幕間 その2 パリス視点
オーガスタ要塞を目指して、ニートが馬をひた走らせている頃。
ハネポート男爵領の執政職に就くパリスはインランド王国との戦いの出兵準備に慌ただしく走っていた。
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「むっ!? いかん、いかん」
いつの間にか、早足どころか、小走りになっている歩調にふと気づき、独り言を零しながら歩調を落とす。
コゼット様からこのハネポート男爵領の統治権を預かっている身として、俺が慌てていては皆が何事かと思い、コゼット様も無用な心配を抱えてしまう。急ぎの時こそ、平然と構えていなければならない。
だが、気が自然と逸ってしまうのが出兵前だ。
常日頃からの備えのおかげで準備は滞りなく済み、あとは明日の朝を待つばかりではあるが、どうにも気持ちがそわそわと落ち着かない。
それに今回の出兵はいつもと違う。腑に落ちない点が有る。
早馬が公都からコゼット様の元に届き、参戦命令を伝えてきたのは一昨日の昼過ぎ。
敵襲による国土防衛戦なら解るが、こちらが敵国に仕掛ける侵攻戦としては話が急過ぎる。
侵攻先が東のジョシア公国ならまだしも、北のインランド王国となったら尚更だ。何事にも思慮深い大公様らしからぬ決断と言える。
何故ならば、マスカット大公領とインランド王国の間にはバビロン砂丘がある。
この砂丘は東の海から吹きつける風と西の山脈から吹き下ろす風が実に曲者であり、昨日が深い谷間なら今日は平地、明日は見上げるほどの山といった様に三日と同じ地形を保たない為に横断が出来ない。
だったら、マスカット大公領とインランド王国の間にある広大な海を横断したら良いという話になるが、こちらも駄目。
この海はマスカット大公領とインランド王国そのものが巨大な入江となっている為、潮が基本的に東から西へと強く流れて、バビロン砂丘にぶつかった後は幾多の渦を作り、この渦が二つの月の満ち欠けで位置を日毎に変えて、バビロン砂丘沿岸一帯に複雑な潮の流れを作っている。
この海を横断するとなったら外洋船の力が必要になる。
しかし、バビロン砂丘の沿岸は非常に遠浅であり、この海底もまた昨日が深い海溝なら今日は足が付く程度の水深、明日は砂の小島という様に三日と同じ形を保てず、深い喫水線を必要とする外洋船は用いるのは危険が有る。
だが、それ等の悪条件を迂回した先はインランド王国南方領を飛び越えた先、インランド王国中央直轄領である。
そこへ軍船による上陸作戦で橋頭堡を作り、海路の補給路を維持しつつも版図を広げていけるほどの力は残念ながらマスカット大公領には無い。
もし、それを実行するとなったら、マスカット大公領のみならず、他の二大公領も参戦したアレキサンドリア大王国としての戦いになる。
だが、これは不可能だ。マスカット大公領が北と西の二方向に問題を抱えている様に他の二大公領も問題を抱えており、アレキサンドリア大王国の版図はもう百年以上も大きな変化が起こっていない。
つまり、インランド王国へ侵攻するとなったら、その道はたった一つ。
バビロン砂丘の西にある山脈をまるで剣で断ち斬ったかの様な絶壁沿いの道を進むしかない。
ところが、この道がかなりの難所。それも精神的にだ。
右手側が砂漠なら、左手側は真上を見上げるほどの高い岩壁。足元は砂漠に侵食されかかった砂利の岩場の為、水場が当然の事ながら少ない。
十人、二十人の隊商規模の集団なら問題は無いが、千人、二千人の軍隊規模の集団になると水が満足に飲めない。私の様な指揮官クラスですら節水を求められる。
その上、砂丘からの照り返しが強くて暑い。
絶壁が影になってくれる夕方前までは空と砂丘の二方向から陽の光を浴び、ただ立っているだけで汗が全身に滴り落ちる。インランド王国南方領へ到着した頃にはこんがりと日焼け状態である。
