえているのではないだろうかと思うくらいに胸が早鐘を強く打ち始め、それと相まった嫌な予感が胸を苦しくさせる。
「なら、ニート様は! ニート様はご無事か!」
そして、この村で今や禁句となった名前がパリス様の慟哭と共に轟く。
今、確かに言った。この耳に二度もしっかりと聞こえた。ニートに対して、敬称を付けて呼んだ。
最早、そうとしか言えなかった。私の考えが正しければ、ニートはいずこかの貴族様の血統に連なる者に違いない。
それも一国の王様が捜索の命じて、五年もの長い年月をかけてまで捜すとなれば、よっぽど高位の貴族様なのではないだろうか。
お伽噺や吟遊詩人の歌では、庶民の娘が大貴族様と結ばれて幸せになる物語は多い。
だが、庶民と大貴族様が現実に結ばれるなど絶対に有り得ない。私とて、それを夢見た頃はあったが、さすがに今はもう現実を知っている。
だからこそ、こう考えざるを得なかった。
この時期、パリス様がこの村を訪れて、ニートが貴族様の血統に連なる者であると知らせたのは神様のお告げ。
私が抱いているニートに対する想いは元々が道ならぬもの。ニートの事は早々に諦めて、身分相応の男の元に嫁げと言っている様だった。
「教えて下さい! ニートは!」
思わず両拳を握り締め、下唇を噛みながら心のざわめきに耐えた。
しかし、居ても立ってもいられず、裏口の引き戸を勢い良く開けると、まだ自分の予想でしかないソレを違うと言って欲しくて、気付いたら全力で駆け出していた。
「う゛っ……。」
ところが、十歩を数える前に足が蹌踉めく。
ここ最近、悩んでいる眩暈を感じて、走るどころか、立っているのすらままならなくなり、その場に四つん這いとなった。
挙げ句の果て、早鐘を打っていた鼓動がますます早さを増して、その勢いに圧されてか、激しい嘔吐感が襲ってきた。
慌てて口を右手で塞ぐが時既に遅し。今朝、食べたモノが次々と込み上げ、塞いだ口の隙間から漏れ溢れてしまう。
「コゼットっ!?」
「コゼットちゃんっ!?」
すぐさま兄さんと隠れていた村の若いお姉さん達が駆け寄ってくる。
その内の一人に背中を撫でられながら更にえづく。もう胃液しか出てこないが、吐き気が止まらない。
「大丈夫かね?」
「申し訳御座いません! この様なお見苦しいところをお見せしてしまい!」
貴族様を前にして、とんでもない失態を犯してしまった。
吐き気の苦しさに顔を上げられないと言うのもあるが、兄さんに恥をかかせてしまった申し訳無さに顔が上げられない。
「おい、水を……。」
「とんでも御座いません! 貴族様のお手を煩わせる様な!」
「何を言っている。こんな時に身分など関係は無いだろう」
幸いにして、パリス様は領主様の様に優しい貴族様らしい。
ひとまずは一安心するが、私自身も謝罪しなければいけないのは変わらない。
目の前に差し出されたコップを受け取り、パリス様に謝罪と感謝を告げようとしたその時だった。
「ねえ、コゼットちゃん。
間違っていたら、ごめんなさいね。貴女、妊娠したんじゃないかしら?」
「……はい?」
背中をさすっていた隣の家のお姉さんがとんでもない事を言い出した。
おかげで、パリス様に対する謝罪と感謝の言葉を驚きのあまり飲み込み、茫然と目が点になった顔を隣の家のお姉さんに振り向ける。
「そう言えば、身体が怠くて眩暈がするって、さっき言ってたわね」
「そうね。そう言われてみると……。最近、ふっくらしてきた気がするわ」
「なら、胸はどう? 張っている様な感じがする?」
すると他のお姉さん達が続々と追従して頷き合い、その具体的な兆候を示してきた。
全員、ここ三年以内に出産を経験しており、記憶が新しいせいもあって、何かを感じるものがあるのかも知れない。
「……します。実はちょっと痛いです」
まさかと思いながらも、その思い当たるフシに愕然とする。
それこそ、最たる兆候である月のモノ。それが約二ヶ月くらい訪れていない。
あの事件の三日前、辛くて憂鬱な数日が終わり、これでニートとの『ウフフ』が解禁。山小屋にスキップして浮かれながら向かったから良く憶えている。
無論、自分自身の身体の事である。月のモノが途絶えていたのは自覚していたが、ただ遅れているだけだと考えていた。
この夏、フィートおじさんが亡くなった時も随分と遅れ、義姉さんに不安のあまり尋ねたら、『親しい人が亡くなると、そのショックで遅れる事は良くある』と聞かされた経験から、あの事件の影響だとばかり考えていた。
第一、いずれは結婚すると決めていたが、私達はまだ正式な婚約を交わしていなかった。
それ故、こんな娯楽が少ない田舎のせいか、お互いがすっかりと『ウフフ』に嵌ってしまい、目に余ると兄さんから叱られるくらいに行っていたが、いつも避妊だけはお互いに気を付けていた。
だから、『絶対、最後はいつも……。』だった為、ニートは満足がちょっと足りなさそうだったけど、この点に関しては理解も示してくれたし、我慢もしてくれていた。
それにも関わらず、『何故』と記憶を掘り起こして、目をこれ以上無いくらいに見開きながら息を飲む。
あの事件が起こった夜、最後に抱かれた夜だけが違った。
あの日の夜のニートは正に獣だった。やり場の無い怒りをぶつけるかの様に私を荒々しく抱き、私の中で何度も果てながらも休む事を知らず、私が意識を遂に失うまで続けた。
もしかしたら、その時にだろうか。いや、そうとしか考えられず、顔から血の気が引いてゆくのを感じる。
「コゼット! そうなのか! 本当に妊娠しているのか!」
「うっ……。」
肩を強かに掴まれて、上半身を強引に上げさせられると、目の前で血相を変えた兄さんが怒鳴っていた。
だが、その問いに応えるよりも早く、眩暈がますます酷くなり、視界が歪んだと思ったら真っ暗に染まった。