第2話 結界が泣いている
結界には声がある——と言ったら、大抵の人は笑う。
でも実際、劣化した魔法式は独特の振動を発する。高周波の、人の耳にはぎりぎり届かない微細な音。健全な結界は低く安定した音を出すが、壊れかけた結界は不規則に震える。私はそれを「泣き声」と呼んでいた。
リンデの街の結界は、泣いていた。
「……ひどい状態ですね」
北の畑の外れにある結界杭を調べながら、私は呟いた。杭に刻まれた魔法式は半分以上が風化し、地脈との接続点は完全に断裂している。杭の表面を指でなぞると、かろうじて残った魔法式の文字が薄く光った。
「どのくらい放置されているんですか」
隣に立つ男——昨日広場で声をかけてきた旅人が答えた。
「街の人の話では、三年ほど前に魔法師が去って以来だと」
「三年……よく街が無事でしたね」
「完全に無事ではなかった。冬のたびに魔物が出て、畑が荒らされている。去年は家畜も何頭かやられたそうだ」
私は結界杭に手を当てた。微弱だが、まだ地脈の流れは感じる。完全に死んではいない。
(……ここの地脈は東から西へ流れている。杭の配置は北東を軸にした六角構造。悪くない設計だけど、この地域の地脈は季節で流れが変わる。固定式だと、冬に弱くなる)
結界杭というのは、地面に打ち込んだ石の柱に魔法式を刻んだものだ。杭と杭の間に魔力の膜を張り、それが結界として機能する。原理は単純だが、地脈の流れに合わせて調整する必要があるため、設置と保守には専門知識が要る。
「直せますか」
「直せます。ただし、時間がかかります。二十本の杭を全部書き換えて、地脈の季節変動に対応した可変式に改修しないと」
「可変式?」
「結界の魔法式を季節ごとに自動で書き換わるように組む技術です。地脈は季節によって流れの方向や強度が変わります。固定式だとそれに追随できず、冬場に接続が切れてしまう。可変式なら地脈の変動を感知して、自動的にパラメータを調整します。王宮では標準的な手法ですが、辺境では導入されていないことが多い」
男は静かにこちらを見ていた。その目が、単なる好奇心ではなく、技術的な関心を持っている人間の目だった。
「あなたは、結界のことに詳しいんですね。旅人さん」
「ヴェルナー。名前で呼んでください」
「……フェリツィアです」
彼は結界杭に目を戻した。
「この構造、東方で見たことがある。たしかグリュンヴァルト式と呼ばれていたはず」
私は目を瞬いた。グリュンヴァルト式。四十年前に魔法学者グリュンヴァルトが発表した結界理論で、六角形の杭配置によって効率的な結界を構築する手法だ。いまの結界技術の基礎になっている。旅人がそんな専門用語を知っているのは、珍しい。
(……何者だろう、この人)
靴の質、知識の深さ、そして——何より、私の「元宮廷魔法師」という肩書に動揺しなかったこと。普通の人間なら、宮廷の名前を出した時点で態度が変わる。
考え込む暇はなかった。
「フェリツィアさん!」
声がして振り返ると、街の自治会長らしき初老の男性が駆けてきた。赤ら顔で、息を切らしている。
「旅のお方とお見受けするが、あんた、魔法師だって聞いた! この街の結界を直してもらえないだろうか!」
「……報酬は」
「金はない。だが宿と食事は出す。それと、街の鍛冶屋に魔道具用の炉がある。自由に使っていい」
魔道具用の炉。それは、思った以上に価値がある。結界の修繕には新しい魔石の加工が必要で、炉がなければ話にならない。魔石を適切な温度で加熱し、形状を整え、魔法式を刻む面を磨く。その一連の作業に、専用の炉は不可欠だ。
「お受けします」
自治会長の顔がぱっと明るくなった。
こうして私は、リンデの街に腰を据えることになった。
◇
翌日から、結界の修繕が始まった。
まず二十本すべての結界杭を調査し、状態を記録する。それから地脈の流れを計測し、季節変動のパターンを割り出す。
地味な作業だ。一本の杭の調査に半日かかる。魔法式の残存状態を確認し、地脈との接続点を特定し、周囲の環境条件を記録する。王宮でも、この工程を理解している人間はほとんどいなかった。
「こういう仕事は、目に見えないから評価されにくいんですよね」
独り言のつもりだったが、横にヴェルナーがいた。いつの間にか、彼は毎日結界杭の調査に同行するようになっていた。重い計測器具を黙って運び、記録用の紙を整理してくれる。
「目に見えないからこそ、重要だと思いますが」
「王宮では、そう思わない人が多かったですよ。華やかな攻撃魔法や治癒魔法には予算がつくのに、結界保守の予算は毎年削られていました」
「それは王宮の見る目がなかったということでしょう」
さらりと言う。媚びでも慰めでもない、事実を述べる口調だった。
私は少し驚いて、彼の横顔を見た。
「……ありがとうございます」
「お礼を言われることは言っていません」
不思議な人だった。距離が近すぎず、遠すぎない。必要なときに必要なことだけを言う。余計な同情も、過剰な親切もない。それが心地よかった。
三日目。最初の結界杭の書き換えが完了した。
新しい魔法式を刻み、地脈との接続を再確立し、可変式のパラメータを設定する。杭に手を当てると、かすかな振動が——泣き声ではなく、低い安定した音に変わっていた。
「……一本目、完了」
「あと十九本」
「気が遠くなりますね」
「手伝えることがあれば言ってください」
彼は本気でそう言っている。その目を見れば、わかる。
五日目には二本目の杭の書き換えに入った。一本目より作業が早い。地脈の流れの癖がわかってきたからだ。この地域特有の、やや南に偏った流れ方。それに合わせてパラメータを調整する。
作業の合間に、ヴェルナーが結界杭の仕組みについて質問してきた。
「この文字の配列に規則性はあるんですか」
「ありますよ。基本的には地脈の流れに対して直交する方向に主軸を取ります。水車が水流に対して垂直に設置されるのと同じ原理です。流れのエネルギーを効率的に受け止める向きがあるんです」
「物理的な原理と似ているんですね」
「魔法は物理法則の延長線上にあるというのが、最近の学説です。特別なものではなく、まだ完全に理解されていない自然現象の一つ」
ヴェルナーは頷きながら、地図に何かを書き込んでいた。学ぶ姿勢が真剣だ。知識欲は、身分とは無関係なのだと改めて思う。
六日目の夜。宿に戻ると、自治会長が慌てた顔で走ってきた。
「大変だ! 王都から使者が来ている!」
胃の底が冷えた。まさか、もう。
宿の入り口に立っていたのは、見覚えのある宮廷の紋章をつけた騎士だった。背筋を伸ばし、任務遂行の表情を浮かべている。
「フェリツィア殿。第二王子ディートリヒ殿下からの勅令です」
騎士が差し出した書状には、一行だけ記されていた。
「——結界の保守が停滞している。直ちに王宮に帰還せよ」
四日。たった四日で結界に問題が出たのか。予想より早い。私が毎日微調整していた箇所から綻んだに違いない。
私は書状を丁寧に折り畳み、騎士に返した。
「お断りします。私はすでに宮廷魔法師の任を辞しております」
騎士が絶句した顔を見て、ヴェルナーが小さく笑ったのが、視界の隅に映った。




