第08話 昨日より明日を
「エステル! どうして、逃げるんだ!」
「ニートこそ! どうして、追いかけてくるの!」
元領主様の人となりが如実に表れ、装飾や無駄が省かれた機能重視のトリス砦。
エステルの所在はあちこちを捜して回るまでもなく見つかったが、肝心のエステルは俺の姿を見るなり走って逃げ出した。
この時、エステルが第二郭へ向かって逃げていたら既に問題は解決していただろう。
多少の騒ぎが起きてしまうのは仕方が無いとしても、その行く先々には俺と一緒にトリス砦へ登城してきた味方達が居る。特に指示を出さなくても誰かしらが察してくれ、エステルを捕まえてくれた筈だ。
しかし、必死になって逃げるメイドさんとそれを追いかける敵貴族の図が大いなる誤解を呼んだに違いない。
エステルを守ろうと今は我が軍の捕虜となった数人の少年と少女が現れて、俺の行く手を遮ると共にタックルで足止め。エステルをトリス砦の裏口へと導いた。
その結果、俺達は背の高い針葉樹が立ち並ぶ薄暗い山の森の中を追いかけっこ。
峰を越えて、トリス砦が築かれた小山の裏側。緩やかな下り斜面を追いかけっこと言うよりは持久走と言った方が相応しい長距離を走り続けていた。
「エステルが逃げるんだから当然だろ!」
「嫌! お願いだから付いて来ないで!」
もっとも、俺はまだ本気を出していない。
前の世界の俺ならとうの昔に立ち止まり、その場にへたり込んで動けなくなっているだろうが、今の俺は重い鎧を身に纏って戦場を駆けるのを使命とする騎士だ。
体力的な余裕はまだまだ有るばかりか、元猟師の俺は山野を走るのはお手の物。
俺の右に出る者が居るとするなら、それはやっぱり猟を生業とする者か、ニャントー達の様に山野走行の適正を持つ獣人くらいしか居ない。
そもそも、エステルは一般的にメイド服と呼ばれているエプロンドレスを着ている時点で大きなハンデを抱えている。
スカートの丈は足首近くまで有り、そのままでは走り難い為、どうしてもスカートを膝上まで持ち上げなければならない。
それがいかに余計な体力を消耗させて、走るスピードを阻害させているかなど言うまでもない。
むしろ、決して走りやすいと言えない山野を休みなく走り続けているエステルの体力を褒めたい。
逃げ始めと比べたら、さすがに走るスピードは徐々に落ちてきてはいるが、前の世界の単位で言うなら確実に五キロ以上は走り、息切れした様子はあまり見えない。
「だったら、理由を言え! 理由を!」
「理由なんて無い! とにかく、付いて来ないで!」
だが、当然と言えば、当然でもある。
この世界での生活は不便が多い。全てが手作業で、全てが力仕事だ。
一例を挙げると、足を存分に伸ばしながら肩まで浸かれる熱々のお風呂。
前の世界では湯沸かし器のスイッチを押すか、温水が出てくる蛇口を回すだけで簡単に済むが、この世界では数人がかりの大仕事になる。
水を組み上げる水場、水を湯にする竈場、バスタブがあるバスルーム。
その三つの場所を何度も、何度も往復して、桶になみなみと注がれた湯をスピーディーに運ばなければ、足を存分に伸ばしながら肩まで浸かれる熱々のお風呂は実現しない。
そう、メイドさんとはオムライスにケチャップでハートを描き、ご主人様、ご主人様と微笑むだけの甘い仕事では決して無い。
メイドさんの三大業務たる炊事、洗濯、掃除はどれもが重労働であり、メイドさんとは体力が無かったら勤まらない過酷な職業なのである。
しかし、体力と持久力は戦場において最も必要な要素。
短距離走ならまだしも、長距離走を騎士とメイドさんの二人が競い合い、後者に軍配が上がる事は有り得ない。
もし、メイドさんに軍配を上げてしまう様な騎士が居たら、そんな奴は戦場で邪魔になるだけ。俺の指揮する戦場には要らない。
なら、本気を出さないのは何故かと言ったら、それは俺の意気地の無さが原因だ。
エステルを捕まえるとなったら、当然の事ながら触れなければならず、その時に男性恐怖症のエステルがどんな反応をするかが怖かった。
「十年ぶりだぞ! この機会を逃したら、次はいつ会える事か!」
「やっぱり! やっぱり、そうなんだ!」
「何がやっぱりだって言うんだ!」
だから、俺はエステルが疲れ果てて立ち止まるのをずっと待ち続けていた。
だが、そんな悠長な暇は無くなりつつ有る。少し前から元漁師としての勘が警戒を発し始めていた。
その理由は森の深さだ。
走った距離だけで言うなら、俺達はもうとっくにモンスターの領域と呼べる森の奥にまで来ている。
武器を持っていない以上、今すぐに引き返すのが当然の選択だが、二万を超える兵士達が駐留するトリス砦が山の裏側にあるせいだろう。
ここまでの道中、森に満ちる静寂を打ち破って追いかけっこをする俺達に驚き、その姿を見せたのはリスやウサギといった小動物ばかりだった。
「どうせ、またすぐ何処かへ行っちゃうんでしょ! 十年前、私を置いていったみたいに!」
「いや、それは……。」
「嫌い、嫌い! ニートなんて、大っ嫌い!」
ところが、その様子に変化が見え始めている。
確かな事は立ち止まっての観察が必要だが、木の根本に泥を擦り付けた様な跡が先ほどから何度も目撃している。
それが見間違いでないとするのなら、それはイノシシの類が泥で身体を洗った明らかな痕跡である。
この周辺にイノシシが生息しているなら、中型動物のイノシシを食料とする大型動物やモンスターも近くに居る。
これ以上、森の奥へ進むのは明らかに危険だ。
トリス砦が再活用された事によって、この森に生息する者達の分布図が変化しているとは言え、生態系を変化させるほどの年月はまだ経っていない。
だったら、安全圏が広がった分、その逆に分水嶺を越えた後の危険度は通常の森の進みと比べたら、その進みは狭まっていると考えるのが妥当と言える。
もう躊躇っている暇など無かった。
走るピッチを徐々に上げて、いつでもエステルへ飛びかかれる距離を保ち、チャンスを待ち続ける。
「エステル、口を閉じろ! 舌を噛むぞ!」
「えっ!?」
「ふん!」
「キャっ!?」
そして、待ち望んでいたチャンスは間もなくして訪れた。
木々が立ち並ぶ隙間が広くて、スポットライトの如く降り注いでいる陽の光を浴び、森深い場所ながらも雑草が逞しく茂っている場所。
その待ち望んだ場所が行く手に現れ、エステルの腰に狙いを定めてのタックル。間一髪を入れず、エステルを雑草が生い茂る大地に組み伏せる。
「大丈夫か? 何処か打ったりしなかったか?」
「えっ!? ……えっ!? えっ!? えっ!?
