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レーヴの海で逢いましょう  作者: 神連 カズサ
第4章、流星を追う弓
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二十一、堕ちゆく星、目覚める矢


 白んだ空に、暁鷹の大群が影を描く。

 静まり返った谷に、不穏な羽音だけが木霊していた。

 まるで何かに操られるように──。


 聖地・《朝翔の谷(セリアス)》の空を覆い尽くした暁鷹の群れに、アストラガルを始めとした《射手座》の戦士たちは絶句した。

 大きく旋回を繰り返すその動きは、巨大な生き物が空を漂っているようにも見える。


「……龍が怒っているみたい」

 

 羽音と風の唸りが混ざり合った轟音に、シトラスが思わずぽつりと呟いた。

 しかし、大人たちは剣に手をかけたまま、皆一様に唇を強く引き結んでいた。


 谷を吹き抜ける暴風が、不意に止んだ。


 騒めいていた草木が、ぴたりと動きを失う。

 空を覆っていた暁鷹の群れさえ、旋回をやめ、何かを待つように静止した。


──その刹那、谷の奥から、低い振動が大地を震わせる。


 岩壁が軋む音と共に、押し殺した呻きが地の底から滲み出るかのように広がった。


「…………ルクバト」


 アストラガルが、震える声で星獣の名を紡ぐ。

 奥から差す光を弾き返すように、白銀の鬣がちらりと揺れた。


 その目は血走り、灼けるような赤が闇に滲む。

 ただ見下ろされただけで、膝が勝手に震えた。


「伏せろ!!」


 アストラガルとフラーの声が重なった瞬間、ヴェレは反射的にシトラスを抱き寄せ、地面へと飛び込んだ。

 刹那、天地を裂くような咆哮。

 焼ける風が肺を奪い、耳の奥まで灼熱が突き刺さる。


 振り返れば、そこにあった岩は泡を吹くようにどろりと溶け落ちていく。

 あと一歩遅れていたら、自分たちがその岩と同じ運命だった。

 ヴェレは冷や汗に濡れた頬を撫で、シトラスと目を合わせる。互いの頬から、血の気が引いていくのが分かった。


「フラー! 今のは、」

「ルクバトの咆哮じゃ」

「あ、あれで吠えただけなの?」

「おうとも。あれは厄介じゃ。近付けば、骨すら残らんぞ」


 ルクバトはまるで大地を蹴る駿馬のごとく、宙を駆ける。

 重力など存在しないかのように、ひと息ごとに距離を詰めてくる。

 その度に地面は唸りを上げ、空気が焼けて歪んだ。


 恐怖に押し潰されそうになった刹那――暁鷹が一斉に声を放った。


――ピェエエエ!!


