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木人形(金環版)

作者: 長光一寛



雲一つない晴れ渡った空が次第にかげってきた。太陽がまるで雲に隠れ始めたかのように輝きを弱めていく。そして太陽がリング状になった。そして空の輝きが失せ、海は青さを失った。夕暮れのときのように星が光り始めた。次に雷光が陸の方できらめき、山稜に落ちた。雷鳴が轟いて、凪いでいた海上に突風が走った。やがて強い風は幾方向からも襲ってきて、船をもてあそんでいるかのように揺らした。そして右舷のある点で海水が突然膨らんだかと思うとすさまじい量の水しぶきが空中に吸い上げられた。


「竜巻だぞ!こりゃあ危ない!」舵手が叫んだ。


水夫らがよろけながら甲板の上を走る。


「ああ、神様、助けてー!」恐怖で動けなくなった少年水夫が帆綱にしがみつく。


「急いで帆を下ろせ!碇も降ろせ!」船長が大声で叫ぶ。


客室にいた乗客らが心配になって甲板に上がってきた。


竜巻は船を回転させ始めた。しかしそれを持ち上げるほどでない。


「みんな、自分の神様に竜巻ががおさまるようにお願いするのだ。乗客のみなさんもそれぞれの崇める神様に命乞いしてください!」船長


しかしこの状況の中で一人の若い男が船底で熟睡していた。船体のきしむ鋭い音そして荒いローリングによっても覚めることのない深い眠りを彼はむさぼっていた。


彼の名はヨナ。旧約聖書ヨナ伝の主人公である。キリストが「ヨナの奇跡」と言及したことで新約聖書にもコーランにもその名を留めている。ではヨナ伝の冒頭を引用して、話をはじめから語ろう。                    

御神(おんかみ)エホバ アミタイの子ヨナに託して(いわ)く 大いなる町ニネベに急ぎきて ()()しき民への警鐘となるべし その悪 我に挑みかからんとするなればなり されどヨナ エホバに(さか)らいてタルシシに向かう 『旧約聖書「ヨナ伝」第1章1節-3節』


古い話です。イエス・キリストが生まれるよりももっと昔の話。ニネベという町がありました。町といってもとても大きく、その端から端まで行くには歩いて三日もかかるほどで、町というよりは立派な国でした。が、そこの住人は、とても立派とはいえず、たいていが怠け者で、喧嘩をしたり、だましたり、盗んだり、弱い者いじめをしたりで、とにかく悪いことは何でも平気でしているような、神を恐れない人々でした。


神といってもニネベの人々にとっての神とは諸々の偶像神で、職人の手で作られた人や動物、あるいは半人半獣の形をした像が町のそこかしこに祭られており、裕福な家には二つ三つの家庭守護神が祭られていました。このような偶像のおおかたはその神格の由来が曖昧で、中には人形芝居に使われていた人形がまわりまわって神様に祭り上げられることもありました。しかしそのようなことは人形だけでなく、人に関しても起こりました。ただの人がめぐりめぐって生き神様として崇められるようになることさえ起き、このような神は、正義且つ全能という概念と無縁で、ちょうどギリシャ神話の神々のように神も人間と同じように不義を犯すということが不思議なことでなくなり、慈愛の概念が神から剥奪されていました。結局ニネベの人々は神は恐れるに及ばずという意識を抱くようになる一方、神の権威を逆用し教義をいて、弱き者らを害し、かえって、たとえば自らの良心の声を恐れる無神論者よりも、不正に走りやすくなっていました。


こうして、神を恐れないにもかかわらず、ニネベの人々は、神への服従を口実とした忌むべき悪習に浸るようになっていました。それは、神に人の子を生け贄として捧げることであり、この神の名を借りた殺人こそニネベにおけるもっとも大きな罪でした。


