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暗い森より

作者: やすかわ
掲載日:2014/11/05

章に投稿しましたが落選しました。



 転落する寸前、橋波(はしば)のことを思い出した。詰襟の前をかっちり閉めて、常に虫を愛する男だった。



 橋波は度々山で死にたいと漏らしていた。都会で死んでしまうと遺体が残ると。残った遺体は棺に入れられて、火葬されて灰になってしまう。それはいやだと。

 俺は虫に食われたいのだ、と言った。虫に食われて分解されて土に還りたいのだと。

 虫に異様に執着し、決して殺さない男だった。人が蚊を殺すのを見た時でさえあっと声を上げる男だった。学校行事のハイキングの時には虫にいちいちかまけて、レクリエーションが全然進まなかった。

 橋波はそのハイキング中に崖から転落して、死んだ、とされている。

 橋波がレクリエーションの足をことごとく引っ張って止めるので、愛想を尽かした同行班が橋波を置いて先に行ってしまったのだ。虫に夢中な橋波はもちろんのことそんな事実には気が付かなかったし、クラスメイトもまさか橋波が一生彼らに追いつくことはないなんて想像もしていなかった。橋波は確かに虫に異様な愛着を持っていたが相応に人間も愛していて、キショイとかキモイとか言われながらなんとなく無くてはならない存在でもあった。

 橋波は、ハイキングコースの途中、舗装された山道から少し外れて、傍目には見えない崖に足を踏み出して、そこから転落したもの、と、されている。

 というのも、遺体が、見つからなかった。

 現場には唯一、橋波の被っていた帽子だけが残された。物証はそれだけ、あとは地面に人一人が滑り降りたような跡があり、状況証拠がそれだけだ。

 山岳救助隊が出動して橋波の落ちたと思われる場所をくまなく探したらしいが、橋波は見つからなかった。三日たっても一週間経っても見つからなかった。

 それ以来、うちの高校ではハイキングは禁止されている。



 そのことを思い出しながら、西尾は今、死の過程の只中にいる。

 空が蒼い。

 校舎の壁、

 翻るクリーム色のカーテン、

 窓から伸びる誰かの腕、


 

 衝撃が来る前に、意識が途絶えた。



     ※



 目を覚ますと暗闇だった。

 闇に横たわって寝ていた。地面に手を着くと、ふか、と感触が返ってくる。触り心地に覚えがあった。湿った土だ。深く黒い、そして匂い立つ闇、しっとりと、とっぷりと、静かな、夜。

 夜目に慣れない。時間を置いても闇は深く闇のままだ。耳だけが周囲をひたすらに探っていて、しばらくもせずに気付いたことがある。

 山中だ。

 鳥の鳴く声と、葉擦れの音がする。西尾の肌にも風が触れた。西尾は地面に手を着いている。

 目はまだ、闇に慣れない。

 ウソ偽りも誇張もなく本当の暗闇に包まれた誰もがそうあるように、西尾も不安と恐怖に駆られた。そして疑問した。ここは一体どこなのだろうか。一瞬前まで西尾は高く蒼い空を見ていた。教室の壁面の汚れを眺めていた。

 そして死ぬはずだった。

 ギャァ、と何の声か知れない悲鳴のようなものが聞こえた。西尾は肩を震わせる。そして周辺を見回すが見えるものなど何もなく、この段になってようやく自分を囲って立つ木々の幹の位置が把握できたくらいだった。自分の足元さえよく分からない。今自分がどんな姿をしているかもわからなかった。

 当然、教室から落ちて死んでいるはずの西尾はハイキングに必須の装備など何ひとつ持っているはずがない。見知らぬ山の中に一人放り出された以上、連絡手段も持たずにこの夜を乗り越えても助かるかどうかわからない。そもそも自分が生きているかどうかすらわからない。

 闇と山中と直前の景色との食い違いとが複雑に絡みあって、西尾の頭は錯乱してよくものを考えられる状態になかった。正常の状態でも現状を飲み込めたかどうかはあやしいが、とにかく、西尾はそこでそのままじっと黙って留まっているより他になかった。下手に動いたら危険だという判断も微かにだが残っていた。

「……ぉ、おい」

 それでも心細さが勝って、西尾は誰もいないと心底分かっていながら闇の中でそんな声を上げた。小さな声だった。発生した声は、木々の梢の間に入り、深い闇に遮られてふっと消えていった。あとに、虫の鳴く声がした。

