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婚約破棄!?どうぞ!ただし、私がいないとこの国、明日には滅びますけど?  作者: 渚月(なづき)


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第1話 お前はもう不要だ

七年分の仕事が、たった一言で終わった。


目の前の男——第二王子ディートリヒが、退屈そうに書類を裏返す。婚約破棄の正式な通達書。私の名前だけが几帳面に記されていて、理由の欄は空白だった。


「聞こえなかったか、フェリツィア。お前との婚約は、本日をもって解消する」


聞こえている。聞こえているから、黙っているのだ。


広間には数名の貴族たちが並んでいた。壁際に立つ文官、腕を組む武官、扇で口元を隠した令嬢。


誰もこちらを見ない。七年間、この国の結界を維持してきた私を、まるで最初からいなかったかのように扱っている。


昨日まで廊下ですれ違えば会釈してきた人たちが、今日は視線すら合わせない。


(……ああ、そういうこと)


怒りではなかった。呆れですらなかった。ただ、ずっと薄々感じていた予感が、形になっただけ。


「理由を伺ってもよろしいですか」


「必要か?」


「記録として残したいので」


ディートリヒの眉がわずかに動く。こういう実務的な返しを、この人はいつも嫌がった。婚約者であるうちから、私の報告書の文体が「味気ない」と言われていた。


「……聖女ミレーヌ殿が、お前の役割を引き継ぐ。魔法防衛は奇跡の力で十分だと判断された」


奇跡。その言葉に、思わず呼吸が浅くなる。


この国の結界は、緻密な魔法式の積層で成り立っている。地脈の流れを読み、季節ごとに式を書き換え、劣化した魔道具を一つずつ修繕する。


地味で、根気のいる、職人の仕事だ。


それを「奇跡」で代替する。料理人の包丁さばきを「祈り」で代替するようなものだ。


(……冗談でしょう)


だが、ディートリヒの顔には冗談の色はない。彼の隣に控える聖女ミレーヌが、柔らかな微笑みを浮かべている。純白の法衣に金の刺繍。長い銀髪が光を受けて輝いていた。まるで絵画から抜け出したような美しさだった。


「フェリツィアさま。長い間、おつかれさまでした」


その声は甘く、広間に染み渡る。貴族たちがうっとりと目を細める。


私は彼女の指先を見た。爪は綺麗に整えられ、インクの染みもなく、魔力焼けの痕は一つもない。


結界を触ったことがない手だ。


結界杭の周囲は魔力が高密度で流れるため、素手で触れると皮膚が変色する。私の指先が薄茶色に焼けているのは、七年間毎日その作業を繰り返してきた証だ。


「……承知しました」


「は?」


ディートリヒが目を見開く。抵抗すると思っていたのだろう。泣きすがると思っていたのだろう。七年間尽くした婚約者に捨てられた女が、素直に引き下がるはずがないと。


「婚約破棄、受理いたします。つきましては、本日付で宮廷魔法師の任も辞します。引き継ぎ書類は執務室の棚の三段目に。結界の保守手順書は第七書庫の奥から二番目の列に。魔道具の修繕記録は四階倉庫の鍵付き棚に。鍵はルートヴィヒ書記官がお持ちです」


「待て。そこまで言っていない」


「お待ちしません。不要と判断されたのですから」


広間が静まり返る。扇で口元を隠していた令嬢が、ぽかんと口を開けていた。


私は一礼して、踵を返した。長い裾が床を掃く音だけが響いた。


(……七年か)


長い廊下を歩く。高い天井に足音が反響する。振り返らない。振り返ったら、何かが溢れてしまう気がした。


結界の保守だけではなかった。魔道具の開発、災害の予測、新人魔法師の教育、報告書の作成。全部、一人でやってきた。


王宮の魔法師は三百人以上いるのに、結界を理解しているのは私だけだった。


他の魔法師は華やかな攻撃魔法や治癒魔法を選び、地味な結界保守を志す者は誰もいなかった。


(……誰もやらないなら、私がやるしかないと思っていた。それが間違いだったのかもしれない)


執務室に戻り、私物をまとめる。驚くほど少なかった。羽ペンが三本と、使い古した魔法式の計算板。それから、初めて結界を修繕したときに拾った、欠けた魔石の破片。


窓の外、王都の空に薄い光の膜が見える。私が毎日書き換えている結界の末端だ。


あれが、あと何日保つだろう。


(……保守しなければ、十四日。修繕しなければ、三十日。完全に崩壊するまで、四十五日)


計算は頭の中で自動的に走る。七年間の習慣は、そう簡単には消えない。


考えるのをやめた。もう私の仕事ではない。


荷物を抱えて裏門を出る。門番が驚いた顔をしたが、何も言わなかった。


石畳の道を歩きながら、深く息を吸った。夕暮れの空が、やけに広い。王宮の中にいると見えなかった雲の形が、今はくっきりと見える。


七年ぶりに、定時より前に宮廷を出た。





王都の安宿で一夜を過ごした翌日、私は東の辺境行きの乗合馬車に乗った。


理由は単純だ。辺境なら結界が薄い。薄いということは、仕事がある。私にできるのは、魔法式を書くことだけだから。


宿代と馬車代で、退職金の大半が消えた。宮廷魔法師の退職金は、七年勤務にしては驚くほど少なかった。平民出身者の昇給が制限されていたからだ。


馬車に揺られること三日。たどり着いたのは、リンデの街という小さな集落だった。石造りの家が丘に沿って並び、街の外れには古い魔法陣の残骸が点在している。


かつて誰かが結界を張ろうとして、途中で放棄した跡だ。


(……式の構造は悪くない。でも、地脈との接続が甘い。季節変動を考慮していない固定式だから、冬に地脈の流れが変わると接続が切れるんだ)


職業病で、つい分析してしまう。


宿を探して歩いていると、広場で人だかりができていた。


「また魔物が出た! 北の畑が荒らされてる!」


「結界が機能してないんだ。もう三年もこのままだ」


「王都に訴えたって、辺境のことなんか誰も気にしやしない」


私は足を止めた。


広場の端に、一人の男が静かに立っていた。旅装だが、生地の質がいい。靴の縫い目が均一で、仕立ての良さがさりげない。


貴族か、あるいはそれに近い身分の人間だ。背が高く、旅の埃にまみれていても姿勢が崩れていない。


目が合った。


彼はかすかに首を傾げ、それから私の手元を見た。魔力焼けで変色した指先を。


「——魔法師の方ですか」


「……元、ですけど」


男はほんの少し笑った。冷たくも温かくもない、観察するような笑みだった。


「元、ということは、今は自由ですね」


「自由、ですか」


「違いますか」


「……考えたこともなかったです。自由かどうかなんて」


自由。その言葉が、胸に妙な重さで落ちてきた。ただ結界があって、それを守るのが私の仕事で。仕事がなくなった今、自由と呼ぶべきなのか、途方に暮れていると呼ぶべきなのか。


遠くで、結界の残骸がかすかに軋む音がした。人には聞こえない周波数の、微細な振動。


この街の結界を、直せるかもしれない——そう思ったとき、男が静かに言った。


「もし時間があるなら、少し話しませんか。この街の結界について、相談したいことがあるんです」


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