第04話 チェックメイト 後編
「まあ、良いでしょう。今言った通り、大勢は決してます。
私一人の胸の内にしまっておく予定でしたが、明かしたところで問題は有りません。
しかし、あまり褒められた手段では有りませんし、失敗した場合は手痛すぎるしっぺ返しを喰らいます。
ですから、真似をするなとまでは言いませんが、そんな方法も有るんだという程度くらいで聞き流してくれたら幸いです」
「うんうん」
俺がミルトン王国へ仕掛けていた秘策。
笑顔を嬉しそうにニコニコと零しているジュリアスには悪いが、ただで教えるつもりは無い。
どうせなら何事も勉強だ。ジュリアスへ右拳を突き出した後、人差し指を『第一ヒント』と告げながら立てる。
「城を攻めるは下策、心を攻めるが上策。
兵法書を読んだ者なら一度は見た事がある筈の言葉ですが……。
はい、殿下。この言葉が意味するところは何なのか? お答えを頂きたい」
「意味も何も……。言葉通り、籠城戦における攻め側の心得だろ?」
ジュリアスは目をパチパチと瞬き。
一呼吸の間を空けて、不思議そうなキョトンとした表情のままに何を愚問なと言わんばかりに応えるが、残念ながら不正解。してやったりとブーイングを吹き鳴らす。
「ぶっぶーーーっ! 違いまぁ~す。それは表面的な理解にしか過ぎません。
この言葉は先ほども言いましたが、『戦争とは剣を交えるだけが手段では無い。剣を交えずとも戦う術は幾らでも有る』と説いているのです。
これを踏まえて考えて下さい。城はミルトン王国、心はミルトン王国民と掛けて、ここに『腹が減っては戦が出来ない』と掛けます。その心は?」
他の者達もジュリアスと同じ答えを頭に思い浮かべていたのだろう。
皆が顔を不服そうに見合わせている中、突き出した右拳と立てた人差し指はそのままに中指も立てて問う。
「ま、まさかっ!?」
暫くの沈黙の後、それを打ち破ったのは元領主様だった。
椅子を蹴って立ち上がるどころか、目をこれでもかと見開いた驚愕の表情を張り付かせて、一歩踏み出した上に身まで身を乗り出して。
「おや、さすがですね。ティミング卿はもう答えに辿り着きましたか」
「い、いつっ!? い、いつからですっ!?」
「出兵の要請を殿下から受けた直後。四年前からですね」
「そ、そんな前から……。」
もし、最初に答えが解るとしたら、元領主様を置いて他に居ない。
そう考えていただけに心構えも持てたが、他の者達は違う。元領主様のがっついた必死過ぎる様子に面食らい、今さっきと違った意味で顔を見合わせている。
半世紀以上に渡って続いたインランド王国とミルトン王国の戦い。
今、その戦いが大詰めを迎えているが、分水嶺となったのは明らかにオーガスタ要塞の陥落だ。
その時点でミルトン王国の敗北は決定付けられ、それ以降の戦いはミルトン王国の滅亡を加速化させるか、失速化させるかの消化試合でしかない。
だが、それに抗った者が元領主様だ。
それも勝つ為では無い。受け入れ難い将来の敗北を認めて、いかに上手く負けるかの為に。
戦線を膠着化させて、時を一日でも多く稼ぎ、これ以上の戦いは無益だとインランド王国に悟らせる。少しでも有利な条件で停戦と講和を結び、ミルトン王国の明日を繋げる為に。
国力が著しく低下するばかりか、国民の反感を少なからず買うのを承知して、国家総動員令を二度も発令させた上に国土を放棄する焦土作戦という荒業まで使って。
ところが、ところがである。
その苦悩の上に苦渋を積み重ねた悲壮な決断が実は根底から裏目っていたと知ったらどうなるか。
「不意に挑まれた戦いならまだしも、こちらから挑んだ戦いです。