 虫。

 橋波は、転落して死んだ。

 直前なぜそのことを思い出したのだろう。

 俺も転落死だからか。

 どうして山中にいるのだろう。

 なにがどうして。

「西尾?」

 声がした。

 西尾は顔を上げた。

 人の声だった。確かに。聞き間違いではない。なにしろ西尾の五感の中で今もっとも仕事をしているのが西尾の聴覚だったから。いや、錯乱状態の西尾には虫の声が『そいつ』の声に聞こえただけだったかもしれない。それでも、確かに名前を呼ばれたので西尾は慌てて周囲を見回した。

「橋波か!?」

 声の主の正体にも大体見当がついていた。潜めながら必死に声を上げると、どこからかまた西尾に応える声が聞こえる。

「ああ」

「橋波ぁ~!!」

 言葉に声が返ってきて、西尾はへなへなと全身から力を抜いた。どのくらい闇の中に沈黙していたが分からないが全身バキバキに緊張していて、人の声に安堵した途端涙が滲んできた。

「あーもーマジよかった、お前だと思ったんだよ、だって超フラグ立ってんじゃん、マジでビビった、何だよお前変なフラグ立てんなよ」

「何言ってんだお前……」

 今度こそ明確に返答が返ってきて西尾は大きく息を吐いた。生死はともかく人間だ。自分一人でこの難局を乗り越えなければならないわけではない。この際、生身だろうが幽霊だろうがどうでもよかった。

「橋波どこいんの?」

「お前の後ろ」

「姿見えねんだけど」

「そりゃそうだろうな」

 訳知り『声』で橋波が応答した。やはり生身ではないらしい。

 とするとここは、もしかしたら橋波の死んだ場所なのかもしれない。何故西尾がそんなところに突如現れたのか、西尾本人にすら説明は出来ないが。

「なんで西尾がここにいんの」

 背後にいるらしい橋波は聞いて当然のことを西尾に問うた。西尾は数秒意味もなくうめいてから、

「それは俺も説明が欲しい」

 と正直に告げた。橋波はその言葉を受けて若干考えるような間を開ける。

「お前も転落死?」

「そうだけど違うっていうか。ここ、橋波の死んだ場所?」

「だよ」

「マジかーうわー」

「うわーって言うなよ」

 安堵のためか口が滑りやすくなっている西尾に、橋波の苦笑する声が届く。普通の会話が今の西尾には本当にありがたかった。

「つーことは、ここって」

「ハイキングコースの外れた場所にある崖の下」

 問えばすぐ答えが返ってきた。

「やっぱそこなんだ」

「西尾は何で死んだの」

「まだ死んだかどうかわかんねー。多分これソウマトウかなんかでしょ。森抜けたらちゃんと死ぬ系の。お前出口知らない?」

「森抜けたら死ぬんじゃないのか」

「どっちにしろ死ぬだろ、こんな場所でじっとしてるより明るいところ行きてえよ」

「おいおい、こんなところって。いいところだぜ」

「お前にとってはな。お前変なんだよ。俺は普通だから普通に死にたい」

「相変わらずあけすけだよな、お前」

 過去教室で話していたように、西尾は橋波に接した。橋波のほうも同じように応酬してくる。レクリエーションの時、橋波と西尾は同じ班だった。

 橋波と西尾は最後まで一緒にいたのだ。

「西尾、立てるか?」

 橋波の声がする。

「あ、うん」

 西尾ははっと気が付いて、頷いた。一番手近な木の幹にそろそろと近づいて、根元にグッと足をかけてから、ゆっくりと立ち上がる。傾斜した地面だ。西尾はそこで自分の履いているのが上靴であることを知った。山道を舐めすぎだ。苦笑が漏れた。

 ということはおそらく上に着ているものも制服だろう。頼りないことこの上なかったが、自宅の気軽な短パン姿よりはずいぶんとマシだと思い直すことにした。上着もあるし、まあ、とりあえずは。

「道は照らしてやるからこのまままっすぐ歩け。今は傾斜が急だがそのうち緩やかになる。少しして、他より胴回りの太い樹に行き当たったら坂を上れ。ハイキングコースに戻れる」

