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無色騎士の英雄譚(旧題:無色騎士 ニートの伝説)  作者: 浦賀やまみち
第十四章 男爵 オータク侯爵家陣代 百騎長 ミルトン王国戦線編 下
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第01話 乾杯!



「フフ、あの娘ったら……。」


 ふと聞こえてきた小さな笑み。

 遠路遥々届いたティラミスの手紙から視線を上げると、サビーネさんもまたティラミスから届いた手紙を読み、嬉しそうに笑っている。


 前の世界と比べたら、この世界は中世の文明レベルでありながら男女同権思想は不思議と大きく進んでいる。

 だが、やはり軍隊は男性の方が圧倒的に多い。女性騎士も、女性兵士も居るには居るが、その姿は意識して探さなければ見かけない。


 こうなってくると女性は何かにつけて低く見られがちとなり、恐らくは男に負けじと常に気を張っている為だろう。

 サビーネさんはどの戦地でも隙が無い。バカルディの街に居る時の様な常日頃より鋭い印象がより強くなる。


 それこそ、閨の時ですら、その鋭さを解きほぐすのに一苦労が必要になる。

 朝とて、猟師時代の生活習慣が未だに抜けず、ヒトより比較的に早く起きる俺よりも早く起きて、既に身だしなみを完璧に整えており、既にこのミルトン王国出兵に以来、その寝顔を見た事が一度も無い。


 しかし、ティラミスの前では違う。

 故郷を遠く離れた異国の地へ届いた手紙はサビーネさんの鉄仮面をいとも簡単に割り、飾り気の無い素顔を曝け出させる。


 血の繋がりは無いが、姉妹同然と言える二人の仲の深さが良く解る光景だ。

 ただ見ているだけで心がほっこりと暖かくなり、こちらまで笑みが口元に自然と浮かぶ。


「良ぉ~~し! 次は三番隊から四番隊だ!」

「ボヤボヤするなよ! 今日中に終わらせるからな!」


 そんなサビーネさんの観察をこっそりと続けながら少し温くなったお茶を口に含む。

 時折、幕舎の外から陣地構築の指揮に忙しそうなネーハイムさんとタムズさんの声が聞こえ、俺も随分と偉くなったものだと実感する。


 小市民な俺としては、みんなと一緒に身体を動かしていた方が断然に気楽ではある。

 だが、最近になって、少しづつ解ってきた事がある。それはオータク侯爵家が持っている権威は俺が思っている以上に巨大なものであり、その執政たる俺が外で行っている様な現場作業をみんなと一緒に行うと、みんなは無駄に気疲れを感じてしまい、良かれと手伝ったとしても作業効率を結果的に落とす邪魔な存在になるという点だ。


