第10話 ただいまは言わない
リンデの街に戻ったのは、桜に似た白い花が丘を覆い尽くす季節だった。
「フェリツィアさん! おかえりなさい!」
自治会長が満面の笑みで駆け寄ってきた。鍛冶屋のおじさんが手を振り、宿の主人が窓から顔を出す。パン屋の女主人は「また痩せたじゃないか」と言って、焼きたてのパンを押し付けてきた。
「結界、ちゃんと動いてるよ! この冬は一度も魔物が出なかった!」
「当然です。可変式ですから。冬の地脈変動にも自動で追随します」
少し誇らしかった。自分で言うのは照れくさいけれど。
宿に荷物を置き、まず二十本すべての結界杭を点検した。異常なし。地脈の流れも安定している。杭に手を当てると、穏やかな振動が指先に伝わる。泣き声ではない。健やかな呼吸だ。
午後、ヴェルナーが地図を広げた。以前二人で作った地脈図だ。書き込みが増えている。彼が王宮にいる間も、独自に周辺のデータを集めていたらしい。
「リンデの街を拠点に、周辺五つの集落の結界を整備する計画を立てたいんです」
「五つも?」
「この地域は三本の地脈が交差する要所です。ここを中心に結界網を構築すれば、辺境全体の安全が飛躍的に向上する。エルヴェシア公国としても、正式に支援したい。予算と人材を出す用意がある」
公爵としての提案だった。けれど、彼の目は公務の目ではなかった。その奥に、別の気持ちが見える。
「一緒にやりましょう、と言いたいんですね」
「……わかりますか」
「わかりますよ。もう、そのくらいは」
ヴェルナーは少しだけ目を伏せて、笑った。照れている。この人にも、こんな顔があるのか。公爵の仮面を外した素顔は、想像していたよりずっと若く見えた。
◇
数週間後。王都から書状が届いた。差出人はルートヴィヒ。
結界保守の制度改革が正式に承認されたこと。結界保守専任部署が新設され、三名体制で運営されること。魔法師の待遇が改善され、平民出身者の登用制度が整備されたこと。
聖女ミレーヌが自ら聖女の称号を返上し、魔法学院の基礎課程に入学したこと。
「結界保守を学びたい、ですって」
「へえ。あの聖女さまが?」
ヴェルナーが地図から顔を上げた。
「あなたの言葉が響いたんでしょう。何もないなら何かを見つければいい、という」
「大したことは言っていませんよ」
「大したことだと思ったのは、彼女のほうです」
そして——フーゴの処分が決まったこと。魔法使用の制限と、宮廷からの永久追放。死罪にはならなかった。
(……それでいい)
フーゴは間違っていた。方法が間違っていた。人を守るべき結界を壊す手段では、何も変えられない。でも、制度への怒りは本物だった。あの人がいなければ、私は宮廷にすら入れなかった。平民の私に道を開いてくれたのは、あの人だ。
手紙の最後に、ルートヴィヒの几帳面な字で一行だけ追伸があった。
「お前がいなくなってから、お茶を淹れてくれる人間がいない。寂しい」
思わず笑ってしまった。あの人は、私がいた頃は絶対にそんなこと言わなかったのに。
「何がおかしいんですか」
ヴェルナーが隣から覗き込む。
「なんでもないです。元上司が寂しがっているだけ」
手紙を畳んで、懐にしまった。
翌日から、周辺集落の結界整備が始まった。
一つ目の集落は、リンデの街から半日の距離にある小さな村だ。三十世帯ほどの農村で、ここにも地脈の支流が通っている。結界杭を設置し、魔法式を刻む。
作業をしていると、村の子供たちが集まってきた。三人の子供が、好奇心いっぱいの目で私の手元を覗き込んでいる。
「おねえさん、何してるの?」
「結界を作っているの。この村を守る壁みたいなもの」
「すごい! 魔法使い?」
「魔法師よ。使いじゃなくて、師」
「違いは?」
「使いは魔法を使う人。師は魔法を教えられる人。教えて、次の人に繋いでいける人のこと」
子供たちがきょとんとしている。私は結界杭の前にしゃがんだ。
「見ていて。この石に、決まった形の文字を刻むの。文字の一つ一つが意味を持っていて、全部繋がると大きな力になる。一画でも間違えると、意味が変わってしまうの。だから丁寧に、ゆっくり刻むのよ」
「うわあ、光った!」
「これは地脈と繋がった合図。この光が安定したら、結界が機能し始める。地面の下を流れる力を使って、見えない壁を作るの」
「見えないのに、守ってくれるの?」
「そう。見えないけど、ちゃんとある。見えないものが一番大事なことって、結構あるのよ」
子供たちが目を輝かせて見ている。その横で、ヴェルナーが微笑んでいた。
「教えるのが上手ですね」
「そうですか?」
「ええ。将来、弟子を取るべきです」
「気が早いですよ」
でも、悪くないと思った。自分の技術を次の世代に伝えること。一人に依存しない体制。それは王宮に言ったことと同じだ。技術は人から人へ、手から手へ渡されていくものだ。
五つ目の集落の結界を完成させたのは、季節が一つ巡った頃だった。
リンデの街を中心に、六つの結界が連動する小さな防衛網が出来上がった。王都の規模には遠く及ばないが、辺境の集落を守るには十分な強度がある。三本の地脈の交差点を活かした設計で、効率は通常の三倍だ。
最後の結界杭に手を当てたとき、六つの結界が一斉に低く安定した振動を響かせた。
泣き声ではない。笑い声でもない。ただ、静かに息をしている音だった。生きている音だ。
「フェリツィアさん」
ヴェルナーが隣に立った。
「何ですか」
「これからも、ここにいますか」
「ここの結界が安定するまでは。あと何年かかるかわかりませんけど。季節ごとのデータを蓄積して、可変式のパラメータを最適化するのに、最低でも四季を二巡はしたい」
「では、私もここにいます」
「公爵なのに」
「公爵だからです。領民の安全は、最も重要な責務ですから。この辺境の結界網は、エルヴェシア公国の安全にも直結する」
「それだけですか?」
ヴェルナーが少し考えてから言った。
「それだけではありません」
それ以上は言わなかった。私も聞かなかった。
言葉にしなくても、隣にいることで伝わるものがある。毎日お茶を差し出す手、結界杭を一緒に運ぶ肩、計測データを丁寧に記録する指先。そういう一つ一つが、言葉より確かに気持ちを伝えている。
丘の上から、六つの結界の光が夕暮れの中で柔らかく揺れているのが見えた。私が一本ずつ、手で刻んだ魔法式。ヴェルナーが支えてくれた杭。リンデの街の人々が磨いてくれた魔石。たくさんの人の手が重なってできた結界だ。
一人で守ってきた王宮の結界とは、違う。ここの結界は、みんなで作った。
私は王宮を出るとき、「ただいま」を言う場所がないことを寂しく思った。でも今は違う。
ただいまは言わない。ここにいるから。ここが、私の選んだ場所だから。
風が吹いて、白い花びらが舞った。
ヴェルナーの手が、そっと私の手に触れた。
私は振り払わなかった。
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