なら、勝てる土壌を作って挑むのは当たり前。それが作れないなら最初から挑むべきでない。違いますか?」
「……ち、違わない」
「まあ、大きな出費でしたが、それを上回る利益も、効果も十分に得られました」
「くっ……。か、勝てない筈だ」
元領主様はその場に力無く膝を落とすと、両手を突きながらガックリと項垂れた。
誰がどう見ても一目で酷く落ち込んでいると解るその姿に胸がチクチクと傷んで仕方が無い。
こうなると解っていたから、元領主様が居る場で今話題になっている件は口にしたく無かった。
これが憎々しい相手なら『ざまあみろ』と嘲笑えるが、俺は元領主様に好感を持っているし、尊敬心も抱いているだけに辛い。
だからと言って、慰めの言葉はかけられない。勝者から敗者への慰めほど虚しくも切ないものは無い。
これ以上、話を聞かせるのは酷な事もあって、視線をネーハイムさんとタムズさんの二人へ送り、元領主様を執務室から退出させる様に促す。
「えっ!? えっ!? えっ!?」
他の者達はますます面食らい、場がざわざわとざわめく。
置いてけぼりを喰らっているジュリアスに至っては顔を俺と両脇を抱えられながら半ば引き摺られる様に執務室を出て行く元領主様へ交互に向けて戸惑いまくり。
元領主様をフォローするのは明日だ。今夜はきっと一人で飲みたい筈に違いない。
その代わり、明日は綺麗なお姉さん達がたくさん居る場所へマイルズと一緒に連れて行くとしよう。
一晩、ハッスルしたら嫌な事なんて、きっと吹き飛ぶに決っている。そうと決まれば、今は気持ちを切り替えて話を先に進めよう。
「さて、殿下。戦争がいかに金食い虫か、それをご存知ですよね?」
だが、その前に場の空気をリセットしなければならない。
柏手を三度鳴らして、開きっぱなしになっている出入口の扉へ向けられていた皆の視線が俺へと一斉に集まるのを待ってから、ジュリアスへ改めて問いかける。
「まあね。君やジェックス、叔父さんから毎日の様に愚痴を聞かされていたら嫌でも詳しくなるよ」
「それもこれも予算をくれない宮廷の財務官達がいけないのですが、彼等の気持ちも解らないでもない。
なにしろ、国庫の金は有限。削るところは削るしか無い。
ところが、戦争は彼等の努力を嘲笑うかの様にとんでもない金額が次から次へ消費されてゆく。やりくりしても、やりくりしても足りない」
俺としては頷いてくれるだけで十分だったが、日頃の仕返しなのか。ジュリアスは拗ねた様に唇を尖らすと、わざわざ余計な一言を加えてきた。
たまらず苦笑が零れる。同じく槍玉に挙げられたジェックスさんとゼベクさんの二人へ視線を向けてみれば、声を殺しながらも肩を震わせて笑っている。
それに釣られて、苦笑を浮かべる者が一人、二人と続いて現れ、ジュリアスは得意顔でどうだと言わんばかり。
しかし、その余裕がいつまで保つか。言葉を一旦切り、胸の前で右手の人差し指と親指の二本で輪を作って見せた後、頬をニヤリと釣り上げながら次の言葉を放つ。
「だから、私はミルトン王国へ軍資金を用立ててあげました」
「へっ!?」
ジュリアスの得意顔は一瞬で崩れた。
目を見開いた上に口を半開きにした間抜け面となり、揃いも揃って他の面々も間抜け顔。困惑と戸惑いが執務室に充満する。
「勿論、タダでは有りません。代価はちゃんと頂いています。麦という代価を……。
最初は小さく細々と村や街の村長や名主、住人達から、次は少し大胆に各領主達から、最後は本格的にミルトン王国そのものから。
