第3話 辺境の街と隠された公爵
使者を追い返した翌日、私は何事もなかったかのように結界杭の修繕を続けた。
二本目の杭に新しい魔法式を刻みながら、昨夜のことを思い出す。騎士の顔は真剣だった。つまり、結界の劣化は本当に始まっている。
(……予想より早い。十四日は保つと思ったのに)
私が毎日微調整していた箇所が、最も早く綻ぶ。当然だ。一番負荷がかかる部分を、一番こまめに手当てしていたのだから。逆に言えば、私がいなくなった瞬間に最も脆くなる場所が露呈したということだ。
「考え事ですか」
ヴェルナーが、結界杭の計測用の杭を運びながら言った。彼は毎朝私より先に作業場に来て、道具の準備を済ませている。
「少し。……王宮の結界が予想より早く劣化していて」
「心配ですか」
「いいえ。もう私の仕事ではないので」
嘘だった。心配でないわけがない。あの結界の下には、何万人もの人が暮らしている。市場で果物を売るおばさんも、学院で魔法を学ぶ学生たちも、裏通りで遊ぶ子供たちも。
でも、心配と責任は別のものだ。
「ヴェルナーさん。一つ聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「あなた、本当にただの旅人ですか」
彼の手が一瞬止まった。杭を持つ指に力が入ったのが見えた。それだけで答えは半分出ている。
「……何がそう思わせましたか」
「靴。旅人にしては仕立てが良すぎる。縫い目の間隔が均一で、これは高級な職人の手仕事です。それから、グリュンヴァルト式を知っている一般人はほとんどいない。あの理論は魔法学院の上級課程で扱うもので、しかも結界専攻でなければまず触れない」
「……他には」
「あと、私が元宮廷魔法師だと言ったとき、驚かなかった。普通の旅人なら、少しは動揺しますよ。宮廷の人間と辺境で出くわすのは異常事態ですから」
ヴェルナーは静かに息をついた。観念したという顔ではない。むしろ、正しく見抜かれたことを歓迎するような表情だった。
「隣国、エルヴェシア公国の公爵家当主です。ヴェルナー・フォン・アイゼンベルク」
「公爵……」
「辺境の結界状況を調査するために、身分を隠して各地を回っていました。この地域の結界が崩壊状態にあると報告を受けて」
なるほど。だから結界に詳しいのか。公爵家は領地の防衛を担う立場にある。結界が隣国で崩壊すれば、影響は自国にも及ぶ。調査に来るのは当然だ。
「怒りましたか。隠していたこと」
「いいえ。身分を隠す理由は理解できます。公爵だとわかれば、街の人の態度が変わりますから。過剰にへりくだったり、逆に警戒したり」
「あなたは変わりませんか」
「変わりません。結界杭は、運んでくれる人の身分で重さが変わったりしませんので」
ヴェルナーが、今度こそ本当に笑った。声に出さない、目元だけの笑い方だった。初めて見る表情で、少しだけ年齢が若く見えた。
三本目の結界杭に取りかかった。
結界修繕のコツは、焦らないことだ。魔法式は精密な構造物で、一文字の誤りが全体の崩壊を招く。ちょうど時計の歯車のように、一つ一つの部品が正確に噛み合って初めて機能する。実際、古代の魔法式理論は機械時計の精密工学と深い関連がある。どちらも「正確な連動」が本質だ。
(……王宮の結界も同じ。聖女の「奇跡」で代替できるような単純なものじゃない)
聖女ミレーヌ。彼女の「奇跡」を、私は一度だけ間近で見たことがある。
光が溢れ、花が咲き、見る者すべてを魅了する。美しい現象だった。けれど——魔法式が見えなかった。
通常、魔法には式がある。原因と結果を繋ぐ論理的な構造だ。結界魔法であれ、治癒魔法であれ、火の魔法であれ、必ず「式」が存在する。式なしに発動する魔法は、理論上ありえない。
彼女の奇跡には、それがなかった。
(……式のない魔法なんて、存在するの?)
あの時は深く考えなかった。聖女の力は聖女のもの、私の仕事は結界の保守、と割り切っていたから。でも今、離れた場所から冷静に考えると、あの「奇跡」はおかしい。
「フェリツィアさん。お客さんです」
自治会長の声で我に返った。
街の入り口に、一人の少女が立っていた。十代後半だろうか。汚れた旅装に、疲れ切った顔。唇は乾き、靴底はすり減っている。長い距離を歩いてきたのは明らかだ。だが目だけが鋭い。
「……あなたがフェリツィアさま? 元宮廷魔法師の?」
「そうですが」
「お願いします。助けてください。王宮で、大変なことが起きています」
少女は震える手で、一通の手紙を差し出した。封蝋の紋章を見て、息を呑んだ。
ルートヴィヒ宮廷書記官。私の元上司で、王宮内で唯一、私の仕事を正当に評価してくれていた人だ。報告書のたびに「読みやすい」と言ってくれた。退職金の少なさに抗議してくれたのも、彼だった。
手紙の内容は短かった。
「結界の劣化が加速している。聖女の力では保守できない。このままでは七日以内に北部結界が崩壊する。——頼む、助言だけでいい。方法を教えてくれ」
七日。
私は手紙を読み返した。ルートヴィヒの筆跡に乱れはない。冷静に、正確に、現状を記している。だからこそ信用できる。感情的な人間が書いた手紙なら疑うが、彼は事実しか書かない。
ヴェルナーが横から手紙を覗き込み、眉を寄せた。
「北部結界の崩壊。もし本当なら、魔物の大量侵入が起きる」
「ええ。北部は魔物の密集地帯に接していますから。大型の魔物が侵入すれば、辺境の集落は壊滅します」
「対応しますか」
対応する義理はない。私を不要だと切り捨てたのは王宮だ。
でも、結界の下にいるのは王宮の人間だけではない。
「……助言は出します。ただし、王宮には戻りません」
少女が泣きそうな顔で頷いた。
「あの、少し休んでからにしたら。三日間歩き通しだったんでしょう」
「大丈夫です。ルートヴィヒさまに、必ずお返事を届けると約束しましたから」
律儀な子だ。ルートヴィヒは人を見る目がある。信頼できる人間を使者に選んだのだろう。
「名前は?」
「ナターシャです。ルートヴィヒさまの執務室で、書類整理を担当しています」
「そう。ナターシャさん、少し待って。手順書を書くから」
私は羽ペンと紙を取り出し、北部結界の応急処置手順を書き始めた。結界の構造は、全て私の頭の中にある。三百二十八本の杭の位置、接続順序、地脈との連動パターン。七年間毎日触っていたのだから、目を閉じても描ける。
ペンを走らせながら思う。
あの結界を設計したのは私だ。壊れ方もわかる。直し方もわかる。でも、直しに行くつもりはない。
(……それが、正しい選択なのかは、わからないけれど)
書き終えた手順書を少女に渡す。彼女が駆け出そうとしたとき、自治会長が駆け込んできた。
「フェリツィアさん! 北の森に魔物が出た! 数が多い! 街の柵じゃ防げない!」
——ここでも、か。
ヴェルナーと目が合った。彼は何も言わず、ただ小さく頷いた。
行こう。ここの結界なら、私が守れる。




