教育実習
「すいません。途中で交通事故に巻き込まれてしまって、遅れてしまいました」
それが教育実習初日の、僕の第一声だった。
実際、バスと乗用車の衝突事故があったのは事実で、かなり悲惨だったと聞いている。
ただ、遅刻の理由になるのかと言えばそうでもなかった。
何しろ僕は、学校に着いていなければいけない時間に家を出たのだから。
迎えてくれた先生がたはとても優しく、恐縮してしどろもどろになっている僕を落ち着かせ、遅刻のこともそれなら仕方がないとお咎めなしにしてくれた。
良心が少しちくり。
「上野です。よろしく」
そう言って僕の前に立ったのは、背の高い細身の女性だった。この人が僕の実習を担当するらしい。吊り上がった目がちょっと怖い、なんて思う。
「あ、水沼です。よろしくお願いします」
僕も慌てて挨拶を返す。
ここで豊富やら展望やらを言うのが正しい流れだと判っていたけれど、頭がボンヤリとして上手く言葉がまとまらない。
まごまごしているうちに上野先生はどんどん話を進めてしまう。
「生徒たちはみんな明るくて人なつこいから ――良くも悪くもね―― すぐ馴染めると思うわ。いろいろ大変だろうけど頑張って。先は長いわよ。とても」
「はい」
「じゃあ、行きましょう。あまり時間がないの」
言うまでもなく、僕が遅刻をしたせいだ。
「すいません」
「仕方がないわ。不運だった。それで片づけて良いのかわからないけど、それでも不運だったとしか言いようがないもの。さ、急ぎましょう」
駆け足寸前のスピードで歩く上野先生の背中を、僕は必死で追う。
「水沼先生」
「……あ、はい」
先生などと呼ばれたことのないので、返事が遅れてしまった。
「何ですか?」
教室の前。ドアを開けようとした手を止めて、上野先生はおもむろに頭を下げた。
意味が分からない。
ここは僕も頭を下げるべきなのだろうか。
「…えっと」
どう反応すべきか戸惑っていると、
「では、入りましょうか」
上野先生は何事もなかったように顔を上げ、教室のドアをスライドさせた。
「おはよう。ほら、みんな席に着いて。ホームルームを始めるわよ」
『はーい!』
元気の良い声。
「それと、今日から実習の先生と一緒に勉強することになったからね」
好奇に満ちた瞳が一斉にこちらに向けられる。
「じゃあ、水沼先生。挨拶を」
とにかく、僕の実習が始まった。
※
「水沼仁志といいます。今日からこのクラスで先生になるための勉強をさせてもらうことになりました。よろしくお願いします」
予定では冗談まじりの自己紹介で親しみやすい印象を与えるはずだったのだけど、教壇に立って生徒たちの熱視線を浴びたとたん全てが吹き飛んでしまい、簡潔この上ない自己紹介になってしまった。
先を続ける言葉が思いつかず上野先生に目をやると、彼女は不思議そうな顔でこちらを見ていた。
「え、もう終わり?」
と言った感じに首をかしげたので、二回ほど頷いてみせる。
少し呆れたような苦笑い。
僕は恐縮しつつ、彼女に教壇をゆずった。
「――はい。そういうわけで、これから水沼先生と一緒に授業をやっていくことになります。水沼先生はまだ勉強中の先生なので迷惑をかけないようにね」
元気の良い返事が教室に響く。周りから聞かされていた陰湿な実習生イジメや嫌がらせの話は、ここでは無縁そうだ。素朴で明るい雰囲気に僕はひとまず安堵する。
「まだ時間があるわね。じゃあ、水沼先生に質問がある人」
ただ、素朴で明るい分、積極性もなかなかなもので――
「先生は何歳ですか」
「身長は?」
「血液型は?」
「あだ名は?」
僕はたちまち質問責めにさらされることになった。
「ええと、年齢は二十二歳です。身長は、確か173センチだったかな。最後に測ったのは三年前だけど。血液型はO型。あだ名は… 友人から良く『ジン』って呼ばれてるから、それがあだ名と言えなくもないです」
「じゃあ、ジン先生って呼んでいいですか」
「え、あ、はい」
