第07話 偽りと真実の狭間で
「嫌!」
「いっ!?」
ヘクターと元領主様に続き、三人目となる突然ながらも懐かしいエステルとの再会。
思わず右手がエステルへ伸びるが、それは目指していたエステルの肩を触れるどころか、伸ばしきる前に勢い良く打ち払われる。
その強い拒絶に目を愕然と見開きながら言葉を失った。
頭の中は『何故? どうして?』の言葉で満ち溢れて、混乱大パニック。
何かの間違いだと信じたかったが、右手のひりつく痛みが一瞬前の出来事を再確認させる。
「えっ!? ……あっ!? ち、違うの。ニ、ニート……。
わ、私……。わ、私……。わ、私……。ち、違うの! ご、ごめんさない!」
ひょっとして、エステルは俺が俺だと気づいていないのだろうか。
そんな淡い期待を抱くが、まるで時が止まったかの様な一拍の間の後、それはあっさりと打ち砕かれる。
今、エステルは俺の名前を呼んだ。
か細く震える声ではあったが、俺の耳はしっかりと聴き捉えた。
それは俺が俺だと解っている証拠に他ならない。
やはり恨んでいるのだろうか。約十年前のあの日、慰めの言葉を一片すらも残さずにエステルの前から姿を消してしまった俺を。
だが、それならそれで感情をもっと爆発させていてもおかしくは無い。
罵詈雑言の嵐を浴びせて、平手打ちの一発や二発が飛んでくるくらいあってしかるべきだ。
ところがところが、エステルが次に取った態度は否定であり、更には謝罪という支離滅裂なもの。
首を左右にゆっくりと振りながら、一歩、二歩、三歩と後退る毎に涙を瞳に溜めてゆき、それがとうとう零れ落ちた四歩目に踵を返して、この部屋から駆け出ていった。
「エステル!」
即座にエステルを追いかけようとするが、前に踏み出せたのは右足の半歩だけ。
今、俺はこの場に公人として在る。与えられた己の役目を放り投げて、私事を優先する訳にいかず、左足は前に出せなかった。
しかし、気になるものは気になる。
この場に残る事を選んだ俺だが、とても仕事が手に付きそうに無いほど心は散り散りに乱れまくり。
そもそも、エステルがこんな最前線の砦に居るのは何故なのか。
コゼットの行方を捜すのと並行して、エステルの行方も探していた為、実はエステルの所在はとうの昔に知っていた。
残念ながらと言うべきか、やはりと言うべきか、あんな事件があっては村に居辛くなったのだろう。
エステルの一家は事件後にヒッキー村から元領主様が本拠地を構えている街へ引っ越しており、元領主様の館で働く使用人になっている。
それが元領主様の配慮であるのは間違いなく、この事実一つを取ってもエステルがここに居るのは不自然と言うしかない。
ミルトン王国北部地方の苦しい徴兵事情は既に知り得ているが、元領主様の人となりを考えるとエステルの様な若い女性を兵士として最前線へ送るくらいなら、国や軍からの罰則を甘んじて受け入れる選択肢を選ぶのではなかろうか。
幸いにして、それ等全ての答えを持っている元領主様は目の前に居る。
エステルが去り、混乱は焦燥へと変化。元領主様へ全ての答えを求めようとした次の瞬間だった。
「失礼ですが……。もしや、コミュショー卿は彼女とお知り合いで?」
「お知り合いも何も、エステルは……。」
俺とエステルの関係を知らない筈が無い元領主様がトンチンカンな事を言い出した。
その戸惑いは焦燥の中に苛立ちを生み、声が自然と荒くなりかけるが、すぐにはたと気付かされる。