そして、旧約聖書のヨナ伝によると、神エホバは耐えかねて劫罰を決心したが、一縷の望みをニネベに与えるべく、アミタイの子ヨナに神託を授けたのでした。


神託というのは、神から人へのお告げですが、王などの権力者が自らの計略として人々を行動に駆り立てるために、祭司や預言者に強要した結果の偽神託が多々あったと想像します。そうであれば、ヨナのように逃避行する預言者は珍しいことではなかったでしょう。ヨナが本当に神から逃げたのか、それともニネベの王の偽預言の強要から逃げたのか?筆者にはいずれの選択肢も捨てがたいものでしたが、ヨナの奇跡を鵜呑み、いや鯨飲することにしました。


神曰く「ニネベに最後のチャンスを与えよう。お前は預言者としてニネベに行って、人々に罪を悔い改めるように話しなさい。もしお前の話を聞いて悔い改めるならニネベを滅ぼさないことにする。もしそうでなければ、ニネベを抹殺する」


ヨナ「なんですって!ニネベですか?そんな・・・いくらなんでもあんな汚らわしいところなんか行きたくありません。何で私を・・・ご存知でしょう。私がまだ子供の頃、父と母はニネベから攻めて来た略奪者らによって殺されたのですよ。家は壊され、大切なものはみな持っていかれました。ニネベの悪党どもは滅びたほうがよっぽどいいのですよ、神様。ご存知のようにこれは私がずっと願っていたことです。それなのになぜ私がニネベを救うために・・・」


「お前は私の使いとして私に従うことを誓ったではないか、早くニネベへ行きなさい。」


「どうぞお許しを!私にはそんなことはできない。ニネベに預言に行くのだけは勘弁してください。でも他の理由でなら何でも喜んで参りましょう。そうだ、あそこに行ったまま帰ってこない預言者はたくさんいます。きっと殺されたり奴隷にされてしまったのでしょう。どうかその捜索に私を行かせて下さい。しかし救いのための預言者として私をあそこに送るのだけはご容赦下さい。私にはできない。神様、私よりももっとふさわしい人がたくさんいます。ニネベに何の憎しみも持っていない者、いや、ニネベに肉親を持つ者さえいます。その人たちをおやり下さい。私にはできない・・・他のところならどこへでも行きますから、どうかニネベだけはご勘弁を!」


「お前が最もふさわしいから決めたことだ」


しかしヨナは神の言いつけを守りませんでした。ニネベとは反対の方向に逃げて行き、ある港に来るとそこから船に乗って地中海を、今のスペインあたりでしょうか、タルシシという地に逃げようとしました。遠く水平線の果てに行ったら神から逃れられると思ったのです。人々がまだ地球は丸いということに気づいていない頃のことですから。


ヨナは船底におりると旅の疲れのためにすぐにぐっすりと眠りこけました。しかし船が港を出てしばらくすると、本書の冒頭に記したような事態が発生します。


幸い竜巻は船を持ち上げることなく去りましたが、風は次第に激しくなっていき、黒い雲が空をおおいはじめ、すぐに辺りは夜のように暗くなりました。雷鳴が幾度も轟き、激しい雨も降り始めました。こんどは嵐が来たのです。波は荒れ狂い船は大きく揺れ今にも転覆してしまいそうです。


「みんな、祈りをやめてはいけない。自分の神様にこの嵐が治まるようにお願いするのだ!」船長


船の上の人たちはそれぞれ自分の神に助けを求めました。しかし嵐は少しも弱まらず、荒い波にもまれる船はギギギー、ギギギーと、今にも真っ二つに折れてしまいそうな音を立てています。


「神さまー、神さまー、どうかお助けくださーい!」人々は必死で叫んでいます。


「どうぞ、お怒りを静めて下さい。海王様どうぞ、お助けを!」船長


「おお、バール、バール、もしこの船をどうしても沈めるのでしたら私をイルカに変えてください」初めて海に出た見習い料理人


「お母さん、お母さん、こわいよー、助けてー」小間使いの少年船員


しかし嵐はいっこうにおさまらず、船は苦痛にあえぐ人の哀れなうめき声のような音を繰り返す・・・あるいは船も船長の命に従って悲痛の祈り声を上げていたのであろうか。


水夫たちは船を少しでも軽くしようと甲板にあった大きな荷物を手当たり次第に海に投げ込みます。


さて、ヨナはそのとき船底でまだ眠りこけていました。船体のきしむ音も荒いローリングも彼を目覚めさせません。


船底の浸水の様子を見るために船長が提灯ちょうちんを片手に降りてきました。いびきをかいて寝ているヨナを見つけると、船長は驚き恐れました。「なんとこんな揺れをもものともせずに寝ておれるとは、まさに神わざだ!もしやいずこのいかれる神が彼を起こそうとしてこの災難を我が船に見舞っているのではあるまいか?」