い、嫌ああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ~あっ!?」
その瞬間、絶叫に近い悲鳴が森に響き渡った。
速やかに、それも確実に捕まえる手段がこれ以外に無かったとは言え、俺が上になって力ずくで組み伏せている今の体勢はエステルのトラウマを直撃する体勢なのは想像に難くない。
激しく抵抗されるのは予想していたが、嘗ては自分を慕ってくれ、この程度のじゃれ合いは日常茶飯事だっただけにこうも強い拒絶を実際に目の当たりにすると心に刺さるモノがあった。
「痛っ!? 落ち着け! 大丈夫、大丈夫だ! 痛たたた!」
「ヤダ、ヤダ、ヤダ! パパ、ママ! 助けて、助けてよ!」
「エステもごはっ!? 俺だ! 俺をちゃんと見ろ! ニートだ!」
しかも、火事場の馬鹿力とは正にこの事を言うのだろう。
首を猛烈にイヤイヤと振りまくり、俺の拘束から抜け出そうと身体を必死に藻掻かせる力は凄まじく、エステルをバンザイさせながらのマウントポジションを狙っていたが、そうなりかける前に右手の拘束が解けてしまい、エステルの爪、拳、肘が容赦なく襲ってくる。
「ニート! ニートは何処に居るの! ニート、助けて! ニート!」
「俺なぶはっ!? ここにぐへっ!? ……居る! だから、安心しぶっ!?」
こちらは何も出来ないのに対して、エステルはやり放題なのだから堪らない。
体勢を素早く入れ替えて、エステルを柔道の寝技の一つ『横四方固め』で押さえ込む。
「ヤダ、ヤダ、ヤダ! ヤダったら、ヤダああああああああああ!」
だが、右手を横四方固めの為にエステルの股間へ差し入れたのがまずかったらしい。
エステルは身体をビクッと震わせて、動きを一瞬だけ止めると、股間を生温く濡らしながら抵抗をより強めて暴れ始めた。
俺の柔道経験は前の世界で高校の頃に体育の冬季授業で齧った程度しかない。
しかし、体育教師が授業中の事故を嫌ったのだろう。立ち技や組手の練習は滅多にやらせてくれず、受け身や寝技の練習ばかりだった為、後者に関してはそれなりの自信を持っていた。
それに柔道はその前身たる柔術も合わせたら数百年の歴史を持つ武術である。
その数百年の研鑽の果て、寝技の基本の一つに数えられる『横四方固め』は基本の技だけに隙きが少ない。一旦、拘束が綺麗に決まってしまったら返し方を知らない限りはまず解けない。
闇雲に解こうとすれば、闇雲に解こうとした分だけ体力を無駄に消耗するだけであり、あとはエステルの体力が尽きるのを待つだけだった。
「パパ! ママ! ニート! コゼット!
ヤダよ! ヤダ、ヤダ、ヤダ! ヤダああああああああああ!」
ところが、ところが、エステルの抵抗がちっとも治まらない。
悲鳴をあげ続けるのだって、体力は使う。ここまで走ってきた疲労も合わせて考えたら、明らかに異常だった。
何がエステルをそこまで至らせているのか。
顔を上げてしまったら爪や拳や肘が襲ってくる為、神が創造したエステルのお胸様に顔を埋めながら考え、それがすぐに思い当たった。
今、エステルはここに居ない。
エステルは今、十年前のあの忌まわしい出来事が起きた過去に遡っているのだろう。
俺の記憶が確かなら『退行現象』と呼ばれる症状だったか。今、この場に居ないコゼットの名前を挙げたのがその証拠だ。
なら、エステルが男性恐怖症を患わせている諸悪の根源であるブタへ対する恐怖を消せば良い。
それが特効薬になると信じて、もうブタがこの世の何処にも居ない事実を叫んで告げる。
「エステル、安心しろ! お前を苦しめているブタはもう居ない!