それ故、誰もが涼を求めて、絶壁の傍を歩きたがる。
絶壁の傍に寄れば寄るほど影を踏める確率が高まるのは勿論の事、自分と砂丘の間にヒトが一人でも多ければ多いほど涼しいからだ。
その結果、行軍は自然と長蛇化して非常に遅くなる。
照りつける暑さと前に遅々と進まない二重の苛立ちは諍いを起こす原因となり、それが理由で渋滞が起こって行軍は更に遅くなる。
とにかく、精神的に疲れる。
戦地へ着く以前にこれで本番は大丈夫なのかと思うかも知れないが、実際は逆。この道は起伏らしい起伏が無いのと遅い行軍が相まって体力だけは有り余っている為、それまでの苛立ちをぶつける様に緒戦の士気は自重を求めるほどに高い。
但し、これ等は春先の話。
夏を目前に控えた今、春先より昼間は長くなっており、太陽の照りつけも強くなっている。疲労は体力的にも及び、過酷な行軍になるのは間違いない。
それが解らない大公様では無い。
大公様自身も若い頃は陣頭に立って、インランド王国と戦った経験を持っており、バビロン砂丘の行軍の辛さも知っている。
それに前述にもあるが、参戦命令が届いたのは一昨日。我々がハネポート男爵領に到着して、一週間目の出来事になる。
公都からは道草を交えた約一ヶ月のゆっくりとした旅だったが、公都を出発する時点でインランド王国へ攻め入る話なんて影も形も無かった。
第一、他国へ侵略戦を仕掛ける場合、大公様が新年の挨拶でそれをそれとなく示唆するのが慣例になっている。
それが無くて、それらしい噂も無かったのだから、今回の参戦命令は我々が公都からハネポート男爵領へ向かっている道中に決まった急な決定と考えるべきだ。
当然、何かしらの裏事情が有るのだろうが、それがさっぱり解らない。
急な参戦命令に自分達の身を案じてくれるコゼット様を安心させる材料を持っていない己の至らなさを感じる。
「むむっ!? ……本当にいかんな」
そんな事をつらつらと考え込んでいたら、再び歩調が小走りになりかけていた。
一旦、立ち止まって、気持ちをニュートラルに戻す。この階段を上りきり、その先のドアを開けたら、そこはもうコゼット様とヤード様のプライベートエリアである。
余談だが、コゼット様は貴族になった今でも炊事、洗濯、掃除といった家事を自分の手でやりたがる方だ。
我々の様な下の者達から見たら好感を抱ける美点だが、高位の貴族達から見たら違う。貴婦人たる者は常に優雅でなければならず、身の回りでせかせかと動くのは品が無いとされている。
それこそ、貴婦人はトイレすらも侍女の手を借りて済ますらしい。
侍女は貴婦人がもよおしたのを察して、そこが屋内なら貴婦人と共にトイレへ入り、そこが屋外なら貴婦人を人気の無い場所へ誘導。貴婦人が足を肩幅に開いたのを合図にスカートの中に潜入した後、それ用の小さな壺をアソコにあてがい、全てを済ませた後の処理まで行うとか。
そういった背景がある為、コゼット様には公都で生活をしている間、家事を出来るだけ控えて貰っている。
だが、このハネポート男爵領はコゼット様の土地。気兼ねの必要は無いが、もう少し自重して欲しいのが私の本音である。
今や、このハネポート男爵領はコゼット様が特産のワインを有名にしてくれたおかげでとても栄えている。
その税収の額を考えたら、使用人の十人や二十人は雇えるだけの余裕が十分に有るにも関わらず、この領主館に仕えている使用人はたったの三人。老夫婦の執事長と侍女長の二人とやっぱり年老いた庭師の男しか居ない。
いや、コゼット様の前任である代官が抱えていた者達をそのまま引き継ぎ、当初は十五人の使用人が居た。
しかし、先ほど挙げた三人以外はこの街が栄えると共に次々と進出してきた商会に転職済み。重宝されて、この街の支店長になった者さえ居る。
なにせ、領主館の使用人は読み書きと計数、礼儀作法を習得している。
