「お前を愛することはない」と結婚初日に宣言された雑草悪妻
「最初に言っておこう。お前を愛することはない。お前がどれだけ着飾って俺の気を惹こうとしても、無駄なことだ」
端正な顔立ちは彫刻のよう。滑らかな金髪に少し遊ばせた毛先。すらりとした鼻筋は完璧で、翠が混じったヘーゼルの瞳は悪戯好きの少年のような輝きがあった。
着飾って気を引く──眼前にいる夫に告げられた言葉は、最大の侮辱であろう。なぜならば、今日は女が一番輝く日、結婚式だったからだ。
髪に生花を飾る可憐な女王が流行を作り出した、純白のドレスとヴェールに身を包んだ姿は、人生最高に着飾った姿だった。それでも尚、着飾っても無駄だと、切り捨てられたならば生涯どんな格好をしようとも無駄であろう。
薄いヴェール越しにアンネマリーは夫になる人物を見つめた。今日から夫になるグラシアン・シリル・デュヴァル。
名門伯爵家の後継で、女優などと浮き名を流す社交界きっての遊び人である。もともとこれは政略結婚だ。アンネマリーはグラシアンにバレぬようヴェールの下で小さくため息を漏らす。もちろん、名誉のために言っておくが彼の美貌に感嘆を漏らしたわけではない。色々な諦めだ。
「別に『愛してくれ』なんて、頼んでませんけど」
アンネマリーは淡々と言い返した。その様子にグラシアンの瞳が揺れる。この答えは想定していなかったのだろう。この世の全ての女が自分に靡くと思っているのなら、勘違いも甚だしい。もう一度ため息を吐きたくなったが、アンネマリーは我慢した。
今日だけは、幸福な花嫁を演じなくてはならないから。
始まりはグラシアンの父、デュヴァル伯爵が、アンネマリーの生家であるルーベル家に縁談を持ち込んだことだ。胃を痛めたのはグラシアンの父であった。家を継がせたいのに、当の本人は賭博で金を溶かし、女を取っ替え引っ替えして遊ぶばかり。
そこでは、グラシアンも結婚すれば落ち着くのではないかと考えた。求めるのは、真面目でグラシアンの手綱を握ってくれるようなお嬢さん。それに選ばれたのが、成り上がり男爵家の娘アンネマリーだった。楚々として真面目、実家の商会運営でそろばんを弾き帳簿をつける仕事をしていた。
アンネマリーは変わり者と呼ばれていた。着飾って舞踏会に出かけるより、数字を数えている方が良かった。本を読むのが好きで、父から贈られた望遠鏡で天体観測を行うのが趣味だ。
月の満ち欠けを観測し、暦にはもっと種類があるのではないかと考えているほど。その話をすれば父は「アンネマリーは面白いことを考えるなぁ」と鷹揚に笑い、母は「女が頭でっかちだったら、男に嫌われますよ」と心配した。
アンネマリーは栗色の髪をいつも引っ詰めにして化粧っ気もなく、殿方を探す夜会にも出ないのだから行き遅れに足を突っ込みかけていた。そんなアンネマリーを心配した母親が、デュヴァル家からの縁談に頷いてしまったのである。
デュヴァル家が運営する商会とルーベル家が運営する商会が事業提携すれば、国一番の規模になった。父は商会を大きくできる野望が叶い、母は娘の結婚の心配をしなくて済む。
そして、アンネマリーは数字をこよなく愛する女だった。国一番の規模──取引される額の上昇は胸を躍らせるものがあった。そうして、稀代の遊び人との結婚を承諾してしまったのである。
「つまらん女だな」
グラシアンはアンネマリーの言葉をただの強がりだと思ったのか、鼻で笑った。
***
煌びやかなシャンデリアが輝き、大理石の床が広がる娯楽用の小宮殿のダンスフロアは弦楽器の緩やかな音色が響いていた。
貴族から勢いのある豪商などが集った今宵の夜会は、名目としてはグラシアンの結婚を祝うためのものだった。しかし、彼の隣でパートナーを務めるのは新妻ではなく、彼の愛人だ。
劇場を賑わす新進気鋭の女優、ジゼル。平民であり、娼婦の娘とも噂されるため名門伯爵家の妻にはなれないという事情があった。