「これー!こんな大変なときに寝ている奴があるか!」船長は怒鳴りつけました。「すぐにあなたの神様に嵐を静めてくれるよう祈ってくれ。あなたにも信じている神があるだろう。もしかしたら、あなたの神様がこの嵐から私たちを救ってくれるかもしれない。」


「神様?だめだ!私には祈れない・・・」ヨナ


「じゃあ、あなたには神様はいないのですか?」


「いや、いますとも、全能の神エホバです。でも私はその神様から今逃げているのです。神様を捨ててきたのです!」


「神様を捨てた?それはどういうことです?聞かせてください」


「実は三日前、神様は私にニネベに行って人々に罪を悔い改めるよう話してこいと命じました。でも私にはそれは荷が重すぎたのです。それで神様に背いて逃げているのです」


「(傍白)なんと、おまえはわしの船には重すぎる荷だ!」


「だから、私にはもう神様に祈る資格なんてないのです。」


「祈る資格がない?いやあなたは祈るべきです。あなたは神を捨ててきたと言ったが、神を捨てるなんてことは人間にはできないことです。あなたが捨てたのは神じゃなくてあなた自身です」


「(傍白)そうだ、私は、神に捨ててもらいたかったのだ!」


「まさにこの嵐は、そんなあなたへの神の怒りでしょう。でもあなたの神様はあなたを連れ戻そうとしているのだとしたら・・・さあ早く神様に祈ってください。あなたのために私たちの命まで危なくなっているのですから。あなたが祈らなければ、私は船長として、あなたの神様の手となってあなたを葬らねばならない!」


さてその頃、船の甲板では人々はくじを引いていました。


「さみんな、このくじを一本ずつ引いてください。先が赤くなったくじが一本だけ入っています。そのくじを引き当てた人がこんな嵐を呼ぶようなひどいことをした罪人つみびとです。」水夫長


みんな恐る恐るくじを引き始めました。というのは、だれもが心当たりがあって、この嵐は自分の「あの」罪のせいかも知れないと思い始めていたからです。


「ああ、やっぱりわしじゃなかったろう、ほれ、わしのくじをみんな見てつかあさい」材木商人はほっと胸をなで下ろしました。人身御供にされる危険を知っていたからです。


「ああ、よかった。ぼくはいつもくじ運がいいから赤いやつを引き当てるかとはらはらしていたよ。でも神様はやっぱり間違いはしないもんだ。はっはっは」見習い料理人は、目に涙を浮かべながら、「バール様、バール様!」と唱え、嵐が静まるよう祈りを続けました。


「ほら、わしだってちがう、わしは無実だ。しかしかわいそうなわしの子、あいつは無垢の人形なのに、ならず者の船員どもが箱もろとも冷たい海に投げ捨ててしまったわい」人形使いが、目に涙を浮かべて言った。


こうしてみんなくじを一本ずつ引いていきました。しかしだれも赤いくじは引き当てませんでした。そしてくじは最後の二本となりました。


「さあ、まだ引いてないのはだれだ、あと二人引いてないはずだ。」占星術者


「ああ、そういえば船長がまだ引いていない。」水夫長


「それにあのヨナというけったいな旅の人もまだ引いてないぞ。いつもそわそわしていて何かにおびえているようだったが」料理長


そのとき、船長とヨナが船底から上がってきました。二人はくじの置いてある所に行きましたが、ヨナは大きな声で言った。「くじを引く必要はない、この嵐は私のせいであって、自分の神様の為せる技です!」