 それ故、幕舎の中でのうのうと寛いでいる訳だが、やはり後ろめたさは感じぜざるを得ない。

 なにせ、今の時刻は真夏のお昼過ぎ。近くの森に住まう蝉達が求愛にミンミンと五月蝿く鳴き、外はただ立っているだけでも汗が滴り落ちてくる炎天下である。


 更にもう一つ。自分が偉くなったと実感するのが、どの幕舎よりも真っ先に建てられたこの幕舎だ。

 中央を二重の布が仕切り、出入口が有るこちら側は持ち運びが可能な折りたたみ式、組み立て式の簡素な品ではあるが、執務机と応接セット、会議用の長テーブルが一揃い。

 片や、この奥は完全なプライベート空間の寝室。収納箱を列べて作ったダブルベットが有り、用を足す『おまる』も設置されている。


 しかも、そのおまるに溜まったブツを処理するのだって、マイルズを筆頭とする近従の仕事である。

 いつも俺が外出している内に幕舎の中は隅から隅まで綺麗に掃除されており、木製のおまるもピカピカに輝いている。

 強いて、不自由な点を挙げるとするなら入浴だけはさすがに無理な事だが、近従の彼等へ頼みさえしたら水をせっせと運んでくれ、行水程度なら十分に出来る。


 この野外生活でありながら、それを感じさせない快適ぶりに対して、戦地での兵士達の生活は劣悪とまでいかないにしろ、窮屈なもの。

 俺専用の幕舎の半分にも満たない大きさの幕舎を小隊単位の十人前後で使い、与えられる備品は毛布のみ。直接、地べたに寝転ぶ雑魚寝でプライベートは無い。


 そもそも、その地に留まっての連泊予定が有るか、天候がよっぽど酷い時でない限り、兵士達の幕舎は時間を節約する為に行軍中は設営されない。

 いつ、いかなる時も幕舎が設営されるのは個人用の幕舎が支給される百騎長の幕舎か、俺の様に専用の幕舎を持参した騎士のみ。そこに男女の区別は無い。


 トイレだって、地面に穴を掘っただけの簡単なモノを共用して使う。

 一応、用を足している姿を隠す幕がトイレと定めた場所に張られるが、軍隊は千人、一万人の大所帯である。

 利用者が多い朝は全員が仮設のトイレを使える筈も無く、結局は身を隠せる藪や木の影をそれぞれで探して、そこで用を足す事となる。


 だが、この世界で外で用を足すのは当たり前の行為。文句を言うのは下水が完備された地域で暮らしている都会育ちの女性のみ。

 それも最初の内だけだ。最初こそ、羞恥心を感じて、用を足す場所を遠くまで探しに行くが、その面倒さが次第に羞恥心を上回り、近場で済ます様になってゆく。


 この様にヒトの適応力は侮れないモノがある。

 三日は無理でも、一週間もしたら、この窮屈さに慣れて、一ヶ月も経ったら当たり前になる。


 しかし、当たり前になったとしても、ストレスは表に見え難い水面下で確実に溜まってゆく。

 ストレスは士気と直結して、敵を打ち破る大きな力となる反面、過度に溜まると士気は逆に低下して、弱兵を生み出す結果に繋がる。


 ストレスを解消する手段は色々と有るが、その最たる手段と言えば、やはり酒を酌み交わしての宴会だろう。

 無論、下戸な者、或いは酒自体を全く飲めない者も居り、全ての者に通じる手段ではないが、大多数を考えた場合はやはりコレに尽きる。


 ただ、この手段は効果的であると同時に費用という頭の痛い問題を抱えている。

 軍から支給される食事と酒は先のネプルーズ攻めの様に作戦上で用いる以外はあくまで最低限に少し色を付けた程度に過ぎず、それ以上を欲するなら、それは個人の裁量で賄わなければならない。


 つまり、宴会を催そうとするなら、その費用は発起人が自腹を痛める必要がある。軍は経費で落としてくれない。

 これが十人前後の小隊規模ならまだしも、今の俺の様に一軍を抱える立場ともなると、その出費は非常に大きい。それも戦場でのあらゆる相場は市場の相場よりも割高ときている。


 なにしろ、嗜好品などの購入先はわざわざ戦地まで足を運んできた行商人。

 最前線までの道中や最前線に留まるリスクを考えたら、どうしても購入単価が割高になってしまうのは仕方が無い。


 その代わり、好き好んで最前線までやって来た者を軍が守る義務は無い。

 最悪の場合、抱えている商品どころか、命すら失う危険性が大いに有るが、最前線での商売はハイリスク・ハイリターン。一攫千金を夢見て、最前線には大小様々な行商人達が集まってくる。