答えてから、ふと 『生徒と仲良くなることと嘗められることとは全く別物だ』 という誰かの言葉を思い出す。これはどうなのだろう。
悩む間もなく、別の生徒から質問が飛んでくる。
「恋人はいますか」
「えっと、いません」
「じゃあ、上野先生なんてどうですか?」
「え?」
思わず質問した生徒を見返してしまう。
「おすすめですよ。美人だし、独身だし」
おすすめと言われても答えようがない。
「あ、ええと……」
「こら、ホナミ。水沼先生をからかわない」
上野先生に睨まれ、ホナミと呼ばれた少女は舌を出す。鋭い眼光にも臆さないのは大したものだ。
「じゃあ、ジン先生は上野先生をどう思いますか?」
早速あだ名で呼ばれる。どうあっても上野先生に対する評価を聞きたいらしい。
「まだお会いしたばかりだけど、とても良い先生だと思います」
僕は少し考えて、当たり障りのない答えを返すことにした。
実際、面倒なだけでメリットのない実習担当を引き受けてくれたのだから、悪い先生ではないはずだ。美人というホナミの評価も正しいと思う。
「良かったね先生」
ホナミの笑顔に、上野先生も 「そうね」と、苦笑まじりに頷いた。
「さて、そろそろ時間よ。水沼先生、最後に誰でも良いから当ててあげて」
「あ、はい。それじゃ…」
見渡せば、相変わらず手をあげている生徒が多い。気に入られていると言うより、何だか面白がられているような感じだ。
僕は廊下側の席から一人一人の表情を見ていく。すでに質問した生徒は節度を守って手をあげない。僕に上野先生をすすめてきたホナミも大人しく座っていた。
視線は中央の列を通り過ぎ、窓側へと移る。
横から上野先生の急かすような視線。
こういう時の優柔不断さも評価に関係するのだろうか。
「あ。じゃあ、君」
少し焦りながらも、僕は窓側の一番後ろの席に座る女子を指さした。
彼女は驚いたよう目を見開き、それから嬉しそうに立ち上がろうとした。
けれど。
「はい。先生の好きな食べ物は何ですか?」
立ち上がって質問をしたのは、その隣の男子だった。
「……え?」
「だから、先生の好きな食べ物だってば」
僕が聞き逃したと思ったのか、他の生徒が質問を繰り返す。
「いや、そうじゃなくて。僕が当てたのは――」
「水沼先生。もうチャイムが鳴りますよ」
「え、あ、はい。…ええと、カレーライスです」
上野先生に急かされた僕は、仕方なく男子生徒の質問に答えた。
カレーだって。
子供みたい。
あの顔は甘口だね。
そして、笑いまじりの囁きを覆うように終了のチャイムが鳴った。
「はい。じゃあ、ここまで。一時間目は理科だからね。ちゃんと準備をするように」
『はーい!』
本日三度目の良い返事が響きわたる。
「私たちも準備をしましょうか」
「はい」
頷きながら、僕は当てたつもりの女子生徒を見た。
教室はすでに賑やかを通り越して騒がしく、笑い声や叫声が飛びかっている。
その賑やかな教室の中で、彼女は誰かと話すことも誰かに話しかけられることもなく……
ただ、僕を見ていた。
始めの二週間は授業見学で進行の仕方を学び、残りの二週間は実践として教壇に立つ。
これが教育実習の大まかな流れだ。
上野先生は教科書を読み進めながら要点や問題を黒板に書き、その都度、説明をしたり問題を出したりする。
感心させられるのは緩急のつけ方で、生徒が集中している時には淡々と授業を進めていき、散漫になっている時には雑談やおもしろ話で興味を惹き、集中力が上がってきたところで授業へ戻るのだ。
授業から外れた雑談にも意味があったのだと、今さらながら驚いた。
それでも生徒の集中力がそうそう続くわけもなく、
「ジン先生。今日のお昼、一緒に食べよ」
「休み時間、外でドッチボールやろうぜ」
「えー。うちらとコックリさんやろうよ」
「わかったから、ほら、ちゃんと授業を聞いて」
人なつこい彼らは、とにかく色々と話しかけてくる。話に釣られて一緒に注意されることも度々あった。
まあ、ポジティブに考えれば、生徒とのコミュニケーションが上手くとれていると言えなくもない。