ある商人を介して、大小様々な商人を使い、少しだけ色を値段に付けて、麦を買えるだけ買い占めました。
報告によると、六年前、七年前と二年続いて、ミルトン王国は豊作に恵まれた様です。
恐らく、これが国家総動員令を強気に二度も発令した大きな要因となったのは間違いないでしょう。
でも、それが油断となり、私にとっては幸いとなりました。
麦の取引はあらゆる物価の基礎となる国家の生命線。通常、買い占めが発覚したら領主、或いは国が待ったをかけます。
しかし、私が仲介を頼んだ商人が優秀だったと言うのも有りますが、麦が市場にだぶついており、殆ど警戒されなかったそうです。
村長や名主、住人達は国家総動員令から逃れる纏まった資金を得る為に、領主達は我々と戦う為の軍資金を得る為に……。
そして、本当は買い占めを阻止しなければならないミルトン王国宮廷の財務官達は儲け話を俺にも一枚噛ませろと私腹を得る為に快く売ってくれたそうです」
どんな清流にも淀みは存在する。
ヒトの手で作った真っ直ぐな用水路ですらそうだ。いつしか、汚泥が底に溜まってゆく。
ミルトン王国の場合、源泉すら淀んでいるから手の施しようがない。
言葉の中に登場した仲介を頼んだ商人『ルビンさん』からの手紙によると、ミルトン王国宮廷はドロドロのヌプヌプなヘドロ状態。
ルビンさんが接触を試みるまでもなく、向こう側から接触してくると、国庫に蓄えた麦の横流しの提案と賄賂の要求をしてきたと言うのだから呆れる他は無い。
ちなみに、このヘドロ臭が漂う腐り具合のおかげで最大の障害だったブラックバーン公爵の失脚に見事成功している。
今、ブラックバーン公爵は自宅謹慎ならぬ、自領謹慎を命じられて、王城どころか、王都へ入場する事すら禁止されているらしい。
最早、ブラックバーン公爵が戦場に再び現る事は無いだろう。
我々の兵力が西部地方へ侵入して、王都の近くまで迫るか、現在の政権が何らかの理由で交代しない限り。
ちなみに、ブラックバーン公爵の失脚はルビンさんの完全なアシストである。
そうなったら良いなと考えてはいたが、国家存亡の只中でありながら国家の重鎮を失脚させるほどミルトン王国宮廷が腐りきっているとは予想外だった。
戦う上で最も厄介な相手として、ブラックバーン公爵の名を俺が雑談の中で挙げていたのをルビンさんは憶えていてくれ、麦の買い占めとは別に独自で動いてくれたのだとか。
間違いなく、勲功第一の働きである。
だが、ルビンさんはジョシア公国の商人である為、その名は残念ながら明かせない。
もっとも、ルビンさんとしても名を明かされたら商人として困るだろう。
それに今回の一件で見合って余り有るほどの莫大な富を得ている筈であり、その証拠に遠路遥々届く報告書の末尾にはいつも感謝の言葉が綴られている。
「まあ、その……。呆れたものです。
だが、彼等を責めないで頂きたい。
当時は二年続いた豊作によって、麦袋が兵糧庫の天井まで積み重なり、外に溢れた麦袋が雨に濡れても放置されていたくらいだったとか。
だったら、自分一人くらいはと考える者が現れたっておかしくはありません。
ただ、その一人が現れた途端、次が続々と現れた上に兵糧庫を空にする勢いで競い合う様に売ってくれたのはさすがに予想外でしたが……。
それに彼等が軍資金を必要としていたのも事実です。
戦争は負ければ、兵力も、領土も失いますが、剣や槍、軍馬といった戦備品も失われる。
オーガスタ要塞が陥落して以来、負け続けのミルトン王国は補充しなければならない戦備品の購入費用捻出にさぞや苦悩の毎日だった筈です。