 そして、我が部隊の財布の紐はサビーネさんが握っており、その紐はとても堅い。

 だが、ティラミスから届いた手紙で機嫌が良くなっている今がチャンス。きっと渋りもせずに明るい返事をくれるに違いない。


 それにネプルーズの街を発って、三週間と二日目。

 今日、ようやく目的地の古城『トリス砦』に到着。明日からの戦いに備えて、英気を養う意味でも宴会を開く格好の口実になり得る。

 暑苦しい中、汗水を垂らしながらせっせと働いている兵士達だって、今夜は俺が宴会を開いてくれると大いに期待している筈だ。


「ねえ、サビーネさん?」

「はい、何ですか?」

「こう暑いと士気も落ちるしさ。今夜はぱぁ~っと……。」


 だったら、その期待に応えてあげるのが上に立つ者の度量というもの。

 思い立ったが吉日。笑顔で頷き、サビーネさんへ提案を持ちかけるが、表情に乗せていた笑顔を固まらせると共に言葉を詰まらせる。


 まだ肝心な事は何も言っていなければ、サビーネさんも今夜の宴会開催に関する意見を何も言っていない。

 しかし、この時点で既にサビーネさんが今夜の宴会開催に反対意見を持っているのは明白だった。


「夏が暑いのは当たり前です。

 それで? 今夜はぱぁ~っと何をするおつもりですか?」

「いや、だから……。その……。宴会を……。」

「気のせいでしょうか? 一週間前も同じ事を言って、酒宴を開いた記憶があるのですが?」


 ティラミスの手紙へと落ちていた春の陽だまりを思わせる温かな微笑み。

 それが一変して、俺へ向けられたのは真顔となったサビーネさんの骨まで凍る極寒のトーリノ関門に吹き荒ぶブリザードを思い出させる冷ややかな眼差し。


「そ、そうかも知れないけどさ! ヒ、ヒトはパンだけでは生きていけないんだよ!」

「そもそも、ニート様はバルバロス様の様に酒豪という訳でも無く、日頃もさして嗜まないのに酒宴だけはそうも開きたがるのですか?」

「えっ!? そ、それは……。」


 その上、正論に次ぐ、正論を重ねられて、口籠るしかなくなる。

 正直に言ったら、その問い掛けに対する答えは持っているが、それは甘えや泣き言とも言うべきもので口が裂けても言えない。


 知っての通り、俺は前の世界でも、この世界でも庶民の生まれ。

 こんな言い方は嫌味に聞こえるかも知れないが、ティラミス達の様に生まれながらの貴族とはやはり違う。誰からも傅かれるのが当たり前の生活にいつまで経っても慣れないでいる。


 先ほど偉くなったと実感するのに挙げた『おまる』が良い例だ。

 いつの間にか、中身を処分してくれるのは確かに便利だが、その行為に俺はやはり気恥ずかしさを覚えてしまい、雨が振っているなどの理由が無い限り、結局は外で済ませてしまう事が多い。


 だが、サビーネさんとルシルさんは違う。

 閨を共にした朝などに利用して、その最中の姿を見られるのはさすがに恥ずかしがるが、中身を処分される事に関しては平然としており、奉仕される事に慣れている。


 俺と同じ感覚を持っているのはララノアだけ。

 ララノアもおまるを使いたがらない。過去、止むに止むを得ず、何度か使った事が有っても、その後始末は自分で行っていた。


 こうした日々も最初の内は良かった。

 俺も男の子である。戦史好きな事も相まって、数多の者達が自分の一声で動く絶大な権力に恐れを抱きながらも快感を覚えた。

 それが三ヶ月ほど過ぎた頃から次第に変わり始め、一年が経った今では誰からも傅かれる日々に窮屈さを感じて、少なからずのストレスを自覚する様になっていた。


 更に付け加えると、この弱音を吐ける相談相手が居ない。

 唯一、ジュリアスが似た境遇と言えるが、ジュリアスが庶民から王族へ一気にランクアップしたのは幼い頃である。それとなく相談してみたところ、どうやら悩む前に慣れてしまったらしく相談相手にならなかった。


 そんな八方塞がりの俺が見つけたストレス解消方法が宴会に他ならない。

 但し、酒を飲んで酔っ払うのが目的では無い。皆の酔いが十分に回り、身分の垣根が少しだけ低くなった場にて、皆と語り合い、馬鹿をして騒ぎ合うのが目的である。


 所謂、前の世界で言うところの『ノミニケーション』だ。

 嘗ては上司から誘われる度に顔は笑いながらも心は唾を吐いて応じていた『ノミニケーション』を自分が催す側へ回り、それに憩いを感じる様になるとは思ってもみなかった。


 ヒトの上に立ってみて、初めて解る苦労。

 もしかすると、嘗ての上司も何らかの悩みや不安を抱えており、それを晴らす為に『ノミニケーション』を誘っていたのかも知れない。

 そう考えるともう絶対に叶わない願いではあるが、親を馬鹿にされたとは言え、衝動的に殴ってしまった嘗ての上司へ謝罪したい気持ちになる。


「どうも解って頂けない様なので何度も言わせて頂きますが……。私とて、ニート様の申し出を意地悪で拒んでいる訳ではありません。

 それ相応の理由がちゃんと有るのでしたら、どれほど盛大な酒宴とて喜んで許可を致します。

 ですから、ネプルーズでは街を挙げての、街中の酒樽を全て空にするほどの盛大な宴を許可しました。

 しかし、金貨が湧き出る壺など何処を探しても無い以上、大いに浪費した後は出来る限りの節制を心掛けるのが当然の理です。

 それなのに、それなのに……。ヒトはパンだけでは生きていけない、ですか?

