幕間 その3 バルバロス視点
政変が王都で発生した一ヶ月後。
ニートが急速な発展を遂げてゆく占領下の街の統治案に頭を悩ませている頃。
バカルディの城の執務室にて、『バルバロス』は家族の声を耳に幸せな時を満喫していた。
******
「にーちゃ! にーちゃ!」
「あはは! アーサー、こっちだよ!」
「こら、ランスロット! アーサー様でしょ!」
「アリサさん、良いじゃないの。兄弟なのだから」
本格的な夏の到来を感じさせる深い青空に立ち上る雄々しい雲。
開け放たれた窓から入ってくる微風と聞こえてくる家族達の賑やかな声に頬が自然と緩む。
なにしろ、この時を儂はずっと待ち望んでいた。
三人の息子達が先に逝ってしまい、孫のティラミスだけが唯一の血縁になってからずっとだ。
小僧は見事にやってくれた。儂の目に狂いは無かった。
我がオータク侯爵家も、コミュショー男爵家もこれで安泰である。
本音を言うなら、ティラミスより先にアリサ君が男子を産んだと聞いた時、喜びもしたが懸念を少し抱いた。
当人にその気は無くても、ランスロットは小僧の初子であり、男子である。次代のオータク侯爵家当主の座を巡るお家騒動の材料としては立派な芽となる可能性を秘めていた。
実際、ランスロットの誕生が知れ渡った時、その声が家臣達から挙がったらしい。
馬鹿な話だ。コミュショー男爵家は小僧が自分自身の手で作った家であって、オータク侯爵家と混同して考えてはならない。
いかに小僧がティラミスと結婚したからと言って、コミュショー男爵家が我がオータク侯爵家の寄子だからと言って、その様な無法が通る筈が無いし、小僧がそれを許す筈が無い。
だが、そう言った声が挙げた気持ちは解らないでも無い。
全ては儂の責任だ。儂がずっと待ち望んでいた様に家臣達もまたオータク侯爵家の血を受け継ぐ男子の存在をずっと待ち望んでいたのだから。
しかし、その懸念はアーサーが産まれた事で晴れた。
あとはアーサーとランスロットが健やかに育ち、成人に達するのを待つのみ。
いや、ひ孫は何人居ても可愛いものだ。
ティラミスは産後の肥立ちが良好で健康そのもの。小僧が帰ってくれば、ひ孫をもう一人か、二人は十分に望めるだろう。
この点に関しても小僧に感謝するしか無い。
昔のティラミスは病弱である以上に世を儚み、生きようとする努力が薄かった。
オータク侯爵家の血を繋ぐ事だけの為に生きて、それが済んでしまったら死んでも構わない。そんな感を持っていた。
ところが、ティラミスは小僧と出会って変わった。
小僧の隣に立つ相応しい女になるのだと、小僧の丈夫な子供を産むのだと強く決意して、嘗ては嫌がって行動も起こさなかった体力作りの鍛錬を欠かさぬ様になり、今では健康と呼べる身体になった。一昔前は日常的に体調を崩しては寝込み、母体の事を考えたら将来の出産は難しいとまで医者に言われていたのが嘘の様だ。
「ご隠居様、いかかでしょうか?」
「うむ……。そうだな」
ふと遠慮を含んだ声がかかり、意識を机の上に置かれた羊皮紙へと向ける。
だが、儂は字が殆ど読めない。羊皮紙を渡された際に書かれている内容の口頭説明も受けているが、儂の頭では難解が過ぎた。
我がオータク侯爵家は出自が山賊の為か、男達は武辺者の気質がとても強い。
祖父も、父も、儂も、息子達もそうだった。子供の頃からペンを持つ暇が有ったら槍を振り、山野を馬で駆けていた。
読み書きが出来るのは自分の名前と簡単な日常用語。それと否が応でも多用している内に憶えた軍用語くらい。
計数に至っては両手で数えられる数字を越えると頭が熱を帯びて考える事を放棄してしまう有り様だ。
しかし、それでも十分に通用する。
広大な南方領を統括するオータク侯爵家当主という立場はやっていける。
なにしろ、南方領は北方領や西方領の領主達から羨まれるほど豊かな地。
国土を分断して横たわる北のジブラー山脈沿いの土地を除いたら、冬に雪が降る事は滅多に無い。耕作が一年を通して可能であり、何処の土地も水源にも恵まれて肥えている。
その上、東は海に面しており、国が専売とする塩の売買が南方領は特権で許されている。
この塩と南方領が古くから特産にしている砂糖を求めて、商人達が国内のみならず、国外からも数多に集い、王都とバカルディの街を繋ぐ主要街道上の街はいずれも活気で満ち溢れている。
その為、よっぽど下手な政策を実施しない限り、南方領は乱れる事が無い。