俺が殺した! 死んだんだ! だから、怖がる事なんて、もう何も無いんだ!」
「えっ!? ……死んだ?」
「ああ、そうだ! 死んだ! もう一度、言うぞ! ブタは死んだ! 俺が殺してやった!」
「そう……。そうなんだ。死んだんだ」
効果は覿面に表れた。覿面すぎて、逆に驚いたくらい。
エステルは身体を大きくビクッと震わせた後、身体の強張りをゆっくりと解いてゆき、今まで猛烈に暴れていたのが嘘の様に大人しくなった。
「大丈夫か? 落ち着いたか?」
「うん」
すると顔を埋めているエステルのお胸様の奥から鼓動の音が聞こえてくる。
どうやら完全に落ち着いたらしい。早鐘を打っていた鼓動が次第にゆっくりとなってゆき、三十を数えた頃には俺の鼓動と同じリズムを刻み始める。
念の為、更に三十を数えてから横四方固めを解いて、上半身を起き上がらせると、エステルは真上にある青空をぼんやりと見つめていた。
散々喚き散らして、散々暴れまわったせいだろう。髪は乱れまくり、涙の跡が残る目は真っ赤に充血して、口からは涎が、鼻からは鼻水が垂れ放題の酷い有様である。
「お前、酷い顔だぞ? ……ぷっ!?」
「うん」
「ほら、せっかくの美人が台無しじゃないか。
髪は女の命。いつもちゃんと整えておけって、子供の頃に何度も言ったろ?」
「うん」
それを指摘して、場を和ませる為に敢えて吹き出してみせるが、エステルは生返事を返すだけ。
その様子に不安を駆られ、エステルの髪へ試しに右手を伸ばすも払い除けられず、手櫛を入れても嫌がる素振りを見せない。
普通、女性は髪を異性に触られるのを嫌がるもの。
男性恐怖症のエステルなら尚更の筈であり、ブタの死を知った事によって、エステルの男性恐怖症が良い方向へ向かっていると判断して良いのだろうか。
エステルが青空をぼんやりと眺めたままなのが気になるが、俺が触れても平気なのが解っただけでも大きな前進と言える。
「……ったく、昔と変わらないな。
汚れるのは気にしないで良いから、さっさとチーンしろ」
それなら、エステルをこのままにしておくのは忍びない。
次は涎と鼻水を拭ってあげようとハンカチをエステルの鼻へあてがった次の瞬間だった。
「うん……。うっ!?」
エステルが呻き声を短く漏らしたかと思ったら、臍を持ち上げる様に身体を跳ねさせた後、再び身体を猛烈に藻掻かせ始める。
だが、先ほどの暴れていた様子とは異なり、エステルは身体を弓なりに反らして、首を苦しそうに両手で掻き毟っている。
激しい無酸素運動を行った直後より荒く途切れようとしない呼吸。
それは明らかにパニック症状の一つ『過呼吸』であり、その尋常でない様子に茫然となりかけるも我に帰り、すぐさま引っかき傷を首に自分の爪で作り始めているエステルの両腕を抑える。
自分自身の失敗に気づいて舌打つ。
これは俺の憶測だが、十年前のあの日。ブタは泣き喚くエステルを黙らせる為にハンカチか、ハンカチの様な布の類をエステルの口へ詰め込んだのではないだろうか。
その為、先ほどハンカチをエステルの鼻へあてがった際、エステルの心に刻まれたトラウマを刺激しまい、『過呼吸』を引き起こしてしまったとするなら辻褄が合う。
やはり、甘すぎる考えだった。エステルの男性恐怖症はブタの死を知った程度では完全克服とはいかなかったらしい。
どんなところにトラウマが潜んでいるのか。一つ、一つ、長い時間をかけて丁寧に見つけながら治してゆくしかない。
幸いにして、差し当たって必要な『過呼吸』の対処方法を俺は知っている。
この世界で生きていると、たまにしみじみと思うのが『何となくでも見ていて良かった国営放送』である。
前の世界のテレビチャンネル『国営放送』で得た豆知識はふとした時に役立つ事が多い。
今正に役立とうとしている『過呼吸』の対処方法とて、落語家がメインキャスターを務める生活情報番組で得たもの。
「だ、大丈夫だ! お、落ち着け! こ、こういう時は慌てずに落ち着いて、ゆっくりと深呼吸だ!
ほ、ほら、エステル! お、俺も一緒にやるから合わせるんだ!
せ、せぇ~~の! ヒッ、ヒッ、フ~~ッ! ヒッ、ヒッ、フ~~ッ! ヒッ、ヒッ、フ~~ッ!
……って、違う、違う! そりゃ、ラマーズ法だ! 出産の時のだ! 俺はアホか! エステル、もう一度だ!」
その対処方法を活かす上で最も必要なのが落ち着く事にも関わらず、苦しそうなエステルの姿に俺までもがパニック。俺は本当に駄目な兄貴だ。
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「そうか。おじさんも、おばさんも……。」
「うん」
そろそろ小腹が空いてきた。もうすぐ、お昼だろうか。
完全に落ち着いたエステルが水を飲みたいと言うので小川探しに時間を少々食ってしまった。
今はトリス砦へ帰る道中。エステルが先を行き、その三歩ほど後ろを俺が行く。
いつしか、自然とそうなったこの近くて遠い距離が今の俺達であり、その距離を少しでも縮めようと俺達はお互いの十年間を語り合っていた。
それで解った事だが、エステルの両親は残念ながら既に亡くなっていた。
母親は十年前のあの事件が原因で気落ちして寝込みがちになり、エステルが十五歳の成人を迎える前に。
父親は母親が亡くなった後、すぐにインランド王国との戦争に志願して兵士となり、戦地へ赴いたまま帰ってこなかったそうだ。
つまり、あの十年前の出来事の後、ヒッキー村から引っ越しているエステルは親類縁者が居らず、天涯孤独の身である。
それを歓迎する訳では無いが、俺にとっては都合が良かった。
俺はずっと前から考えていた。
もし、エステルと再会が出来たら、エステルの両親へ自分の領地であるコミュショーへの引っ越しを提案しようと。
だが、見知らぬ地へ、それも異国の地へ引っ越すのは誰だって抵抗は大きい。
エステルの両親をどうやって説得するかが難問だったが、エステル一人だけなら単純に説得する人間が一人だけになった分、ずっと簡単だ。
それにエステルなら俺のこの提案を悩んで迷いはしても最終的にきっと頷いてくれると確信していた。
「なら、どうだ? 俺のところへ来ないか?」
「えっ!?」
「但し、今の俺はインランドの貴族だ。俺のところへ来るって事は、この国にもう二度と戻れなくなるのは覚悟してくれ」
「でもでも、私はご領主様のところで働いているんだよ?
ご領主様は伯爵様だよ? そんな事が出来ちゃうの? 今のニートって、そんなに偉いの?」
それでも、断られる不安が無い訳でもない。
まずは手応えを感じる為に軽く誘ってみると、エステルがこの時点で乗り気なのが解った。
息を飲みながら立ち止まったのが早いか、勢い良く振り返ったのが早いか。
エステルの大きく見開いた目は喜びに輝いており、すぐに問い返してきた声も喜びに弾んでいた。
「な~っはっはっはっ! このニート様に任せたまえ!
今の俺はインランドの王子様とも友達だし、領主様なんて目じゃないくらい大貴族様なんだぞ?」
「嘘っ!?」
「これが本当なんだな。だから、俺のところへ来るのを本気で考えてみないか?