「グラシアン、今日はあなたの結婚祝いなのに奥さんを放って私に夢中だなんて。奥さんが可哀想!」
真っ赤なルージュの唇が歪む。可哀想と吐いておきながら、全く可哀想とは思っていない。胸元が大胆に開いたドレスに首元には大粒の宝石が散りばめられたネックレスを纏っている。
「君が花なら、あの女は雑草だ」
グラシアンはジゼルの髪を撫でなら囁いた。新妻であるアンネマリーは壁の花のように隅に立って、ちびちびとシャンパンを舐めている。
邪魔をしてこないなら好都合だ、とグラシアンは曲に合わせて三曲連続でジゼルと踊った。踊っている最中、囁き声が響く。
「グラシアンも女の趣味が悪いな。地味な妻か、派手で下品な娼婦の娘か」
「まあ、あのドレスをご覧になって。男に媚びることしかできないふしだらな娼婦に似合いのドレスですわね」
一瞬だけ、ジゼルは顔を顰めたがグラシアンと目が合うと微笑んだ。娼婦などという罵倒はジゼルの美しさに対する嫉妬だろう。
その時、ヒールの音がコツコツと響く。
「まぁ、滑稽ですわ」
「あの新妻、相手にされなくて気でも狂ったか?」
嘲笑の対象がいつの間にかジゼルから、アンネマリーに変わっていた。何事だ? とグラシアンは嘲笑の中心に目を向ける。そこには、一人で踊るアンネマリーの姿があった。
二人で踊るワルツの形ではなく、奇怪な踊りだが一人の踊りとして完成されていると思ってしまった。軽やかに舞いシフォンの生地のドレスが広がる。
「すまない、ジゼル」
流石に外聞が悪いと、グラシアンはジゼルに断りを入れてアンネマリーに近づいた。
「おい。気狂いを妻に迎えたと噂されたら、俺が困る。それで気を引いたつもりか?」
大人しくしてくれたらいいものを。グラシアンはアンネマリーにおかしな一人踊りを止めようとする。
「あの、邪魔です」
しかし、アンネマリーは回転をやめなかった。それどころか邪魔だとグラシアンを追い払おうとしている。
「次のステップは左足なんです。あなたのせいでずれました。私は四十歩目は左足と決めているんです」
「は?」
グラシアンが困惑していると、アンネマリーが早口で捲し立てた。
「私は数字を愛します。美しい数字で生きていきたいんです。四十歩目は左足。それがもっとも美しいんです」
アンネマリーは後ろに一歩下がったかと思うと、彼女の言うところの四十歩目を、左足で踏み直した。
「お前…変な女だな」
グラシアンが呆れたように呟くと、アンネマリーは「ふふっ」と笑った。
「つまらん女から変な女に昇格ですね。私もあの手の罵倒は好みません。美しくないので」
アンネマリーの言葉に、グラシアンはその時初めてアンネマリーが一人で道化になることでジゼルを庇ったのだと気づいた。自分の夫の愛人であるジゼルを。
「お前…まさか」
グラシアンがそのことを指摘しようと口を開きかけたとき、アンネマリーが言葉を被せた。
「雑草は踏まれても強かに生きます」
その皮肉げな返しが、アンネマリーを雑草と表したグラシアンへの返しだと気づいた時、グラシアンは思わず「あっ」と溢して口を手で覆った。聞こえていたのだ。
用は済んだとばかりに、アンネマリーはグラシアンに背を向け立ち去った。「変わった…奥様ですね」と近くにいた招待客の一人が媚びへつらうように笑った。
アンネマリーが立ち去った後も、夫に見向きもされない妻がおかしくなって一人で踊り出したというのは嘲笑の的だった。しかし、グラシアンだけはアンネマリーが自らを犠牲にして道化の役を買い、ジゼルを嘲笑から守ったのだと気づいていた。
いままで今までのグラシアンなら、一緒になって笑っていただろう。真意に気づかずに。しかし、今、アンネマリーがおかしな妻として笑われていることが無性に腹が立った。
