第4話 奇跡なんて最初からなかった
北の森の魔物は、七体だった。
体長二メートルほどの灰色の獣。鋭い牙と暗い目。結界が健全な地域にはまず現れない下級の魔物だが、結界のないこの街にとっては十分な脅威だ。この種の魔物は嗅覚が鋭く、家畜や作物の匂いに引き寄せられる。結界はその匂いを遮断する効果もある。
私は急いで修繕済みの結界杭二本の出力を最大まで引き上げ、仮設の防壁を展開した。
「ヴェルナーさん、街の人を南側に避難させてください」
「わかった」
彼は迷いなく動いた。声を張り上げ、冷静に指示を出す。「女性と子供を先に」「荷物は置いていけ」「走るな、早歩きで」。慣れている。領民の避難を指示したことがある人間の動きだ。やはりただの旅人ではない——もっとも、公爵だと知ったのは昨日のことだが。
結界杭から広がる薄い光の壁が、魔物の前進を止めた。完全な防壁ではない。修繕が終わっているのは二十本中二本だけ。だが、二本でも正しく機能していれば、下級魔物程度は押し返せる。
(……もう少し、保ってくれ)
杭に手を当て、魔法式の微調整を繰り返す。地脈の流れを読み、出力を安定させる。魔力の供給量と消費量のバランスを取りながら、防壁の範囲を最適化する。単純だが集中力のいる作業だ。指先が熱くなる。魔力焼けが、また少し濃くなるだろう。
三十分後。魔物は結界に阻まれて引き返していった。灰色の毛並みが森に消えていく。
「……すごいな」
戻ってきたヴェルナーが、結界杭を見つめて呟いた。
「二本の杭だけで七体を退けた。効率がいい。王宮の結界は何本で維持していたんですか」
「三百二十八本」
「それを一人で」
「保守と修繕だけですよ。設計は先代の魔法師が。私は引き継いだだけです」
ただし、先代の設計を改良し、可変式に書き換え、効率を三倍に上げたのは私だけれど。それは言わなかった。言う必要がないことを言うのは、自慢になってしまう。
街の人たちが恐る恐る戻ってくる。自治会長が私の前に立ち、深く頭を下げた。
「ありがとう。あんたのおかげで、誰も怪我をしなかった」
「お礼はいりません。結界の修繕が終われば、こんなことは起きなくなりますから」
「本当かい?」
「本当です。結界は魔物の匂いの感知を遮断する効果もあるんです。結界が完全に機能すれば、魔物はこの街を認識できなくなります」
「そりゃあ……すごいな」
「すごくないですよ。当たり前の技術です。ただ、誰もやらなかっただけで」
宿に戻る道すがら、ヴェルナーが隣を歩いた。半歩後ろ、邪魔にならない距離。私が立ち止まれば彼も止まり、歩き出せば歩き出す。
「フェリツィアさん」
「はい」
「さっき手紙に書いた王宮への応急処置手順。あれで足りると思いますか」
「……正直に言えば、足りません」
「というと」
「応急処置はあくまで応急です。絆創膏のようなもの。根本的な修繕には、結界の全体構造を理解している人間が直接触る必要がある。全三百二十八本の杭の連動状態を把握し、地脈の流れを読み、最適な順序で書き換えていく。でも、その全体像を頭に持っている人間は——」
「あなただけ」
「……はい」
沈黙が落ちた。夕暮れの風が吹いて、髪が揺れた。風に乗って、修繕済みの結界杭が発する低い振動が聞こえる。安定した、健やかな音だ。
「でも、戻りません」
「理由を聞いてもいいですか」
「戻れば、また同じことの繰り返しです。必要なときだけ使われて、不要になれば捨てられる。七年間、それの繰り返しでした。予算を削られ、人員を減らされ、それでも結界を維持しろと言われ続けて。私は道具じゃない」
声が震えた。自分でも気づかなかった感情が、言葉にした途端に溢れてきた。目頭が熱くなる。泣きたくない。泣いたら、また「感情的な女」と言われる。
ヴェルナーは何も言わなかった。慰めも、助言も、同情の言葉もない。ただ、歩調を合わせて歩いてくれた。
それが、今の私には一番ありがたかった。
◇
数日後、少女が持ち帰ったはずの応急処置手順について、気がかりなことが起きた。
リンデの街を訪れた行商人が、王都の噂を運んできたのだ。
「聖女さまが奇跡で結界を直したんだと。北部の結界が光り輝いて、魔物が退散したってさ。王都中が歓喜の声を上げたらしい」
私は手を止めた。
「……それ、いつの話ですか」
「三日前だな。王都中が大騒ぎだったらしい。聖女さまは本物だって、みんな言ってた」
三日前。私が応急処置手順を書いた翌日だ。
あの手順書どおりに処置すれば、結界杭は一時的に光る。地脈との再接続の際に発光現象が起きるからだ。魔力が流れ込む瞬間、接続点が強く発光する。自然現象であって、奇跡ではない。
それを「聖女の奇跡」と呼んだ?
(……まさか)
いや、ありえる。手順書の宛先はルートヴィヒだが、実行するのは王宮の魔法師たちだ。そしてその「成果」を聖女が自分の手柄にした——あるいは、させられた。
「フェリツィアさん。顔色が悪いですよ」
ヴェルナーが水差しを差し出す。私は受け取って、一口飲んだ。冷たい水が喉を通り、少しだけ頭が冷える。
「大丈夫です。少し、考えることが増えただけで」
聖女ミレーヌの「奇跡」に式が見えなかった理由。もし彼女の奇跡が、他者の魔法技術を流用したものだとしたら——式がないのは当然だ。彼女自身は何もしていないのだから。
(……証拠がない。今のままでは、ただの推測にすぎない)
結界は観察すればわかる。魔法式には「筆跡」がある。人間の字に癖があるように、魔法師が書く魔法式にも固有のパターンが残る。魔力の流し方、文字の角度、接続点の処理方法——すべてが書いた人間を示す指紋のようなものだ。
王宮の結界を調べれば、聖女が本当に結界を修繕したのか、それとも私の手順書をなぞっただけなのか、わかるはずだ。
だが、王宮には戻らない。
「ヴェルナーさん。魔法式の筆跡鑑定って、ご存知ですか」
「文書鑑定の魔法版のようなものですか」
「そうです。魔法式を書いた人間の魔力パターンが式に残る。指紋のように、同じパターンを持つ人間は二人といない」
「それで何がわかるんです」
「聖女の奇跡が本物かどうか」
ヴェルナーの目が光った。理解が早い人は、こちらの言葉の先を読む。
「証拠を集めるつもりですか」
「いいえ。集めるつもりはありません。でも——証拠が向こうから来る可能性はある」
結界が崩壊すれば、王宮はもう一度私を呼ぶだろう。そのとき、私は条件を出せる。
ヴェルナーが静かに頷いた。
「あなたは賢い人だ」
「賢くないですよ。賢かったら、七年も利用されたりしません」
「それは賢さの問題じゃない。誠実さの問題です」
不意打ちのような言葉に、返す言葉が見つからなかった。
五本目の結界杭に、新しい魔法式を刻む。ヴェルナーが黙って杭を支えてくれた。
その手が少しだけ温かいことに、気づかないふりをした。