今、この場には完全な第三者であるジェックスさんも一緒に居る。答えを得ようとするのなら、その代償に俺とエステルの関係を明かさなければならず、それは俺がインランドの騎士になる上で捏造した経歴を否定するのも同義だと。
インランド王国宮廷が発行している貴族年鑑。
そこに記載されている俺の経歴を簡単に一言で言うなら、俺はレスボス侯爵家の血を持つインランド王国生まれの元ミルトン王国民だ。
俺の出生地とされているドゥーテイ村。
ここは既に存在しない。インランド王国がオーガスタ要塞を攻める上で手頃な位置に在り、前線基地として度々用いられていたドゥーテイ村は二十年ほど前にあったミルトン王国の大侵攻で焼き尽くされており、その後は再建の目処が立たないままに廃村となっている。
また、ドゥーテイ村は約五百人が暮らす中規模の村だったらしいが、その当時を知る者は今や十数人程度しか居ない。
殆どが殺されているか、ミルトン王国の捕虜となっており、今はもう完全に行方知れずであり、俺の書類上の父であるハイレディンがドゥーテイ村の愛人に子供を生ませた事実だけが生き残った者達の記憶だけに残り、俺の正確な出生は調べようにも調べられなくなっている。
その上で作られた捏造ストーリーが以下の通り。
大侵攻の際、生まれたばかりの俺を連れた母親はミルトン王国の捕虜となってしまうが、ミルトン王国後方へ護送される途中、幸運に恵まれる。
自他とも大の女好きと認める父のハイレディンを見初めた美貌がその地を治める領主の目に留まり、母親は熱烈なアプローチを受けて、俺の養育を条件にその領主の愛人となる事を決意。俺と母親はミルトン王国の市民権を手に入れ、その領主が治める地に居を構えて暮らしてゆく事になる。
その後、領主の本妻と母親の間に確執が有ったり、本妻の俺へ対する様々な冷遇が有ったりとサビーネさんが考えてくれたミルトン王国を恨む昼メロ臭い設定が長々と続いてゆくが、ここで重要なのは俺と母親が住んでいたとされている『キモータ村』がミルトン王国東部地方の北に在るという点だ。
これに対して、俺とエステルが育ったヒッキー村はミルトン王国北部地方の最北西に在る。
オーガスタ要塞が陥落する前のミルトン王国全土の地図上で言うなら、キモータ村が右端、ヒッキー村は左端となり、その両端の間に存在する距離を考えたら、俺とエステルが知り合いなのはどう考えてもおかしい。
これがヘクターや元領主様の様に騎士なら話も違ってくる。
今の俺自身が正にそうだが、騎士は君命が下りさえしたら、それが異国の地であろうと戦いに赴かなければならず、その過程で知己は自然と増えてゆく。
だが、エステルは平民であり、女性だ。
この世界における旅がいかに危険か、いかに費用がかかるかは以前に語った通り。
隣町や隣村の住人ならまだしも、知り合いが遠く離れた土地に居るなんて有り得ない。
無論、土地などの財産を継げない結果、止むに止むを得ない事情から生まれ育った故郷を離れて、新天地を目指す者は少なくない。
しかし、そう言った者達は大抵が故郷に二度と帰らず、音沙汰も無くなり、行方知れずとなる。
何故ならば、この世界で手紙は裕福な者にのみ許された特権だからだ。
新天地での日々の生活を確立したとしても、それを伝える手紙を生まれ故郷へ届ける為には平民にとっては決して安くない費用が必要になる。
それ故、戸籍の管理を国が行っている貴族とは違い、その土地土地を治める領主のところで戸籍の管理が完結している平民は血の繋がりを領外に捜す手段を持っていない。