 何故そんなに詳しいのか分からないが、橋波が的確に指示を出すのに西尾は頷いた。道を照らすってどうやるんだろう、と思った時に足元をふわりと何か光るものが横ぎった。

 ホタルだ。

「おまっそんなメルヘンな」

 思わず口を突いて出た言葉に「文句言うなら死ね」と即物的な回答が返ってきた。

「いやお前、だって道を照らすっつってホタルとか、ちょっと橋波ちゃん今歳いくつよ? 頭大丈夫?」

「お前もう死ね」

「ごめんまだ死なねー。橋波を踏み台に生きる」

「死ね。ホント死ね」

 軽口に答えながら、そろりと一歩を踏み出す。その一歩にホタルが絡み付いた。かすかな光が自分のいつもの上靴を照らし出して、それを見た西尾はなんとなく安堵する。枯草を踏みしめ、音を立てながら、一歩ずつ、地面を確かめて歩を進める。

 ホタルの数が、二匹、三匹と増えていく。

「スゲー、なにこれ。お前が呼んでんの?」

「まあ」

「カッコイー、漫画かよ。死ぬとこんな能力もらえんの? 得じゃね?」

「全然得じゃねーよ。俺に意味ないもん」

「お前なんであんな山道詳しいの」

「死んですることない」

 死ぬと暇なのかー、と西尾は納得した。

 足元をまとわる蛍が、暗い地面を蛍光色に染め上げる。相変わらず橋波の姿が見えないまま声だけはして、それに軽口を叩きながら西尾はそれでも慎重に足を進めた。足元を見るばかりでおろそかになる前方の視界には橋波が注意を払ってくれているのか、度々西尾に注意喚起してくる。今のところ、上靴の癖に転倒には至ってない。

 ここで転倒したら、と思うとぞっとする。

 どうなるのだろうか、と興味もわく。

「橋波ー」

「なに」

「ごめんなー」

「なにが」

 淡泊な橋波の声は生前と何ら変わらない。西尾はもう橋波が死んでるなんてほとんど気付いてないような声音で、

「俺がちゃんと最後まで一緒についてってやれば、橋波、死なずに済んだのになぁ」

 そろそろと足を踏み出しながらそう告げた。

 橋波からの答えは数秒を空けた。それから、

「しょうがねーじゃん。お前、菅野に呼び出されたから」

「なー。しょうがねーよなぁ」

「それに、死んだのは俺の不注意だし。何お前、責任感じてんの」

「感じるっしょーそりゃあ。だからごめんなーって」

 へら、と西尾は笑った。橋波には見えてないはずだった。いや、見えてるかもしれない。西尾に橋波が見えないだけだ。

「いいよ」

 橋波は一言、告げた。

 深い暗闇の中を、ホタルの光を頼りに歩いていく。自分はやっぱり死んでるんだろうかと西尾はおぼろげに考えている。教室の窓から飛び出したことだけは覚えている。死んでるに違いないなと思う。だって橋波と会話してる。虫を操れる橋波と。

 いやこれは、俺が見たいだけの、都合のいい夢かもしれない。

 しばらく、無言だった。西尾は進路に集中した。橋波は何をしているのか知らないが、西尾の近くにはいるのだろう。注意をそらさないように無言でいるのだろうか。

 大地が濡れている。

 足を滑らせていないのは、僥倖に過ぎる。

「橋波、虫好きだよね」

 沈黙に耐えられない性分なので、西尾は気が付くと口を開いて橋波に声をかけてしまう。そこに橋波がいるかどうかわからなくて不安だというのもある。西尾のそんな不安を悟っているのか、橋波はすぐに答えを返した。

「好きだよ」

「めっちゃ好きだよね」

「好きだよ」

「なんで?」

 橋波は考える間を開けた。それから、

「『蜘蛛の糸』が好きなんだ」

 と答えた。西尾はない頭を振り絞って、脳内に検索をかけた。

「……太宰治!」

「芥川龍之介だバーカ」

 容赦なく罵られた。太宰が出ただけでも褒められていいのに。

「子供の頃、『蜘蛛の糸』を読んで、別にそんな蜘蛛が活躍する話じゃないし、幸せな話でもないんだけど、なんでか蜘蛛が大好きになって。それで、誕生日に昆虫図鑑を買ってもらった」