俺が持っている金はみんなから集めた金だから、そう贅沢は出来ないけど、エステル一人を雇うくらいの余裕は十分に有るつもりだ」
「なら、本当の本当に?」
「本当の本当だ」
不安が晴れて、心は軽くなり、笑顔が口元に自然と浮かぶ。
エステルは元領主様との雇用関係を心配しているが、俺がエステルの身柄を譲り受けたいと望めば、元領主様は喜んで頷いてくれるに違いない。
問題が有るとするなら、それはエステルが美人さん過ぎる点だ。
エステルの身柄を即座に譲り受けてしまったら、元領主様が俺へ取り入る為にエステルを差し出したという揶揄の声がまず間違いなく挙がる。
元領主様は甘んじて受けそうだが、そんな下らない雑音に元領主様を悩ますのは忍びない。
それに俺は元領主様をインランド王国へ帰順させるつもりでいる以上、将来にまで長く及んでしまいそうな汚名は避けたい。
幸いと言うべきか、不本意と言うべきか、俺は女好きで広く知られている。
最低でも三ヶ月、可能なら半年ほど。俺がエステルを強く欲しているアピールを何度も行い、その噂の広がり具合を見て、元領主様が根負けした形を取らなければならない。
「じゃあさ、じゃあさ!」
「んっ!?」
「わ、私を……。そ、その……。ニ、ニートのお妾さんにしてくれない?」
「へっ!?」
しかし、エステルの考えは違った。即座にとか、最低でも三ヶ月後とかレベルじゃない。
頬をほんのりと紅く染めて、恥ずかしそうに視線を二度、三度と伏せた後、俺が用意している『メイドさん』の立場を遥かに越えた立場を求めてきた。
思わず絶句して茫然となりかえるが、揺れながらも期待に満ちたエステルの上目遣いが俺の胸をドッキーンと高鳴らす。
両手を祈る様に胸の前で組み、身体を微かにもじもじと揺する可愛すぎる仕草も相まって、鼓動はより加速してゆく。
「ご、ご領主様だって、お妾さんが二人居るんだもん!
だ、だったら、ご領主様より偉いニートなら大丈夫だよね? 私がお妾さんになっても良いよね?」
「ま、まあ、それは……。う、うん、平気だと思う。
……って、待て待て! 自分が何を言っているのか、それが解っているのか!」
「だ、大丈夫! あ、安心して!
み、身分を弁えて、奥様をちゃんと立てるから! ご、ご領主様もそれで苦労しているしね! わ、解ってるよ!」
「そ、それなら、俺も安心だな。や、やっぱり、奥さん同士の仲が悪いのは……。
いやいや、違うって! 妾になるって事はだな!
俺とお前が……。だから、まあ、その……。アレだ。うん、アレだぞ? 俺の雄しべをお前の雌しべに……。」
俺達がまだ何も知らない只の子供だった頃。
こうして、エステルが俺にお願いを迫り、俺が断りきれずに困り果てていると、コゼットが代わりに断ってくれ、俺のエステルへ対する甘さをいつも叱ってくれていた。
だが、俺が首を横に振れないのは俺がエステルに甘いという理由だけでは無い。
約十年ぶりに再会した今のエステルは俺の好みにピタリと嵌りすぎていた。顔、胸、腰、お尻、そのどれを取ってもパーフェクトである。
その上、お互いがお互いの子供の頃を知っており、気心が知れているのも大きい。
この先の長い長い人生を共に生きてゆく上で失敗が絶対に有り得ないと解っているのだから。
それでいて、言い訳をもう一つだけ重ねると、エステルが俺の妹分だったのは約十年前の話だ。
約十年間も離れ離れになっており、音信すら不通だった男女の仲を都合良く解釈してしまえば、それはもう只の知り合い同然と言えないだろうか。
その結果、本能と理性が激しく鬩ぎ合い、俺の頭は沸騰寸前。考えは纏まらず、言葉はしどろもどろ。
エステルが一歩進めば、俺が一歩下がる。背後にじりじりと後退してゆき、背後を木に阻まれて下がれなくなり、最後の抵抗にエステルから視線を逸して外す。
「そう……。ニートもそうなんだ。
うん、良いよ。もう解ったから……。ごめんね。変な事を言っちゃってさ」
その途端、エステルの表情が一変した。
まるで感情を削ぎ落としたかの様な真顔となり、同時に喜びと期待に満ちていたエステルの瞳から輝きも消える。
しかし、それは見間違いだったかと感じてしまうほどの一瞬の出来事。
目を瞬きさせると、立ち止まったエステルが目の前でニッコリと微笑んでいた。
「ちょっと待て。俺もって、どういう意味だ?」
だが、その瞳だけはがらんどうなままで感情が感じられず、笑っていながら笑っていない。
慌てて顔を正面に戻す。エステルの急変ぶりも気になるが、それ以上にエステルの言葉に引っかかるモノを感じた。
「だって、お手付きは嫌なんでしょ?」
「なっ!?」
「あはは……。ごめんね。困らせちゃって……。
でも、私なら大丈夫だからさ。……うん、そうだよ。今まで一人でやってこれたんだもん。これからだって……。」
そして、返って来た応えに目を愕然と見開きながら言葉を失うしか無かった。
同時に全てを悟る。エステルが約十年前のあの出来事から今日までの間にどんな目に遭ってきたのかを。
何度も言うが、エステルは美人だ。スタイルだって申し分が無い。
数多のヒトが集う王都ですら、エステルほどの美人はなかなかお目にかかれない。
それに加えて、エステルは元領主様に長らく仕えており、その信頼も厚い。
この点だけでも普通に考えたら、元領主様が治める村や街の村長や名主が元領主様との繋がりを求めて、エステルを自分達の息子の嫁に欲する筈だ。
ところが、エステルは未だ独身である。
年齢的に平民の適齢期を過ぎかけてさえもいる。
元領主様がエステルを手放そうとしなかったと言ったらそれまでだが、恐らくは違う。俺は逆だと考える。
十年前のあの出来事は元領主様の落ち度でも有る。その責任感からエステルの幸せを願い、エステルへ縁談を積極的に持ちかけていたのではなかろうか。
しかし、一人ではない筈の縁談相手の男達はエステルの男性恐怖症を前に悉く散った。
より正確に言うなら、公爵家嫡子であるブタとの関係を知った途端に尻込みしたのだろう。
エステルの美人さを考えたら、男性恐怖症はエステルを諦める理由としては小さい。
むしろ、エステルを口説く上で男性恐怖症という障害は愛を燃え上がらせるスパイスになり得る。
だが、愛が燃え上がれば、愛する相手へ触れたくなるのは当然の理。
最初は紳士的に自制が効いていても、それが次第に効かなくなってゆき、エステルは拒んで、拒んで、拒み続けるが、最後は拒み続けられなくなり、自分が男性恐怖症を患っている原因を明かしたに違いない。
それで燃え上がった愛の炎は一気に鎮火。恋は驚くほどにあっさりと終局を迎える。
エステルに手を付けたのが公爵家の嫡子と知ったら、平民は勿論の事、貴族ですらエステルをあっさりと諦めてしまうだろう。
いや、逃げ出してしまうと言った方が正しいか。
それをエステルは何度も経験する内に絶望して諦めてしまった。もう自分は誰とも結婚する事が出来ず、老いてゆくしかないのだと。
今日、もう何度目になるのかすら解らないブタへ対する怒りを覚えて、奥歯をギリリと噛み締める。
ブタに恐れをなして、エステルから逃げ出した情けない男達へ対する怒りを覚えて、握り拳を力強く作る。
だが、エステルは憤っている暇を与えてはくれなかった。
俺が言葉を失って考え込み、自然と落ちていた視線を上げると、もう話は終わりと言わんばかりに背を見せて先に歩き出していた。
「馬鹿! 俺が嫌だと言ったか! 言ってないだろう!
