序章
朦朧とする意識の中で、いつも私を呼ぶ声が聞こえるのです。
いつもと変わらない、天井を眺めるうちに。すっかり目が覚めました。
いつの間にかその声も消えてしまいました。
私は天井を眺めて、彼が来るのをじっと待っています。
右を見ることができません。左を見ることができません。
ただ、なにも変わらぬ天井を眺めるのです。
なんの模様もありません。なんの面白みもないただ灰色の天井を眺めます。
毎日。毎日、私は同じ景色を見続けています。
今が何月何日で、何時ごろか知っています。
でも外の景色を見ることはできません。
外の様子を想像することしかできません。
声が聞こえました。
朦朧とする意識の中で、いつも私を呼ぶ声。ではありません。現実の世界で、現実の声で、私の名を呼んでくれる彼の声が。
私は、彼の名を呼ぶことはできません。
彼の顔を見ることはできません。
ただ彼の声を聞くだけです。
ただ彼の話を聴くだけです。
彼は私の手を握ってくれているようです。
今日あった出来事や、話題のニュース、息子の話をしてくれています。
彼はその一つ一つをとても楽しそうに話してくれます。
私も彼の話が好きで、ずっと聴いています。
ふと彼の話が途切れました。
どうしたのだろう。私は静かになった室内の音をただ聞いています。ただ天井を眺めます。
「そういえば君がここに入院したときも、窓の外の景色はこんな感じだった…」
彼はそれだけ言って。黙り込んでしまいました。
鼻をすする声が聞こえました。
私は切ない気持ちになりました。
ガタン。
と聞こえました。
どうしたのでしょうか。
彼の声は聞こえません。
どうしたのでしょうか。
いつもと変わらぬ天井を眺めながら、不安な気持ちになります。
衣擦れの音が聞こえました。彼が立ち上がったのでしょう。
彼は帰るのでしょう……。
私は彼を引き止めることはできません。
……悲しい気持ちです。寂しい……。
あれ?
彼の足音がいつまで経っても聞こえません。
彼の呼吸の音が、少しだけ聞こえます。なぜ彼は息を殺して、そこにいるのでしょう。
どうしたのでしょうか。
私は今とても驚いています。
いつもと変わらないはずの景色が変わったのです。
いつもあるはずの天井が、そこになかったのです。
私は彼を見ているのです。
彼が私を上から覗き込んでいるのです。
彼の顔を見たのは何年振りでしょうか。
私はこの異変に、一人で感動しています。
彼はすっかり老けてしまっていました。
私が倒れてから、まだ10年も経っていないはずなのに。
髪は所々白が目立ち、しわは深く刻み込まれ、顔色もよくありません。
それでもうれしいのです。何年ぶりかの彼の顔。彼はもう私を上から覗き込んではくれないものだと思っていました。
でも、どうしたのでしょうか。
彼の目は虚ろで、ひどく疲れていて、両目の端に一筋の線が見えます。
彼は腕で顔を拭いました。
どうしたのでしょうか。
彼はどうしたのでしょうか。
私はどうなるのでしょうか。
朦朧とする意識の中で、いつも私を呼ぶ声が聞こえます。