その1
濃い霧。深い闇。
父はこれ以上の運転は不可能だと判断した。土地勘のない、しかも山道。
幸い近くに駐車可能なスペースがあり。父は朝までここで睡眠を取るつもりのようだ。
僕はさっきまで寝ていたから眠くない。父のいびきを聞きながら眠れるほど疲れてもいない。
車の外に出る。真っ暗。車から懐中灯を取り、少し歩く。あまりにも霧が深い。懐中灯の照度を最大にしても3メートル先も見えない。父がどうやってここまで来られたのかもわからないくらい深い霧だ。
この闇の中でどうやって白線の停車位置に正確に車を停めたのか。感心するほどだ。
少し周囲を探索する。まっすぐ歩くとすぐに柵に到達した。崖だ。霧のせいで深さは見えないが、間違いなく落ちたら助からないだろう。
柵をたどって歩く。木製の柵は一見太く丈夫そうだが、強く持つと簡単に剥がれ落ちてしまう。何かの事故で車が突っ込んでしまったら、もはや柵の役割を果たせないだろう。
柵をたどって歩いていたはずだが、一周した。
さっき柵に意図的に剥がしたところに戻ってきた。
出口はなかった。全方位を崖に囲まれていた。
ここが今夜の仕事場らしいということまでわかった。ただ、ここがどこなのかがわからない。さっきまで寝ていたから。
警戒する。
懐中灯の柄を回すと、先から赤く禍々しく光る刃が出る。
刃は周囲をランタンのように周囲を淡く照らす。
「集中しろよ自分!」
自分で口に出して、意識的に集中していると、闇の向こうから声が聞こえた。
人間の声。叫び声。悲鳴。
柵の向こう側。崖の下からだ。
断続的に人間の叫び声が大きくなっていく。近寄ってくる。
あと10メートル、くらいのところで止まった。気配が消えた。
「どこだ?」
闇の向こうに尋ねる。答えは帰ってこない。
集中する。意識を前後左右上下すべてに向けるようなイメージで。
あたりを支配する重苦しい気配。無音だが。
間違いなく近くにいる。
ものすごく小さな音がした。衣擦れの音。僕はそれを聞き逃さなかった。
右に150度。振り向く。見えないがわかる。そこにいる。
そこに赤く光る刃を向ける。ランタンのような淡い赤い光の通らない人型の影が浮かび上がった。
「見つけた!」
人型の影は何か棒のようなものを持って、振りかぶっていた。まさに僕に攻撃しようとしていたらしい。
全力で右に身体をずらす。
とたんに今まで僕が立っていた地面が割れた。人型がハンマーか何かを振り下ろしたようだ。見えないが。
赤い刃を前に出す。ものすごい衝撃が腕に走った。赤い閃光が飛び散る。
人型が棒を振り回したのだろう。僕はバランスを崩してしまった。
地面に座る。赤い光を通さない人型の影が、また振りかぶっているのが確認できる。今度は左右に避けられそうにない。
赤い刃を横にしてガードする。赤い閃光が走る。衝撃で手がじんじんする。
「痛いなあ!!」
人型にも相当な衝撃があったようで、追撃は来なかった。
その隙に、痛む手で赤い刃を振り回し人型を斬りつけた。
二回、三回、四回。斬りつけると人型は倒れ、次第に影は消え、周囲は赤くぼんやり照らされるだけだ。
懐中灯の柄を回し、刃をしまった。手には赤く前方を照らす懐中灯を握っているだけ。
周囲の気配は消滅した。でもまだ柵の向こうにいるかもしれない。
父を起こしに車に向かう。
霧は相変わらず深く、3メートル先まで光がとどかない。車の近くまで歩いたはずだ。この近くに車が。ある、はず……。
「父さん!!」
車はなかった。
僕は叫んだ。だがどうにもならなかった。もしかしたら、場所を間違えているのか。そんなはずはないが。
周囲を改めて歩き回る。だが、車はどこにもなかった。父の姿はなかった。いよいよ危険な状態にあることがわかってきた。
「父さん!! どこにいるんだ!?」
返事はない。絶望が頭をよぎった。
そのとき、車のエンジン音が聞こえた。
僕はその方向を向いた。すぐに車のライトが見えた。光はこちらに向かってきた。すごい勢いで、車が突っ込んできた。
「え、ちょっと! なんだ!?」
叫んだが車はこちらに、向かって。
僕はたまらず右に跳んだ。間一髪のところで車からは避けれたが、父さんの運転するはずの車はそのままの速度でまっすぐ進み、闇の中に消えた。木が割れる大きな音がして、巨大なかたまり坂をずり落ちるような大きな音がした。
避けるとき、とっさのことで見えなかったが、助手席になにかがいた。病院の患者みたいな格好をした女性だった。専門家だからわかる。その女は人間じゃない。霊だ。