だから、それを解決してくれる救世主が目の前に現れた時、つい飛びついてしまった訳ですが……。彼等は想像力が決定的なほどに欠けていた。
そう、彼等は今日と変わらぬ明日が永遠に続くものと信じて疑わなかった。例え、兵糧庫が底をついたとしても、それは一時的なもの。来年の秋になったら麦袋が天井まで積み上がってゆくと考えていた」
ここで前置きが完了。ようやくジュリアスの質問に対する答えへ繋げられる。
長々と喋って疲れたのもあり、ここで言葉を一旦切って、聴衆を改めて見渡すと、困惑と戸惑いは薄れていた。
どうやら、ジュリアスは正解に辿り着けた様だ。口を半開きにしているのは先ほどと変わらないが、見開ききった目が『まさか?』と俺へ問いていた。
ジュリアス以外で正解に辿り着けたのはマイルズと第十五騎士団の団長の二人のみ。
やはり、第十五騎士団の団長は凡愚とは違う。さり気なく注目していたが、態度では興味の無いフリを見せながら耳は真剣に傾け、ジュリアスとマイルズよりも正解にずっと早く辿り着いた様子が見られた。
この春、発生しただろう王都での政変。
もし、その予想が正しく、彼が本性を表して敵対する事になったら実に面倒な事になりそうだ。どうにか出来ないだろうかと考えながらも話を再開させる。
「そして、二年前。彼等にとって、信じ難い事態が起こる。
皆さんもご承知の通り、最前線が一気に後退。トリス砦に至るまでの領土を我々に奪われたのです。
これにより収穫を当て込んでいた中部地方の麦は手に入らなくなり、買い占めで上がり続けていた麦の値段は一気に跳ね上がった。
現地との時間差がある為、そこから先の報告はまだ届いておらず、ここから先は私の想像になりますが……。
さぞや、彼等は慌てた筈です。他国へ援助を求めたとしても落ち目の国を援助する国など居る筈が無いし、ミルトン王国の影響を少しでも抑えようと自国の麦を外へ流出させる筈も無い。
当然、売りから一転して、今度は買いに走ったでしょうが、麦の値段は上がっている。
麦を売った金額で麦を買い戻そうとしても、売った時と同等量の麦は得られず、その買った麦は万を超す兵力を支える兵糧として消費される為、麦の高騰はやはり止まらない。
皆さん、ご存知ですか? 二週間くらい前、大樹海を命からがらに越えてきたミルトン王国からの亡命者の話によると、このネプルーズの街と比較して、ミルトン王国王都では黒パンが六倍の値を付けているのを」
「ろ、六倍っ!?」
俺と同じ情報を共有しているマイルズ以外が一斉に驚愕を露わにして、思わずと言った様子で唾を飛ばして叫ぶ。
当然の反応だ。このネプルーズの街で売られている黒パンの値段だって、インランド王国王都と比べたら割高なのだから。
その原因は人口の急増に伴うものだが、根本的な原因はインランド王国とミルトン王国が本格的な戦争を始め、兵士達の腹を満たす為の兵糧が国中から掻き集められて、一般市場に出回る麦が減ったからである。
オーガスタ要塞が陥落する以前と今現在を比べると、インランド王国王都での麦の値段は二倍弱。
即ち、その六倍としても約十年前の十二倍の値段である。もう庶民がパンを口にするのは絶望的と言うしかない。
前の世界に『衣食足りて礼節を知る』という言葉が有った。
今、ミルトン王国がどんな状況なのか、想像は難くない。例えるなら、この世の地獄と言ったところか。
実際、ミルトン王国からの亡命者の事情聴取に今まで何度か立ち会っているが、痩せ細っていない者など一人も居なかった。
まずは腹を満たしてやろうと差し出した舌が火傷しそうな熱々のスープを一気飲みで完食する姿を見た時は我が目を疑った上に言葉を暫く失ったほどだ。