船長はみんなにヨナが神に背いて逃げてきたことを説明し、最後の二本のくじを引き抜き、赤いくじを荒れ狂う天に差し上げて声高に言った。「私は、この人ヨナの神様に呼ばわって尋ねる。この赤いくじのために、あなたはこの無実のくじをも海中に葬るのですか?」


しかし嵐は衰えるどころか激しさを増した。


「あっ、碇綱が切れた!」水夫長


みんなはヨナを取り囲んで口々に言った。


「あなたのせいで私たちは死ぬかもしれないのですよ」偽預言者


「あなたは何者だ」拝火教徒


「あなたはどこから来た人だ」占星術者


ヨナは答えて言った。「私はガトより来ましたヘブライ人です。私は海と地を造られた天の神エホバを恐れる者です」


「あなたはなんてことをしたのです。あなたの神様に背いて逃れようなんて」占星術者


「おれたちまで巻き添えになるなんてごめんだぞ!」賭博師


「この嵐が静まるには、あなたをどうすればいいのだろうか?」水夫長


海はますます荒れて甲板は水浸しとなった。


「私を海の中に投げ入れてください。そうしたら海は静かになるでしょう。私にはよくわかっています。この暴風がこの船を襲っているのは私のせいですから。」ヨナは死を覚悟した。


しかし人々は何とか船を陸のほうに漕ぎ戻そうと努めた。そのころは船は必ず陸が見えるところを航行していましたから、接岸できなくとも近くまでいって泳いだりボートで陸にたどり着くことが可能だからです。が海はますます荒れ、嵐は船を勢いよく沖のほうに吹きやりました。とうとう陸も見えなくなりました。


そこで人々は神に呼ばわって許しを請い、口々に船長の決断を求めました。


船長は、着ていたコートを引き裂き、ヨナの肩を後ろから両手でつかんで、荒れ狂う天空を見上げて言った、「ヨナの神様、どうぞこの人のせいで私たちの命まで奪わないで下さい。私たちはこの人をあなたが造られたという海に投げ入れます。でもそれはあなたがさせることだからです。だから私たちとしては仕方のないことです。この人をあなたの手に任せます。どうか私たちは助けてください。」


こう言うと、船長はヨナを前に突き出し、ヨナは海に飛び降りた。


間もなく、はるか彼方に水平線が突如として明るく浮かび上がってき、黒い雲はそこからどんどん風に流されてゆき、荒れ狂っていた海は一変して巨大な青いじゅうたんを敷いたかのように平らになり静まった。人々は驚き、喜んで、ヨナの神を称え、感謝し祈った。見ると遠くでヨナがプカプカと漂っています。船から投げ捨てられた人形使いの木箱からこぼれ出た木人形につかまっている。