 なるほど……。七教聖典の一節に列べられるくらい世の真理を説いた金言と呼ぶに相応しい言葉です。

 ですが、ですが……。節制を必要とする時、お酒に溺れるのは如何なものでしょうか? ヒトはそれを堕落と呼ぶのではないでしょうか?

 それでも、私はニート様がどうしてもと頭を下げてまで仰った為、一週間前も、二週間前も許可を出しました。おかげで、私が資金繰りにどれだけ苦労を……。」


 しかし、その『ノミニケーション』を催すにも先立つモノが必要になる。

 財布の紐をサビーネさんに握られているのは確かだが、南方領の税収を軍費として使用する際に最終的な決裁のサインを記すのは俺である。今年度、どれだけの軍費を費やしているかも当然の事ながら承知している。


 それだけにサビーネさんの小言が耳に痛かった。

 反論の余地も、口を挟む間も与えず、容赦なく重ねられるサビーネさんの小言が心にザクザクと突き刺さり、俺の精神力をどんどん削ってゆく。


「解りました! これでもかと解りました! もう結構です! 許して下さい!」

「本当に?」

「はい、この通り! もう馬鹿な事は言いません! 誓います!」


 たまらず叫んで強引に遮ると、サビーネさんは眼鏡のブリッジを右の人差し指を押し上げた。

 眼鏡のレンズが反射光にキラリーンと輝き、その姿形は見えずとも絶対零度の鋭い眼差しに背筋がブルリと震え、すぐさま椅子を蹴って立ち上がり、両手を突きながら机に額を押し付けて頭を垂れる。


「なら、結構です。それと後がつかえているんですから、下らない事を考えている暇があったら早く読んで下さい」

「はい……。」


 その真摯な態度が伝わったのか、サビーネさんから放たれていた圧力が弱まってゆく。

 それが完全なゼロとなり、たっぷりと数秒の間を念の為に空けてから顔を恐る恐る上げると、サビーネさんは再びティラミスの手紙を読書中。嵐が過ぎ去った安堵感に胸をホッと下ろしながら、サビーネさんの機嫌を損ねない様に腰を椅子へゆっくりと音を立てずに下ろす。


 このサビーネさんの容赦ない厳しさに窮屈さを感じないでもないが、この窮屈さは前述の窮屈さとは違って、俺に必要なものだ。

 今まで俺は先祖が築き上げてきた権威に胡座をかいているだけの傲慢で自堕落な貴族を数多に見てきた。

 そんな貴族だけはなりなくないと常日頃から戒めているが、権力と権威は魔物。前の世界の歴史を紐解けば、絶大な権力を手に入れた途端、英雄から暗愚へと変貌してしまい、身を崩した者の何と多い事か。

 歴史上の英雄と呼ばれた者でさえ、危ないのだから俺はもっと危ない。サビーネさんが俺の傍に居てくれる限り、俺が権力に溺れて、道を誤る事は決して無いに違いない。


「ふぅ~~……。」


 そのサビーネさんがこうも駄目と強く断じているのだから、今夜の宴会はもう諦めるしかない。

 溜息を漏らしながら心に残った未練を振り払い、一時中断していたティラミスからの手紙を読む為、先ほど読み終わったのを開封済みの封筒に入れ、机の上に積み重なっている新たな手紙を手に取る。


 今朝、ティラミスから届いた手紙の数は全部で七通。

 これはネプルーズの街を版図に加えたとは言え、それ以前まで前線基地だったレッドヤードの街から一帯が敵の焦土作戦の副作用でモンスターランド化しており、軍による補給路確保が半ば済むまで街道を完全封鎖を行っていた為だ。

 足止めを食っていたティラミスからの手紙がまとめて届き、さすがに七通も読むとなったら一苦労ではあるが、まめに近況を届けてくれて、いつも俺の身を案じてくれているティラミスの想いはやはり嬉しく感じる。