ただ、俺とお前は兄妹の様なもので……。
それにお手付きだからって、何だって言うんだ! そんなもの、お前をお妾さんにするかどうかの俺の判断と関係無いだろうが!」
聞いているのか、聞いていないのか。
慌てて呼び止めるが、エステルは立ち止まろうとしない。
こうなったら、強硬手段である。
エステルを走り追い抜き、その行く手に両手を広げながら立ち塞がる。
「……ったく! お前は不貞腐ると昔からいつもそうだ!
大人になったのはそのデカい胸だけか? 話を聞け! 俺の目をちゃんと見ろ!」
ところが、これも無視される。
エステルは俺を無視して目もくれず、俺の左脇を抜けようと進路を変える。
ここはトリス砦が在る山の裏側。来た道を随分と戻ってきてはいるが、トリス砦までまだ遠い。
それだけにどんなに泣こうが、叫ぼうがその声はトリス砦まで届かない。
だったら、今というチャンスを絶対に逃してはならない。
離れ離れになっていた約十年間を本気で取り戻そうとするなら、俺達は心の内に抱え込んでいる本音をもっとぶつけ合わなければならない。
しかし、トリス砦へ戻ってしまえば、それも出来なくなる。
他人の目と耳が避けられない以上、俺はインランド王国貴族の立場に戻り、只のニートで居られなくなる。
十年前のあの日、俺は自分が傷つく事を恐れて、エステルの前から逃げ出した。
それが長い長い後悔に繋がり、エステルと再会する今日という日を迎えるまで十年以上もかかった。
言い換えるなら、十年ぶりのチャンス。
今、ここで傷つくのを恐れて、また逃げ出したら、俺とエステルの道はもう二度と絶対に交わらず、この時を死ぬまで後悔し続けるのは目に見えていた。
だから、俺はエステルの前に何度でも立ち塞がる。
エステルが進路を右に変えるなら俺も右に、左に変えるなら俺も左に立ち塞がり、ここから一歩も前に進めさせない。
「何よ! 何よ! 何よ! ニートだって、知っているでしょ!
私、初めてじゃないんだよ! 私、あの男に……。あの男に……。あの男に!」
それを何度か繰り返していると、エステルは遂にキレた。
立ち止まって暫く俯いた後、握り拳を作りながら肩をブルブルと震わせ始めたかと思ったら、涙をポロポロと零す泣き顔を勢い良く上げて、感情を大爆発。森に木霊が響き渡るほどの大声をあげた。
どうやら、男性恐怖症の原因はブタだけでは無いらしい。
エステルが持っている常識、観念、価値観も一因になっている様だ。これを覆すのは容易でない。
「それがどうした!」
「えっ!?」
「それがどうしたと言ったんだ! もし、そんな下らない事で気に病んでいるなら教えてやるよ!
俺なんかな! お相手をした女性の人数を言わせたら、もう数えきれないくらいだ! なにせ、新しい街へ行く度に娼館へ必ず行っているからな!」
だが、俺にとったら問題にもならない問題である。
俺はブタに畏怖など一度も感じた事は無いし、エステルが新たに問題提起してきた所謂『処女信仰』も持っていない。
後者に関する理由は今告白した通り。
自分が良くて、他人は駄目。そんなものは只の我儘に過ぎない。
正直に言ったら、前の世界の価値観を引きずる俺は小さな『処女信仰』も心の片隅に嘗ては引きずっていたが、いつの間にか気づいたら捨てていた。
「しょ、娼館って……。あ、あの?」
「あの、で合っているかは知らないが、俺の通っているところは綺麗なお姉さんにお金を払って、少しの間だけ恋人になってもらうところだ」
しかし、エステルにとって、自分と相反する俺の価値観はやはり受け入れ難いものらしい。
エステルは俺の唐突な告白に見開いた目をパチパチと瞬きさせると、『娼館』と口にするのも嫌なのか、眉を嫌悪感に一瞬だけ歪ませたのを俺は見逃さなかった。
「え、ええっと、その……。コ、コゼットやさっき教えてくれた奥さんに悪いと思わないの?」
「当然、思う! だけど、ソレはソレ、コレはコレだ!