「昆虫図鑑ってクモ載ってんの」

「載ってるよ。アシダカグモとか、かっこいい」

「わかんねー」

 そこから虫を好きになった、と橋波はどこからともなく言葉を投げかけてくる。クモかー、と西尾は特に関心もなく上の空で呟いた後、

「死んでから、虫には食われたの?」

「ん?」

「いや、お前の死体見つかってねえし。死ぬなら山でとか言ってたじゃん」

「ああ。うん、俺、ちゃんと死んだわけじゃないから」

 は? と西尾が声を上げると、橋波の声が「ちょっと止まれ」と言ってきた。なんだなんだと思いながら橋波の声に従って足を止めると、

 ざわ、と首筋を何かが這った。

「!?」

 ゾ、と西尾は体を震わせた。何か毛のあるものが首筋を続けざまざわざわと登って行く。

「な、なっ」

 木の幹にしがみついて西尾は情けなく震えた声を上げた。もさ、もさ、と登って行くその感触に全力で毛穴かっぴらきながら静かに耐えている。頭の上にたどり着くまでに、その脚が八本だということに気が付いた。

「なんですかこれ!?」

「何で敬語なんだよ」

 橋波の落ち着いた、それでいて呆れた声が聞こえた。今度はその発声源が分かった。頭上だった。

「俺、蜘蛛になったんだ」

 山月記、と西尾は叫んだ。

 なんでそれは覚えてるんだよ、と橋波がまた呆れた声を上げた。



     ※



「なにそのメルヘン……お前死んでから超メルヘンじゃん……」

 かすれた声で夜闇に呟いた。西尾の髪の上にふかっと乗っかったクモは、橋波の声でそれに応じる。

「死んで、肉になって、腐敗して、虫に分解されるなら本望だったんだけどな。なんかよく分からないけどこんなことになってしまった。山月記っていうか、カフカの変身が近いんじゃないか」

「お前それあれだって……絶対あれだって……『『蜘蛛の糸』読んでから虫一匹も殺さなかったで賞』だって……こええ……」

「どんな賞だよ」

 クモの姿になったらしい橋波から聞き慣れたツッコミが返ってくる。

「っぶねー、マジっぶねー、歩いてる最中に首筋這われたら驚きのあまり俺転落死んでた」

「だから止まれってちゃんと言ったろ」

「それは本当にありがとう。ありがとうついでに聞くけどお前もしかして最初から」

「うん、まあ体長二センチだから肉眼じゃ捉えられないだろうし、とりあえずお前の背中にくっついてて」

「ウワアアアア」

「なんだその声」

「背中にずっとクモが、クモが……」

「かわいいじゃん」

「しかも体長二センチって、二センチって……」

「憧れのアシダカグモです」

「結構デカいじゃん……肉眼で超余裕じゃん……」

「脚入れると一〇センチいくよ。あとゴキブリとか食うよ」

「ワアアア毒とか吐くなよ! ってかゴキブリ食ったの!?」

 人間に害を与えるレベルの毒は持たないから安心しろ、と橋波は言った。が、ゴキブリを食べたかどうかについては、答えなかった。

 こわい。

「何でそんなことになっちゃったの……」

 疲弊した声を上げつつも、西尾はまたそろりと足を踏み出した。橋波は、さあ、と気のない答えを返した後、「虫を一匹も殺さなかったで賞だろ」とまた投げやりに応じた。そんな賞があってたまるか。

 おそるおそる、今度は足元の他に頭上のクモにも注意しながら、歩を進める。もう暗闇の恐怖なんてだいぶ気にならなくなってきていた。油断するとすぐに足を取られるから、緊張感はそのままだ。どれくらい歩いただろう。