これだけでも得難い人材でありながら、その身の上を領主が保証しており、領主との繋がりも出来るのだから、商人にしてみたら垂涎の人材。最初の一人が転職したのをきっかけにして、商人達は我先にと争って求めてきた。
通常、領主が使用人を放出する事は財政がよっぽど悪化でもしない限りは有り得ない。
それなりの費用をかけて教育したというのも理由の一つだが、貴族とは基本的に見栄に張りたがるもの。財政が苦しい程度なら使用人に対する賃金や出費を抑える。
だが、先ほども言ったが、今は財政に余裕が有る。
どうして、コゼット様がその十二人の転職を許したかと言ったら、それはその十二人は前任の代官が領内から無理矢理に召し抱えられ、夜伽の奉仕を強要されていた女性達だからだ。
ある時、コゼット様は最初に転職した一人からこの事実を知らされたらしい。
コゼット様は尊敬を抱ける主人ではあるが、この領主館は辛い記憶が多い。どうか、暇を頂けませんかと。
その後は敢えて語るまでも無いだろう。
ただ、使用人が一人、また一人と去ってゆく度、ある問題が浮かび上がってきた。
このコゼット様の前任である代官が建てた領主館は無駄に広くて、部屋数も多い為、コゼット様がいかに働き者で家事の達人であろうと管理が次第に行き届かなくなり、使用頻度の少ない部屋から埃を被り始めたのである。
普通なら、ここは新たな使用人を雇うところ。
或いは部屋を整理しての一部閉鎖か、景観を崩しても構わないならその一部自体を取り壊した改築か。
いっその事、領主館そのものを新築しても構わなかった。それくらいの余裕は有ったし、たまにはコゼット様に我儘を言って欲しかった。
しかし、コゼット様はその提示した四つの選択肢をどれも『勿体無い』と言って選ばなかった。
コゼット様が選んだのは考えてもいなかった五番目の選択肢。人差し指を傾げた顎先に当てて暫く考え込み、さも名案と言わんばかりに柏手を打ちながら笑顔でこう言った。
『私とヤードは三部屋も貰えたら十分!
あとはパリス様達がお仕事をする部屋とお爺ちゃん達の部屋! それと……。いざという時にお客様が泊まる部屋を除いて貸し出しましょう!』
最初は言葉の意味自体がさっぱり解らなかった。
続いて、部屋の賃貸料金を相談されて、そこで領主館の公営アパート化の提案だとようやく解り、即座に反対した。声を大にして猛反対した。
出会ってから約十年、コゼット様は未だに自分の重要度をいまいち理解していないのが困りもの。
生まれのせいだと言ったらそれまでだが、それだけに俺がしっかりとしていなければならない。警備上の問題から賛成は絶対に出来なかった。
だが、コゼット様は負けていなかった。
俺が反対理由に挙げた警備上の問題を逆手に取り、この領主館を兵舎化するという首を横に振りづらい提案をすかさず持ちかけてきたのである。
当時、この街の急激な発展に伴い、悪化傾向にある治安が大きな課題になっていた。
冒険者を雇い、その場を凌いていたが、冒険者は雇用費が割高な上、その殆どがいずれは街を去ってしまう人材。育てる意味も無ければ、重要な仕事も任せられない。
いざ戦争になっても逃げ出さない忠誠度を持った領民の常備兵増員は急務であり、その増員した兵士達が寝起きする兵舎を何処に建てるかで二重の問題になっていた。
なにしろ、街の目ぼしい土地は商人達が既に購入済み。
この街は領主館を起点として、山間の扇状に広がった緩やかな斜面に在り、扇の外側は土地が幾らでも空いているが、領主館とは遠くなり、いざという時に領主の元へ素早く駆けつけられない兵士など意味が無い。
だからと言って、既に住んでいる者達を退かせて、そこに兵舎を建てる様な強引策はコゼット様が頷かないのは解っていた。