 封筒を十字結びする麻紐が交差する場所に押されたオータク侯爵家の紋章印の蜜蝋をペーパーナイフを用いて開くと、ほのかに香る花の匂い。

 その心憎い心配りに笑みが自然と浮かぶ。それはティラミスがいつも好んで着用している香水のものであり、その匂いに誘われて懐かしさと共にティラミスの笑顔が心に思い浮かび、愛おしさが湧き上がってくる。

 

「ええっと、何々……。

 レンゲツツジが満開に咲き誇り、城の中庭の一角がオレンジ色で染まって……。」


 最初に書かれている季節の挨拶を読むと、この手紙が書かれたのは今年の春先らしい。

 ティラミスらしい丁寧な優しい字で書かれており、いつもながら読む側を飽きさせない工夫が施された文面に視線が淀み無く走ってゆく。


 だが、それが暫くして、ある場所でピタリと止まった。

 同じ箇所をこれ以上なく見開いた目で二度、三度と読み返して、気づいたら椅子を蹴って立ち上がっていた。


「えっ!? ……ええっ!? うっ!? あっ!? おっ!? いっ!?」

「今度は何ですか? 幾ら言っても、駄目なものは駄目ですよ?」


 その驚きをサビーネさんへ伝えようとするが、驚きのあまり言葉が上手く出てこない。

 視線を手紙とサビーネさんへ何度も往復させながら口をパクパクと開閉していると、サビーネさんはこれ見よがしに深々と一溜息。再び鋭く冷えた眼差しを向けてきた。


「いや、それが……。実はね」

「はい」


 それが結果的に功を奏して、驚愕に沸騰して沸き上がっていた熱を冷ます。

 重大な事実を伝えるのに勘違いや読み違いが有ってはならない。今一度、視線を問題の一文にゆっくりと走らせて頷き、サビーネさんを真っ直ぐに見据えながらソレを告げた途端。


「ティラミスに子供が生まれた。それも男の子だ」

「えっ!?」

「ほら、この手紙のここにそう書いてある」

「ええっ!? ……いっ!? えっ!? うっ!? おっ!? あっ!?」


 今度はサビーネさんが混乱大パニック。

 目をこれ以上なく見開きながら椅子を勢い良く蹴り飛ばして立ち上がり、手紙の書面側を向けて、問題の一文を指差して示すと、最初の一歩目を躓かせつつも慌てて駆け寄ってきた。