***
この世の全ては数字である。これがアンネマリーの思想だ。全ては数字から構成されている。美しい数字を体現すること、それがアンネマリーの生き方だった。
市場の流れは数字に如実に現れる。アンネマリーは、時折り変装して市民に紛れ、市場の相場を確認している。魚の時価のように変動するのだ。
市場には工業製品が溢れている。工場のミシンで作られた均一な縫い目の服。便利になった一方、どこか味気なさを覚えるのは自分だけだろうかとアンネマリーは自分に問う。
そういえば、母から嫁入り道具として持たされていた裁縫道具のことを思い出した。女なんだから、これだけは嗜んでおきなさいときつく言われていた。
「少し、やってみましょうか」
アンネマリーは軽い足取りで屋敷に戻る。新婚だというのに二つに分かれた寝室には、アンネマリーの荷物が運び込まれていた。その中に裁縫道具もある。最高級の糸も、特殊なかぎ針もある。
刺繍も美しい数字の比率を求めれば美しくなる。美しい数字を念頭に置けば、それが刺繍だろうが絵だろうが、美しいものになる。
アンネマリーはかぎ針を動かして純白の糸を縫い付け始めた。真珠色のスパンコールやビーズを高速に縫い付けて固定していく。日の当たり方によって様々な表情を見せる。
出来上がったのは純白のヴェール。結婚式などに着用するものだ。これとセットでドレスも作ったらいい眺めだろうが、流石にドレス一着を一人で刺繍するのは時間がかかりすぎる。
アンネマリーは似たような、しかし、決定的に風合いの違うヴェールを数点作り上げたあと、それを商会の婦人向けの商品に加えた。一点物ゆえの希少性、手作りの温かみの懐古は、貴族の婦人たちにうけた。
出品した数点の「作品」は瞬く間に売れた。
「なるほど。美しい数字です」
売り上げの帳簿を見ながら、アンネマリーは満足げに頷いた。商会の幻の名品となったアンネマリーの作品は、貴婦人たちの間で持っているだけでステータスとなるほどの商品となった。
アンネマリーは大量に供給はしなかった。わざと少ない数を流通させることで、希少性を上げブランド化した。しかし、需要と供給の大幅な乖離はやがてその流行を風化させる。
希少性を保ったままそれでも売り上げを保つために、アンネマリーは優秀なお針子のパトロンとなり、商会に引き抜いた。アンネマリーの刺繍の技術を習得してもらおうと考えた。
濃紺のオーガンジーに輝くビーズを刺していく。淡水パール、メタルビーズにピンクのビーズ、そしてクリスタル、ブラックダイヤを惜しみなく使う。
作品名「夜の女王」
マーメイドラインの美しいドレスだった。一見、喪服のように黒く見えるけど、よく見れば繊細なレースの重なりがわかる覆われた首元。裾は鰭のように鮮やかで、溶けていく夕焼けのようなビーズたちのグラデーションがある。
アンネマリーの刺繍作品が軌道に乗ってきたことにより、大きな作品を仕上げてみたくなった。そのためにお針子たちに技術を伝え、ドレスを仕立てた。
それは美しい数字を浮かべた曲線のラインがある。これは、アンネマリーの中で美しい数字の集合体だった。つけるビーズやクリスタルの数まで美しい数字にこだわった。
今までの刺繍の作品は純白を基調としたものがほとんどだった。ブランドコンセプトは「花嫁のような幸福を」だからだ。アンネマリーがつけたわけではなく、お針子たちが考案したものがそのまま定着してしまった。
なんだか、「お前を愛することはない」と言われた結婚式の日に執着しているような気になってしまう。あの時纏った純白とは対極にある、黒と濃紺。それが世の中に受け入れられるかは、賭けだった。
しかし
「私の頭には美しい数字が弾き出されている」
***
「今日の舞台、素晴らしかったよ。ジゼル」
劇場の関係者専用の小部屋、巨大な姿見の前で笑うジゼルを見ながら、グラシアンはソファに腰掛けていた。ジゼルが纏っているのは、濃紺の体のラインが出るドレス。