そこで候補に挙がったのが、領主館の裏にあるコゼット様の野菜畑だ。兵舎を建てるのに手頃な広さであり、コゼット様も少し躊躇いをみせながらも他に場所が無いなら仕方がないよねと頷いてくれた。
だが、内心は不満だったらしい。それならそうと言って欲しかった。
最初からそう言ってさえくれたら、少なくとも今とは違った結果になっていた筈だ。
まずは無理難題をふっかけて、次に本命である難題を、最初に持ちかけたら絶対に断られる難題をあたかも譲歩したかの様に持ちかける。
こんな姑息な交渉術を誰がコゼット様に入れ知恵したのか。それとも、魔窟とも呼ばれる宮廷で貴婦人達と交流をしている内、身に付けてしまったのか。
いずれにせよ、コゼット様に押し切られて、領主館が兵舎も兼ねる事が決定した。
俺は行方不明になった乳兄弟のフィートを捜して、各国を約十年に渡って歩き、その情報を収集する為に数多の領主館を訪れた経験を持つが、領主館が兵舎を兼ねていた例は一度たりとも見た事が無い。
当然だ。領主館とはその土地を収める者の権威の象徴。
領主の人となりによって、敬い、または畏れを感じさせて、その敷地に歩を踏み入れるのを強く躊躇わせる。
しかし、ハネポート男爵領の領主館はいつでも、誰でもウェルカム。
兵舎を兼ね備えた為、安全性はこれ以上無いが、ヒトの出入りが多くなったせいで権威を感じさせない。運が良ければ、領主館前の庭掃除をしているコゼット様と言葉を気軽に交わせさえする。
もう一度、言おう。こんな領主館は他に見た事がない。
もっとも、俺一人だけが感じている不満に目を瞑りさえしたら、領主館の兵舎化はとても好評である。
兵士達の朝はコゼット様が廊下をベルを鳴らして歩く『おはよう』の挨拶から始まる。
一人、一人の名前を憶えてくれ、三食の食事はコゼット様のお手製であり、それを同じ大食堂で一緒に摂り、風病を患おうものなら豪華な客室で看病までしてくれる。
これで結束力と忠誠心が高まらない筈が無い。
実際、領主館が兵舎化した後、西のジョシア公国との国境で起きた小競り合いに援軍として二度赴いているが、その戦いぶりは身内の贔屓目を抜いても目覚ましいモノが有ったし、その戦いに参陣した面々から『将来、ヤード様が率いる兵士として申し分ない精鋭ぶり』という称賛を幾つも貰っている。
ともかく、そう言った事情があって、この領主館は兵舎も兼ねている。
兵士達の憩いの場と化した玄関である二階吹き抜けのエントランスホールを堺にして、西館は一階も、二階も兵舎。東館は一階が大食堂と大会議室、数少ない使用人の部屋、二階がコゼット様とヤード様のプライベートエリアになっている。
無論、コゼット様とヤード様のプライベートエリアは立入厳禁。
エントランスホールの階段と繋がる廊下は改築を施して新たに壁と鍵付きのドアを設けて、そこから先が実質的な領主館。執事長の取り次ぎが無ければ、そこから先は進めない規則になっている。
しかし、俺はその取り次ぎを必要としないばかりか、夜間は必ず施錠されるドアの鍵を持つ。
これは俺が作った特権では無い。コゼット様がそんな他人行儀は止めてくれと頂いた信頼の証である。
特権は規則を腐敗させる呼び水だと知ってはいるが、嬉しくないと言ったら嘘になる。
先ほどまでの焦りは何処へやら。コゼット様とヤード様のプライベートエリアと繋がるドアノブに手を伸ばす度に感じてしまう嬉しさに頬を緩めて、ドアを開けたその時だった。
「今日のおやつ、バナーナに突撃ぃ~~っ!」
「こら、待ちなさい! パンツくらい履きなさい!」
「おっ!? おじさん、グットタイミング!」
「えっ!? パリス様っ!?」
長い廊下の突き当り。最も奥の部屋のドアが勢い良く開き、その中から現れた真っ裸のヤード様がこちらへと全速力で駆けてきた。
このままでは衝突が不可避な為、慌てて場を譲り、目の前を通り過ぎてゆくヤード様の姿を思わず見送ると、濡れた髪から滴り落ちた水が赤い絨毯に跡を残している。