 あまつさえ、視線を俺と手紙へ何度も往復させて、口をパクパクと開閉させている有り様は今さっきの自分を見ているかの様で面白い。


「どうかしましたか?」

「おう……。実はティラミスに子供が生まれてな」

「ええっ!? それって、師匠の奥さんですよね!」

「ああ」

「大変だ! 僕、姉さんに……。いや、その前に殿下へ伝えてきます!」


 そんな俺達の騒ぎを聞きつけたのだろう。

 この幕舎のすぐ外で作業を行っていたマイルズが何事かと顔を見せるが、慶事を伝える否や、すぐさま天幕を駆けて出て行く。


 思いの外、二人目の報告は落ち着いて出来た。

 人の振りを見て、我が振りを直せ。サビーネさんのおかげだ。


 しかし、それ以上に大きな理由が有る。

 この慶事、何を隠そう今回が二度目だったりする。


「ううっ……。あの娘が母親になる日が来るなんて……。うっううっ……。

 ニート様、おめでとうございます! アリサ様に続いて、ティラミスまで! これでオータク侯爵家も安泰ですね!」

「うん、ありがとう」


 古城『トリス砦』を目指して、ネプルーズの街を出発する五日前の出来事。

 やはりティラミスから届いた手紙にて、アリサが昨年の夏頃に男の子を出産していた事実が判明している。


 アリサの事はずっと心配していた。

 王都までの旅費を渡してあった筈がティラミスとの結婚式に姿を現さず、その後も連絡が無いままにミルトン王国へ出兵してしまったが為に。


 だが、答えが解ってしまえば、実に控えめなアリサらしい配慮と言える。

 妊娠中だけに王都までの旅は耐えられない。だからと言って、それを伝えては正妻となるティラミスの祝いの席を邪魔してしまうと考えたのだろう。


 何と言っても貴族最大の義務は血を継ぐ事にこそ有り、それも第一子目だ。これを祝わない筈が無い。

 実際、再進軍が五日後に迫っているのにも関わらず、サビーネさんが先ほど言った通り、正にネプルーズの街を挙げての大宴会となり、街中の酒樽が誇張無しに空となった。


 その前例を考えると祝宴を挙げられないのは残念だが、駄目なものは仕方が無い。

 今夜は身内だけのささやかな祝宴で我慢して、盛大な祝宴はミルトン王国遠征が済み、バカルディの街へ戻ってから開く事にしよう。


「さあ、ボヤボヤしては居られません! 早速、今夜の宴の準備をしなくては!」

「えっ!? さっきは駄目って……。」

「何を言うんですか! 日々、私が節制を訴えているのは使うべき時に使う為です!

 ここは戦地とは言えども、オータク侯爵家嫡子の誕生! これ以上ないくらい盛大な宴を開きますよ!」

「お、おう……。」


 ところが、サビーネさんがいきなりの前言撤回。

 驚愕から我を取り戻して、止めどなく溢れ出ている嬉し涙を拭うと、鼻息をフンスと荒々しく吹き出して、今夜の祝宴決行を訴えながら机を両掌で何度も叩きまくり。

 そのアリサが出産したと解った時以上の猛烈な意気込みに気圧され、思わず椅子に座ったまま仰け反るが、その気持ちは解らないでもなかった。


 ティラミスが男の子を出産。

 その嬉しさは数字で測れるものでは無いが、敢えて数値化するとしたら、最も高得点を叩き出すのはサビーネさんだと断言が出来る。

 幼い頃より一緒に育った姉妹同然の仲という点が真っ先に理由として挙げられるが、サビーネさんほどオータク侯爵家に尽くしている者は他に居ないのが最大の理由だ。


 俺と初めて出会った頃のティラミスはお世辞にも健康とは言えない身体だった。

 骨と皮だけとは言わないにしろ、抱き締めたら腰の骨がポキリと折れてしまう。そう思えるくらいに痩せており、日常の行動範囲はバカルディ城の敷地内のみでその日常からちょっと外れた行動を行っただけで翌日は体調を必ず崩して寝込んでいた。


 しかし、俺がトーリノ関門へ義務兵役で勤めている間に何やら一念発起したらしい。

 ティラミスは適度な食事と適度な運動を心がけて、健康な身体を少しづつ作り上げてゆく様になり、ミルトン王国出兵前は野外生活を主とする半年間に及ぶ長旅も耐えられる健康体となっている。


 その移り変わりを幼い頃から最も近い場所で見続けてきたのがサビーネさんである。

 正式な婚約を交わした頃は主治医から『出産は命の危険が有り、とてもお勧めは出来ない。その覚悟が必要だ』とまで言われたティラミスが出産を母子共に済ませて、見事にオータク侯爵家の血を次代に継いだのだから興奮するのも無理はない。


 だが、今夜の祝宴に関してはいつもと立場を入れ替えて、俺が財布の紐を握るべきか。

 このサビーネさんの興奮ぶりから察するに全てを一任するのは一抹の不安がある。軍資金が戦う前に尽きては堪らない。


「ええっ! ええっ! 敵が羨むくらいの祝宴を……。

 いえ、違いますね! 南方領を統括するオータク侯爵家が羨ませるなんて、ケチ臭い!