多少の乱れなど問題にならず、南方領が持っている地力が乱れを自然と回復させてくれる。
それに『下手の考え、休むに似たり』だ。
難しい事を考えるのは難しい事を考えるのが得意な奴に任せておくのが一番良いに決っている。
オータク侯爵家が代々に渡って、学問など何かを積極的に学ぼうとする意思を持つ者達へ支援を行っているのはそう言った理由からだ。
その最たる成功例がサビーネと言えよう。まさか、まさか、国外からも俊英が集う王都の大学を主席で卒業する才能が我がオータク侯爵家の陪臣の中から生まれるとは思ってもいなかった。
サビーネは中央での栄達が約束されて、いずれは直臣の道もあった数多の誘いを断り、当家に仕える道を選んでくれた事実一つを取ってみても、このオータク侯爵家代々の方針は間違っていない。
「ニート様は積極的に賛成しています。
ですが、出資者のご隠居様が駄目と言うのなら、それを優先しろと」
「くっくっ……。儂が商才など持っていないのを承知している癖に」
「金銭が関わる契約に厳しいですからね。ニート様は」
だが、『しかし』である。
オータク侯爵家の当主として、年齢を十年、二十年、三十年と重ねる内、その考えが少しずつ変わってきた。
その理由が南方領の南に有る。
我が国が持つ国土と国力を遥かに凌駕するアレキサンドリア大王国という大国の脅威だ。
但し、戦いそのものに問題は無い。
儂は軍略の知識は持っていないが、他人に『何故、それが解る!』と罵られるくらい鼻が戦場で効く。
敵が仕掛けてくる罠に引っかかった試しは少なく、ここぞという戦機も不思議と解る。その自分の中の何かを信じ、今まで勝利を重ねて生き延びてきた。
頭が痛いのはアレキサンドリア大王国との戦争で費やされる一切合切の費用。
アレキサンドリア大王国が侵攻してくるのは十年に一度か、二度。それ以外の年は侵攻に備えて、貯蓄を重ねてはいるがまるで足りない。
戦時中の戦費もだが、戦後に参戦者へ支払う報奨金や破壊された砦の修繕費などなど。
金は幾ら有っても足りず、その足りない部分はどうしても増税という手段を選ばざるを得ない。
戦争によって、兵士達を含めた領民が減った状況での増税である。
それは南方領の地力自体を損なわせる事態に繋がっているのは言うまでもない。
事実、見た目の豊かさは変わっていない様に見えて、南方領の税収は横這いに近いながらも緩やかに下がり続けている。
儂がオータク侯爵家の当主となって以来、税収が上向いたのは作物が豊作に恵まれた年だけであり、この傾向は残されている記録を見る限り、百年以上も前から変わっていない。
この現状を打破するのは今のままでは駄目だ。
新たな産業、或いは今までにない画期的な政策が必要だと儂は考える。
「……だな。あいつのソレは商人顔負けだ。
しかし、その厳しさがコミュショーの経営を立て直した。
だったら、儂が言う事は何も無い。ここに書かれている通り、実行してくれ」
「解りました」
しかし、やはり『下手の考え、休むに似たり』である。
儂も若い頃は色々な挑戦を試みたが、その結果はどれも失敗に終わっており、それ等の失敗から身に沁みて思い知らされた。
経営政策は過去の踏襲こそが最も無難であり、その無難から外れれば、外れるほどに失敗した時の損害は大きくなり、領民の苦労もまた大きくなってしまうと。
しかも、年齢を重ねる毎、儂は臆病になっていた。
儂の跡を継ぐティラミスに苦労はさせたくない。その思いから不安ばかりが先走り、新しい何かを挑戦する勇気が持てなくなっていた。
戦場では己の判断に絶対の自信を持ち、立ち向かう先に敵の罠が有ろうとも噛み破ってみせると息巻いているのが政治の場では情けない限り。
その姿勢は当然の事ながら部下達にも自然と波及してゆく。
当然と言えば、当然だ。儂の部下に馬鹿は一人も居らず、馬鹿でないからこそ、儂へ提案する前の先回りで儂の意に沿いそうな意見を選んでくる。
今なら良く解る。しみじみと思い知る。
子供の頃、祖父や父が何かにつけて、本を読め、本を読めと飽きるほど言っていたのは祖父も父も儂と同じ苦悩を抱えていたからに違いない。
だから、儂は小僧が持つ豊富な知識と世渡りの上手さに目を付けた。
小僧なら儂には宝の持ち腐れでしかないサビーネの才能を存分に活かしきり、南方領を今以上の繁栄に必ずや導いてくれると期待した。
「それにしても、こうも早く開通するとはな」
「でしたら、視察にいらっしゃいませんか?