女のお洒落なるものは、本質的なところでは理解が及んでいないが、着飾っているということはわかる。全身を首元まで覆うデザインなのに、体のラインが出ることで扇状的でもある。
「今日の舞台の衣装よ。支配人に無理言って着たまま来ちゃった。話題のオートクチュール刺繍のブランドのものですって!」
その衣装は話題をさらった。公演のポスターに描かれたジゼルの姿とその衣装は瞬く間に話題になり、チケットは完売した。
「あぁ…それは、うちの商会の商品だな。妻が管理してるから、俺はよく知らないが。夜な夜な妻がお針子たちと縫ってるのを見かけたことがあるよ」
明確に決めたことはなかったが、グラシアンとアンネマリーの間にはお互いに干渉しないという条約が課されているように思う。やはり、「お前を愛することはない」というグラシアンの言葉のせいだろう。
「あの、地味で変わった奥さんのこと? 死にかけの鶏のようなダンスの」
ジゼルは吹き出すように笑った。確かに女優のジゼルの方が歌も踊りも上手いだろう。アンネマリーの一人踊りは奇怪で稚拙に見えても仕方がない。
しかし、あれはジゼルを庇ったのだ。
「そんな言い方しなくてもいいじゃないか」
グラシアンは思わず口からそう漏れていた。今までグラシアンがジゼルにこんな言い方をすることはなかった。
「アンネマリーは、俺の面子を立ててくれたんだよ。浮気してる夫に非難が集中する前に、変人の妻を演じることで自分が道化になってくれたんだ」
流石にジゼルの目の前で、お前を庇ったんだぞとは言えなかった。
「あーあー、グラシアンも結婚したから、私たちの関係も無駄だったわね」
ジゼルは姿見に全身を写し、グラシアンに背を向けた。
「もう女避けのアクセサリーなんて、必要ないでしょ」
ジゼルは鏡越しに笑った。真っ赤なルージュの唇が吊り上がる。グラシアンとジゼルの関係はドライなものだった。
グラシアンは女好きのふりをしているが、あまり女性が得意ではない。昔、父の妾に色目を使われたことがトラウマだった。だったら女遊びをして、支配者側に回ることデ傷ついた少年だった自分を癒そうとした。
こんな自分が、人なんて愛せるわけがない。しかし、女は寄ってくる。自分が被害者のふりをして女を泣かせまくった報いなのだと諦めていた時に、ジゼルと出会った。
女優という職業は残念ながら演技だけでは評価されないのが実情だった。パトロンと愛人関係にならなければ上に上がれなかった。ジゼルはさらに高みを目指していた。
ジゼルは名門伯爵家の子息がパトロンになってくれるなら、自分は女避けのアクセサリーにでもなってやると言った。そうすれば結婚が回避できると思ったから。
結局、父親が強引に縁談を進めた。
「奥さんに女避けのアクセサリーになってもらいなさいよ。あなたは改心して、愛妻家になったふりをすればまともな女は寄り付かないわ」
ジゼルは鏡に映る自分を見ながら、どうすれば自分が一番美しく見えるか考えているようだった。夜に飲まれていくような空のドレスは、修道女の衣服のように清廉でありながら、女の美しさを匂い立たせていた。
「そんなひどいことできるか」
人を愛せないグラシアンに嫁ぐ女は不幸だ。だから「お前を愛することはない」と最初に宣言して、早々に愛想を尽かしてくれればよかったのだ。全部こちらが有責で離縁すればいい。アンネマリーの再婚の面倒までみるつもりだった。
でも、アンネマリーはいつまでも離縁の話を切り出さない。これはアンネマリーから切り出してくれなければならなかった。グラシアンから切り出して仕舞えば、アンネマリーは軽薄な夫に捨てられた妻になってしまうから、妻から夫を捨てたという形にしなければならなかった。