だって、プロの技って凄いんだぞ! 最近の話をするなら、俺はネプルーズのシスティーちゃんにもうメロメロだ!」
今、議題に上がっている問題に完全な正解は無い。
俺が持っている価値観も、エステルが持っている価値観も正解である以上、ここは押しの一手。
斬り込んでゆく突破口を作る為、将来の不安材料となりかねないルシルさん達に黙っている秘密すら明かすのも辞さず、押して押して押しまくる。
「へ、へぇぇ~~~……。」
「どうだ? こんな俺にガッカリしたか?」
「うん、ちょっとだけ……。」
その甲斐あって、エステルの勢いが落ちてゆく。
先ほどまで溢れていた涙は止まり、エステルは半ば茫然自失の状態。
ここが攻め時と議題を戻し変えて、解答を濁したエステルへ容赦の無い矛盾を突きつける。
「なら、俺のお妾さんになるのは嫌になったか?」
「それは……。」
「経験人数で言ったら、俺はお前の何倍、何十倍も居るんだ。当然 お前がさっき言っていた理由で言うなら嫌になったよな?」
エステルは明確な反論を見つけられないでいるのだろう。
言葉になりきれない声を何度も発しては口籠るを繰り返し、その様子に『来るぞ、来るぞ』と身構える。
「……狡いよ」
「狡い? 何が狡いんだ?」
「だって、男と女じゃ違うもん! ニートは男で私は女だもん!」
案の定、エステルは再び感情を爆発させた。
最初はボソリと小さく呟き、次にあらん限りの声を張り上げ、その大声に木々に止まっていた鳥達が驚いて一斉に羽ばたいてゆく。
「そう、それだ。その考えがおかしいと思わないか?
どうして、男と女で違うんだ? どうして、男は良くて、女は駄目なんだ?」
その音が完全に静まるのを待ってから問いかける。
だが、重ねて言うが、この問題に正解は無い。ヒトが人生を賭けても正解を得られない哲学だ。
「だって、ママが……。ママが言ったもん! そう言ったもん!
女の子は絶対に大事なところを旦那様以外の男の人に見せたら駄目だって!」
当然、人生の半分も生きていないエステルに解る筈が無い。
エステルは下唇を悔しそうに噛み締めながら俺を上目遣いに睨み付けると、責任を自分の母親へ押し付けた。
その言葉に『やはり』と思いながら懐かしさと共に思い出す。
エステルの父親はヒッキー村の生まれだが、エステルの母親は違う。エステルの父親が兵役に赴いた先で見つけ、村へ連れて帰ってきた女性である。
新参者の我が家が村の端っこに在った様にエステル一家の家が村の端っこに、我が家と小川を間に挟んだ真正面に在ったのはそれが理由だ。
その為、エステルの母親は村の生まれの者達とは違った価値観の持ち主だった。
今にして思えば、エステルの母親はもしかすると元々は何処かの商家の娘さんか、貴族の御令嬢だったのかも知れない。
その根拠が今議題となっている『処女信仰』に他ならない。
この世界において、この価値観を持つのは生活に余裕が有る裕福な家に育った者に多い。
端的に言ったら、財を成している商家や高位の爵位を持つ貴族になる。
何故ならば、この世界の社会構造は血統重視の身分制度に基づいたもの。
今在る場所を維持するには同格と結びつかなければならず、上を目指すなら格上を結びつかなければならない。
けれども、男性は自分の子供が本当に自分の子供かを確かめる術を持っていない。
極論を言ってしまえば、真実は女性が全て持っており、男性は胸に抱く子供を女性から自分の子供だと言われたら信じるしかない。
その不安をゼロに少しでも近づけようとするのが『処女信仰』である。
国王の妻達が暮らし、国王以外の男性の入退場を原則的に禁止する後宮なんて、その極みと言えよう。
一方、庶民の性は大らかなもの。
社会的な違法と既婚者の不義密通はさすがに強く戒められているが、未婚者同士の場合は問題が発生しない限り、とやかく言われたりしない。
この傾向は辺境にゆくほど顕著となり、バカルディの街の様な都市部では見られないが、辺境では前の世界で言うところの『夜這い』の様な風習が当たり前の様に存在する。
余談だが、ここまで何度も『処女信仰』という言葉を用いているが、これは俺が前の世界を知っているが為の便宜上のもの。
この世界に『処女信仰』という倫理はあっても言葉は無い。俺は敵と戦う上でその思考性を知る為の手掛かりにロンブーツ教国が国教にしている火の教会の聖典、アレキサンドリア大王国が国教にしている風の教会の聖典、ミルトン王国がが国教にしている光の教会の聖典の三冊を読んだが、いずれにも『処女信仰』が生まれる様な教義やエピソードは入っていない。
七代教会が元々は一つだった過去を考えると、残り四つの聖典も同様だと考えられる。
聖典の教えは基本的に『産めよ、増えよ、地に満ちよ』であり、明確な姦淫と定義されているのは既婚者の不義密通くらい。快楽の為の性交渉は控えろと言ってる程度で禁じておらず、庶民のものに近い。
しかし、これ等をエステルへ説いたところで意味は無い。
こういった問答をする時に最も必要な事はまず相手の考えを受け入れる事だ。真っ向からぶつかり合っては反発を招くだけ。
「そうだな。おばさんが言っている事は正しい。誰も彼もが好き放題にしたら、ヒトは獣に成り下がってしまう。
俺達、ヒトが社会を成り立たせているのは道徳と倫理を持っているからこそ。それがヒトをヒトたらしめている。