当然、俺とエステルが遠方に住んでいる親戚同士で知り合いという言い訳も通じる可能性は極めて低い。
だからこそ、余計に何故と問いたかった。
俺とエステルの関係を知る元領主様なら、俺とエステルをいきなり再会させた場合、何らかのアクシデントが発生するのは容易く予想が出来た筈だ。
この席にて、エステルが給仕を務める。
そう事前に知らせてくれるだけでも心構えは出来た。少なくとも、今先ほど起こしたの様な失態は確実に避けられた。
まさか、俺をびっくりさせる為に知らせなかった訳では無いだろう。
正直なところ、ヒトの気持ちを思いやる心を持った元領主様らしからぬ行動と言う他は無く、その思惑が読めない。
なら、元領主様の思惑の外で起こったアクシデントかと言ったらそれは違う。
トリス砦に関する譲渡目録を受け取った今、トリス砦の降伏は成ったも同然だが、あくまで同然であって、まだ正式には成っていない。
今、急ピッチで行われているミルトン王国兵士達の砦退去。
それが済んだら、今度は我が軍の兵士達が入れ替わる様に入場して、砦内の安全が完全に確保された後、本命のジュリアスが入場。この総司令官官舎へ到着して、正式な降伏は成る。
言い換えるなら、この席はそれまでの場繋ぎに過ぎないが、それでも大事な席であるのは変わらない。
その大事な席に粗相が有ってはならず、給仕役の人選に元領主様の考えが入っているのは当然であり、元領主様は今の状況を望んでいた事になる。
ところが、それが何故なのかもまた問えないのだから堪らない。
それでいて、何らかのアクションを可及的速やかに起こす必要が有るのだからもっと堪らない。
間を与えてしまったら、今先ほど晒してしまった挙動不審さについて、ジェックスさんが質問してくるのは目に見えていた。
もっとも、ジェックスさんなら俺の本当の素性を知ったところで態度を変えたりせず、それをスキャンダルのネタにしたりはしないだろう。
むしろ、逆に俺の身の回りを親身になって心配してくるのではなかろうか。俺から見たら、ジェックスさんは十歳も年上になるが、それだけの友情が俺とジェックスさんの間に有ると俺は感じている。
ただ、そのタイミングが今で無いだけ。
あとおっさんやティラミスの様にどうしても知る必要性に迫られてか、ネーハイムさんやヘクターの様にたまたま知り得る結果となった者達は別として、真っ先に告げなければならないのはジュリアスだと考えてもいた。
「おっと、その前に……。申し訳ありませんでした」
「なっ!?」
「彼女とコミュショー卿がどんな関係であれ、今の無礼な態度は頂けません。彼女に代わって、謝罪を致します」
「いや、その……。別に怒っていませんから、頭をどうか上げて下さい」
結局、どうしたら良いのかが解らずにまごついていると、元領主様の方から行動に打って出た。
席を徐に立ち上がり、何をするのかと思ったら、エステルが開けっ放しのままにしていったドアを閉めた後、そのドアを背に俺と正対して、いきなり頭を下げたのである。
それも踵を揃えながら姿勢をしっかりと正して、腰まで深々とだ。
一メイドの不始末を詫びるにしては丁寧が過ぎるその謝罪に息を飲みながら直感的に悟る。
エステルの非礼を言葉の上では謝罪しているが、これはエステルの存在を隠していた上にいきなり鉢合わせた事に対する謝罪に違いない。
この直感が正しいとするのなら、やはり何らかの思惑が有っての行動となる。