今、ヤード様が駆け出てきたのは浴室とトイレがある部屋。
まだ夕方前で入浴するには早すぎる時間だが、午後からヤード様はコゼット様の手伝いで領主館裏庭の畑仕事を行っていた。
その汗と泥を流す為、入浴したに違いないとそこまで考えが至った瞬間、脳天から背筋を通って足の裏までビリリッとした痺れが突き抜けた。
ヤード様に何事も一人でやらせるのがコゼット様の教育方針だが、入浴だけは別である。
何故かと言ったら、ヤード様本人はそうと認めないが、どうやら洗髪剤が目に入った時の痛みが怖いらしい。一人で入浴すると絶対に髪を洗おうとせず、湯を頭から被るだけで済ましてしまうからだ。
だから、誰かが一緒に入浴して、洗髪を介助する必要がある。
幸いにして、ここでは誰かしらの手が余っている。この領主館に住んでいる者ならヤード様の頭を洗った経験を一度は持つが、これは領主館の外に新設した共同風呂での話だ。
そして、コゼット様は畑仕事の後に必ず入浴する習慣を持つ。
これ等の条件から導き出される答えはたった一つ。顔を正面に戻してはならないと解っていながらも悲しい男のサガに逆らえず、顔を正面に戻した次の瞬間。
「ちょっ!? ……キャっ!?」
予想通り、コゼット様が短い悲鳴をあげながら浴室から現れた。
勿論、全裸でだ。湯気を身に纏いながら湯を滴らせており、それが毛並みの長い絨毯を濡らせて、立ち止まろうにも滑って立ち止まれない原因になったのだろう。
廊下の壁にぶつかるまいと開いた左掌を前方に突き出して、左足は前に、右足は後ろに大きく開きながらも驚愕に染まった顔と共に身体はこちら側へ向け、女性として隠すべき場所を全て曝け出した体勢で固まった。
まるで時が止まったかの様な感覚の中、視線だけが勝手にゆっくりと上から下へ、下から上へと動く。
初めて出会った時から数えて、約十年。胸の方は当時のままの姿を残しながらも、女性としての色香が漂う華を見事に咲かせた白い肢体に見惚れ、静寂が満ちる廊下に生唾をゴクリと飲み込む音がやけに大きく響き渡る。
その瞬間、我を取り戻すと共に自分の失敗を悟った。
女性が他人に肌を見られて、どんな反応を示すかなど語るまでもない。
時が動き次第、コゼット様の悲鳴を聞き付けて、たちまち兵士達がここへ集まってくるだろう。
そうなったら、俺が今日まで積み上げてきた兵士達に対する威厳は勿論の事、コゼット様に頂いていた信頼も少なからず失われるに違いない。
「や、やだっ、もうっ……。わ、私ったら……。
ご、ごめんなさい。み、見苦しいものを見せちゃって……。
だ、だから、ええっと……。と、取りあえず、後ろのドアを閉めてくれませんか?」
ところが、コゼット様は悲鳴をあげなかった。
悲鳴をあげるどころか、身を浴室に素早く隠すと、真っ赤に染めた顔だけを出して逆に謝罪した。
******
「ふっ! はっ! ほっ!」
辺りには食欲を誘う匂いが漂い、もう間もなくの夕飯を知らせていた。
しかし、今は食欲よりも身体をとにかく動かしたい衝動に駆られて、俺は領主館の裏で槍をひたすらに振っていた。
先ほどの一件の後、コゼット様と言葉を二言、三言ほど交わした記憶はあるが、それがどんな内容だったかは憶えていない。
だが、コゼット様が悲鳴をあげなかったおかげで俺の名誉は保たれ、会話の感触からコゼット様との信頼関係も崩れてはいないのは確かだ。
自分の情けなさに涙が出そうになる。
詰まるところ、これは己の失敗をコゼット様に庇って貰ったという事実に他ならない。コゼット様を守るのは誰よりも己だと第一人者を誇っていた自分がである。
「ふっ! はっ! ほっ!」
そして、もう一つ。懺悔しなければならない告白が有る。