彼らの明るさと人なつこさに助けられ、時には戸惑いながら、僕は忙しくも楽しい実習生活を送っていた。
※
そのことに気づいたのは、ようやく実習に慣れ、回りを見渡す余裕がでてきた頃だった。
「この問題がわかる人」
生徒たちの手があがる。
「じゃあ、ユカ」
上野先生は偏りができないように、なるべく違う生徒を選んで当てていく。
「次の問題は―― ケンジ。どう?」
時には手をあげていない生徒でも、答えられそうだと判断したら当てたりもする。
とにかく公平に、まんべんなく発言させようとしているのだ。
だからこそ、気づいてしまった。
公平を重視する上野先生が、一人だけ、絶対に当てない生徒がいることに。
その子はいつでもニコニコと笑って手をあげる。ピンと伸ばされた手はよく目立ち、例えば僕なら真っ先に当てているだろう。
現に、実習の初日で僕は彼女を当てようとしたのだ。なぜか勘違いをされて、別の生徒に答えられてしまったけれど。
上野先生が問題を投げかけるたび、少女は手をあげる。それにも関わらず当てられることは絶対にない。二人しか手をあげていない時も、上野先生は彼女を当てなかった。
そして、もうひとつ。
生徒たちの態度も不自然だった。
誰一人として、彼女の話しかけない。
お調子者のタケルも、リーダー気質で面倒見の良いホナミも、皆にちょっかいをだしては迷惑がられるケンジでさえ、彼女に近づこうとしないのだ。
あまりにも不自然だった。
「気になること?」
「はい」
散々ためらったあげく僕がこのことを聞いたのは、明日からいよいよ自分が授業をするという段階になってからだった。
「授業について?」
「いえ。生徒について、です」
「……何かしら」
「はい。あの、しばらく一緒に過ごさせてもらって気づいたことなんですけど…… どうもその、仲間外れにされている子がいるみたいなんです。始めは気のせいだと思ったんでけど、ずっとそんな状態が続いているので」
「………」
「その子は」
「窓際のうしろの子」
上野先生はあっさりと答えた。
「…そうです」
当然、わかっているはずだった。
「それから」
僕は続きを言うべきか迷い、それでも勢いに任せて口にする。
「上野先生も、あの子を避けているような気がします。彼女に近づこうとしないし、授業で手をあげていても絶対に当てない。違いますか?」
瞬き二回の沈黙。
「うん。良く観察してるわね」
そう言って微笑む彼女の表情は嫌味がなく、本音で褒めてくれているようだった。
もちろん、嬉しくない。
「なぜですか?」
「彼女に、ここから出ていって貰いたいからよ」
僕は多分、上野先生を睨みつけたのだと思う。明るく人なつこい、騒がしいけれどまとまりのあるクラス。それを作り上げた彼女を尊敬しかけていただけに、失望が大きかった。
「それって、イジメですよね。クラスぐるみの」
「そう見えることは否定しないわ。でも、やらなければならないことなの」
「どうして?」
「彼女は、ここに居るべき子じゃないから」
意味がわからなかった。
だから、そのまま言う。
「意味がわかりません」
「実習初日のことを覚えてる?」
「え? ……ええ」
唐突な話題転換に面食らいながらも、僕は頷いた。
「君は遅刻をしてきたわ。交通事故に巻き込まれたと言って」
「はい」
「とても悲惨な事故だった。死者四名、意識不明の重体が一名。無事が確認できたのはトラックの運転手だけ」
「そう、でしたね」
確かに悲惨な事故だ。ただ、それがあの子を追い出そうとするのと何の関係があるのだろう。
「そのバスに乗っていたの。あの子は」
上野先生がぽつりと言った。
「……はい?」
僕は思わず間抜けな声をだしてしまう。
「あの子がこのクラスに来たのは、その日からよ。ある意味、君と一緒ね。……違うのは」
上野先生は僕をまっすぐ見て言った。
「生きてるか、死んでるか」
僕は何の反応もできず、上野先生の唇が動くのを見ていた。
「彼女はここに居るべき子じゃないの」
そのあとのことは良く覚えていない。