「ひどいこと? あら、私にはひどいことをしても心は傷まないのね」
揶揄うようにジゼルが笑う。
「君は最初から分かった上で俺を選んだじゃないか。女として愛されることはない。ただお互いを利用するだけの関係だって」
アンネマリーは選んでない。親同士が勝手に決めてしまった。最初からわかっていたジゼルとは事情が違う。「お前を愛することはない」と言った時、泣いてくれればよかった。心は痛むが、そうすればアンネマリーは離縁を切り出したかもしれない。
なのにアンネマリーが返した言葉は「別に『愛してくれ』なんて、頼んでませんけど」だ。きっと弱々しく泣く女じゃなくて、強がる女だったのだろう。申し訳ないことをしているのはこちらなのに、グラシアンはアンネマリーが泣かなくてよかったと思ってしまった。
泣かれるのは、やはり辛いものがある。自分が傷つけているのに、傲慢にも自分が傷ついているような気がする。どうして、こんな容姿で生まれてしまったのだろう。その気はなくとも、女たちは寄ってくる。甘い花の芳香に寄せられる蝶のように。
父の妾の、あのぎらついた目は少年に向けるものじゃなかった。自分が女を狂わせていく。それが怖かった。花じゃなくて、雑草になりたかった。誰の心も惑わせることがない。
結婚を回避するための愛人だったジゼルだが、彼女はグラシアンがアンネマリーと結婚してしまって、言うなれば計画は失敗したのだ。自分の価値は無くなってしまったと考えているのだろう。
「俺と別れて、どうするつもりだ?」
グラシアンはジゼルのことも心配していた。グラシアンの愛人の座に収まったから、ジゼルは過激な営業をせずとも劇場のトップスターになることができた。対等なビジネスパートナーだと思っていた。
グラシアンとジゼルの破局はすぐにゴシップ記事の一面を飾るだろう。でもそれが、ジゼルを見捨てるような気がした。
「私はね、もっと上に行きたい。娼婦の娘ってのは本当だから、どこまでも貪欲に生きていきたいのよ」
その言葉が、「美しい数字で生きていきたいんです」と言ったアンネマリーに重なった。グラシアンはどうやら自分は勘違いしていたのだと気づいた。
アンネマリーはきっと幸せな花嫁を夢見て嫁いできた。ジゼルは男のグラシアンが盾にならなければ、また喰い物にされる。それはとんだ思い上がりだった。男が女を庇護してやらねばならない、と心のどこかで思っていたのだろう。
彼女たちは強い。美しい数字に生きるのも、貪欲に生きていくのも彼女たちなりの美学なのだ。
「目指すは、国王の公妾よ。グラシアン、あなたには悪いけど私は伯爵の子息の愛人で終わりたくないの」
ジゼルは優雅に微笑む。それは誰よりも貴婦人然としていて、口から汚い罵倒と扇子を翻しながら笑う貴婦人たちより美しかった。
「雑草は踏まれても強かに生きます」というアンネマリーの言葉を思い出した。結局、弱かったのはグラシアン自身だったのだと、グラシアンは深くソファにもたれかかり天を見上げた。
***
妻の商品を愛人が使った。その事実は社交界で噂になった。「これは愛人からの挑発だ」と邪推する者たちが後を絶たなかった。
ぱち、ぱち、とそろばんを弾く音が響く。外はもう薄暗いがランプの灯りが帳簿を照らしていた。アンネマリーはオートクチュール刺繍の売り上げに付随して他の商品も指数関数的に売り上げが伸びるのを、数字に表し満足気に微笑んだ。
ドアがノックされる音が聞こえ、アンネマリーは手を止めた。執事が夕食の支度を告げに来たのかと思った。
「どうぞ」
アンネマリーが返事をすると、ドアが開く。そこに立っていたのはグラシアンだった。朝帰りが多い彼が夕食どきに屋敷にいるのは珍しかった。
「どうされました?」
グラシアンがアンネマリーの部屋を訪ねるのは初めてのことだった。
「ジゼルと別れた」