 鋭い鳴き声は、逃げる者への号令ではなかった。

 それは死を覚悟した戦の合図だった。


「ダメだ! 止せ!」


 アストラガルが掠れた声で叫ぶ。


「突撃しても、意味がない!」


 その制止も届かぬまま、暁鷹たちは弓から放たれた矢のごとく一斉に急降下した。

 決死の群れは確かにルクバトを貫こうと迫ったが――。


 咆哮の余熱に触れた途端、その翼は音もなく溶け崩れ、ひとひらの星屑へと還っていく。


「…………嘘だろ」


 ダウランが膝から崩れ落ちた。

 サーリクもまた、ただ絶望を映す瞳で空を見上げていた。


 勇をもってしても届かない。

 誰もが言葉を失う。

 射手座の戦士たちに広がったのは、沈黙という名の敗北の予兆だった。


 煌めきの羽根が宙を舞い、灰のように散っていく。

 たった今まで命を燃やしていた暁鷹たちは、もうどこにもいなかった。


「……彼らは、谷を守ろうと、」


 アストラガルの声が震える。

 彼にとって暁鷹は、ただの聖獣ではない。射手座と共に狩り、共に暮らし、共に戦ってきた友だ。


 その友が一斉に散っていった光景に、戦士たちの顔は真っ白に染まった。

 誰かが剣を握り締める手を震わせ、誰かはまた膝をつきそうになる。

 恐怖と絶望が、一気に群れを覆った。


「これが……ルクバト……」

「勝てるわけが、ない……」


 小さな声が、戦列のあちこちから漏れた。

 だが次の瞬間、鋭い声がそれを断ち切った。


「黙れ!」


 アストラガルだった。

 肩越しに振り返り、赤く充血した瞳で戦士たちを睨めつける。


「我々は誇り高き暁の矢だ! 臆したままでは、的にすらなれん!」


 その言葉に、ヴェレは息を呑んだ。

 彼の背に燃え立つような気迫が、仲間たちを無理やり引き戻す。


 サーリクが唇を噛みしめ、タリクがゆっくりと短槍を握った。

 ひとり、またひとりと、震える手が武器を構え直す。


 恐怖は消えない。だが、それでも立たねばならない。

 この谷を守るため、暁矢の名に恥じぬ戦いをするために。


「…………俺が射止めてみせよう」


 それまで口を閉ざしたまま戦況を眺めていたタリクの言葉に、戦士たちの瞳が輝きを携えた。


「兄上、」


 射手座の星、射手座の神を殺そうと名乗りを上げた兄の腕を、シャナールが咎めるように引き止める。


「例え星獣殺し、と罵られようと、民の命に勝るものはあるまい」


 タリクの瞳は妹ではなく、アストラガルに向けられていた。

 灰色の双眸が真っ直ぐに己を射抜いている。

 アストラガルは身が引き締まる思いだった。


 耳裏を激しく脈打つ鼓動に、心臓が口から飛び出すような錯覚に陥る。

 初めての狩りでもここまで緊張はしなかったな、と渇いた唇を少しだけ持ち上げた。


「大丈夫だ。お前の出番はここではない」

「《流星の矢》?」


「――《流星の矢(シダッラ)》アストラガルが、星獣ルクバトに《手向けの天誓(エピタフ・ミスル)》を申し込む!!」


 アストラガルの言葉に、全員が息を呑んだ。

 悲鳴のように上擦った呼吸しか出来なくなった戦士たちを代弁するかのように、フラーが「正気か」とアストラガルの胸ぐらを掴む。


「ご心配なく。私は正気です」

「《手向けの天誓》は、どちらかの命が失われて初めて終わりを告げる――アストラ、お主……」

「当代のルクバトは長く生きすぎた。老耄が若者の足枷となる前に、鎮めるべきです」


 アストラガルが掠れた声でそう溢したのを合図に、大地が唸りを上げた。


――《天誓》の見届けを朝翔の谷が承諾したのだ。


 アウステルは相棒の肩に止まりながら、それをじっと眺めていた。

 やがて、大きく翼を広げると、空を割くような鳴き声が轟く。

 王の叫びに、ルクバトへ突撃を繰り返していた暁鷹の動きが止まった。


 まるで、我らの狩りを邪魔するなと言わんばかりの気迫に、アストラガルもまた苦笑を溢す。


「……お前なら、そう言ってくれると思っていたよ」


 アストラガルが子どもの頃から王の座を守り続けてきた彼を、人々は畏怖を込めてこう呼んだ。

――不敗の王、と。 


 アウステルを恐れているのは、人間だけではない。

 同じ暁鷹もまたアウステルのことを恐れ、敬っていた。

 