僕は教室のすみで、ボンヤリと上野先生の授業を聞いていた気がする。
※
「えー。今日から僕も授業をすることになります。よろしく」
僕の最初の実習授業は国語だった。漢字の読み書きと、副詞や接続詞の使い方を理解させ、文章力を向上させる。指導案にはそんなことを書いたと思う。
「先生、ちゃんとできるの?」
「なんか緊張してるっぽいよ」
「ほんとだ。顔が引きつってる」
早速ひやかしが飛んでくるけれど、誰も本気で邪魔しようとは思っていない。むしろ協力的な子ばかりだ。
「はい、教科書の七十六ページ開いて」
クスクス笑いながらも、ちゃんと言うことを聞いてくれる。
「誰かに読んでもらおうかな。……読みたい人いる?」
手がいくつもあがり、僕は誰を当てようかと迷う。その中には当然、彼女もいた。
「――じゃあ、ホナミ」
僕は気づかないふりをして別の子を当てる。
※
「彼女を救うには、あの子自身がここを出ていこうと思わないといけないの」
上野先生はそういった。
「教えればいいじゃないですか」
「それは駄目。私たちと接触してしまったら、彼女はここを居場所だと認識して定着してしまう」
「じゃあ、どうすればいいんです」
「どうもしないこと。彼女を認識しないこと。話かけないこと。近づかないこと。目をあわせないこと。……ようするに、今まで私と生徒がやってきたことを続けるだけ」
「向こうから話しかけてきてもですか」
「彼女から話しかけてくることはないわ。こちらから接触しない限り何も起こらない」
「………」
「なに?」
「ずいぶん詳しいですね。まるで、もう何回も経験してるみたいだ」
疑いのまなざしを向ける僕に、上野先生はあっさりとうなずいた。
「してるわ、何度も。だから対処できるのよ。私も生徒も慣れたものでしょう?」
「……こんなことが何度もある学校なんですか」
皮肉混じりの僕の言葉に、彼女は悲しそうに微笑んだ。
「こんなことが何度もある教室なのよ」
※
「次のところを読みたい人。――じゃあ、タケル。難しい漢字があるぞ。大丈夫か?」
「え、うそ」
「はい、ほかの人」
「まってまって。読むから! 読めるから!」
手をあげつづける少女を置き去りにして、授業は進む。
彼女はいないのだから、それが正しい。
正しいはずだ。
※
「本来なら、とっくに出て行っているはずなの。それが出来ないのは君のせい。もちろん、私のせいでもあるけど」
「意味がわかりません」
「最初のホームルームで、君はあの子を当てようとしたでしょう。その時は、とっさにタケルが誤魔化してくれたけど……」
そう言えばそうだった。
あのときは、ただ勘違いされたのだと思っていた。
「あの瞬間から、彼女はこう思ったんだと思う。手をあげれば誰かが自分に気づいてくれる」
「…ああ」
だから、どの授業でも、どんな問題でも、手をあげるのだ。
思わず納得してしまう。
「とくに君に対しての期待が強い。最初に目を合わせてしまったのがまずかった」
そのあとも、何度か目を合わせてしまっている。言わないけれど。
「だから、これから先は絶対に彼女との接触は避けて。いいわね」
「……あの子は本当に実在していないんですか?」
根本的な疑問を口にする僕に、
「ここにいて良い存在ではないのは確かよ」
上野先生は歪んだ答え方をした。
「証明することは?」
「できないわ。信じて貰うしかない」
「信じられると思いますか」
「……もし、この話が出鱈目だとすれば、私と生徒たちは彼女にひどく陰湿なイジメをしているということになるわね」
「………」
「そっちを信じる?」
そうは思いたくなかった。
この事実を知るまでは、本当に理想的なクラスだと思っていたのだ。
今でも、そうあってほしいと思っている。
「私は彼女を救いたい。生徒たちも同じ気持ちでいる。だから…」
上野先生は深く頭を下げた。
「お願い。協力して」
僕は何を信じるべきなのだろう。
上野先生の話は突拍子がなくて、とても信じられない。