グラシアンは端的に告げた。何と返せば良いかわからなかったアンネマリーは、「ご愁傷様です」と返した。
「君は、侮辱されたようなものだぞ。夫の愛人に作品を使われて、今じゃ社交界は噂で持ちきりだ」
グラシアンは自分の愛人が妻の作品を使用したことで、作品が汚されたと感じるのではないかと心配しているようだった。しかし、アンネマリーの視界に映る数字は美しいままであり、美しい数字は汚されてはいない。
「私の持論ですが、美しい数字は足しても引いても、かけても割っても、美しいままです」
アンネマリーがそう言うと、グラシアンは眉間を押さえた。
「また数字か。わかるように説明してくれ」
「ジゼルさんは美しい数字を持っていました。私はジゼルさんを広告塔として宣伝に使ったんです。別に美しい数字が汚されたなんて思っていません」
愛人のスキャンダルも計算のうちだったのかと、グラシアンは気付いたようだった。
「離縁しないのか? 俺は正真正銘のクズだぞ」
「離縁して欲しいのですか?」
アンネマリーはグラシアンの思惑を察かねていた。ジゼルがいた時なら、本当は愛人と結婚したいからアンネマリーが邪魔になっただけだと思う。しかし、先程ジゼルとは別れたと言われたばかりだ。
「俺は人を愛せない。君の幸せのために離縁した方がいい。俺が有責で離縁しよう。君には再婚に支障がないように取り計らう」
グラシアンは申し訳なさそうに頭を下げた。人を愛せない理由、最初に「お前を愛することはない」と言ってしまった理由を丁寧に話してくれた。
「君を尊敬している。だから、誠実に対応しなければならないと思った」
グラシアンは商会の運営には興味がないようだった。だから今までアンネマリーが好き勝手できた。しかし、グラシアンは興味がないと切り捨てるのではなく、アンネマリーの商才を尊敬しているらしい。
「なぜ、私の幸せが離縁につながるのですか?」
アンネマリーは純粋に疑問で尋ねた。商会の事業提携、そして拡大は結婚により成り立つものだ。それはアンネマリーの中で何より美しい数字だった。
「私だって人より数字を愛します。そして私はこの結婚を美しい数字だと認識しました。2という数字が好きなのです。東の国では、2は二と書きます」
アンネマリーは近くにあった羊皮紙に羽根ペンにインクをつけて、二本の線を引いた。これが東の国の数字「二」である。1は一と書き、ただ1を横に倒しただけだと見られがちだが、2は二と書き線だけで数を表す素晴らしい数字だ。さらに3も三ですらばらしい。
無駄を削ぎ落とされた数字の魅力の虜だった。
「私は結婚することによって美しい数字になれたんです。だから、あまり離縁する必要性を感じません」
もちろん1という数字が美しくないわけではない。1は無駄を削ぎ落とした至高の美しさだ。
「離縁…しなくていいのか」
「はい。商会は国一番の規模になりました。これは美しい数字です。もともと私も愛して欲しいなんて、望んでいませんでしたし」
そこでグラシアンは驚いたような表情をした。
「強がっていたわけではないのか」
「はい、本心です。私も数字以上に人を愛せる自信がありませんし、そこはお互い様です」
アンネマリーがそう言い切ると、グラシアンは複雑な表情をした。どこか影を感じる。
「君を尊敬している」
「はい。先程聞かせていただきました」
「愛することはないと言ったが、撤回させて欲しい」
グラシアンは息を吸ってしばらく黙った。何かの覚悟を決めているようだった。
「愛している…とまでは言い切れないが、君に愛を感じ始めている」
グラシアンにとって一世一代の告白であることは、彼の耳が赤く染まっていることから分かった。馬鹿にするつもりはなかった。今更、何を…と怒りも湧いてこなかった。
人を愛せないと言っていたグラシアンが、愛を感じ始めている。それは喜ばしいことのように感じた。グラシアンにも、アンネマリーにとっての美しい数字が現れたらいい。