驚きますよ? 奴隷ばかりの村とはとても思えない活気に溢れていますから」
「それほどか?」
そして、それは正しかった。
今、小僧はミルトン王国戦線へ出兵しており、オータク侯爵家執政としての采配はまだ政治面で振られていないが、小僧が自分のコミュショー領で行った政策は見事な成果を挙げている。
コミュショー領に存在する四つの村を統廃合すると共に全ての土地と産業を領主の元に一本化。
領民の一人一人を専業化して、領内のあらゆる収穫物は御用商人を通じて売り払い、そこで得た利益から税収分を差し引いたものを領民達の賃金として再分配する、だったか。
このコミュショー領における新たな基本政策を初めて聞いた時、儂は小僧が何を言っているのかがさっぱり解らなかった。
サビーネでさえも首を頻りに傾げる有り様であり、本当に大丈夫なのかと小僧がいつでも泣きついてきても良いように援助資金を密かに用意して待っていた。
だが、歴代代官達の無茶な政策で荒みきり、過疎が進んで貧しかったコミュショー領を小僧は十年とかからずに再建した。
驚くべきは小僧が領主となった二年目から効果が早くも現れて、税収は上向きとなり、その成長は今も少しづつではあるが順調に続いている。
ジブラー山脈を北へ掘り進めて、南方領と西方領を繋ぐトンネル計画もそうだ。
この計画を初めて聞いた時、『お前は何を馬鹿な事を言っているんだ?』と小僧の正気を疑い、開いた口が塞がらなかった。
当然ではあるが、南方領にも豊かな地とそうでない地の格差は有る。
豊かなのは王都とこのバカルディの街を繋ぐ主要街道沿いの南東地方であり、そこから離れれば、離れるほど恩恵は薄れてゆく。
端的に言うと、南方領の最北西に位置する小僧の領地は恩恵が全く届いていない。
鉄鉱石がジブラー山脈で盛んに採れていた嘗ての時代はそうでもなかっただろうが、今は採算が採れずに全てが廃鉱になっており、小僧が領主となる前は行商人がコミュショー領へ訪れるのは年に一度か、二度程度だったらしい。
それ故、小僧の様に南方領の北西に領地を持つ者なら、その経営に携わる者なら誰でも一度は考えるのではなかろうか。
ジブラー山脈の何処かに南方領と西方領を繋ぐトンネルがあったら、どんなに嬉しいかと。
しかし、それを口に出す者は居ない。
天高くそびえ立つ巨大なジブラー山脈に南方領と西方領を繋ぐトンネルを掘るなんて愚かな夢物語だからだ。
もし、実行するとなったら、それは一領主の手に余りすぎる。
国が陣頭に立って行う国家事業であり、その国が今まで実行しようとしなかったのだから、やはり夢物語に過ぎない。
それにトンネル完成にまでかかる費用を考えるだけで馬鹿馬鹿しい。
一世代では絶対に完成しない。二世代、三世代と孫の代まで覚悟しなければならず、対価として釣り合わない。
ところが、小僧は開通だけならたったの十年で成し遂げてみせると言ってのけた。
四組に分けた作業員達を昼夜で交代させる常時作業体制と爆発魔術を掘削手段として用いる方法によって。
種明かしを聞いてしまえば、どちらも大した事は無い。
だが、ヒトは朝になったら起き、夜は寝るもの。爆発魔術は戦争やモンスター退治に用いる攻撃手段という誰もが持っている常識を打ち破った斬新な考えだった。
正しく、それこそが儂の求めていたもの。
政治面では臆病な儂ですら、これならと大いに期待させるものがあった。
「はい。ちなみに、鉱山と言ったら、ご隠居様はどんなイメージをお持ちですか?」
「そうだな……。やはり、鞭と怒鳴り声だな」
「間違っていません。実際、私も領主だった頃に幾つかの鉱山へ視察に行った事がありますが、何処もソレでした。
まあ、当然ですね。誰だって、きつい仕事はやりたがりませんし、命の危険性が有るなら尚更です。
だから、監視員達は怒鳴り、時に鞭を見せしめに打って、奴隷達を無理矢理にでも働かせるのですが、バルデラは違います。そもそも、監視員が居ません」
「何っ!? それでは奴隷達が逃げてしまうだろうが?」
「いいえ、逃げません」
「何故だ?」
「奴隷達にとって、バルデラほど恵まれた待遇は他に無いからです。
なにせ、飯を満足するまで食べられて、休日まで有り、働き次第によってはニート様からの褒美まで出ます。
奴隷達の目は活き活きと輝いていますし、賃金が支払われないだけで普通に良い職場ですよ。
今では暇と体力を持て余した者達によって、村の周囲には立派な石垣が作られ、村の外には畑が広がっています」
それと極めつけがもう一つ。
小僧はトンネルを掘る為に集めた奴隷達とある約束を交わしている。
それはトンネルが完成した暁には奴隷達を奴隷の身分から開放するというものだ。
約束の保証人として、儂の署名が入った正式な書類も作られてさえもいる。