かといって、このクラスが彼女にイジメを行っているというのも信じられない。
「……わかりました」
さんざん迷ったあげく、結局、僕は信じたいものを信じることにした。
「協力します」
少なくとも、生徒たちの笑顔は信じられると思った。
※
彼女はどんな問題にでも手をあげる。綺麗に伸びた手はよく目立つけれど、僕にはその手が見えない。
工作や実験の授業では隣に立って、じっとこちらを見つめてくる。危うく目を合わせそうになるところを、生徒たちに何度も救われた。
やがて、彼女は僕の隣に立つことがなくなり、手をあげる回数も減っていった。
そして。
「はい。何か質問がある人」
少女が僕を見て手をあげる。
ホナミとマサキが手をあげる。
僕がマサキを当てる。
それを最後に、少女は手をあげなくなった。
※
その日。
朝のチャイムが鳴っても、彼女は席に座らなかった。
騒がしい教室を見回してから、ゆっくりドアへと歩き出す。
生徒たちはいつも通り、素知らぬ顔で騒いでいる。
僕は彼女を目で追いたくなるのをこらえながら、教壇に立った。
「はい、じゃあ始めよう」
彼女がドアに手をかける。
振り返る。
僕は慌てて目をそらす。
教室は相変わらず騒がしい。
「ほら、日直。号令」
上野先生の声に、生徒たちは慌てて姿勢を正す。
「起立」
皆が立つ。
「礼」
頭を下げる。
彼女も扉の前で頭を下げ――
「着席」
生徒たちが席に着くと同時に、音もなく教室を出ていった。
騒がしかった教室が沈黙する。
そして。
「みんなご苦労様」
上野先生の言葉と同時に、全ての緊張がほどけた。
「うわあ、やっと終わったあ」
「疲れたー」
「よかった、よかった!」
「ちゃんと出て行ってくれてたねえ」
心から嬉しそうな表情には何の悪意もない。
皆を信じて良かったのだと、僕はようやく思うことができた。
目を細めて微笑む上野先生も、心から安堵しているようだった。
「これで、あの子は救われました。もう大丈夫です」
「僕は最後まで半信半疑でしたけどね」
生徒たちは去っていた少女の話で盛り上がっている。
「名前、知りたかったね」
「声も聞きたかった」
「タケル、ああいう子タイプでしょ」
「バカいえっ」
「あ、照れてる」
去ってから始めて彼女のことを話せる。
少し悲しい。
「大人になったら美人になるね」
「絶対だよ」
大人になったら?
その言葉が、僕の耳に引っかかった。
「六年生になって。中学生になって」
「大人になる」
「うらやましいなあ」
「ねえ」
なぜ、そんな話をするのだろう。
彼女の来ない未来を話したりできるのだろう。
あの子は去っていったのに。
もう、大人にはなれないのに。
大人になれないのは――
「……え?」
不意によぎった思考にぞくりとする。
彼女はあの日、僕と同じように事故に巻き込まれて。
そして、死んだ。
死んだ?
誰がそんなことを言った?
あれは悲惨な事故で――
死者は四名で――
意識不明者が一名で――
「え?」
上野先生は、彼女のことを何と言っていた?
「ここに居てはいけない存在」 と言ったのだ。
ここに居てはいけない。
ここ?
ここ。
……ここは、どこだ?
『あの子は救われました』
彼女は救われた。
どういうふうに?
文字通り、救われたのだとしたら……
僕の中で何かが音をたてて壊れる。
つまり。
そういうことなのか?
「水沼先生」
ささやくような上野先生の声。
「はい」
「君は生徒にも好かれるし、教え方も悪くない。甘いところは沢山あるけれど――」
ため息をつき、それを言った。
「きっと、良い先生になれたわ」
「……過去形ですか」
「過去形です」
僕は自分の身体に触れ、感触のないことを知る。
それからふと思いつき、ドアに手をかけた。
開かない。
いつから開かないのだろう。
きっと始めてここに入った瞬間から、もう。
「さあ、授業を続けるよ。席に着いて」
上野先生の明るい声に、生徒たちも明るく返事をする。
僕は上野先生を見て、生徒たちをみて。
「水沼先生も。ほら」
ただ、笑うしかなかった。
了