「おーい、ヨナは無事だぞ、助けに行こう!」舵手


「(傍白)助けるとまた嵐が戻ってきはしまいか?」各々


「ボートをすぐに下ろすんだ!」船長


「おーい、ヨナー、今助けに行くからがんばってろよー」水夫長


ヨナからは声が返ってこない。


ボートに船長が真っ先に乗り込み、体格のいい二人の船員が続いた。三人はヨナの方にめがけてボートを漕いだ。そして石を投げたら届きそうなところまで来たときのこと、


「あっ、あれは何だ?あの大きな波、灰色のものが見えるぞ!」料理長が叫んだ。


「なっ、なんならー?!」材木商人


「ものすごい速さでやってくるぞ!」占星術者


「船長、気をつけてください!何か大きなものが迫って来てます!」舵手


ボートの三人は振り向いて舵手が指差すほうを見た。大きな白いうねりが上下しながら近づいてくる。


「あれは大イカだ!白い」人形使い


「いや、あれは鯨だ」占星術者


「大きな口だ。あっ、ヨナが飲み込まれるぞ!」料理長


「やられたー!ひとのみだ!」賭博師


「あっ、潮を吹いたぞ!やはり鯨だ」拝火教徒


「この野郎、これでも食らえ!」船長は叫びながら立ち上がり、ボートにあった鉤竿かぎざおを投げつけた。それは巨大な海獣の背をかすり、その白い皮膚に赤い筋がにじんだ。


それを感じたせいか獣は大きく身をくねらせ、白い尾ひれでボートを宙高く放りあげた。三人は悲鳴を上げながら海中に落下し、しばらくは浮かんでこなかった。


転覆したボートのそばから三人が浮かび上がったとき、獣は再び潮を噴き上げ、泳ぎ去ろうとした。


「船長、大丈夫ですか?!」舵手ら


「やい、人喰い鯨め!もしお前が神の使いだというのだったら、そのしるしを見せろ!」船長はボートにつかまりながら叫んだ。


白い鯨は片方の目で船長を一瞥すると静かな海面を分けて泳ぎ去っていった。


「あれが、ヨナの運命だったのだ、神に背いた預言者ヨナの」偽預言者



こうしてヨナは、鯨に飲み込まれてしまった。鯨は噛まないで一飲みで飲み込んだので、幸い怪我をすることなく鯨の腹の中に入りました。そこは真っ暗闇で息苦しく、ひどい匂いがして始めはせきこみましたが、なぜか窒息することはなかった。ヨナは神に必死になって祈り始めた。声が枯れて声にならなくなるまで声を絞り出して祈った。そしてやがて少しも恐怖を感じなくなった。それは祈りながら夢うつつになり、そのとき見た夢で自分は神の体の中にいるのだいうことを知らされたように思ったからだ。


ヨナが鯨に飲み込まれて三日の後、神はヨナの祈りを聞き、鯨に大いなる吐き気をもよおさせた。それで鯨はまだ胃に残っていたものをいっきに吐き出した。こうしてヨナは鯨の口から海に吐き出された。


天気は良くそんなに遠くないところに陸が見え、小さな川が流れ出ている浜辺があり、幸い満ち潮の時で、潮に乗ってヨナは難なく泳いで川口にたどり着いた。しかし空腹と疲労でくたくたになっており、もう動けません。浜でボール遊びをしていた少女たちに助けを求めましたが、あまりにヨナが臭かったのと、彼が裸同然の姿だったのでだれも近づけませんでした。しかしそれでもヨナを助けようと遠くから水や食物を置いてくれました。少女たちは川口で洗濯をするために来ていたのであったが、ヨナに乾き始めていた服をも一着与えた。


こうしてヨナの逃避行は失敗しました。


神はまたヨナに語りかけました。「ニネベに行きなさい。そして人々に罪を悔い改めるように諭しなさい。もしお前が説得しなかったらニネベの人は皆40日後に罪のため滅びる。」


ヨナは今度はすぐにニネベに向けて出発しました。


前にも述べたように、ニネベはとても大きな町で、その端から端まで行くには歩いて三日もかかるほどでしたので、そこでくまなく預言をして歩くのは尋常なことではありません。しかしヨナは勇気を出してニネベの町に入りました。


「みなさん、罪を悔い改めましょう。神を畏れて悪いことはやめましょう。もしみなさんが、今のままの罪多き生活をし続けたら、40日後には、この町は滅ぼされてしまいますよ」


ヨナは自分には神がついているのだと何度も自分に言い聞かせ勇気を固持し、語り続けました。しかし誰もヨナを相手にしませんでした。ヨナが近づいてくると、「臭い!」と人々はヨナに唾を吐き掛け、近寄らせませんでした。ものを投げつける人もありました。もちろん家に招き入れる人もありませんでしたので、夜はいつも野宿でした。それでもヨナは神に命じられたとおりのことを人々に語り続けました。


