74.魔法で風を作って汗を飛ばしてくれたので最後の上着は脱がなくても済んだ。
見上げる視線の先には巨大な犬の頭がある。ひとつの胴体に3つの頭。ゲームでもおなじみのケルベロスだ。部屋の中にいた巨体は、すぐにでもこちらに襲い掛かってくるのかと思ったが、近づくだけで何かしてくる様子は無い。
「伝承レベルだが、魔界の番犬は入るときには襲わず、魔界から出ようとするものを連れ戻す役目を与えられているらしい」
ケルベロスを見つめたまま神妙な声でモカさんが解説をしてくれた。
いま俺達を見ているだけで何もしないのは、それが役目ではないからということか。犬だけあって頭がいいようだ。
一対一ならば食べ物にすることも出来るだろうが俺以外の人を標的にされると手の打ちようがない。ナツの反応をみるに並大抵の戦力では太刀打ちが出来る相手ではないようだ。ここは息を潜めて黙って通り過ぎることに同意した。
憶測では襲われないと分かっていても、凶暴な獣がそばにいるというのは気分のいいものではない。こちらを睨みつけている巨大な目玉の視線に晒されながら部屋の反対側に見える扉へと道を急ぐ。
普通に歩くよりも何倍も神経をすり減らしながら扉までたどり着き、全員が揃っていることを確認してから扉に手をかけようとすると、その手が見えない柔らかい壁に阻まれた。
見えない空間に腕を突っ込むと、ふよんと押し返して来る。感触は柔らかいが押してくる力は強く、無理やり進むことは出来なさそうだ。
「結界ですね。魔力で作られています」
パントマイムのように何も無いところを撫でている俺に、イサナが視線を送ってきた。食べても良いと言うことだろう。
壁に突き出していた手を引っ込めて、出来るだけ勢いをつけて殴りつける。
「味噌ラーメン!」
扉を覆っていた透明の壁が光る。一箇所に集まった光はぎゅっと圧縮されてバスケットボール大の球になった。それを支えるように手を伸ばすと、ずしっとした重みが腕にかかる。慌てて両手で抱えるようにして持ち直した。
眩い光が無くなると、大きめのラーメンどんぶりが両手の間に現れる。中身は黄色みの強い中太の縮れ麺と味噌のスープ。上に乗っているのは角切りのチャーシューと刻んだ長ネギ、それにメンマが少々。その具は良く見えるのはスープから湯気が出ていないからだ。どんぶりを持つ手には熱が伝わってきているのに、不思議と熱を持った白い湯気は立ち上っていない。
その正体はスープを覆う透明の膜にある。
扉の近くに放置してあった適当な台の上にどんぶりを置いて、添えてあるおたまのような形をした木製のれんげを持って、そこにスープを少量のせる。どんぶりに頭を近づけ、一気にそれを口へと流し込んだ。
途端、舌が焼ける。
透明な膜は溶けたラードだ。スープの上でとろん、と揺蕩う脂はスープの熱が冷めないように外気との接触を遮断している。湯気がでていないのもこのせいだ。
箸を掴み取って麺を摘み、レンゲの上に乗せた。どんぶりに頭を寄せて麺を啜る。ちぢれた麺に味噌味のスープがよく絡む。野菜の甘み旨みが溶け出したスープからはローストしたチャーシューとコクのある香味が放出される。
太めの麺は口の中でも存在感たっぷりに暴れまわっているが、それを押さえつけるようにグシグシと噛み付いてその弾力を堪能する。千切れた麺からは味噌の匂いに負けない力強い小麦の香りが飛び出てきた。
再びレンゲにスープを掬い、それを口へと運び入れる。最初に熱に驚き感じられなかったニンニク、細切れ肉、細切りの唐辛子が口の中で踊りだす。カアッと一気に顔が熱くなった。
続けて角切りにされたチャーシューを一つ箸で摘む。口を開け、それを頬張る。ほろりと崩れるほど柔らかい肉から凝縮された肉の旨みが溶け出した。その旨みを逃がさないように咀嚼しながらメンマも口に入れる。
コリコリとした食感のメンマは醤油ベースのタレに漬け込んであって、これ単体であっても美味い。しかしチャーシューの旨みと味噌の香りに包まれるとなお一層と美味く感じる。
一通り口を付けたところで味噌ラーメンの攻略へと取り掛かった。
箸を握りなおして麺へと突き立て、中太ちぢれ麺を手繰り寄せる。どんぶりに顔がつくのではないかと言うほど近づけて、ズズズと音を立てながらスープと共に麺を勢い良く啜り尽くす。
スープだけではない、ラーメンを構成する様々な要素が麺に絡まって口の中へと運び込まれる。濃厚な脂に包まれ、味噌の香りに覆われた、これらの具材が舌を焼く。口蓋を焼く。涙が出る。背中に汗をかいてきた。