コゼット様は仕える主人であり、ニート様の奥方でありながら、その白い肢体を見た時から身体の火照りがどうにも止まらないのだ。
その邪念を振り払う様に槍の一振り、一振りに気合を込めているが、振っても振っても逆にもどかしさが増してゆくばかり。
俺の身体はどうなってしまったのか。これではまるで女性を初めて知り、ソレだけしか考えられなくなった小僧と同じではないか。
こんな調子ではとても今夜は眠れそうに無い。
娼館へ赴き、このもどかしさを発散させてくる必要が有る。
今まで利用した事は無いが、この街の発展と共に営業を始めた娼館はどれもなかなかの高評価らしい。
給金日が近づくと、兵士達がどこそこの嬢が最高だとコゼット様が居ないところで言い合っているのを何度も見た事が有る。
しかし、自惚れている訳ではないが、この街での俺の知名度は高い。
娼館を利用したら、それがコゼット様の耳に届く可能性が有り、それだけは避けたい気持ちが強い。
だが、明日の朝には出兵が待っている。どうしても今夜はぐっすりと寝る必要がある。
眠気を帯びていては行軍が辛くなるというのも快眠を求める理由の一つだが、それ以上に昨夜は出兵前の緊張で眠れなかったと皆に勘違いされては堪らない。この歳になって、それは恥ずかしすぎる。
こうなったら、まだ戦場を知らない新兵達を激励する。その口実で夜の街へ繰り出すのはどうだろうか。
俺は新兵達を店の前まで連れて行き、そこで帰ろうとするも店長にどうしてもと強く勧められて断りきれずに入店したという設定にしよう。これならコゼット様も仕方ないと解ってくれるに違いない。
但し、これは諸刃の剣だ。
今夜の快眠を得られる一方、新たな問題として、新兵達ばかりズルいと古株の連中から不満が出るだろう点とこの新兵の激励が来年度以降の出兵の度に恒例化しそうな点が挙げられる。
「はぁぁぁぁぁ~~~~~~……。」
当然、その費用は俺の財布からだ。
思わず溜息を深々と漏らして、槍を振るう手を止める。
これは出兵前の新兵に対する激励儀式。経費で落としても問題は無い。
悪魔がそう耳元で囁くが、頭を左右に勢い良く振って消し飛ばす。こんな事に税金を使って良い筈が無い。
それにこれはコゼット様に良からぬ感情を抱いてしまった俺の罰であり、俺自身が償わなくては意味が無い罪でもある。
そう、貯金をちょっとだけ崩したら良いだけの話。
五年前、公都のある武器商店で見つけた掘り出し物の槍のマジックアイテムを買う為にコツコツと蓄えていた貯金を。
「はぁぁぁぁぁ~~~~~~……。」
気づいたら、再び溜息が深々と漏れていた。
もどかしさは未だ晴れていないが、鍛錬を続ける気力が薄れ、先ほどから乾きを覚えている喉を潤そうと水場へ歩を向ける。
この際だから打ち明けると悩みはまだ有る。
何がどうなったらそうなるのかと深く問い詰めたいニート様の事だ。
ここ数年の調査の結果、インランド王国オータク侯爵家の執政『ニート・デ・ドゥーティ・コミュショー・ナ・オータク』がニート様本人なのは確定的である。
俺自身が直に見た瞳の色や髪の色、父親に良く似た面影に加え、バカルディの街に冒険者として潜伏させた調査員達からあがってきている情報もコゼット様から聞いた人となりと一致している。
しかし、マスカット大公領の宿敵である紅蓮の槍に気に入られた上、その孫娘と結婚しているなんて、まさかまさかの真実と言うしかない。
出生が剣聖と名高い『ハイレディン・デ・ミディルリ・レスボス』の庶子となっているが、これはニート様をオータク侯爵家の執政にする為に仕組んだ偽装に違いない。
誰が考えたのかは知らないが、件の剣聖が若い頃から女狂いなのとその実子認知を目的として始まった『試し』は我が国にも届いている有名な話。この二つを上手く利用した見事な偽装だ。
無論、ニート様が既に紅蓮の槍の孫娘と結婚している事実はコゼット様に伝えてはいない。伝えられる筈が無い。