現在のところ、月に二十人前後。大樹海を抜けて、我が国に亡命を訴えてくる元ミルトン王国民の数である。
去年の春から現れ始め、その数は少しづつ増加傾向に有る。直線距離なら俺とおっさんが歩いた距離よりも圧倒的に短いとは言え、危険な大樹海を抜けてくるのだから天運に恵まれずに途中で果ててしまった者達を考えたら、実際はその人数の十倍、二十倍はいる筈だ。
いや、大樹海へ辿り着く前にミルトン王国の取り締まりに捕まった者達の事も居るに違いない。実数はどれほどなのか、想像も付かない。
それに亡命先は我が国だけとは限らない。ミルトン王国周辺各国へ流民が大量に発生しているだろう事を考えたら、これだけでもミルトン王国は滅亡は待った無しである。
「つまり、規模を国単位に大きく拡げた兵糧攻め。それが策の正体です。
この策の大きなポイントは飢えの苦しみが憎しみへと転化して、それが無能なミルトン王国の支配階級へ向けられる点に有ります。
これが先ほど言った余命の正体です。古来より民衆を飢えさせて滅ばなかった国は有りませんからね。
なにせ、黒パンが六倍の値段です。物価はまだまだ上がり続けるでしょうから、新たな英雄がミルトン王国に出現するのは案外と早いかも知れませんね」
そして、いよいよ答えを明確に告げると、場がシーンと静まり返った。
第十四騎士団の副団長の様子をこっそりと窺ってみれば、目をこれでもかと見開いて青ざめ、膝を微かにブルブルと震えさせている。
そう、その顔が見たかった。
俺自身が持つ力では無いが、俺の背景に有る力を実感して、もう反対意見を声高に叫ぶ事など出来なくなるだろう。
なにしろ、一城どころか、一都市でもない。一国を丸ごと相手にした兵糧攻めである。
これほどスケールが巨大な兵糧攻めを実現可能としたのは南方領統括の立場を持ち、それに付随する多くの特権が許されているオータク侯爵家の絶大な力があってこそ。一貴族、一領主に真似はとても出来ない。
余談だが、敢えて口にしてはいないが、オータク侯爵家と南方領はこの策で利益もちゃんと得ている。
戦争は儲かると前の世界の知識で知ってはいても、これほど儲かるのかと驚いてしまうほどに。当初、対アレキサンドリア大王国戦の貯蓄に手を付けてしまう事にかなりの難色を示していたサビーネさんでさえも今はホクホク顔である。
今、言葉の中にあった新たな英雄を支援する形でミルトンの内戦に介入して、もう一儲け。
それも面白そうだが、さすがに俺もいい加減にティラミスとアリサが産んでくれた子供の顔が見たい。そろそろ物心が付いた頃だろうし、早く会っておかないと俺を父親だと認識して貰えなさそうで怖い。
「ふむ、良いかな?」
「どうぞ」
暫くして、バーランド卿が溜息を深々と漏らす。
口をむっつりと固く結びながら腕を組み、ちょっと不機嫌そうな感が見て取れる。
もしや、今話してきた策を今まで秘密にしていたのが引っかかっているのだろうか。
だが、この兵糧攻めはミルトン王国戦線へ出兵する以前に俺が勝手にやった事であり、正否に関わらず、オータク侯爵家の問題だ。軍功として報告に挙げるつもりは最初から無い。
それに『敵を欺くなら味方から』の言葉が有る通り、策とは知っている者が少ないほど良い。
この策は特にそうだ。一端を担った者は数多いだろうが、その全貌を知る者は俺を除いても片手だけの人数しかいない。
「儂も領主の一人だ。麦の値は気にかけていたが……。
ここ、十年間ずっと上がり続けていた麦の値が一昨年の秋辺りから緩やかに下降が始まったが、実はこれもか?