「俺の頭に巣はんなよ」

「お前の頭に居を構えてどうするんだよ。馬鹿がうつるだろ」

「お前死ねよ」

「もう死んでるよ」

「それ洒落になんねー」

 ハハ、と西尾は笑った。

「西尾は何で死んだの」

 橋波が聞いてきた。体長二センチの癖にどこから発声しているんだろう。

「だから転落死、」

「じゃなくて」

 西尾は何で死んだの、と再び聞いてきた。西尾は口を噤んだ。

 橋波の言っていた通り、急坂はなだらかな坂に変わっていた。それでも暗闇を歩き通しの高校生の足には堪える角度だ。体力には自信があるが、さすがに息が上がってきた。

「教室の窓から、転落しまして」

「なんで?」

「何でと申されましても」

「事故じゃないだろ」

「……それこそ、なんで? なんだけど」

菅野(すがの)?」

 橋波は西尾の話を聞いていない。自分で解釈して勝手に進んでいく。なんだっていうんだ。

「何で今、菅野サンの名前が挙がんの」

「だって菅野、俺が死ぬ前に西尾呼び出したじゃん」

「それが何か関係あんの」

「あれ、告白だろ」

 それこそお前になんの関係があるんだ、というようなことを橋波は聞いてきた。西尾は怒るべきかどうか迷う。足元を照らしていたホタルの一匹が西尾の頬を照らしに来た。

 優しい光だ。そして心もとない明り。西尾の頬にとまった。西尾はホタルをそのままにしておいた。

「そうだけど」

「断ったのか」

「……そうだけど」

 それがなにか。と頭上の橋波に問う。橋波は直接は答えず、

「責められたろ」

 と、西尾に言葉を落とした。

 西尾は返す言葉を思いつかなかった。

 何を責められたか、は、分かった。告白を断ったことではなかった。

 橋波から目を離したことを、だ。

「クラスの連中からさんざん責められたろう。菅野もお前も。A組、仲良かったのにな。目ェ離すから悪いってみんなから言われたよな。同じ班の中でさえ、お前と菅野責められてさ」

 何故こんなことを橋波が知っているのだろう。西尾は黙々と歩き進めながら、饒舌に人間の言葉を話すクモの話を聞いている。やっぱりこれは俺に都合のいい夢かもしれないなと思って。

 自分を慰めてくれる格好の対象として橋波を選んでしまったことに、西尾は少しだけ罪悪感を覚えた。

「菅野は女だし、責められてどんどんしょげてくし、クラスの雰囲気悪くなってくし」



 ある日些末なことで菅野が追いやられているのが見えた。文化祭の実行委員に祭り上げられた菅野が、誰でもする小さなミスを責められていた。ほうきで突かれ、ごみを投げられていた。

 西尾もその時孤立して一人だった。そして、おそらく菅野と同じくとても疲れていた。菅野に投げられたゴミを拾った。菅野に向けられたほうきを止めた。窓際に追い詰められた菅野を庇うようにして前に出た。

 救ってくれる人間なんか誰もいなかった。

 理由は些細でも誤解でも。

 ――みんなおそらく不安だった。

 だからこうなった。

 西尾は菅野の前に出た時、もう自分がどうなってもいいような気がしていた。死んだってよかった。何でもよかった。この淀んだ空気を終わりにすることが出来るのならばなんだってよかった。菅野を庇って、それでやり玉に挙げられるなら結構だ。

 殺してもいいよ。

 その時、背後から手首を掴まれた。と思ったら、西尾の視界が急に傾いた。



 柔らかく、クリーム色のカーテンが浮いた。

 秋風が西尾の髪を撫でていった。

 耳鳴りのするような緊迫した教室の空気から、追い出されていた。

 窓の外に身を投げて。

 深く蒼い空を見ていた。



 一瞬前、菅野と確かに目が合った。

 西尾はこうなることが分かっていたような気がした。

 西尾を大空へ抛り出した菅野は苦しそうな表情で笑っていた。

 それは彼女にとって安堵の笑みだったのか諦観の笑みだったのか。

 俺の存在は彼女にとって救いだったのか邪魔者だったのか。



 西尾の頬からホタルが飛び立っていった。

「ごめんな」

 橋波がそう言って謝ってきた。西尾は、なんだそれ、と笑った。

「お前なんも悪くなくねえ。いや足滑らしたのはちょっと馬鹿だなと思うけど」

「俺、お前が菅野に告白されてんの見てた」

「は?」

 西尾から離れたホタルが、頭上のクモを照らしている、らしい。

「そんで、動揺して、聞きたくなくて、走ってったら、いつの間にか、転んでた。一瞬で、わけわかんなくて、わけわかんないうちに気が付いたら、クモになってた」

 ごめん、とまた橋波が謝る。

「盗み聞きして、ごめん。俺、菅野が好きだった。そんで、死んで、ごめん。断ったって聞いて、ちょっとほっとしてごめん」

 淡泊にそれだけ呟いて、橋波は口を閉ざした。

 西尾も黙って進んだ。歩き通しだった。息が上がっているのに、不思議と疲れなかった。やっぱ夢だろ、これ。

 夢だろ、これ。

 なんだか泣きたくなるような気がした。泣かないけど。西尾は鼻をすすって服の袖で目元を拭いた。泣かないけど。頭上のクモはまだ黙っている。

 よっぽど、らしかった。クモは喋らないものだ。これは西尾の夢で、橋波はやっぱり死んでいて、菅野は教室でまだあいつらにいびられているのだろう。西尾は地面のシミになってて、もう菅野を庇い立てする奴は誰一人としていないに違いない。