小僧が奴隷へ対する稀有な価値観を持っているのはララノア嬢ちゃんやニャントー達の扱いで知っていたつもりだが、これには改めて驚かされた。
そもそも、自分が所有する奴隷を開放する行為自体が極めて稀である。
儂がこれまで生きてきた人生の中で知る限り、戦争奴隷が自ら勝ち取った武勲と引き換えに身分を回復させた例を除いたら、たった七人しか居らず、その内の五人がララノア嬢ちゃんとニャントー達だ。どれほど稀かが解るだろう。
ならばこそ、奴隷達が発奮しない筈が無い。
今交わされている会話が正にそれであり、その証拠も目の前の羊皮紙に書かれてある。
コミュショー領のバルデラ村にて、西方領を目指したトンネル工事に着工して、今年で六年目。
幸運にも恵まれ、西方領側のエスカ領が鉄鉱石採取の為に嘗て掘り進めていた坑道とぶつかり、小僧が計画していた十年より四年も早く南方領と西方領が繋がった。
「ふむ……。我が領は鉱山の様な奴隷を大規模に使う産業を持っていないが一見の価値は有りそうだな」
「是非、その際はアーサー様もご一緒に。領民達が喜びます」
「おお、そうだな。生まれた時の祝いを貰っていて、顔を見せないのは不義理になる。
ティラミスと一緒に……。問題はいつにするかだが、今年の秋は少し忙しい。アリサ君とお前達が帰るのに同行しても構わんか?」
「ええ、勿論です。丁度良い避暑になりますよ」
もっとも、ただ繋がっただけであって、ヒトが行き交える様な満足なレベルでは無い。
これから掘り進めた穴を整備して、小僧が望んでいる馬車が通れるレベルになるまで数年はまだかかる。
だが、夢物語が確かな現実のモノになったのは大きい。
ますます奴隷達は発奮して、今まで以上に土をせっせと喜んで掘る事だろう。
おまけに、儂が知るよりも早く、トンネルの開通を何処で聞き付けたのか。
将来を見越して、冒険者ギルドがコミュショー領内に支部を作りたいと申し込んできた。
冒険者ギルドが出来れば、冒険者達は当然として、冒険者を相手にする商人達も集まる。
最早、コミュショー領の繁栄は決まったも同然だし、その恩恵で南方領全体もより豊かとなるに違いない。
南方領の将来を考えると胸が熱くなる。
儂からの資金支援が有ったとは言え、小僧が小さな一地方の領主として采配を振るっただけでこれなのだから。
それに小僧の才能は政治的なものだけにとどまらない。
いや、トーリノ関門へ義務兵役で赴いて以来、小僧が挙げてきた武勲の数々を考えたら、その真骨頂は軍事的な面に有るのかも知れない。
普通、前線からの報告が届くと安否をまずは心配するものだが、小僧の場合は違う。
今度は何をやってくれたのか、どんな武勲を挙げたのかが楽しみで、楽しみで仕方が無い。
此度のミルトン王国戦線においても、あのジェスター殿下ですら撤退を余儀無くされたネプルーズの街を陥落させたばかりか、我が国の版図にミルトン王国の大穀倉地帯を加える事に成功させている。
正直に言おう。儂は小僧がここまでやってくれるとは思ってもみなかった。
前述にも有るが、儂が小僧に目を付けた理由は小僧が持つ豊富な知識と世渡りの上手さである。軍事面での才能は兵士達の陣頭に立って戦える気概を持ってさえいたら十分だと考えていた。
全く以って、嬉しすぎる誤算。
武才の無さとて、戦場での経験とあの舌を巻く努力で補い、今や『黒山羊』の二つ名で呼ばれる一廉の武将にまで成長している。儂も、ティラミスも鼻高々である。
「そうと決まったら、楽しみになってきたな。
王都を除いたら、遠出をするのは小僧と二人で旅をして以来か」
「ニート様から少し伺っています。あの大樹海を抜けてきたとか」
「あの時は小僧が居て、本当に助かった。儂一人だったら、絶対に生きて帰ってこれなかっただろうな」
「ご隠居様がそこまで言うとはさぞや凶悪なモンスターが?」
陛下も小僧の活躍に大喜びだ。
帰ってきたら、領地を加増した上で子爵位に叙するとまで言ってくれたばかりか、涙ながらに頭を下げさえもしている。
そう、あれは王都へ上った去年の春。
小雨がぱらついて降る夜、夕飯が済んだ頃に陛下が当家の王都屋敷へお忍びで訪れた時の出来事。
余談だが、儂が王都滞在中に陛下が当家の王都屋敷へお忍びで訪れるのは珍しくない。
それと言うのも陛下が陛下になる前の第二王子だった頃の話。陛下と儂の三男は騎士叙勲の年が重なった縁から今で言う小僧とジュリアス殿下の様な関係にあり、当時は儂が王城へ帰れと怒鳴るくらい陛下は当家の王都屋敷に入り浸っていた。
そんな過去もあって、不敬かも知れないが、儂は陛下の事を息子の様に感じている。
恐らく、陛下も儂の事を父の様に感じていてくれているのではなかろうか。そうでなかったら、政治の愚痴を助言者として全く役立たない儂相手にわざわざ零しに来ないだろう。
その日の夜も当たり障りの無い世間話から始まり、陛下は酔いが回り始めると政治に関する愚痴を次第に零し始めた。