だけど、俺達が住んでいるこの世界は過酷だ。理想を目指すのを諦めてはいけないが、理想だけでは決して生きていけない。
例えば、さっき教えたシスティーちゃんの身の上話をすると、彼女はお前より年下の十九歳。元孤児だ。
まあ、戦争をやっている今のご時世……。孤児なんて珍しくも無い。トリス砦の子供達だって、実質はそうだ。
彼女の場合、元々住んでいた村が東部地方に在り、戦火が及ぶ前に両親と一緒に王都を目指して逃げてきたらしい。
しかし、ネプルーズの街を目前にして、モンスターの襲撃に遭い、両親はその時に……。
さて、ここで問題だ。この当時、システィーちゃんは十四歳で持っているモノは自分の身一つのみ。
教会の施しを受けて生きてゆく事も可能だが、それも有限だ。生きてゆく為には働かなければならない。
だが、両親を亡くして、身寄りが一人も居ない。ネプルーズは初めて訪れた街で右も、左も解らない。こんな状況で職に就けると思うか?」
広げている必要が無くなった腕を組みながら語る。
最初は事務的な受け答えしかしてくれなかった無愛想なシスティーちゃんが何度も通う事で心を少しずつ許してくれ、寝物語に語ってくれた身の上話を。
エステルは気づいてくれるだろうか。
今、話しているシスティーちゃんの例はエステルにも有り得た可能性だったのを。
エステルは解ってくれるだろうか。
元領主様の庇護を得られた今日までの約十年間がいかに恵まれた状況であり、どんなに幸せなのかを。
「いいや、どう考えても無理だ。
その時のシスティーちゃんは田舎育ちの只の女の子。持っている技術と言ったら、簡単な農作業くらいしか無いんだから当然と言える。
でも、両親が我が身を犠牲にしてまで生かしてくれた命を粗末にする事なんか出来ない。……だから、彼女は娼館の門を叩いた。
エステル、お前は彼女のこの決断をどう考える? 今日を一生懸命に生きて、明日を繋げようとする彼女の努力を間違っていると言えるか?」
エステルは何も答えない。
いつしか、俺を睨み付けて刻んでいた眉間の皺は消えており、その眼差しも伏せられて顔を俯かせていた。
「なら、もう一つだけ教えてやろう。俺がネプルーズを離れると知った時、彼女はこんな事を言っていた。
最初は後悔もした。何故、自分ばかりがって世の中を恨んだりもした。
だけど、今は違う。あの時の私にはこの道しか無かったし、この道を歩いてきたから今が有るって解ったから。
それに今は夢がある。いつの日か、市民権を取り戻して、素敵な旦那様と一緒に暮らすの。その為にも今は頑張って、お金を貯めないとね。……だったかな?」
最早、エステルは完全に沈黙。俺の独壇場である。
幼い頃から躾けられた価値観を否定された上に言い返せず、悔しくて悔しくて仕方が無いのだろう。
声こそ漏らしてはいないが、エステルは肩を震わせてしゃくり上げている。
ちなみに、話題のシスティーちゃんに関して。
実を言うと、今の言葉にはもう一言だけ続きが有る。それがこれだ。
『あぁ~あ……。その旦那様がロバートさんだったら良いのにな』
言うまでもないが、ロバートとは俺の偽名であり、俺の事を指している。
例え、これが営業トークだとしても、俺はもうメロメロで最近はシスティーちゃんの身請けを真剣に考えていたりする。
しかし、その前にティラミスが許してくれなければ始まらない。
きっと事後承諾でもティラミスは許してくれるだろうが、それはやはり気が引ける。
これに関してはエステルも同様だ。
勝手にお妾さんを作ってしまうのは、ティラミスに申し訳ないというのが一番大きい。
「なあ、エステル……。お前はもう十分に苦しんだ。
十年前のあの出来事を忘れられないとしても、その過去に縛られるのはもう止めろ。
お前を苦しめていた奴はもう居ない。この世の何処にも居ないんだから……。
そして、今まで苦しんだ分だけ幸せになれ。幸せになって、十年前のあの出来事の記憶を塗り潰してしまえば良いんだ」
「じゃあ、ニートが幸せにしてよ! 私をお妾さんにしてよ!」
「ああ、良いだろう。お前がそれを望むのなら」
従って、エステルのお願いを頷く訳にはいかない。
だが、泣き顔を見られたくないのか、俯いたままで声の限りに叫び、理屈をすっ飛ばして結果だけを求めてきたエステルに俺は頷いた。
どうして、頷いたのか。それはこれが駆け引きだからだ。
少し卑怯に感じるが、これがベストでないにしろ、ベターなやり方だと信じて、俯いているエステルが感づくよりも早く歩み寄り、エステルの腰を右手で抱いて引き寄せる。
「嘘! 嘘、嘘、嘘! そんな事を言って、本当は!」
「嘘じゃないさ」
「えっ!? ……い、嫌ぁっ!?」
その瞬間、森に悲鳴が響き渡り、俺はエステルに思いっきり突き飛ばされた。
******
「ち、違うの。ニ、ニート、違うの……。こ、これは……。」
一陣の風が吹き、森の木々が葉を揺らして音をザワザワと立てる。
それはまるで今のエステルの乱れきった心を表しているかの様だった。
エステルは茫然と両手を突き出した体勢のまま。
目を大きく見開きながら首をぎこちなく左右にゆっくりと振り、今さっきの反射的な行動が自分の本当の意思でない事を訴える。
だが、身体は嘘を付けない。
身体全体が嫌悪感に未だ震えており、俺から距離を少しでも取ろうと後退ろうとするも恐怖に縛られ、右足を下げただけで立ち竦んでいる。
「ああ、解っている。解っているけど、お前も解るだろ?
