第八話
あれから暫らくの間、水華は私を抱きしめてくれていた。健矢君の事は本当にショックだったが、こうして水華は私を心配して待っていてくれたのだ。そんな掛け替えのない親友に、私は感謝の気持ちで胸がいっぱいだった。
「ゴメンね。」
私は、ゆっくりと水華の腕の中から離れる。
「・・・大丈夫?」
「うん、大丈夫だよ。」
水華は悲しそうな顔で、私を見ていた。すごく心配してくれているのが分かる。私の所為で水華にこんな表情をさせているのだと思うと、申し訳なく思う半面嬉しくもあった。
「ありがとう、水華。水華が居てくれて、本当に良かった。」
愁斗抜きで、私の親友になってくれた水華。彼女がいなければ今頃私は、本当の意味で笑う事が出来なくなっていたかもしれない。きっと表面だけで笑っていて、内面ではいつも泣いていただろう。彼女のお陰で、こうして辛い目にあっても笑っていられる。本当にありがとう、水華。
「・・・・・・」
「水華?」
水華は突然私から顔を背け、そして俯いてしまった。思わず顔を覗き込むと、水華は歯を食いしばって何かに耐えているようだった。一体、どうしたというのだろう。
「みず・・・」
「凛、聞いて欲しい事があるの。」
いきなり顔を上げた水華が、私の言葉を遮りそう言った。その真剣な表情に、私は思わず息を飲む。物凄く、切羽詰っているような感じだ。
「・・・何?」
「こんな事、今のあんたに言うべきじゃない。でもどうしてか分からないけど、今言わなきゃもう一生言えなくなるような気がして・・・」
そこで水華は一端言葉を区切って、私の両手をギュッと握ってきた。水華の手は酷く冷たく、そして小さく震えているのが分った。
「これはきっと私の自己満足。早く言ってしまって、楽になりたいだけなのかもしれない。許してとは言えないけど、最後まで聞いて欲しい。」
何だろう。先程から胸がザワザワする。まるで耳の横に心臓があるかのように、私の心臓は大きな鼓動を立て始めた。それは警告音のように、私の頭の中に響き渡る。これから聞くであろう話の内容を、まるで聞こえなくするかのように。
水華は酷く緊張しているようだったが、ゆっくりと息を吐くとそのまま話し出した。
「私、高校で凛に会う前から、愁斗の事知ってたの。」
頭の中が真っ白になった。水華は何と言ったのだろう。知っていた?私に出会う前から、愁斗を知っていたと言うの?どうして。
「私、中学の時もバスケ部のマネージャーをしててね。愁斗は中学のバスケ界じゃ有名だったから。でも初めて会ったのは、中学最後の引退試合の時。私の中学は、あなた達の中学と対戦する事になったの。」
水華は目を細め、少し懐かしむような顔をしていた。
「・・・一目惚れだった。私の中学のバスケ部は、殆んど愁斗一人にやられちゃって。試合に負けて悲しまなければならなかったのに、愁斗は本当に格好良くて、私は一人見惚れてた。」
話を聞いていく内に、私は段々と水華の顔が見れなくなっていった。手の震えが止まらず、再び血の気が引いていくのが分かる。
「その時は声を掛ける事も出来なくて、愁斗はそのまま帰っちゃったんだけどね。そしてそれから、ずっと会う事もなかった。」
そう言って水華は、少し寂しそうな悲しそうな顔をしていた。
「そして高校の入学式、凛と出会った。ただ苗字が一緒なだけだろうと思ってたんだけど、愁斗に義姉が出来た事は噂で聞いていたから。気になって、凛と同じ中学の子に聞いたの。そしたら、あなたは本当に愁斗の義姉だった。」
目の前が真っ暗になっていく。これ以上は聞いてはいけない。もう一人の私が、必死に頭の中でそう言っていた。もしかして、私に近づいたのは・・・
「正直に言う。最初は・・・」
これ以上は駄目だと思うのに、体が動かない。耳を塞ぎたくとも、塞げない。逃げようとするも、足が床に縫い付けられているみたいに動けない。嫌だ、聞きたくない!
「凛には・・・愁斗に会えるかもしれないと思ったから近づいた。」
胸が痛い。まるでナイフで切り刻まれているかのようだ。ズキズキと痛み出し、ギュッと胸を押さえる。立っているのが辛く、目眩もしてきた。先程の水華の言葉は、私の心を深く抉り取った。
「でも、本当に最初だけなの。今では愁斗の事、好きでもないし。凛の事、私は本当の親友だと思っ・・・」
本当に、もう限界だった。水華が全てを言い切る前に、私はギュッと握りしめられている両手を振り払った。私も水華も、少しよろめく。もう何も考えられなかった。
「凛?」
水華は傷付いた顔をしていた。そして、こちらを伺うかのように見つめてくる。
「触らないで!」
再びこちらに伸ばされた手を、私は思い切り振り払う。乾いた音が、辺りに響き渡った。
「凛、お願い!最後まで話を聞いて!」
「嫌、嫌っ!」
水華の悲痛な懇願さえ聞かず、私は水華に背を向けて走り出した。後ろから私を呼ぶ水華の声が聞こえてくるも、私は振り返る事無く走り続けた。
もう嫌だ!私に会う前から、水華は愁斗を知ってたんだ。私には、愁斗が目的で近づいてきたんだ。
――隣座って良い?堺田・・・凛って言うの?私は宮野水華。よろしくね。――
信じてたのに。水華は他の人達とは違う。愁斗抜きで、私に興味を持ってくれたのだと思っていたのに。他愛のない会話、笑い声、安らげる雰囲気、一緒になって悲しんでくれる瞳、楽しかった高校生活、それが全部嘘だったなんて。
息が苦しくなり、呼吸も酷くなってきた。もう出る事はないと思っていた涙が、どんどんと溢れてくる。それ程私は、水華の裏切りに傷付いていた。
溢れる涙を拭いながら、私の脳裏には、ある人が浮かび上がっていた。
――凛ちゃんが居てくれれば、お母さんは他には何もいらないのよ。――
(お母さん!)
私だけを見てくれるであろう唯一の肉親の母に、今すぐ会いたかった。今すぐ抱きしめて欲しかった。その温かい温もりに、今すぐ触れたかった。
私は走り続けた。息が苦しく喘鳴も酷くなるが、私は立ち止まる事無く家に向かって走り続けた。