陛下の苦悩は多岐に渡るが、必ず決まって出てくる話題は次期王位を巡る貴族達の派閥争いに関してだ。
貴族達が第一王女派、第二王子派、第三王子派の三つの派閥に分かれて次期王位を争っているにも関わらず、その様相に全く興味を示さない陛下に対して、王権を強める為に貴族達を敢えて争わせているとか、陛下が自分の子供達に興味を持っていないとか、悪意ある憶測が色々と囁かれているがどれも違う。
陛下の次期王位に関する意思はとうの昔に固く決っている。
次期王位は王太子殿下であり、病弱な王太子殿下に不慮が遭った場合は国法で定められた王位継承権順である。
陛下はその意思を過去に何度も明らかにしているが、愚か者達の争いはもう二十年以上も昔から続いている。
それは王太子殿下の死をまるで望んでいるかの様であり、陛下は医者から成人に達するのも難しいと言われた王太子殿下が今も生きている幸運を何故に愚か者達は素直に喜んでくれないのかと嘆く。
また、その醜い争いにジュリアス殿下を巻き込んでしまったのを陛下は強く後悔もしている。
そう言葉にした事は一度も無いが、やはり自身で見つけて口説き、愛し合う様になった女の子供が一番可愛いのだろう。深く酔っ払った際に出てくる言葉の端々からそれが感じられる。
「それも理由の一つだが……。そうか、お前はロンブーツの生まれだから大樹海の恐ろしさを知らないのか」
「噂程度でしたら」
「なら、教えてやろう。大樹海へ不用意に百歩も入ったら、もう二度と出れない。
その噂は子供を戒めるものだが、入ってきた場所が見えなくなって、もう百歩も入ったら本当にもう駄目だ。運がよっぽど良くない限り、もう二度と大樹海から出れないだろうな」
「なんと……。」
しかし、その日の夜の陛下はいつもと様子が違った。
愚痴を零すのは変わらないが、その口調に陰々滅々さは感じられず、時に自身が零した愚痴を上機嫌に声をあげて笑い飛ばす明るさがあった。
飲酒のペースもいつもより早く、ワインのミニ樽を一人で殆ど飲み干した頃、ハイレディンの奴が王都屋敷のドアを叩いて現れた。
夜遅い上に前触れの無い来訪であり、陛下がお忍びで訪れている事もあって、即座に追い返そうとやや不機嫌に要件を尋ねてみれば、陛下に呼ばれたと言うではないか。
こんな事は初めてだった。
儂も戸惑ったが、あいつも戸惑いながらも三人で改めての乾杯。
陛下はますます上機嫌に饒舌となり、儂とあいつに酒を飲め、飲めと勧め、三つ目のミニ樽を空にしたところで不意に押し黙った。
やはり様子がおかしい。そう儂とあいつが他愛の無い冗談を交わしながら何食わぬ顔で目配せを交わした次の瞬間だった。
陛下がいきなり席を蹴って立ち上がったと思ったら、その場に膝を居り、なんと儂等へ土下座してきたのである。
儂も、あいつも当然の事ながら面食らった。
顔を茫然と見合わせた後にどちらともなく我に帰り、その床に額を付けた頭を上げさせようと慌てて陛下の元へ競い合う様に駆け寄った。
「大樹海は昼でも薄暗い。
背の高い木々が立ち並び、生い茂った葉が太陽を隠して、空は小さな隙間にしか見えない。
だから、太陽の位置や星の列びから方角を確認するといった術が使えない。
おまけに、どっちを向いても見渡す限り、木と藪しかない代わり映えしない景色だ。
行く手にある木を避けていると真っ直ぐ進んでいるつもりでも方向感覚が知らず知らずの内に狂わされる。
迷わぬ様に目印を気に刻む手段を真っ先に思い付くかも知れないが、小僧に言わせたら浅はかな危険な行為だそうだ。
深い森には臭いに敏感な獣やモンスターが居り、傷付けられた樹皮の臭いに侵入者が縄張りに現れたと反応して襲ってくるらしい。
だったら、お前はどうやって方角を測っているのかと小僧へ尋ねたら、小僧は真上を指差しながらこう応えた。
木も植物である以上、太陽の光が生きる上で絶対に必要だ。
だから、太陽の方向へ枝を伸ばすし、こんな陽の当たり難い場所なら尚更そうする。
ほら、あそこを見てみろ。木々が競い合う様に枝を伸ばしているだろ? だから、そっちが南になる。……とな。
だがな、素人に枝の見分けなんて付くと思うか? 少なくとも、儂にはどれも同じに見えたよ。それ以来、儂は小僧をと言うか、猟師を尊敬する様になった」
「それは……。確かに」
だが、陛下は頭を上げようとしない。
儂が右肩を、あいつが左肩を掴んで上げようとさせるが頑なに抵抗して上げようとせず、今まで胸の内に秘めていた十年来の企てを涙ながらに明かし始めた。
今や、北のロンブーツ教国へ対する備えを削り、国の総力をあげて激しい攻勢を続けているミルトン王国方面戦線。
しかし、約十年前。オーガスタ要塞が我が国の手に落ちた時、陛下は今ほどの熱意は持っておらず、ミルトン王国と適当なところで講和を結ぶ腹づもりだったらしい。