ヨナがニネベに来てから35日が過ぎた。しかし、ヨナの警告に耳をかそうとする人はまだひとりもいない。人々は相変わらず、神を恐れず、人をだまし、盗み、悪意を本意とした。しかしそのころ、ヨナと難破しかけた船に同乗していた材木商人がレバノン杉の商談で王に招かれてニネベに来た。そして死んだと思っていたヨナが生きているのを見た。彼は驚き、ヨナが鯨に飲み込まれるまでの一部終始を王や会う人々に語った。しかし信じてもらえず、かえって冒涜の罪を着せられそうになった彼は、ニネベが神に滅ぼされる前に一緒に逃げようとヨナを誘った。しかしヨナが断ったので、ひとり去っていった。


それからすぐに、ヨナが白い鯨から吐き出されたのだといううわさが広まり始めた。彼が臭いのはそのためで、顔色が妙なのは鯨の胃液で漂白されたのだと。そうしてニネベの人々はもしかしたらヨナは本当に神の預言者かもしれないぞと案ずるようになってきた。


罪を悔い改めるように、もしそうしないとニネベは滅ぼされる、と毎日同じことを繰り返し言いながら、みすぼらしい格好で町をくまなく歩く異国人ヨナの姿を見ていて、人々はだんだん不気味な気持ちになってきました。ヨナの履き物はぼろぼろになって、足の爪は内出血のため赤黒くなっていました。ヨナは初めは大きな声と大きな身振りで預言していましたが、やがて声はつぶれ、身振りも弱々しくなり、ついにはかろうじて聞き取れるくらいのかすれ声となり、歩みも杖を突かないとできないようになりました。


人々の間で罪の悔い改めが始まったのは、そんなヨナの声がとうとう出なくなり、ただ口をぱくぱくさせるだけになったときのことです。長らくヨナの様子をそばで見ていたひとりの男が、まるで人形腹話術師のように、ヨナの口の動きに合わせて、ヨナがそれまで繰り返し言っていたことを、初めは小さく、やがて大きな声で言い出したのです、「みなさん、罪を悔い改めましょう」と。


それからというもの、罪を悔い改める人がひとりふたりと増えていき、その人たちもヨナについて歩き、「みなさん、罪を悔い改めよう」とヨナの声となって訴え始めました。そして、38日目には町中が罪を悔い改めようと言う声でみなぎりました。断食をする人、灰をかぶる者、祈る人たち、それを取り囲む人混み、この様子が町のどこにでも見られるようになりました。悪いことをするのを見つけられた人たちはすぐに人々に取り囲まれ、悔い改めるように諭されました。あちこちで偶像神が焼かれ、また、子供を生け贄にする儀式も人々によって妨害に合い、儀式を司っていた祭司長こそ生け贄になりそうになったので、彼は命からがら逃亡しました。


この実状はすぐにニネベの王の耳にも届きました。人々が悪行をやめるようになることは王にとってはもとより好都合でした。しかしじきに人々は王も罪を悔い改めるようにと要求して宮殿に押し寄せて来ました。もし王が民衆の前で罪を悔い改めなければ、今にも暴動を起こして宮殿に乱入してしまいそうな勢いでした。ニネベ王は身の危険を感じ、すぐに人々に自らも罪を悔い改めようと言いました。そして群衆の前で、王服を脱ぎ捨て、灰をかぶりました。大臣や貴族そして宮殿の召使いたちも皆王に習って悔い改めをし、衣服を焼き、その灰をがぶり、祈りました。


39日目の朝、ニネベ王は、ニネベ中に断食、そして水も飲まないようにというお触れを出しました。さらに続けて、40日目には、灰をかぶり声を上げて神に許しを請うように、今後一切悪は行わないと神に誓いをたてるようにと命じました。


人々はそれに従い、いよいよ40日目には町中は神に対する祈りの声と、神を称える音曲で満たされました。そしてその運命の日は、ニネベで誰ひとりとして神から罰を受けることなく、平和に過ぎていきました。ヨナは神の命令を全うしたのです。そしてその日、いつしかヨナの身体から鯨の臭いが消えており、彼の顔の漂白された部分は赤みを取り戻し始めていました。


人々はこの運命の日に自分たちが無事とわかると、ヨナのところに集まり、始めはうやうやしく近づいて平伏するのでしたが、彼が臭くなくなっているのを知ると、足もとで平伏する人、洗髪してあげる人、香油で洗足してあげる人、新しい履き物を差し上げる人、さらには立派な衣服に着替えさせる人もありました。