もし、そうなら感謝せねばならん。儂もそうだが、北方領の領主達はコミュショー卿のおかげで随分と助けられた様だからな」
しかし、それは少し勘違いだった様だ。
言葉で表現するなら『水臭い。そう言ってくれていれば、余計な気を揉まずに済んだのに』と言ったところか。憤りはあっても害意は非ず、その先に感謝が含まれていた。
強大なアレキサンドリア大王国の侵攻に即応する為、多くの特権が許されている南方領。
ミルトン王国戦線への街道上に在り、春は行く兵士達で、秋は帰る兵士達で年に二度の特需が期待できる西方領。
ところが、北方領は特権も無ければ、特需も無い。
インランド王国とミルトン王国の戦いが本格化する以前と比べて、収穫した麦を、働き手の若い男達を国に多く取られて割だけを喰っている。
しかも、その苦しい台所事情の中からジュリアスの要請に応えて、このミルトン王国戦線に各領主自ら兵を率いて出兵してさえもいる。
それに忘れてならないのがロンブーツ教国の存在。ここ、数年は激戦だったという話は聞こえてこないが、トーリノ関門が窮地に陥り、援軍要請が有ったら駆け付けなければならないのが北方領領主の義務だ。
それぞれの経営状況を聞かぬが花と今まで尋ねた事は無い。
だが、バーランド卿を初めとする北方領の領主達が集まり、頭をあれこれと悩ませていたのは知っている。特に物価の根底を成す麦の相場にはさぞや神経を尖らせていたに違いない。
「ああ、それは私ではありません。礼を言うなら、先代と妻にお願いします」
「バルバロス殿と奥方に?」
バーランド卿が腰を椅子から浮かす。
頭を下げようとしているのを感じて、慌てて右掌を突き出して止める。
正直に明かすと、俺は麦の相場に関しては南方領だけが、より正確に言うならコミュショー男爵家とオータク侯爵家だけが無事なら十分だと考えていた。
その為、麦の相場の安定にバカルディの街とコミュショー男爵領の間にある街道上の村や街にしか麦の供給を命じていない。王都は第一王女派と第二王子派の力を削ぐ意味で完全に放置した。
しかし、おっさんとティラミスは民衆が苦しんでいるのを由としなかった。
それも利益はもう十分に得られたからと言って、王都の麦の相場が下がるまで利益を度外視に麦を供給している。
近い将来の事を考えたら甘いと思ったが、おっさんとティラミスが気に病んでいては仕方が無い。株式会社の社長は株主に従う義務が有るのだから。
「私は有り余る麦で酒を造り、新しい産業を起こしてはどうかと提案したのですが……。
あの二人は優しいですからね。伸ばせる手を伸ばさずにはいられず、麦を王都の商人達へ安価で卸したと聞いています。
うん? ……って事はですよ? ひょっとしたら、我々が口にしているパンの麦はミルトン王国産かも知れませんね?
ミルトン、ジョシア、アレキサンドリアをグルリと経由して、飢えに苦しんでいるミルトン王国を前にミルトン王国産の麦を喰らう。
もし、これが正しいとするなら、こいつは傑作だ! くっくっくっ……。あっはっはっ! あぁ~~はっはっはっはっはっはっはっはっ!」
ふと重要な事にここで初めて気付く。
人口の多い王都での相場が持続的に下がるほど供給量である。今、インランド王国で流通している麦の最低半分はミルトン王国産と考えて良いだろう。
だったら、王都から補給部隊によって届けられ、俺達が口にしているパンの麦もミルトン王国産と考えて間違いない。
何と言う皮肉で滑稽な話だろうか。あまりの可笑しさに堪えるも堪えきれず、目線を右手で覆いながら天井に向かって馬鹿笑いをあげる。
「……って、あれ? おかしくありません?」
「あっ、うん……。ごめん、笑えない。ちっとも笑えないよ」
ところが、執務室に響き渡ったのは俺一人の笑い声のみ。
どうしたのだろうと笑い止み、正面を改めて見ると、誰もが顔を引きつらせていた。
戸惑いに問いかけてみれば、ジュリアスは立てた右手を左右に振り、皆は一斉にウンウンと頷く有り様。思わず何故だと首を傾げたその時だった。
