第8話 王宮からの使者と二度目の選択
筆跡鑑定から三日後。調査委員会が正式に発足し、聖女ミレーヌの能力検証が始まった。
私は王宮に留まり、結界の本格修繕に取り掛かっていた。北部結界だけでなく、東部と南部にも劣化箇所がある。私が去ってからの数週間で、結界全体が悲鳴を上げていた。一人の保守担当者がいなくなっただけで、これほどの影響が出る。逆に言えば、それだけ私の仕事は重要だったのだ——と、今さら証明されても嬉しくはないが。
「フェリツィアさん、お茶をどうぞ」
修繕作業の合間に、ヴェルナーがカップを差し出した。湯気が立ち上るカップを受け取ると、レモンバームの香りがした。私がこの香りの茶を好むことを、いつの間にか覚えていたらしい。
彼はもう「旅人」の仮面を脱ぎ、公爵として堂々と王宮に出入りしている。外交上の正式な訪問という体裁で、書類も整えてある。だが私の修繕作業に同行する習慣は変わらなかった。
「ヴェルナーさん。公爵がお茶汲みをしていると、周りの人が困惑していますよ。さっき廊下で女官が二人、固まっていました」
「困惑するほうが不思議です。喉が渇いている人にお茶を出すのは、身分に関係なく当然のことでしょう」
こういう返しをさらりとする人だ。身分の上下に頓着しない。それは理想論ではなく、彼にとっての当たり前なのだ。
修繕を進めるうちに、気になることが見つかった。結界の劣化パターンが不自然なのだ。
通常、保守されない結界は均一に劣化する。水が均一に蒸発するように、魔力も均一に減衰する。だが王都の結界は、特定の箇所だけが集中的に弱っていた。まるで——意図的に損傷させたかのように。
(……これは自然劣化じゃない)
私は該当箇所の魔法式を精査した。指先を当て、一文字ずつ筆跡を読んでいく。すると、見覚えのない筆跡が検出された。
私のものでも、先代のものでも、ルートヴィヒたちのものでもない。未知の筆跡が、結界の一部に上書きされている。上書きの仕方は巧妙で、通常の保守点検では見落とすレベルだ。
「ヴェルナーさん」
「何か見つかりましたか」
「誰かが結界を、故意に弱めています。特定の杭の接続パラメータを改竄して、徐々に結界が劣化するように仕組んでいる。こんな手法……高度な知識がないとできません。結界の構造を知っている人間の仕業です」
ヴェルナーの表情が硬くなった。公爵の顔だ。
「心当たりは」
「わかりません。でも、この筆跡のパターン……」
魔法式の筆跡には個人差がある。だが、同じ学派で学んだ人間には共通の「癖」が出る。文字の角度、接続点の処理方法、魔力の流し方。この筆跡には、王宮の魔法師養成課程で教わる特有の書式がみられた。
「王宮の関係者。しかも魔法式の教育を受けた人間」
宮廷司祭フーゴ。彼はもともと魔法学院の出身だ。司祭に転じる前は魔法師だった。結界の基礎知識は持っているはずだ。
「……まだ推測の段階です。証拠を固めないと」
「どうやって」
「この上書きされた魔法式を保全します。消されないように記録する。そして筆跡データベースと照合する。王宮の魔法師は全員、着任時に筆跡登録をしているはずです。私が制度を作ったので」
「フーゴが先に証拠を消す可能性は」
「結界の中枢の記録は設計上、削除できません。でも杭の表面に残った物理的な痕跡は上書きされる恐れがある。だから今夜中にやります」
「私も手伝います」
「ヴェルナーさんは魔法式を読めないでしょう」
「記録用紙の整理と、お茶を淹れることならできます」
「……それは、とても助かります」
その夜。私は結界制御室にこもり、損傷箇所の魔法式を一つずつ記録した。
地味な作業だ。膨大な魔法式の中から不正な筆跡を拾い出し、パターンを分類し、比較用の標本を作成する。王宮時代の保守作業と本質的には同じだ。
根気と精密さの勝負。違うのは、今回は結界を守るためではなく、結界を壊した人間を特定するための作業だということ。
ヴェルナーが黙って隣に座り、記録用紙を整理してくれた。紙の束を番号順に並べ、インクが乾いたものから丁寧に重ねていく。彼は私の作業を邪魔しない。話しかけもしない。ただ、必要なものを必要なタイミングで差し出してくれる。
深夜を過ぎた頃、彼がカップを差し出した。温かいレモンバームのお茶だった。
「どこで淹れたんですか」
「制御室の隅に湯沸かしがあったので。レモンバームは持参しています」
「……私が好きだと知っていて?」
「リンデの街で毎日飲んでいましたから」
何気ない気遣いだ。でも、こういう小さなことの積み重ねが、人の心を動かす。
お茶を飲みながら、作業を続けた。不正な筆跡は合計で二十三箇所から検出された。すべて同じ筆跡だ。五年前の日付の古いものから、つい最近のものまで。計画的に、少しずつ、結界を弱めていた。
◇
夜明け近く。窓の外が白み始める頃、すべての記録が揃った。
照合の結果——不正な筆跡は、宮廷司祭フーゴの着任時筆跡と一致した。特徴的な接続点の処理方法が決定的だった。
「フーゴが、結界を故意に弱めていた。聖女の奇跡を演出するために」
声に出して言うと、現実感が増した。
「結界を弱めておいて、聖女の奇跡で直した体裁にする。マッチポンプですね……」
「証拠は固まりましたか」
「固まりました。筆跡データは結界の中枢に刻まれていますから、改竄できない。物理的に削除不可能な記録です」
ルートヴィヒに報告した。彼は手紙を読む手を止め、しばらく黙った。眼鏡を外し、目頭を押さえている。
「フーゴは……十年来の同僚だ」
「知っています」
「お前を宮廷魔法師に推薦してくれたのも、フーゴだった」
それは——知らなかった。
「えっ」
「七年前。平民の魔法師を宮廷に登用することに反対する声が多い中で、フーゴが『実力で評価すべきだ』と主張してくれた。貴族出身者しか宮廷魔法師になれないという慣例を、彼が破ったんだ。お前がここにいるのは、ある意味フーゴのおかげだ」
胸が詰まった。
あの人が、私を推薦してくれた。そして今、あの人が結界を壊している。
「……なぜ、そんなことを」
「わからん。だが、あの男がお前を推薦したとき、『この国には実力で評価される仕組みが必要だ』と言っていた。本気だった」
「本気だったのに、結界を壊した? 矛盾しています」
「人間は矛盾するものだ。特に、理想が挫かれたときは」
「……なぜ」
「それは俺にもわからん。だが、事実は事実だ。フェリツィア、お前はどうしたい」
私は深く息を吸った。胸の奥に、複雑な感情が渦巻いている。恩義と怒り。感謝と失望。
「事実を報告します。感情では、揺れていますけど」
「それでいい。お前らしい」
ルートヴィヒが立ち上がった。
「調査委員会に報告する。フーゴの身柄は王宮が押さえる。——お前は、もう少しだけ待っていてくれ」
彼が部屋を出た後、私は椅子に深く座り込んだ。
私を推薦してくれた人が、私を追い出す原因を作った人だった。
(……どうして)
ヴェルナーが何も言わずに傍にいた。窓辺に立ち、外を見ている。でも意識はこちらに向いているのがわかる。何か言いたいわけではなく、ただ、いてくれている。
それだけで十分だった。