こうも元領主様に頭を深々と下げられては謝罪を受け入れないという選択肢は元より無いのもあるが、ここは元領主様に任せるのが正解かと考えて、望んでいるだろうままに謝罪を素直に受け入れる。
「ありがとうございます。実は彼女……。男が怖いのです」
「男が怖い?」
「はい……。掃除、洗濯、炊事、そのどれを取っても申し分無い働き者なのですが……。
接客だけはあの通り……。何とか克服させようと試みてはいますが、改善はさっぱり見られず……。」
そして、その選択は正しかった。
正に求めていた答えが元領主様の口からずばり明かされ、エステルが所謂『男性恐怖症』を患っている事実は思わず眉を寄せてしまう新たな懸念を与えたが、その一方で胸をホット撫で下ろす結果を生んだ。
俺はエステルに拒絶された訳では無かった。
一見すると、強い拒絶に見えたエステルの先ほど反応は所謂『男性恐怖症』の為であり、それが理由ならその後に続いた謝罪の意味も理解が出来る。
恐らく、エステルは男は男でも子供の頃に慕っていた俺なら触れられても大丈夫と期待を抱いていたのではなかろうか。
だが、現実は違った。俺がエステルを触れようとした瞬間、『男性恐怖症』を発症してしまい、そんな自分に落胆すると共に俺へ対する罪悪感を感じて謝罪したのではなかろうか。
一旦は鎮火した憎しみの炎が再び燻り始める。
エステルが『男性恐怖症』に苦しんでいるのは十年前のあの事件が発端となっているに決っている。
死後になってさえ、エステルを苦しみ続けさせているブタが憎くて堪らない。何処に保管したかは知らないが、今もネプルーズの何処かに保管してあるだろう塩漬けされたブタの首を探し出して、思いっきり蹴飛ばしてやりたい気分だ。
その思いは元領主様も同じらしい。
平静を装ってはいるが、両手が力一杯に握り締められて、肩が微かに震えており、俺と元領主様の間に重い沈黙が漂う。
「それは何と言うか……。下世話な事を言わせて貰えれば、あれだけの美人が勿体無い話ですね」
するとここで蚊帳の外に居たジェックスさんが隙きを突くかの様に口を挟んできた。
確かに成長したエステルは王都でもお目にかかれないほどの美人。事情を知らない者にとって、当然の感想と言えるが、その激しい温度差と軽い口調に思わず苦笑する。
「恐らくはそれ故にでしょう」
「……と言いますと?」
ところが、元領主様は違った。
これでもかと深い溜息を漏らして、沈痛そうな表情を浮かべた。
「今でこそ、私に仕えていますが、彼女は東部地方の北に在る『キモータ』と呼ばれる村の出身です。
しかし、その地はどうなったのか……。今、それを敢えて語るつもりは有りません。
彼女は戦火を逃れて、その地を治めていた私の知り合いの紹介状を手に私を頼ってきたのですが……。
ここまでの道のりは遠い。碌な物を持たず、着の身着のままで女の足なら尚更です。
その道中、どんな苦難に見舞われたのか。彼女の様子を見ただけで簡単に想像が付きます。
彼女を雇って、もう五年近く……。私ですら不用意に近寄れば、あの通り。酷い時は気絶してしまうほどです」
「そうですか……。」
その雰囲気に俺とエステルの関係を、あの十年前の事件を勝手に語るのかと危ぶむも、その舌が紡ぎ出したのは真っ赤の嘘。
そんな元領主様に困惑するが、ジェックスさんを黙らせる十分な効果があった。列べられた嘘八百の重い過去にそのままで居られずに視線を落とす。
「……って、うん?