その理由は戦費に有る。
我が国にミルトン王国内へ深く斬り込んでゆけるほどの余裕は無い。
それを成そうとしたら前記の通り、北のロンブーツ教国へ対する備えを削る必要が有る。
むしろ、攻めるべきは北のロンブーツ教国。
聖地奪還という妄言を撒き散らすばかりで話が通じず、その土地は貧しいらしいが、我が国同様に海を持つ国である為、兵站がミルトン王国と比べたら断然に安価で済む上に攻め易い。
それに厄介だったのはオーガスタ要塞であって、ミルトン王国では無い。
ミルトン王国に対しては強固な橋頭堡となる砦か、関を造り、今度はこちら側がいつでも攻め込める体勢を作れば、元から我が国の方がミルトン王国より国力で勝っている以上、天秤の傾きは時間の経過と共に我が国へより傾いてゆくに決っていた。
ところが、その戦略を捨てねばならない大誤算が起きる。
子供の頃の夢を追いかけ、冒険者の道へ進むとばかり思っていたジュリアス殿下が王族の身分を捨てずに騎士位を得たのである。
儂とあいつにしてみたら、その何処が大誤算なのかがさっぱり解らなかったが、陛下にとっては大誤算だったらしい。
曰く、生まれが庶子なのを理由に貴族達から軽んじられて、他の兄弟達とあらゆる面で待遇差を付けられたら、普通は嫌になるだろう、だ。
儂も、あいつも深々と溜息を零すしかなかった。
陛下がジュリアス殿下へ対する不敬な振る舞いを貴族達に敢えて許しているのは出自などに負けない強い心を育てる為と儂は考えていたが、どうやら買い被りだったらしい。
「それと水の問題だ」
「なるほど、行軍時も水の確保はいつも苦労しますからな」
「大樹海は深い森だけあって、食べれそうなものはそれなりに見つかる。味は別にしてな。
だが、水だけはどうにもならん。長期に渡る籠城戦では自分の小便を飲んだりもするが、それは最後の手段だ。出来たら避けたい。
なら、小僧が水をどうやって探していたかと言ったら、獣やモンスターの足跡でだ。
大抵、それが集中的に向かっている方角には水が有るらしいのだが、これもやっぱり素人目では解らん。ほらと指をさされても、儂にはただの地面にしか見えなかった」
「……でしょうな」
いずれにせよ、ジュリアス殿下が成人を迎えたのを前後して、貴族達はいよいよ危機感を募らせると共に派閥争いを本格化させた。
ジュリアス殿下は身分差による隔意を持っておらず、接する者の身分が低ければ、低いほどに虜となる。今まで王城という鳥籠に閉じ込めていた鳥が世に放たれて、その羽ばたきの影響力が大きくなってゆくのを恐れたのだろう。
第一王女派と第二王子派は互いに牽制し合いながらも第三王子派を共通の敵に定め、まずはジュリアス殿下を次期王位争奪戦から蹴落とそうとあの手、この手を使い始めた。
陛下は危機感を募らせるも態度を急に変える事は出来なかった。
強い影響力を持つ自身が下手に突いて、刺客や毒を用いた血生臭い争いに発展しては堪らなかったからだ。
だが、それも時間の問題。
ジュリアス殿下がこの国に在っては命の危険がいずれ及ぶ。それまでの様に放置は出来ない。
すぐさま陛下は海の向こう側にある同盟国へジュリアス殿下の婿入りを打診した。
陛下としても同盟国との関係強化の名目も立ち、貴族達はジュリアス殿下という厄介払いが出来る最良の選択と言えよう。
ところが、決して少なくない同盟国達からの返事は全てが『ノー』だった。
我が国の長年に渡る後継者問題はとっくに知れ渡っており、敢えて火中の栗を拾おうとする国は居なかった。
陛下は頭を抱えながらも次善策を選択するしかなかった。
それは臣籍降下。ジュリアス殿下を公爵位に就けて、次期王位の対象にジュリアス殿下が自身の意思に無いのを明確に知らしめると共にジュリアス殿下を派閥争いの危険から遠ざけるというもの。
「しかし、そんな小僧ですら間違いを起こすのが大樹海の恐ろしいところだ。
見た目は綺麗に底まで透き通っていて、飲んでみたら無味無臭。ところが、その正体は毒泉ときた。
あの時は本当に酷かった。儂も、小僧も死を覚悟したくらいだ。
歩く事はおろか、その場から動けなくなって、腹はゴロゴロと鳴り止まず、上も下も勝手に大放出。ゲロまみれのウンコまみれ。
すぐに臭いなど解らなくなったがかなりのモノだったに違いない。動けない儂等の前に現れたゴブリンが鼻を摘みながら何かを叫んで逃げていったからな」
「そ、それは……。」
無論、この手段でも火種は残り続ける。
それに陛下のそれまでのジュリアス殿下へ対する姿勢が災いして、勘違いした貴族達がジュリアス殿下をより軽んじる様になり、陛下の思惑とは逆に危険性がより増す可能性は否定が出来ない。
そうである以上、ジュリアス殿下を法衣貴族として、王都に置く事は出来ない。