上着を脱ぎ捨てて再びラーメンへと取り掛かる。
レンゲにスープをとって、それを飲む。クリーミーな味噌が香る。ネギの新鮮な瑞々しさがアクセントになる。後から追って辛味が届く。最後に軽く漂う生姜の香りがくすぐったい。
あぁ、何で俺はコーンとバターをトッピングしなかったんだ。シャッキリとした甘いコーンとあの溶けたバターの脂があればさらに楽しむことが出来たというのに。
後悔先に立たず。それを痛感しながらも麺を啜る勢いは衰えない。麺を啜り、噛み砕く。スープを飲み込み、芳醇な味噌の香りに襲われる。コリコリのメンマ、シャキシャキのネギ、ほろほろのチャーシュー。麺を啜る。啜る。止め処なく続く攻勢に全身が熱くなるのに耐え切れず、残った上着をさらに脱ごうとしたところで羽交い絞めにされた。
「何考えてるんですか!? ダメですよ、それ以上は!」
「とんだ露出狂ですね」
上着を掴んだ腕にイサナがしがみついていた。反対側の腕は妹が押さえ込んできている。食べるのに夢中で周りのことを気にしていなかった。周囲を見渡せばモカさんがこちらを凝視していた。ナツは妹にやられたのか目を押さえて地面に蹲っていた。
「シンタさんが嫌がるから下着つけてないんですからね、それ脱いだら何も無いじゃないですか」
どうやら脱いだらいけなかったらしい。周りは女の人ばかりだからデリカシーに気をつけないといけない。だからと言って女物の下着を身に着けるのに抵抗があることには変わらないので、これからも女物を身につける気はない。男同士だったらこんなことで気を使わないのに、とナツを見るとまだ目を押さえて地面に転がっていた。
これだけ騒いで教われないならケルベロスも気にしなくて良いだろう。すっかり緊張感がなくなったので、どんぶりに残ったスープを飲み干し、途中で脱ぎ捨てた上着を羽織る。
再び目を攻撃される恐怖に怯えたナツがビクビクしながら立ち上がったので、「もう大丈夫だ」と言った。
「全く大丈夫じゃないでしょう、汗で透けてるじゃないですか」
「そうやって男の人を無意識に誘惑しないで下さい!」
「もう勘弁してくれよ!」
良く分からないが3人から怒られたので、まだ少し汗をかいていたが上着をちゃんと着込んだ。
見えない壁は無くなり通行を阻むものが無くなったので扉を通ってさらに奥へと進む。ここまで一方通行できたのだから、道が間違っているということはないだろう。
かなり奥の方まで進んできたと思うが、未だに兄どころか沢山いるらしいナツの仲間にも会っていない。果たしてこのまま進んで無事に会うことが出来るのだろうか。
かび臭くて暗い通路を歩いていくと、段々と道は狭くなってくる。一列になって歩き続け、もうそろそろ朝日が出るのではないかという時間になってたどり着いた先にはどこかで見た扉があった。
「これって」
「最初にみた扉ですね」
建物に入って一番最初に見た扉、双子のいる部屋と同じものだった。デザインが同じだけだと思いたいが、傷の付き具合や汚れた感じまでまるきり一緒だ。まさかぐるっと歩かされて同じ所に戻ってきたのかと訝しみながら扉をゆっくりと開ける。
最初に開けた時には光が漏れてきたが、今度は薬のような臭いと薄い色のついた煙が漏れてきた。
「何だこれ」
「お香みたいな感じですね」
「二人とも、下がるんだ。これはちょっと拙い」
スンスンと鼻を鳴らしていた俺とイサナを引っ張って下がらせ、モカさんが杖を抱えて前へと進み出てきた。振り上げた杖に向かって風が吹く。薄い紫色をした煙が吸い込まれて集まる。サイクロン式の掃除機の中身のように、くるくると渦巻いているのが見える。
モカさんが開いたままの扉の向こうへと杖を振り下ろすと、集められた風の渦が音も立てずに飛んで行った。
「教授、今のは?」
「なに、ちょっと覚えのある匂いだったんでな」
少しだけ不機嫌そうな顔をして振り下ろした杖を肩に担ぐ。真面目な顔をしているモカさんは格好いい。ずっとこうなら素直に尊敬もできるのだが、普段はアレな人なので差し引きゼロくらいで見ておくのが丁度いいだろう。
「もういいな、中に入ろう」
先導するモカさんい続いて部屋の中に入ると、そこは双子のいた部屋とは別の空間だった。
ケルベロスのいた部屋と同じくらいの広さ、そこに大勢の人が倒れているのが見える。数十人はいるだろうか。その光景から死んでいるのかと思ったが、良く見てみると寝がえりで動いているのが見えた。眠っているだけのようだ。