 泥だらけの上靴が、濡れて腐った枯葉をかき分けていく。

「出口、まだかよ」

「言っただろ、木を探せよ。胴回りが太い奴がいる」

「分かるかよ馬鹿、」

 鳥の声が聞こえてきた。虫の声は一つもしない。足元にいたはずのホタルがいなくなっていた。その代り、足元がうっすら見えるようになっていた。

 空が蒼かった。藍色に絵筆で水を落としたような色をしていた。まだ暗い、まだ暗いが、陽の光が差し始めている証拠だった。

「分かるか馬鹿!」

 西尾は走り出した。わ、と頭のてっぺんで、橋波のふりをしたクモの慌てた声が聞こえた。

「分かるかよ馬鹿! そんなん! なんだよ! 死んだ奴に今更そんなこと聞いたってさ! なんもなんねーよ! なんだよ! 夢なら夢で終わらせろよ!」

「西尾、」

「どの木だよ! オイ! 橋波! ふざけんなよ! わっかんねーよ! そもそも木なんか見分けつかねーよ、お前クモだろ、助け出してみろよ!」

 言った途端、ズシャ、と西尾の身体が盛大に地面にこけた。枯れ葉が体にまとわりつく。濡れた土の味が口の中に広がった。枯れ葉の下から虫たちがわしゃわしゃと湧き出してくる。

 口の中に入った葉っぱと土をべっと吐き出した。また立ち上がり、走り出す。

「蝶が止まってる」

「ああ?」

 橋波はいつの間にか肩口に移動してきていた。

「目印の木の幹に蝶が止まっている。オオムラサキだ。群れてるからすぐわかる」

「本当だろうな!」

「嘘ついてどうする」

 橋波は答えてから、また、ごめん、と呟いた。

「お前だけは助けるから」

 鮮やかな瑠璃色の翅をもつ蝶が、一羽、西尾のすぐそばを飛んで消えていった。

 同じ色の翅をもつ蝶が群生する木に行き当たるまで、時間はかからなかった。



     ※



 橋波が言うにはこのまま坂を上って行けばハイキングコースに出るらしい。西尾はその言葉だけを頼りに坂を上っていく。

 闇が薄らいできていた。木肌の色までが視認できるようになった。肩口にのった橋波がクモの姿をしているのも確認済みだ。

 あれから何度も転んだ。西尾の制服はドロドロのボロボロだった。デザイン結構気に入ってたのに。上靴も壊れかけだったが別に捨てようとは思わなかった。素足で山道を歩くと足が傷つくから。

 死んでるのに何をいまさら、と西尾は思った。そして、ああそっか、死んでるんだっけ、と思い出した。

「ハイキングコースに出たら何か変わるわけ」

「西尾って人が言うには、ちゃんとした道に出たら西尾って人が死ぬらしい」

「ヘェ。橋波って人は死なねぇの」

「橋波って人はクモになってるからなぁ」

 意味もなく軽口を叩き合っている。走る気力は失せた。惰性のようにだらだらと坂を上っている。

「西尾は死なないよ」

 橋波が言う。西尾は口の端を釣り上げた。

「私が守るもの、ってやつ?」

「お前はカンダタじゃないから」

「ヘェ」

 面白くもない冗談だった。泥だらけの身体でのったりと斜面を登って行く。緩いとはいえ、上り坂だ。

「お前を救い出すためにこんな姿で待っていたのかもしれない」

 橋波はそんなことを言いだした。西尾はもう何も答えない。肩に友人をのせて歩いていく。

「ずっと後悔してた。死んでしまったこと。そんなつもりじゃなかった。クモになってしまった。皆どうしてるだろうと考えた。西尾と菅野があんなことになってるって、虫の知らせで聞いた」