「こんな汚い男に好意を向けられるのは気持ち悪いだろう」
「いえ、あなたの数字は美しいままです。私の目にはそう見えます」
アンネマリーはグラシアンのヘーゼルの瞳を見つめた。
「私と新たにパートナーの契約をしませんか。あなたに女性が寄りつかないように、私はあなたを縛る悪妻になります」
もし、グラシアンがアンネマリーを愛せなくても仕方がない。後継を作らなければいけない立場だが、その時は養子を迎えようとアンネマリーあっさりと言うと、グラシアンは驚いたように「それでいいのか」と尋ねた。
美しい数字とは、無駄がないこと。無理なことを努力するより、新たな道を探せばいい。それが美しい数字に魅せられたアンネマリーの生き方だった。美しい数字の生き方を曲げてまで、女として愛されたいとは思わない。
美しい数字の生き方を曲げることは、アンネマリーという人間を否定することだった。
アンネマリーから提示した条件。それは、グラシアンは賭け事をやめてその金を投資に回すこと。築いた社交界での人脈を商売に活かすこと。そして商品に男性側の意見を取り入れるために、アドバイスして欲しいということだ。
つまり
「私と一緒に商売をやりましょう、グラシアン」
***
商会は繁盛していた。アンネマリーが黄金期へと導いた。アンネマリーの元にジゼルから真っ赤なルージュが届く。
添えられていたメッセージカードには「少しはお洒落をした方が舐められないし、商談もうまくいくわよ」と書かれてあった。ジゼルも自分がアンネマリーの広告に使われたことを悟っているようだ。
アンネマリーはジゼルに連絡をとり、商会の広告として起用した。化粧品を共同開発して、トップスターの女優が使っている化粧品というブランドは、貴婦人たちの間で流行り、安価なものは庶民にまで広がった。
肌を白く見せるアイテムであるつけぼくろも星形やハート形のものを用意し、貴婦人たちに大流行した。つける位置によってお茶目さだったり、恋愛をしていることを意味しながら、やがてはどこの政党を支持しているかを意味するまでに発展した。
グラシアンも変わった。女遊びというグラシアンにとっての自傷行為のようなことはアンネマリーの存在ですっかりなくなった。遊び人というイメージでグラシアンに近づいてくる女はいたが、アンネマリーが恐妻であるという噂が出回ると次第にいなくなった。
グラシアンはすっかり心を入れ替えたと社交界で噂になった。グラシアンは商談や株取引などアンネマリーの指導の元、商才を伸ばし、商会は夫婦経営になったことでさらに繁栄を極めた。
グラシアンが本格的に経営に参入してからは、男性向け商品も充実し、商会に死角はなくなった。どの分野もトップシェアを誇るようになった。
そして、アンネマリーに愛を感じ始めていると言ったグラシアン。アンネマリーはさっさと優秀な養子を迎えて、経営の基礎を教える気満々だったのだが、あれからグラシアンは毎日不器用ながらも愛を伝えてくれるようになった。
「アンネマリー。3という数字は美しいか?」
グラシアンが勘定をしてアンネマリーが帳簿をつける。グラシアンが商談してアンネマリーが知恵を出す。相利共生のように二人の関係はしっくり来た。アンネマリーは2を美しい数字だと感じていた。そんな中、グラシアンが3は美しいかと聞いた。
「その…もう一人、家族を増やしたい」
養子の話かと思ったが、グラシアンはアンネマリーと家族を作りたいと話した。グラシアンのトラウマが少しずつ薄れていっているような気がした。
「ええ、美しい数字です」
アンネマリーは微笑んだ。たとえ3でなくとも、美しい数字になるだろうという予感があった。
世間ではアンネマリーは、夫の愛を取り戻し、愛人を強かに利用した悪妻と呼ばれている。