日没に断食の命令が解かれると、人々は祝杯を挙げ、やがてお祭り騒ぎになりました。ヨナにも酒や肉料理が与えられ、立派な月桂冠が頭にかぶせられました。


やがて宮殿から使者が来て、王が預言者ヨナの労をねぎらい感謝の意を表したいので宮殿に来られたいとの招聘を伝えた。すぐにたいまつ行列ができ、「くじらから復活したヨナ!神のみつかいヨナ!」という合唱が始まりました。人々はヨナをロバに乗せて行列の真ん中を行かせ、宮殿のほうに進みました。彼を祭司長にするよう王に請願しようとの声が上がると、こんどは「新しい祭司長ヨナ、くじらのはらからヨナ、バンザイ!」という合唱になり、笛や太鼓が鳴り響き、それに合わせて踊りも始まりました。


しかし、ヨナはその時、言いしれぬ寂しさと虚しさに胸が締め付けられていました。


ヨナは思った。


「私は、しかしこの40日の間、ニネベのこの人々が救われることを本心から望んでいただろうか?否、自分はただ神を畏れ、神の命令に忠実であろうとしただけではないか。それも神から逃げられぬとわかったからだ。私がニネベの人々を愛していたかというと、答えは否だ。私はニネベの人たちを愛せない。父も母も彼らの手によって殺されたことを一時も忘れることができなかった。私が臭いので彼らが近づいてくれなかったのをむしろ好ましいことと思っていた。ただ、40日間に限って神の命令に忠実であろうとしただけなのだ。いってみれば自分は神にあやつられた人形に過ぎなかった。ニネベの人々が滅びようが生かされようが、私にはどちらでもよかった。ただ、神が私を操られるとおりに踊りしゃべる有能な人形であればそれでよかった。


「私が神を愛しているかというと、それは間違いないことだ。あの鯨のはらわたの中でのたうち回りながら祈りに祈った私に答えて救い出して下さった神に感謝し、神の御心に自分のすべてを賭けようとしたのだから。それでいてこの虚しさ、淋しさは何だろう。この人たちが味わっている今の喜びを共に味わうことのできない私はやはり人形だ。劇が終わって観客の喝采を受けて、舞台上で丁寧にお辞儀をする人形だ、そのお辞儀さえもただ操り糸が一瞬ゆるむので頭を前倒しているだけだ。心はそこにない。だからこのニネベの人たちの歓喜の声が私を少しも喜ばせないのは当たり前のことだ。神よ、あなたから逃げようとしていた私はまだ人間だった。しかしニネベに来た私は人形になっていた。そうだ、あの時一緒に鯨に飲み込まれた木人形といっしょだ。


「神様、あなたは私を用いてこの邪悪なニネベを救われました。それも40日間も彼らに悔い改めの猶予を与えられたのです。でもニネベの略奪者が私の町に攻め込んできて父と母を私の目の前で殺戮したとき、あなたは父と母を救おうとされなかった。一瞬のうちに彼らが父と母をたたき殺すのを許された。それなのに私をニネベの救いに用いられた。私にはあなたのなされることがもうまったくわけがわかりません。


「私は、ニネベの人がひとりふたりと悔い改めていく姿を見て確かにうれしかった。しかしそれはニネベの人が救われると思ったからではなく、私があなたに喜ばれる仕事をすることができたという実感からくる喜びでした。そして自分にもできたのだという満足感でした。しかし、神様、あなたもご存じのように私の行為は愛の行為ではありませんでした。なぜなら私は今彼らが救われたことをむしろ残念がっているのですから。ニネベは救われる資格なんてなかったはずなのに何で神様はニネベを救われたのだ、と。」


やがて行進が宮殿に近づくにつれ人々の合唱は言葉の統一を失い、叫び声となり、音楽もハーモニーがなくなり、踊りはリズムを失った。そして人々の声が高まるにつれヨナの寂しさは怒りに転じた。


「それにしても彼らの馬鹿騒ぎときたらしゃくにさわる。ああ神様、この人たちはなぜこんなにまで馬鹿騒ぎをしなくてはいけないのです。もっと静かにあなたに感謝すればいいのに・・・そうだ、これだ!この狂気だ!彼らが私の生まれ故郷を略奪したときのあの野蛮な勝ち鬨の騒ぎと同じだ!