王都から出来るだけ離れた地に領地を与えて、その地で自分の力を蓄えて貰い、貴族達はジュリアス殿下自身の手で対抗して貰う必要があった。
しかし、公爵位の身分に相応しい領地を与えたくてもその土地が無い。
侯爵位か、伯爵位を持つ貴族と婚姻関係を結ぶのが最もてっとり早いが、やはり火中の栗を拾おうとする者は居なかった。
ちなみに、結婚相手の候補として、ティラミスの名も挙がっていたらしい。
だが、国王の代理とも言える南方領統括という他の貴族に無い絶大な特権を持つオータク侯爵家への婿入りは貴族達から猛反発を喰らったとか。
それで目を付けたのがミルトン王国領だった。
前述の戦略を採用して、ロンブーツ教国へ攻め入るとなったら最低でも十年以上は先になる。
陛下は十年も悠長に待っていれなかった。
世論と軍部の後押しもあって、陛下は大兵力を率いての親征を行い、ミルトン王国東部地方の切り取りを見事に果たした。
しかし、ここでも陛下のそれまでのジュリアス殿下へ対する姿勢が災いする。
いきなりジュリアス殿下へ大領を与えるのは不自然が過ぎるし、貴族達が納得する筈も無い。
大領を与えるに相応しい口実を、誰もが納得する派手な武勲を、是が非でもジュリアス殿下に勝ち取らせる必要性が出てきた。
「四日目の朝、あのエルフがもし通りがからなかったら儂等は確実に死んでいたよ」
「エルフっ!? やはり大樹海にエルフは居るのですか?」
「ああ、たくさん居るが……。下手な考えは止した方が良い。
小僧が猛烈に怒るぞ? 儂とて、恩人達を粗末に扱われたら黙ってはおれん」
ところが、それこそが一番の難問だった。
ジュリアス殿下は各分野に満遍なく優秀な才能を持っているが、突出した才能は持っていない。配下の親衛隊の者達にも一騎当千の猛者や神算鬼謀の智者は居ない。
これでは無難な小さい戦場は任せれても、伸るか反るかの大きな戦場を任せるのは難しい。陛下が望んでいる誰もが納得する派手な武勲を立てるのはもっと難しかった。
八方塞がりのどうしようもない状況。
お膳立ては完成したが、決め手だけが見つからないでいると、陛下の耳に小僧の名前が聞こえてきた。
陛下は小僧をハイレディンの子として憶えていたし、儂が後見人を務めていた為に興味も持っていた。
勿論、小僧が一度は陥落したトーリノ関門を奪還した武勲も知っていたが、その逆転劇は脚色が混ぜられたものだと話半分に受け取り、トーリノ関門の奪還を果たせたのは偶然の産物だと思っていたらしい。
無理も無い話だ。儂とて、トーリノ関門の戦果報告を最初に聞いた時、その内容を喜ぶ前に疑った。
騎士になりたての若造が僅かな手勢を率い、十倍以上もある敵の大軍を翻弄した上に鮮やかな計略で逆転するなんて普通は有り得ない。
だが、国難を一度ならず、二度までも救ったら、それを偶然とは言えない。
陛下は小僧がトーリノ関門で成し遂げたものを事細かに詳しく再調査させて確信したらしい。小僧こそがジュリアス殿下を救ってくれる存在だと。
「いえ、捕獲しようとか、そういう事では無くて……。
実はコミュショーの領民達からそれらしき目撃例が何度も挙がっているのです。それも森の中ではなく、森の外で」
「なるほど……。小僧の奴め。大事な事を言い忘れおってからに」
「……と言いますと?」
陛下は一計を企てた。
まずは自分の存在を知らせぬ様に裏から手を回して、まだ未定だった第十三騎士団の騎士団長にジュリアス殿下を据えると、次に貴族達がジュリアス殿下へ対する嫌がらせで第十三騎士団の兵員を満足に整えていないのを知りながらもそれを放置した。
しかし、心配は要らない。
小僧とジュリアス殿下が深い友誼で結ばれているのは有名な話だ。
ジュリアス殿下は小僧を必ず頼るだろうと。小僧はジュリアス殿下の願いを断れず、南方領の兵力を第十三騎士団の為に動員させるだろうと。
そうなったら、北方領で広がりを見せる第三王子派の領主達も呼応する。
これで第十三騎士団の兵力は最低でも二万を超え、最後に自分が軍部に喝を入れて、貴族達の嫌がらせを止めさせれば、第十三騎士団は本来の兵力が合わさって、最終的な兵力は四万を確実に越える。
それだけの兵力が有していたら武勲は十分に勝ち取れる。
あとは小僧とジュリアス殿下次第であり、二人は陛下の期待通り、誰もが納得する派手な武勲を打ち立てた。
よって、どうしても感謝がしたい。
だが、小僧とジュリアス殿下の二人にここまで語った実情を教える訳にいかない。
せめて、儂とあいつだけには感謝を受け取って貰いたい。それがその日の夜のお忍び理由だった。
「取りあえず、領民達には気にするな、見間違いだろうで通しておけ。
下手に騒がれては面倒だし、奴隷商人共が集まってきたら、もっと面倒だからな。
その上で……。ハーベルハイト、他言無用だ。お前だから教えてやろう。実を言うと、ララノア嬢ちゃんは……。」
