第6話 取り戻せないものと守れるもの
想は当たった。
結界崩壊の報せから二日後、王宮から来たのは使者ではなかった。第二王子ディートリヒ本人だった。
護衛の騎士を四名従えてリンデの街に現れた彼は、以前と変わらない無表情で私の前に立った。
ただし、目の下に深い隈がある。頬がこけ、軍服の襟が少し緩い。眠れていないだけでなく、食事も十分に摂っていないのだろう。
「フェリツィア。戻れ」
命令形だった。やはり。「お願い」ではなく「命令」。この人は変わらない。
「ご無沙汰しております、殿下。遠路はるばる辺境まで、ご足労でしたね。馬車で三日はかかったでしょうに」
「茶化すな。北部結界が崩壊寸前だ。お前にしか直せない」
「存じています。地脈の振動で把握しました」
ディートリヒの眉が跳ねた。辺境にいながら王都の結界状況を把握している。それが私の能力の証明であることに、この人は気づいているだろうか。
「聞こえなかったか、殿下。私はすでに宮廷魔法師の任を辞しております。勅令を出される権限は、もう及びません」
「……お前は変わったな」
「変わっていません。ただ、言うべきことを言えるようになっただけです。王宮にいた頃は、立場上飲み込んでいましたが。——ところで殿下、聖女ミレーヌの奇跡では対応できないのですか」
「……それは」
「結界の保守は奇跡で十分だと、殿下がおっしゃったはずですが」
広場に集まったリンデの街の人々が、固唾を呑んで見守っている。
「なんだあの偉そうなやつは」
「王都の王子さまだとよ。フェリツィアさんを連れ戻しに来たんだ」
「冗談じゃねえ。あの人がいなけりゃ、うちの街はまた魔物にやられてたぞ」
鍛冶屋のおじさんが腕を組み、パン屋の女主人が眉を吊り上げている。ヴェルナーは少し離れた場所で静かに立っていた。旅人の格好のままだが、その立ち姿には公爵の風格がにじんでいる。
「状況が変わった」
「ええ、変わりましたね。私を不要と判断された結果、こうなりました」
「……何が望みだ」
来た。この言葉を待っていた。
「三つ、条件があります」
私は指を三本立てた。
「一つ。結界の保守を、宮廷魔法師の正式な職務として再定義すること。専任の部署を設け、予算を確保してください」
「……それは」
「個人の善意や義務感に頼る体制は改めてください。一人が倒れたら国が滅ぶような仕組みは、最初から欠陥です」
「二つ。結界の保守記録と修繕手順を王宮の公式文書として保管し、後任への引き継ぎ制度を整備すること」
「引き継ぎだと?」
「はい。技術は属人化させてはいけません。一人の人間の頭の中にしかないマニュアルは、マニュアルとは呼べません」
「三つ——」
ここで一度言葉を切った。風が吹いて、広場の砂埃が舞う。
「聖女ミレーヌの『奇跡』について、魔法式の筆跡鑑定を行う許可をいただくこと」
空気が凍った。
ディートリヒの顔から血の気が引く。意味を理解したのだ。
「……それはどういう意味だ」
「言葉のとおりです。結界が修繕されたとき、その魔法式に誰の筆跡が残っているかを調べたい。聖女の奇跡が本物なら、彼女の魔力パターンが検出されるはずです。もし検出されなければ——」
「やめろ」
ディートリヒの声が低くなった。怒りではない。恐怖だ。聖女を信じて国の防衛を任せたのは彼の判断だ。それが虚偽だったと証明されれば、彼の失策が公になる。
「聖女を疑うのか」
「疑っているのではありません。確認したいだけです。真実は、確認して困るものではないはずですから」
沈黙。長い沈黙。護衛の騎士たちが居心地悪そうに視線を泳がせている。広場のリンデの街の人々も息を詰めていた。自治会長は拳を握りしめ、鍛冶屋のおじさんはフェリツィアを追い出そうとする王子を睨みつけている。
この街の人々は、私が結界を守ったことを知っている。魔物を退けたことを知っている。毎日黙々と杭の修繕をしていたことを知っている。
だから、黙って見守ってくれている。それが、どれだけ心強いか。
ディートリヒは歯を食いしばり、やがて小さく頷いた。
「……わかった。三つとも呑む。だが、まず結界を直してくれ」
「もちろんです。ただし、私がリンデの街の結界修繕を完了してからです。ここの結界が先です」
「何? 王都の結界が崩壊しかけているんだぞ!」
「王都には三百人以上の魔法師がいます。私が書いた手順書どおりに応急処置を行えば、あと十日は保ちます。リンデの街には私しかいません。優先順位は明確です」
ディートリヒは絶句した。反論できないとわかったのだろう。事実だから。
「殿下。応急処置の詳細な手順書を、改めてお渡しします。前回お送りしたものより詳細です。結界杭ごとの優先順位と、地脈の流れに合わせた処置順序を記載しています。今度は聖女さまの名前ではなく、正しい実行者の名前で記録してくださいね」
最後の一言は、わざとだった。
ディートリヒの目が揺れた。怒りか、羞恥か、あるいはその両方か。七年間婚約者でいながら、この人の感情を正確に読んだことは一度もなかった。
彼は何か言いかけたが、結局何も言わず、踵を返した。護衛の騎士たちが慌ててついていく。街の入り口に止めてあった馬車に乗り込む背中が、以前より小さく見えた。
◇
彼らが去った後、ヴェルナーが近づいてきた。自治会長も駆け寄ってくる。
「フェリツィアさん、大丈夫かい。あの王子、随分偉そうだったが」
「大丈夫です。条件は呑ませましたから」
「条件?」
「結界の保守体制を制度化させます。もう、一人の人間に全部押し付けるような真似はさせません」
自治会長は目を丸くし、それから大きく頷いた。
「あんたは本当に、芯の強い人だ」
自治会長が去った後、ヴェルナーが言った。
「見事でした」
「見事じゃないですよ。ただ、言うべきことを言っただけです」
「それが難しいんです。立場の強い相手に、正当な要求を理路整然と伝えること」
私は結界杭の前にしゃがみ込んだ。十一本目。あと九本。
「……怖かったです、正直」
「そうは見えませんでしたが」
「手、震えてましたから」
ヴェルナーは何も言わず、隣にしゃがんだ。そして私の手を見た。確かに微かに震えている。魔力焼けで変色した指先が、小さく揺れていた。
彼は上着を脱いで、私の肩にかけた。
「寒いからでしょう。震えは」
「……そうですね。寒いからですね」
嘘だとわかっていて、乗ってくれた。その優しさが、少しだけ目の奥を熱くした。
十一本目の結界杭に、新しい魔法式を刻む。手の震えが止まった頃、日が傾いていた。
夕焼けの中、ヴェルナーが言った。
「この街の結界が完成したら、王都の結界も見に行きますか」
「行きます。条件が呑まれたのですから」
「一人で行くつもりですか」
「そのつもりでしたけど」
「……一人では行かせません」
断言だった。穏やかだけれど、譲る気のない声だった。
「公爵として言っていますか?」
「いいえ。個人として言っています」
返す言葉を探しているうちに、彼は立ち上がって先に歩き出した。
(……ずるい人)
けれど、その背中を見ていると、一人じゃないということが、こんなにも心強いのかと思った。