「神様、やはり私が前にも申しましたように、この民は滅ぼすべきだったのです。あなたが今日救われたこの民は今にまたきちがいじみた悪行を繰り返す愚民に逆戻りしますよ。この人たちはもうあなたのことを忘れてしまっています。へたをするとこの私を神に仕立てかねません。ほら、聞きましたか、この人は私がニネベの祭司長になった暁には祭司にしてくれと頼み始めている。やはり彼らの悔い改めは一時しのぎに過ぎません。いや、最初に悔い改めて私と一緒に歩いた一握りの人たちは、まことの人たちでしょう。しかし彼らはどこに行ったのでしょう。あの人たちが喜ぶ姿を見たら、この私でも一緒に喜べたかもしれないのに・・・もしかしてあの人たちは・・・


「神様、この人たちは私を祭司長にせんと、宮殿に向かっています。しかし、どっこい彼らは宮殿に入るやいなや、私を投げ捨て、王家の宝物を略奪し始めるでしょう。その証拠に、彼らは門の飾りを外してもう奪い合っている。神よ、もうやめましょう。この民は生まれつきの悪人なのです。


「今からでも遅くはない、どうぞこの民を滅ぼして下さい。私は朝には町の外れに逃げておりますので。そうでなければいっそのことこの私を殺して下さい・・・あ、何という恐ろしいことを私は思っているのだ、神様お許し下さい・・・私はうわごとを並べ立てていたようです。」


するとヨナは、神の声を聞いた。「ヨナ、お前の怒りは正しいものであろうか?」


「神様、私にはそれはわかりません。でも私の怒りはどうしても押さえることのできないものです。私にはやはり父と母を殺したニネベを許すことができないのです。そしてそれが神様に仕える身の最たる不幸であることも知ってのことです」


『以下、旧約聖書「ヨナ伝」第4章5節-11節』


その(のち) ヨナ町の東方(あがりかた)(いで)て腰を()へる  自らにえきせむとて(いほり)をば結び その陰に座りて町の如何(いかん)を見守る  しからば御神(おんかみ)エホバ 一本の瓢箪(ひょうたん)の木をによきによきと伸ばし賜へば ヨナの頭上に緑葉茂りて陽光をば(さえぎ)りたり よりてヨナ()の瓢箪を非常の喜びとて楽しまん


しかれど御神 翌日の明け方一条の毛虫に命じて瓢箪の木より葉を(あまね)()ませ賜へば彼の瓢箪の木一葉も残さぬ裸木となりにけり


さて陽のいでたる折しも御神東方より熱き風を呼び起こし賜へり  直光ヨナのを容赦なく射たれば意識朦朧(もうろう)となりてヨナ御神に祈願して曰く 我はもはや生きるに忍びず 死ぬこそ本望なり


されば御神ヨナに問へり (なんじ)は瓢箪にかこつけて死を望むほどに(いか)りたるかや


ヨナの(いら)えて言うよう 然候(さんぞうろう) 死を望むほどに怒りて候ぞよ


かくしてエホバ神曰く あな有り難や 汝は自らが作りたるにあらざる瓢箪の木を死ぬほどに惜しむとは  一夜にして育ちし瓢箪の一夜にして枯れるがごときを以て死ぬると申すか からば汝は我が心持ちを多少とも悟るべし  彼の大いなる町ニネベをよくよく見よ 善悪の分別能(あた)わざる(たみ)十二万余ここに住み居り 加へておびただしき家畜在り これを(あまね)く創造せし余がこれを惜しみていかでか失笑をば招かん




長光一寛              2012年5月改作





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