寝ている人たちをざっと見てみるが、兄や先に来ている筈のセリアさんの顔は無いようだ。ここにいるのは年齢も俺と同じか少し下くらいの子供ばかりのように見える。
「……チオ!」
同じように寝ている人を見ていたナツが大声を出した。
視線の先にいた人影がビクンと揺れる。もぞもぞと動いた影が起き上がると、顔をこちらに向けて動きを止める。
ナツの知り合いがいたのかと様子を見守っていると、チオと呼ばれた人影が立ちあがって走り寄ってきた。
「ナツ!」
「チオ、お前こんなところにいたのかよ」
久しぶりの再会に少年二人がはしゃいでいる。年齢も同じくらいで日焼けした健康的な肌はナツと同じだったが、チオは頬に大きな傷跡が残っていた。モカさんが偵察に出た時に見た少年と言うのはチオのことだったのか。
「ふふふ、いいものだね。少年同士というのも……」
モカさんはいつもの感じに戻っていた。差し引きゼロだ。
喜びを表現し終わった二人が何をしているのかと見てみれば、歓喜もつかの間で今度は口げんかをしていた。
「何で分からないんだよ!」
「それはお前だろ、おかしいぞ!」
一体どうしたというのか、二人の喧嘩を聞いていても分からないので間に入って話を聞いてみる。
「まあ落ちつけ」
「は……えっと、どちら様ですか」
「ナツの知り合いだ」
とっさに知り合いと答えたが、これ以上に具体的な関係を聞かれても本当にただの知り合いとしか言いようが無いので深く突っ込まれないで欲しい。
「ナツ、てめえ許さねえぞ! こんなおっぱい大きいお姉さんと仲良くなりやがって!」
「ちげぇよ……こいつは、男なんだよ」
「は……馬鹿にすんな! 男なはずがねぇだろ! やっぱりお前は頭がおかしいんだな!」
「いいや、おかしいのはお前だ!」
叫び合う二人に声で寝ていた人たちが次々に目を覚まして集まってきた。ナツやチオのように日に焼けた肌の人が多いのは、ナツの一族の人だからなのかもしれない。それでも若者しかないようだし、ナツの言っていた100人近くいるという数には足りないから、もっと歳が上の人は違うところにいるのだろうか。
「おい。言ってやれよ、お前は男なんだよな!?」
考え込んでいたらナツが服を引っ張ってきた。チオを指差しているのを見ると、俺が男だと言うのを信じていないので何とか言って欲しいのだろう。
「お姉さん、すみません。ナツに言われてきたのかもしれませんけど、そいつちょっと頭がおかしいんです。悪い奴じゃないんですけど」
チオが困ったような顔で頭を下げてきた。きっと元は仲が良い友達だったんだろう。誤解は解いておきたい。
「いや、俺は男だ」
「は……?」
「男の人ですね」
「私の兄です」
「シンタくんは男の子だ」
「ほら言った通りだろう」
全員が俺が男だと証言すると、チオが目を白黒させて一歩後ろへ下がった。
「嘘だろ……? おかしいのは俺か?」
チオの心の中で何かが折れたようだ。膝から崩れ落ちるようにしゃがみ込んでしまったので、手を差しだして立たせてやる。
「お姉さん……じゃなくてお兄さん?」
「そうだな」
立ちあがった胡乱げな視線で俺の全身を満遍なく観察している。まぁ今は胸もあるから男には見えないだろう。言われてすぐに信じられない気持も分からないでもない。
チオの何巡目かの視線が胸元で止まったのが分かった。ゆっくりとした動作でチオの手が胸に伸びてくる。それが自然であるようにその手が俺の胸の肉を揉みしだく。ちょっと痛い。
「なっ」
「何してんですかぁ!?」
ナツが何か言おうとしてイサナの声にか聞こえされた。チオは胸を揉んだ手の感触を確かめるように何度か自分の目の前で動かしてから、ナツに向かって叫んだ。
「やっぱり嘘だ! 男の胸がこんなに柔らかいわけがない!」
果たして何と言えば信じて貰えるだろう。デュラハンの謎汁の話をしても証拠が無いし、モカさんが知らない現象を信じるとも思えない。そもそも別に俺が男だろうが女だろうが、今はどうでもいいことではなかったのか。
「とりあえず、煩いから殴りますね」
頭をひねってどうしたものかと考え込んでいると、今まで黙っていた妹が無表情のままチオに近づき顔面を殴りつけた。全身のバネを十分に生かした、抉りこむようなパンチは見ているだけでも痛みが伝わった来る。殴られると同時に魔法で治療されるとはいえ、痛みは残るのだからチオには同情する。
顎の骨がズレてしまったのではないかと思うほど顔面を歪ませたチオは、古傷から真っ赤な血液を噴出しながら地面へと倒れ込んだ。
あれ、血が出てる。