 空を埋め尽くしていた暁鷹の群れは、王にその場を譲るように四方へ散っていった。

 最後の一羽が群れから離れたかと思うと、こちらへ方向を変え、向かってくる。

 まだ若い個体のようだ、と目を凝らしたタリクが「あれは、」と妹に視線を送った。


「アルセリオ」


 シャナールの呼び声に、アルセリオが翼を二回羽ばたかせることで応える。

 そして、大地に鉤爪を下ろすと、アストラガルとアウステルの前に、ゆるりと首を擡げた。

 人間で言うところのお辞儀のような仕草である。


「……あとは頼む」


 アストラガルは、アルセリオにだけ聞こえるよう、吐息混じりにそう囁いた。

 クルル、と喉を鳴らしたアルセリオの頭を軽く撫で、深く息を吸い込む。

 視線をゆっくりと持ち上げ、鼻息荒くこちらを見下ろすルクバトを視界に収めた。


 代々受け継いできた神器《星導の弓(セイドゥナ)》を構え、狙いを定める。

 殺すなら、苦しませることなく、一矢で。

 それが射手座の教えだった。


「この一矢で終わらせる――《穿界(アストレ)》!」


 瞬間、閃光が走った。

 アストラガルの放った光の矢が、ルクバトに向かって一直線に伸びていく。


 張りつめた空気の中、誰もがルクバトに視線を注いでいたその時――。


「ふふ……勇ましいこと」


 凛とした女の声が、頭上から降りかかった。


 人影が二つ、少し離れた崖の上に見えた。

 艶やかな金の髪を翻した女は、戦場に似つかわしくないほど優美で、けれどその瞳は氷のように冷たい。


「けれど、アレは我らの獲物。邪魔はしないでもらいたい」


 真っ赤な唇をゆるりと持ち上げたかと思うと、女は歌うように呪文を紡いだ。


「凍てつく輪よ、すべてを還せ――《氷輪(グラキエル)》」


 その瞬間、空気が震えた。

 吐く息までもが白く染まるほどの冷気に、背筋が粟立つ。


 アストラガルの放った矢は、ルクバトに届くことはなかった。

 粉々に砕け散った矢の残骸が、空気中に溶け、霧へと変わる。


「…………《乙女座》!!」


 タリクがぎり、と奥歯を噛み締めた。

 腹の底から沸々と湧き上がる怒りのまま、矢を番える。


「よくも《流星の矢》の戦いに水を差したな!!」


 銀糸が振り乱されたかと思うと、シャナールもまた、弓に矢を添えていた。

 限界まで弦を引き絞った彼女は怒りを抱きながらも冷静に、兄の横顔を見遣る。


「――《瞬射(フラヴィオ)》!」


 二人は息を吐き出すのと同時に矢を放った。

 豪雨のような矢の嵐が、女とその後ろに立っているもう一人へと降り注ぐ。


「危ないわねぇ」


 パッと、霧に紛れて眼前に現れた女たちに、ヴェレは咄嗟にアストラガルの前に躍り出た。

 双刀を構えた彼女の姿を見た女が、にやりと目を細める。

 何がおかしい、とヴェレが眉を顰めたその時。


「ヴェレ!!」


 クラレットが叫んだ。

 姉の声に、ヴェレはほとんど反射で後ろに飛び退いた。


――ガン!!


 地面を抉るように大穴が開く。

 その衝撃を生んだものの正体に、ヴェレとクラレット、そしてアストラガルが息を呑んだ。


 夜を溶かして煮詰め込んだ――《牡牛座(タウロ)》の特徴を纏った太い腕、その手が握るは黄金の斧。


「《星断つ斧(トラヴィス)》、」


 ぽつり、と溢したクラレットに斧を振るった男が低い声で囁く。


「どうした、クラレット。お前の愛する養父の腕だぞ。もう少し嬉しそうにしたらどうだ?」


 黒い外套を脱いだ男の顔に、クラレットは目の前が真っ白になった。

 真珠海で相打ちにしたはずのザインが、そこに立っていたのだ。


「…………ヴェレ、ここはアタシに任せてくれ」


 その声は怒りに満ちていた。

 口を挟むことは許さないとその目が雄弁に語っている。


「病み上がりなんだから、無茶はしないでくださいよ」

「わーってるよ」


 クラレットはそう言って肩を竦めた。

 次いで、自身の腰元の短剣を引き抜くと、鈍い光を放つそれを軽く額に押し付ける。

 エルナトが戦前に必ず武器にそうしていたのと同じ仕草に、アストラガルとヴェレは目頭が熱くなった。


「――大丈夫だよ、ヴェレ。マスターは僕が守るから」


 少年の宣言に、ヴェレは勿論、その場にいた全員が「え、」と声を漏らした。


「そうさの。修行の成果をぶつけるには丁度良い」


 フラーもまた悪戯っ子のような笑みを浮かべ、シトラスの隣に並び立つ。


「ここは我らで抑えよう。お主らはルクバトを」

「あら、舐められたものね。たった三人で私とザインを抑えられると?」

「思っておるとも」


 不敵に微笑んだフラーに、女は気分を害したようだった。

 先ほどまでの楽しそうな様子から打って変わって、無表情になったかと思うと抑揚のない声で「《氷華(クリオ)》」と紡ぐ。


 辺り一体を取り囲むように現れた氷の柱に、戦士たちの表情が焦燥と恐怖に染まっていく。

 朝焼けの光を閉じ込めた巨大な氷柱が放つ輝きに、誰もが目眩を覚えた。


 大地の震えに反応したルクバトのいななきが、不自然に響き渡っていく。


 暁鷹の羽ばたきの残り香が漂い、風が谷を吹き抜ける。

 ルクバトの影が濃くなり、夜明けの光が谷底をじんわりと優しく満たしていった。


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