お妾さんになるって言うのなら、さっき程度の事でいちいち嫌がっていたらお妾さん失格だって……。」
尻餅を突いた体勢から、動揺しきったエステルの様子を見上げて確信する。
表現としては適切でないかも知れないが、これで勝負は完全に俺の勝ちだと。
そう、エステルが俺のお妾さんになる上で障害となるのはティラミスの許可だけでは無い。
兄妹同然に育った俺ですら触れる事を許さないエステル自身が患っている男性恐怖症こそが最大の障害であり、まずはそれを治さなければ何も始まらない。
例え、エステルが自分で俺のお妾さんだと幾ら名乗ろうが、それに相応しい関係が俺とエステルの間になかったら周囲はエステルを俺のお妾さんと認めない。
「なあ、エステル。さっき、俺は今まで苦しんだ分だけ幸せになれとは言ったが、焦る必要は何も無いんだ。
俺も、お前もまだ若い。時間はこれから幾らでも有る。ゆっくりと幸せになっていけば良いんだ。
俺も焦らない。約束する。一年、二年、三年……。いや、十年、二十年だって……。その時まで幾らでも待つよ」
これにて、一件落着である。
エステルを諭しながら立ち上がり、ズボンに付いた土を手で払う。
ところが、エステルからの反応は無い。
言葉を言い切った後も俺がズボンを払う音だけが響き、不思議に思って視線を戻すと、エステルはスカートの両ウエスト下にあると思われるポケットを何やら忙しなく探っていた。
「だから……。んっ!? 何だ?」
長さは片手ほど、太さは人差し指ほどの焦げ茶色の布紐。
暫くして、ソレが目の前に差し出すと言うより勢い良く突き出されて反射的に受け取る。
エステルの意図が読めない。
手の中の布紐を観察してみるが、何処をどう見ても何の変哲のない布紐であり、こんなものをどうするのかとエステルへ視線を戻すと、決意に満ちたエステルの強い眼差しが俺を射抜いていた。
「それで私を縛って!」
「ふぁっ!?」
「私が動けない様に縛るの! そうすれば、大丈夫でしょ!」
「ちょっ!? し、縛るって……。ええっ!?」
そして、驚天動地な布紐の使い道がエステルの口から明かされる。
驚愕のあまり間抜けな声を出して我が耳を疑うが、二度も重ねて言われたら自分の耳が確かだったと認めるしかない。
混乱が極みに達して、ただただ茫然と言葉を失う。
しかし、エステルは今度は何やら忙しなく辺りをキョロキョロと見渡して、俺など目もくれない。
「それで……。」
「お、おいっ!?」
やがて、何かを見つけたらしい。
いきなりエステルが前触れもなく走り出す。
モンスターが出没する様な危険域からは既に脱しているが、森は何が起こるか解らない場所。油断は出来ない。
慌てて我を取り戻して、エステルの背に右手を伸ばしながら追いかける為に駆ける。
「ほら! こうすれば、もう絶対に動けない!」
だが、必死になって追いかけるまでもなく、エステルはすぐに立ち止まった。
背を向けたままで立ち止まり、その場に膝立ちすると、倒木の上に上半身を乗せて腹這いになり、交差させた両手首を腰の上に乗せた。
「えっ!? ……ええっ!?」
ここまで至れば、エステルの意図は明白だった。
冷たい汗が背筋を流れてゆくのを感じながら顔を引きつらせる。
多分、説明の必要は無いと思われるが、敢えて説明しよう。
まずはエステルの両手首を渡された布紐でしっかりと縛り付ける。
次に膝立ちしているエステルの両脚を開かせて、その間に俺も膝立ちして割って入り、エステルの両端を固定する。
最後はエステルの背中を押さえつける様に伸し掛かりさえすれば、これでエステルは身動きが難しくなり、あとは俺の好き放題である。
唯一、エステルが自由になるのは口のみ。
エステルは猛烈に泣き叫ぶだろうが、先ほども言った通り、どんなに泣こうが、叫ぼうがその声はトリス砦まで届かない。
ここまで説明したら、もうお解りの筈だ。
ソフトではあるが、それは紛うことなき、SとMの世界に他ならない。
怖かった。怖くて、怖くて仕方が無かった。
エステルの願いを叶えてしまったが最後、俺は新たな境地を開眼してしまいそうで怖かった。
しかし、改めて補足するが、エステルが今着ている服はメイド服である。
嘗て、何度も妄想した夢のシチュエーションが手を伸ばしたら届く場所に有るのだから堪らない。
ある意味、それは前の世界のサブカルチャーを知るが故の苦しみであり、呪い。
好奇心が男の欲望を駆り立て、胸が痛いほどに早鐘を打ち、鼻息が荒くなってゆく。
「さあ、早く! 早く縛って! 私を縛って!」
「ま、待てって! お、落ち着けって!」
「ニートは待てても、私は待てないよ!
だって、十年も待ったんだもん! もう十年なんて無理だよ!」
エステルが叫ぶ度、左右にフリフリと揺れるお尻。
それは恰も俺を誘っているかの様であり、乾いた喉が唾を飲んだ拍子にゴクリと鳴らす。
俺は重大な秘密を知っていた。
エステルは先ほどお漏らしをしてしまったが為、そのスカートの中身が今は『履いていない』状態である事実を。
「さっき言ったよね! あんな出来事なんて塗り潰してしまえば良いって!
だけど、私には無理だよ! だから、ニートが塗り潰して! 全部、忘れさせて!」
既に俺のアレは臨戦態勢を整えて、一発触発な状態。
これ以上、エステルを見続けているのは目の毒でしかない。危うくなりかけている自制心を取り戻す為にエステルから顔を背けようとしたその時だった。
「くっ!? ……ど、どうなっても知らないからな! お、 主に俺が!」
一陣の風が吹き、地面の落ち葉を浚うと共にエステルのスカートをフワリと舞い上げる。
数瞬の僅かな間ではあったが、エステルの白いお尻が露わとなり、それが俺の網膜に焼き付けられた瞬間、俺の中の何かが弾けて飛び散った。
******
「このヒト達、誰? ニートの知り合い?」
嬉しい再会が有り、まさかの大波乱も有ったトリス砦。
引き渡しの作業が全て終わると、空はもう茜色に染まっており、帰るのが少し面倒になって、そのままトリス砦での宿泊を一考するが、やはり寝るなら慣れた自分の幕舎である。
また明日から始まる新たな戦いに備えて、英気を養おうと自陣へ帰ってきた俺を待っていたのはルシルさんであり、ララノアであり、サビーネさんであり、真の大波乱だった。
「心配して敵地へ送り出したニート君が新しい女を捕まえてきた件に関して……。」
「判決……。死刑」
「ティラミス、ごめんなさい。貴女にあれほど言われたのに……。」
検事三人、弁護人一人、傍聴人一人の圧倒的不利な状況で開廷された新しいお妾さんを連れてきた俺へ対する弾劾裁判。
それは三日間に及び、一日目の夜はルシルさんに、二日目の夜はララノアに、三日目の夜はサビーネさんに朝まで二つの意味でこってりと絞られ、三日間連続の徹夜を強いられる事となる。
「俺……。この戦いが終わったら、システィーちゃんに会いに行くんだ」
そして、四日目の夜。今夜こそ、ゆっくり一人で眠れるかと思いきや、エステルが自分の枕を不安そうに抱えながら俺の寝室を訪れる。
斯くして、ルシルさん、ララノア、サビーネさんの三人で回っていたローテションにエステルが新しく加わり、俺の自由な夜はまた一日減った。