確か、キモータと言ったら……。昔、大将が住んでいたって場所だよな?」
だが、数拍の間を空けて、ジェックスさんが伏せた視線を弾かれた様に上げた瞬間、元領主様の意図が読めた。
この嘘八百が発想を逆転させた単純ながらも見事な嘘であると。
貴族の戸籍はその貴族が仕えている国の宮廷が管理している。
その為、前述にも有るが、北部地方北西に在るティミング伯爵領を治める元領主様の領民であるエステルと俺が知り合いなのはおかしい。どんなに言い繕っても辻褄が合わなくなり、ちょっと調べただけで嘘が簡単にバレてしまう。
しかし、貴族と比べたら、平民の戸籍を捏造するのは容易い。
これも前述に有るが、平民の戸籍はその平民が住んでいる土地を治める領主が管理しているからだ。
しかも、俺の捏造された経歴の中で育ったとされているキモータ村は出生地のドゥーテイ村と同様にもう存在していない。
オーガスタ要塞から東部地方中央へ伸びる二本の街道の内、北の街道上、オーガスタ要塞から数えて、四番目の位置に在ったキモータ村はオーガスタ要塞からの近さが災いして、オーガスタ要塞陥落時に悲劇が生じさせている。
オーガスタ要塞陥落の立役者であり、当時の様子を知る長女様曰く、それはそれは凄惨なものだったらしい。
本来、この当時にオーガスタ要塞方面へ派遣された軍勢はオーガスタ要塞の攻略を目的としたものでは無かった。
ミルトン王国の大侵攻が十数年ぶりに起こり、刈り取られた版図を取り戻して、ミルトン王国軍をオーガスタ要塞へ押し戻すのが目的だった。
ところが、天運はインランド王国に大きく傾いて、オーガスタ要塞はそれまでの難攻不落さが嘘の様にあっさりと陥落する。
オーガスタ要塞がその地に建造されて以来、戦線の一進一退どころか、国境を一歩たりとも越えられなかったインランド王国である。溜まりに溜まっていた鬱憤は大爆発すると共に狂乱となり、当時の軍勢を率いていた総司令官は国王へ判断を仰ぐ使者を送りながらも、その返事が届くのを待たずに軍勢を越境させて、ミルトン王国へ怒涛の勢いで雪崩込んだ。
なにしろ、あの竹を割った様な男気に溢れる長女様ですら、一時は狂乱に取り憑かれてしまったと言うのだから、それはもう恐ろしいほどの熱気だったのだろう。
これに対して、オーガスタ要塞の難攻不落神話に支えられていたミルトン王国東部地方は非常に脆かった。碌な抵抗も出来ないままに狂乱の炎は東部地方の半分を燃やしてゆく。
特にオーガスタ要塞に近い村や街ほど狂乱の炎は激しく燃え上がり、俺の捏造された経歴の中で育ったとされているキモータ村も再建が望めないほどに破壊し尽くされて、領主一族のみならず、その住民達もが『根切り』に遭っている。
しかし、熱はいつか冷めるものであり、最初からミルトン王国の侵攻など視野に入れていなかった軍勢である。
補給が次第に途切れ始めるとミルトン王国の逆襲が始まり、戦線はジリジリと後退。オーガスタ要塞にまで戻されてしまい、ここでおっさんがミルトン王国侵攻軍の総司令官に任命されて、あの俺と初めて出会った戦いに繋がってゆく。
余談だが、狂乱の炎が燃え盛っている最中、俺は長期の狩りに出かけており、難を運良く逃れた設定になっている。
つまり、ここでも俺の過去を探ろうとしても探れず、同様に元領主様がエステルはキモータ村の出身と言ってしまえば、それが真実となる。
「えっ!? しかし、コミュショー卿はインランドの……。」
「あーー……。それは何と言うか、ちょっと複雑な事情が有りまして……。」
「複雑な事情ですか。……では、この話はここまでにしておくとしましょう」
その結果、ジェックスさんは上手い具合に騙されてくれた。
それも元領主様に誘導されて、俺の捏造経歴の一端を漏らしてしまい、申し訳無さを感じているのだろう。
俺の様子をチラリと窺って、言葉を選びながら言い辛そうに元領主様の質問へ対するフォローまで行ってくれ、心がちょっぴり痛む。
ちなみに、ジェックスさんが言い辛そうにしている理由は俺の捏造経歴を語る上で俺が『庶子』という説明が避けられない為だ。