 敵にも酒を振る舞って、オータク侯爵家がここに有りと存分に見せ付けてやりましょう! ええ、そうしましょう!」

「い、いやいや……。そ、そこまで張り切らなくても良いんじゃないかな?」


 その後、ジュリアスの提案によって、三日間の停戦を申し込む使者が古城『トリス砦』へ送られ、ミルトン王国軍はこれを受諾。

 オータク侯爵家の慶事を祝う宴の酒はミルトン王国軍にも振る舞われて、束の間ではあるが、両国は十年ぶりの平和の味を満喫した。




 ******




 誰もがご承知の通り、無色の騎士と名高い英雄たるニートが愛した女はとても多い。

 その数は妻が三人、妾が七人、愛人が三人と言われているが、それは長年の研究で判明している人数に過ぎない。


 なにせ、精力が年老いても衰えず、その生涯を閉じる前夜さえも閨を交わして、その女性を四度も至らせたと文献に残ってさえいるニートである。

 確定はされていないが、ほぼ間違いないと言われている女性だけでも他に五人も居り、実際は二十人を悠に越える人数が居たに違いない。


 さて、女性と関係を持てば、両者のどちらかに何らかの事情が無い限り、当然の事ながら子供が生まれるのが自然の摂理。

 ニートは愛した女性との間に数多くの子供をもうけているが、その中でも有名なのが正妻のティラミス夫人が産んだ『アーサー・デ・バカルディ・オータク』と妾のアリサ婦人が産んだ『ランスロット・デ・モバーエ・コミュショー』の二人だろう。


 特にランスロットは今でも人気が高い。

 明確に敗北したとされる戦場は初陣のただ一度きり。それ以後は勝利をもぎ取る常勝の将と讃えられ、ニートからコミュショー領を受け継ぐと今度は内政面においても優れた手腕を発揮して、領内を大いに富ませている。


 その上、容姿端麗で物腰は柔らかく、礼節に通じており、美術、音楽、文学、舞踊の教養を持つ当代一流の文化人でもあった。

 当然、数多の女性を虜にして、皇女さえも熱烈なアプローチを送っているが、父親であるニートを反面教師としたのか、自身が選んだ平民の女性一人だけを愛し続けて、インランド帝国初代皇帝のジュリアスからは『完璧なる騎士』の二つ名を、そのジュリアスの跡を継いだ二代目皇帝からは『理想なる騎士』の二つ名を賜っている。


 一方、アーサーは凡才。そう言われているが、その生涯を調べてみると実際は文武のどちらにも一流と呼べる才能を持っている。

 ニートから渡されたオータク侯爵家を大過なく次代へ繋いでおり、その中でもインランド帝国の前身たるインランド王国の時代から常に不倶戴天の敵だったオータク侯爵家が統括する南方領と国境を接するアレキサンドリア大王国のマスカット大公と強い友誼を結び、三代に渡る不可侵条約を正式に結んだ功績は非常に大きい。


 この不当な評価は比較対象になるランスロットという傑物が傍に居り、父親であるニートの偉業が巨大すぎた為だろう。

 現代における一般的な評価ですらこうなのだから、当時の評価はもっと酷かったに違いなく、アーサーが抱えていたコンプレックスはかなりのモノだったと推測が出来る。


 事実、アーサーはジュリアスが制定した世界初の義務教育機関『貴族学園』を卒業した後、オータク侯爵家を一時的に出奔している。

 この間の記録は残されておらず、定かではないが、偽名を用いて、冒険者を生業としていたらしく、オータク侯爵家へ再び帰ってくるまで約十年の時を必要とする。


 それ故、主君たる皇帝から『完璧』とも、『理想』とも讃えられ、アーサーよりも半年早く生まれたニート第一子のランスロットである。

 これも明確な記録は残っていないが、ランスロットをオータク侯爵家当主に据えようとするお家騒動があっただろう事は想像に難くない。


 しかし、ランスロットはアーサーが必ず帰ってくると固く信じ続け、アーサーがオータク侯爵家当主となった後は常に傍で支え続けた。

 そんなランスロットをアーサーもまた信頼して頼り、公式の場では寄り親と寄り子、プライベートではとても仲の良い兄弟として、二人の関係は生涯に渡って続いてゆく事となる。


 余談だが、アーサーを語る上でコンプレックスと言ったら、決して外せない有名なものが有る。

 それはアーサーが母親のティラミス婦人と瓜二つの容姿をしており、身体つきも細くて、誰もが認める美少女っぷりをとても気にしていた点だ。

 それこそ、帝都で行われた新年の祝賀会の場にて、大いに酔っ払ったニートがティラミス婦人と間違えて、十四歳のアーサーにキスを行った挙句、アーサーの大事なところまで手を伸ばしたが為、派手な親子喧嘩にまで発展した珍事がインランド帝国の公式記録に残ってさえもいる。


 また、同じ悩みを持つ者同士だからだろう。

 アーサーはインランド帝国初代皇帝のジュリアスから我が子の様に可愛がられ、ニートと二代に渡る寵臣に数えられている。




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