陛下の長い告白を聞き終え、儂はなるほどと納得した。
論功行賞が行われたのはオーガスタ要塞陥落直後のたったの一度だけ。
それ以降、何故に行われないのかが皆の疑問になっていたが、全てはジュリアス殿下の為だったのである。
公爵位に相応しい領土を与えるとなったら、ミルトン王国東部地方の半分は少なくとも必要になるが、ミルトン王国戦線で武勲を挙げた者達へ対する褒美も考えたら土地が明らかに足らない。
どうしてもミルトン王国中部地方にまで手を伸ばす必要が有り、それが済むまでは論功行賞を行う事は出来なかった訳だ。
さて、陛下の話はこれで終わりかと思いきや、まだ続いた。
ジュリアス殿下の為とは言え、軍を私情で動かしたのは変わらない。それは高祖が残した戒めに背くものであり、陛下は王位を王太子に譲って退位する腹づもりでいると更なる衝撃を放った。
陛下は五十歳を超えたばかり。どう考えても退位するにはまだ早すぎる。
そう驚きに叫んで返す儂達に陛下は言った。これが全てを丸く収める一番良い方法なのだと。
ジュリアス殿下が王都へ帰還次第、論功行賞を行うと共にミルトン王国と停戦を結ぶ。
オーガスタ要塞陥落以降の無茶が祟り、これ以上の継戦は難しいし、ミルトン王国も現状を考えたらこちらの要求を拒むのは難しい。既に停戦へ向けた工作が密かに始まってもいるらしい。
その後、陛下が退位。王太子が王位に就くが、病弱な王太子では政務は難しい為、宰相に第一王女を、中央軍総司令に第二王子を据える。
元から水と油である宮廷と軍部のトップに第一王女と第二王子を据えてしまったら、派閥争いは激化するに決まっているが、それを抑えるのがジュリアス殿下であり、小僧であり、第三王子派だ。
これは地図で表現すると解かりやすい。
即ち、西はミルトン王国東部地方を領地に持つジュリアス殿下が、南は南方領を統括する小僧が、北は第三王子派が多い北方領領主達が、中央の第一王女派と第二王子派を監視、牽制して、大きな内乱の様な大事に至らない様にする思惑である。
問題を挙げるなら、これもまた根本的な解決になっていない点だろう。
だが、王太子に後継者は居ない。居ない以上、次の王位は国法で定められている継承順位に従って、第一王女に渡る。
第一王女は軍事的才能は疎いを通り越して持っておらず、中央軍総司令の役目は難しい。第二王子をそのまま中央軍総司令に据えるしか無い。
逆も然りだ。第二王子が王位に付いたとしても、第二王子は政治的才能は疎いを通り越して持っておらず、宰相としての第一王女が必要になる。
最後に陛下はこう締めた。
第一王女も、第二王子も片方だけでは国を確実に弱くさせる。国を強くさせるなら、二人が揃っていなければならない。
それを貴族達へ気付かせて、愚かな争いを止めさせる為には私が退位して、それを実際の目で見させる必要が有る。
もし、どうしても一人を選ぶなら政治と軍事にバランスが取れたジュリアス殿下になる。
しかし、ジュリアス殿下は野心が薄いと言うか、まるで無い。それは欠点とも言えるが、その野心の無さから第一王女と第二王子のどちらかと結びつく事も無い、と。
これを聞いた時の儂の感動が解るだろうか。
これこそ、美しい理想的な未来図だ。それも小僧が大きな一翼を担っているのだから儂も誇らしくて堪らない。
「えーーーーーん!」
「アーサー、情けないですよ! 転んだくらいで泣くなんて、お父様が聞いたらガッカリします!」
「ねえ、お母さん。お父さんはいつ帰ってくるの?」
「フフ、来年の今頃には会えるわ。だから、ランスロットもお稽古をサボっちゃ駄目よ?」
ただ、その美しい理想的な未来図を得る為に小僧のミルトン王国戦線の任期が延びてしまっている。
陛下曰く、武勲はもう十分だが、敵地占領下での統治実績が三年は欲しいらしく、小僧は来年も帰ってこない事が既に決定している。
ところが、窓の外からタイムリーに聞こえてきた声で解る通り、それをティラミス達はまだ知らない。
来年こそ、小僧が帰ってくると楽しみにしている。誰が始めさせたのか、アーサーとランスロットの二人に至っては帰ってきた小僧をびっくりさせるんだと槍の稽古に頑張ってさえいる。
「なあ、頼みが有るんだが……。」
「嫌です! 絶対に嫌です! 第一、それを伝えるのは陛下より直々に内示を賜ったご隠居様の役目です!」
「うぐっ……。」
「さあ、話の続きを! ララノア様がどうしたと言うのです!」
毎朝、今日こそは言おう、今日こそは言おうと決意して、もう一年が過ぎてしまった。
ティラミス達がどんなに絶望するかと思ったらとても言い出せない。それが儂の最近の悩みだった。
だが、そんな悩みどころか、陛下が描いた美しい理想的な未来図すらも吹き飛ばす凶報が今正にこのバカルディの街へ迫っているのをこの時の儂は知る由も無かった。