未だに前の世界の感覚が抜けきれない俺としては生まれなど気にも止めていないが、やはり周囲は違う。俺も、ジュリアスも『庶子』の生まれの為、誰もが気を使い、我等が第三王子派では『庶子』が半ば禁句にさえなっている。
その理由はとても簡単だ。この世界の社会が出自による明確な身分制度で成り立っているからである。
血統を同じくしても『嫡子』の方が高貴、優秀とされ、『庶子』は蔑みや馬鹿にした意味で使われる例が多い。
だが、貴族社会を生きてゆく上で血統の話題は何かと付いて回り、会議などで『庶子』の言葉が出てくるのはどうしても避けられない。
その時の気まずさと言ったら、もう堪ったものじゃない。それを誰かが口走った瞬間に緊張が走り、全員が一斉に息を飲んで動きをピタリと止め、その後は俺やジュリアスの様子をチラチラと窺いながらぎこちない会話が続く。
今回は元領主様が空気を読み、気まずさが漂う前に話題を止めて本当に良かった。
あの気まずさが漂ってしまうと、こちらが逆にもっと気を使うハメとなり、とても疲れるのだ。
ここは乗じて、適当な話題転換を計るに限る。
そう言った意味で取り敢えずは席へ戻ろうとするが、ジェックスさんが顎を右手でさすりながら俺の顔を思案顔でじっと見つめているのに気づく。
「いやいや、待てよ……。
はっは~~ん……。あーー、はいはい……。そう言う事か。なるほど、なるほどね」
「な、何ですか?」
一拍の間の後、何だろうと声をかけるより早く、その表情が変わる。
笑いを堪えるも半ば堪えきれず、顎を引きながら口をニマニマと歪み結んだ半笑いに。
ジェックスさんとの長い付き合いは伊達じゃない。
決まって、この表情を見せる時は誰かをからかおうとしている時だ。嫌な予感がした。
「あれだけの美人だもんな。さぞや、子供の頃から可愛かったんだろう。
だったら、女好きの大将が粉をかけていない筈が無いよな。うんうん、解る解る」
「ちょっ!? 違う!」
「やっぱり、大将は凄えよ。子供の頃から、二股が当たり前だったなんてよ」
「だから、違うって!」
どうやら、ジェックスさんは上手い具合以上に騙されてくれたらしい。
慌てて否定を叫ぶが、ジェックスさんは聞く耳を持たずにニヤニヤとした笑みを深めるだけ。
二股のもう片方はコゼットを指しているのだろう。
ジェックスさんには今まで何度も恋愛相談に乗ってもらっているだけに質が悪い。
「良いぜ。ここは俺に任せて、行って来いよ」
「えっ!? でも?」
「そう言う事でしたら、私からもお願いします。彼女を救って下さい」
しかし、それがまた上手い具合に功を奏する。
ジェックスさんがくれた願ってもないチャンスに驚いていると、元領主様も満面の笑みで頷いてくれ、ここで元領主様の思惑が完全にようやく読めた。
俺とエステルがお互いに離れていた約十年間を埋める為の時間。
それを元領主様は俺とエステルの二人にくれようと骨を折ってくれたのだ。
参謀長の立場に在る俺はトリス砦降伏後の様々な差配でこれから忙しくなる。
この先、少なくとも一ヶ月は書類とにらめっこの毎日となり、エステルとゆっくり話している暇を作るのも難しくなるだろう。
だからと言って、暇を作れる夜にエステルと会う事は出来ない。
エステルは独身の若い女性であり、元領主様に仕える使用人だ。夜、会っているのが知られたら大変な事になる。
きっと世間は元領主様が俺の関心を買う為にエステルを差し出したと捉えるだろう。それだけの美貌とスタイルが今のエステルにはある。
そう、今だけがエステルとゆっくり話し合えるチャンス。
今を逃したら、次はいつになるやら。その時、エステルがすぐ傍に居るとは限らない可能性すら有った。
「ありがとうございます! 二人共、恩に着ます!」
「気にするな! だけど、奥さん達への言い訳は自分で考えろよ! そっちまでは責任を持たないからな!」
ジェックスさんと元領主様へお礼を言うや否や、全速力で駆け出した。
俺とエステルの関係をまだ誤解したままのジェックスさんの声援を背中に浴びながら。