 虫の知らせね。

「どうにかして助けたいと思ってた。そのせいかもしれない。西尾をこんな所に呼び寄せてしまった。でも、多分西尾は助かるよ。俺が助けるから」

 だからたぶん、この先、生きて帰ったら何かがどうにかなるよ、と橋波は無責任極まりないせりふを言い放つ。西尾はしばらく黙って聞いていたが、

「蜘蛛を殺さなかったのはお前じゃん」

 と呟いた。え? と反芻する声が聞こえるが、無視した。

 肩に重みがあった。西尾は疲弊しながら、ずる、ずる、と引きずるようにして歩いていた。夢の中なのに疲れるのか。こんなところにリアリティいらないんだけど。

「お前、厳密にはまだ死んでねーんだろ」

「うん。クモだからね。でもまあ、死んでるのと同じことだよ」

「お前が俺を呼んだのはあってるけど、お前が俺を助けるためじゃ、ねーよ」

 口の中がじゃりじゃりして不愉快だ。何度も砂混じりの唾を吐き出しながら、西尾は山道を上っていく。木に手をかけ、滑り落ちそうになりながら。

「じゃあ、なんで」

「俺がお前を助けるためだろ」

 不可解そうに橋波は顔を歪めた。わかんねーのか、と西尾は思うが、言葉にはしなかった。本当に、ずいぶん疲れていた。

「釈迦のつもりかよ馬鹿、何を救世主気取ってんだ。似合わない」

「お前が助けろって言ったんだろ」

「菅野はまだ教室にいるんだ」

 重い。肩が重い。

「教室にいるんだ。俺を教室から追い出した菅野は。あの息苦しい教室の中から俺を追い出してしまった菅野はまだ、あの教室であいつらにいびられてるんだ。もう許されていいはずのことを言われ続けて、それでもまだ、あの教室で、生きてるんだ」

 足を引きずって歩いている。

「助けなきゃ、」

 西尾は告げた。

 橋波は、かすれ声で、

「でもそれは、お前が、生きて」

「好きな女を、ちゃんと守ってやれよ」

 西尾は、橋波の背中に手を回した。

「お前が生きて帰ってきさえすりゃあ、いいんだよ」

 西尾は、

 ハイキングコースに、

 橋波の身体を投げ出した。




 蓬髪、だった。かっちりと制服を着こみ、身なりを整えたメガネ男子はそこにはいなかった。虫をこよなく愛す男がいた。枯れ葉に塗れて、一年ほど生死の境を彷徨っていたクモ男がそこにいた。髭がめちゃめちゃ伸びていた。体中煤けて汚らしかった。

「お前も、生きて、帰るんだよ、馬鹿」

 橋波の胸ぐらをつかんで懐をまさぐった。久しく見ていなかった友達の携帯が手の中に現れた。一年近くこの世じゃないどこかをさまよっていたくせに、電池が残っていやがる。ご都合主義だ。やっぱり夢の中じゃなかろうな。

「山の中で死ぬのはお預けだバカ野郎。俺とお前を救ってくれた菅野に恩返ししに行くぞ。彼女はまだ地獄にいる」

 こういう場合はどこにかけたものかと思いながら、面倒くさいから警察にダイヤルした。ご都合に電波まで生きている。いくつか会話を交わした後、通話を切る。ハイキングコースに出たのだからそうかからずに見つけ出してくれるだろう。

「手間かけさせやがって」

「あ、……あれ、おれ、にんげん、」

「お前を助けたのはお前の日頃の行いだろ。虫を一匹も殺さなかったで賞、だ。あぁ、こんな特典があんなら俺もこの先虫殺さずにいようかな」

 呆けた顔で橋波が西尾を見上げた。西尾はその手に携帯を投げ返してやる。戻ってからきっといろいろあると思う。全部元に戻るとは思わないけど、まあ、戦っていけるとは思う。

 じりじりと出番を待っていた太陽が、ここぞとばかりに顔をのぞかせた。木々の隙間からやっとそれらしい木漏れ日が落ちた。大したファンタジーだと思った。

「朝陽だよ、橋波」

 西尾は橋波を足で蹴った。それから、狭いが舗装された道にしゃがみこむ。

「……お帰り」

 橋波に向けてそう呟いた。呆けて橋波が西尾に視線を寄越した。疲れ果てた、それでも純粋に澄んだ瞳だった。空色を映しこんで灰色になっていた。その瞳がだんだん揺れていくのを見た。西尾はそこまで見ると、もう橋波から目をそらした。


 隣で橋波の嗚咽する声が聞こえる。西尾は壁面に背中を預けて座っていた。橋波の瞳の色と同じ空色を眺めていた。

 腹の音が鳴った。



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