「あ、あのぉ~~……。ひぃっ!?」
開け放たれたままの出入口の扉からノックされる音が響いた。
釣られて視線を向けると、横に傾けたエステルの顔が半分だけ覗いている。
今では男性恐怖症をかなり克服したエステルだが、狭い執務室にこうも大人数の男が居ては入ってこられなかったのだろう。
挙げ句の果て、大人数の男から注目を一斉に浴びて、エステルは小さく悲鳴をあげながら覗かせていた顔を慌てて引っ込める。
思わず苦笑が漏れる。
エステルには申し訳ないが、その様子に愛らしさを感じてしまった。
「エステル、大丈夫か?」
皆へ中座を宣言して、エステルの元へ出向くと、よっぽど怖かったに違いない。
エステルは重ねた両手を胸の間に当てながら肩を短く早く上下させており、その愛らしさにますます苦笑が漏れる。
「お耳を……。」
「んっ!?」
だが、呼吸をすぐに整えて、その雰囲気を一変。
エステルは出来るメイドさんモードにチェンジして、真剣な眼差しを向けると共に爪先立ちすると、皆から見えない様に手を両脇に立てた口元を俺の耳へ寄せてきた。
「インランドの王都から第二王女の侍女長を名乗る方が大至急のお目通りを願っています」
「ほう……。」
まだ確証は無いが、どうやら最も欲していた情報が遂に届いたらしい。
耳を擽るエステルの吐息が運んできた言葉に思わずニヤリと笑みが零れる。
「ただ、その御方は猫族でして……。
身なりは薄汚れているを通り越して、随分と汚く……。いかがしますか? 追い払いますか?」
「いや、会おう。第二王女の侍女長が獣人ってのはジュリアスから聞いた憶えが有る。
身なりが汚いのは王都から休みなく走ってきたせいだろう。
だから、まずは旅の汚れを風呂で落として、食事も摂って貰い、一息をついて貰おう。会うのはそれからだ」
女性とは言えども猫族である。
ヒトより基礎体力に優れていて、多少の段差をモノともしない跳躍力が有り、何よりも夜目が効く。
通常、このネプルーズの街から王都まで馬車なら三ヶ月、徒歩なら四ヶ月の旅になる。
それをニャントーはいざとなったら一ヶ月半で走破してみせると言っていた。やはり危険な夜も先へ進める条件は大きい。
但し、これは俺がオータク侯爵家執政の名で発行した通行許可書を所持していての場合。
獣人は奴隷、それが常識である為に単独での行動は厳しい。街や村へ寄らず、街道ではなく、街道沿いを通るとするなら、もう一週間か、二週間は多く見積もって、二ヶ月はかかるだろう。
そして、二ヶ月前と言ったら、王都は社交シーズンの真っ最中である。
国中の領主達が必要最低限の私兵を連れて王都へ集まっている。政変を起こして、新政権を認めさせるタイミングとしてはこれ以上無い。
一方、俺達としても状況は悪くない。
今、帰還兵団を率いるサビーネさんがどの辺りを進んでいるかは解らないが、兵力が手元にあると共に即応が可能だ。
俺が想定したタイミングより数年早いが堰を切った以上、この流れは誰にも止められない。歴史が変わる奔流の只中に自分が立っている事を実感して、堪えきれない高揚感が止めどなく湧いてくる。
「はい、解りました」
「それと……。」
「承知しています。お通しするのは奥の部屋で、誰にも見つからない様にですね?」
「そう言う事だ」
しかし、それを表情に出してはならない。
この場には第二王子派の第十四騎士団の副団長も居れば、第一王女派の第十五騎士団の団長も居る。
エステルへ指示を出すと、気を少しでも抜いただけで笑みが零れそうになる口元を引き締めて、平静を装いながら振り向く。
「さて、皆さん。話に熱中し過ぎた様で申し訳ありません。
日も暮れましたし、腹も空きました。今日はこの辺でお開きにして、まだ疑問が何か有る様ならそれは後日にしましょう」
いつの間にか、夕陽は沈む寸前。茜色に染まっていた執務室をいつしか薄暗くなっており、この集まりの閉会をこれ幸いと宣言する事にした。