今も尚、ニート様を想い続けているコゼット様の事を考えたら、ニート様に何故だと強く問い詰め、無礼を承知で殴りたい気分になってくる。
だが、ニート様とコゼット様が別れ離れになって、もう十年以上が経つ。
年齢を重ねてくると一日、一日が早く過ぎ去り、十年など過ぎてみたらあっという間でつい最近の様に感じるが、十年一昔とも呼ばれる長い時間でもある。
ましてや、ニート様は身分を一旦は奴隷に落とされた身。
そこから貴族になるどころか、インランド王国オータク侯爵家の執政にまで至ったのだから、さぞや波乱の十年だったのだろう。
まずは秘密裏に会って、その辺りを話してみたい気持ちが強いが、そこまでの段階に残念ながら至っていない。
調査員達をバカルディの街に冒険者として潜伏させた時点で既にニート様はミルトン王国へ出兵しており、接触はニート様が戦地から帰ってからになる。
ちなみに、今回の参戦命令について。
俺はインランド王国と戦う事に躊躇いを感じてはいないが、目の前の相手がニート様となったら無理だ。
攻撃を仕掛けられて応戦するとしても防衛に徹する。若き日の苦楽を共にした乳兄弟の息子であり、コゼット様の想い人に槍をどうして向けられようか。
それを考えたら、ニート様が南方領を留守にしているのは僥倖と言えるが、いずれは解決しなければならない問題。
今や、ニート様も、コゼット様も下りられない立場を持ち、その深く絡み合った互いの事情を解くのは不可能に思えても決して諦める訳にはいかない。
南方領の次代を担うニート様とマスカット大公領の次代を担うヤード様。
せめて、この二人の親子が憎しみ合い、槍を突き合わせる様な悲しい未来だけは絶対に避けなければならない。
それが無責任に早々と逝ってしまった乳兄弟であるフィートからの願いであり、天が俺に与えた使命だと今は考えている。
「ふぅ……。美味い!」
柄杓に汲んだ水を一気に飲み干して、濡れた口元を左腕で拭う。
鍛錬後の水はどんな酒よりも美味いが、ここの水は格別に美味い。
なにせ、その水源は北東の山の中腹の沢。
節をくり抜いた竹を地中に深く埋めて、それを水路に遠路遥々運んできているから夏でも驚くほど冷たい。水量も豊かであり、井戸と違って汲み上げる手間を必要としないのも良い。
これもコゼット様の前任である代官が貪った贅沢の一つだが、これだけは特別に許せる。
ただ、その冷たさと美味さのあまり自制しないと、トイレがとても近くなるのが玉に瑕。もう一杯くらいは大丈夫だろうと柄杓を注ぎ口に向ける。
「パリス・ラゥ・ナハト・アレキ殿とお見受けします」
「何者だ?」
しかし、水場のすぐ右手側に設けられた倒木のベンチの背後。藪の中から呼びかけられて、動きをピタリと止めた。
もし、それが刺客なら呼びかける以前に斬りかかってくるだろうから、その心配は要らないだろうが、俺以外に誰も周囲に居らず、俺が倒木のベンチに槍を手放したタイミングを明らかに狙い、ここまで接近されておきながら呼びかけられるまで全く気づかなかった手練れさに警戒心を強める。
「気持ちをお平らに……。某はネーハイム・グラーシ・ブレームの臣に御座います」
「なっ!?」
だが、藪の中から飛び出した名前に警戒心など跡形もなく吹き飛ぶほどに驚愕する。
その名前を知っていた。ニート様が最も頼りにする腹心中の腹心であり、いきなりニート様と接触するのは難しい為、まず接触するならと最有力候補に考えていた人物だ。
「我が主より手紙を預かって参りました。どうか、お受け取り下さい」
まさか、それが向こう側から接触を図ってきたのだから、これを驚かずして何に驚けと言う話。
今さっき潤したばかりの喉が急速に乾いてゆくのを感じながら何食わぬ顔で倒木のベンチに座り、それが吉報である事を願いつつ背後に右手を差し出した。