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短編シリーズ

「不細工と付き合うわけない」と言われた夜、私は自分の顔を初めて憎んだ

作者: 虹村玲
掲載日:2026/01/29

 「不細工と付き合うわけないだろ」


 その言葉は、思ったよりも普通の声で放たれた。

 怒ってもいないし、照れてもいない。

 ただ、事実を述べるみたいに。


「勘違いするなよ。金と都合がよかっただけだ」


 通話が切れたあと、私はしばらくスマートフォンを耳に当てたまま動けなかった。

 切れた音は、ちゃんと聞いた。

 それでも、体が反応しなかった。


 夜だった。

 カーテンの隙間から、街灯の光が細く伸びている。

 いつもと同じ部屋。

 いつもと同じ、安いラグ。

 いつもと同じ、散らかった机。


 なのに、世界の置き方だけが、少しずれてしまった気がした。


 宮坂透子、二十二歳。

 社会人四年目。

 特別な経歴も、特別な才能もない。


 自分の顔について、考えないように生きてきた。

 鏡は毎日見ていたけれど、深くは見なかった。


 可愛くないことは、分かっていた。

 でも、致命的だとも思っていなかった。


 ――中身を見てくれる人は、いるはずだ。

 ――努力していれば、いつか選ばれる。


 そう思うことで、何とか自分を保ってきた。


 だから、彼の言葉は効いた。


 顔を否定されただけじゃない。

 私が信じてきた「逃げ道」そのものを、塞がれた。


 床に座り込む。

 泣こうとしても、涙は出なかった。


 代わりに、頭の中がやけに静かになった。


 ――じゃあ。

 ――私は、何を信じて生きればいい?


 立ち上がって、鏡の前に行く。

 電気はつけない。

 薄暗いまま、自分の顔を見る。


 そこにいたのは、

 彼に「不細工」と言われた女だった。


 目が小さいわけじゃない。

 鼻が極端に低いわけでもない。

 ただ、印象に残らない。


 誰かの“二番目”にいそうな顔。

 誰かの“ついで”で思い出される顔。


 私は、その顔を見つめながら、初めてはっきり思った。


「……嫌だ」


 小さな声だった。

 でも、はっきりした感情だった。


 この顔で、また同じことを繰り返すのが嫌だ。

 信じて、尽くして、

 最後に「最初から選ばれてなかった」と知るのが嫌だ。


 顔を変えたい、と思ったのはその時だった。


 衝動じゃない。

 激情でもない。


 静かな、決断だった。


 翌日、私は普通に出社した。

 仕事もした。

 同僚と雑談もした。


 でも、頭の片隅にずっと残っている。


 ――顔。


 昼休み、スマートフォンで「整形」という文字を打ち込む。

 検索結果を、すぐに閉じる。

 心臓が、少し速くなる。


 家に帰って、また検索する。

 症例写真を見る。

 費用を見る。

 ダウンタイム、リスク、副作用。


 怖い。

 でも、目を逸らさない。


 数日、それを繰り返した。

 誰にも言わないまま、

 少しずつ、覚悟を積み上げていく。


 ――この顔で生きる苦しさ。

 ――顔を変える怖さ。


 天秤は、静かに傾いていった。


 カウンセリング予約のボタンを押したとき、

 手は震えていた。


 それでも、キャンセルはしなかった。


 病院の待合室は、妙に静かだった。

 雑誌を読む人。

 スマートフォンを見る人。


 誰も、誰とも目を合わせない。


 医師は淡々と説明した。

 期待しすぎないこと。

 完璧にはならないこと。

 元には戻らないこと。


 私は、頷いた。


「分かっています」


 分かっていた。

 完璧になりたいんじゃない。


 もう一度、自分を信じたいだけだ。


 手術の日が決まる。


 帰り道、駅のホームで電車を待ちながら、

 ガラスに映る自分を見た。


 この顔を見るのも、あと少し。


 そう思うと、少しだけ胸が苦しくなった。

 嫌いになった顔なのに、

 二十二年間、一緒に生きてきた顔だった。


 ――ごめんね。


 そう思った自分に、少し驚いた。




 手術当日の朝、目覚ましが鳴る前に目が覚めた。

 外はまだ薄暗く、カーテン越しの光も弱い。


 体を起こすと、心臓が早く打っているのが分かった。

 逃げたい、という気持ちはなかった。

 ただ、戻れない場所に行く前の、静かな緊張があった。


 洗面所で顔を洗う。

 水をかけるたび、鏡の中の顔が歪む。


 ――今日で最後。


 そう思うと、不思議と感情が湧かなかった。

 悲しいわけでも、嬉しいわけでもない。

 ただ、区切りをつける日だと理解しているだけだった。


 病院へ向かう電車の中は、通勤客で混んでいた。

 スーツ姿の人たちが、スマートフォンを見たり、目を閉じたりしている。


 この中の誰一人、

 私が今日、顔を変えることを知らない。


 その事実が、少しだけ心を軽くした。


 受付を済ませ、待合室で呼ばれるのを待つ。

 名前が呼ばれた瞬間、背中に小さな緊張が走った。


 更衣室で服を脱ぎ、手術着に着替える。

 布の感触が、やけに現実的だった。


 ベッドに横になり、ライトが顔の上に来る。

 医師が「これから始めます」と言う。


 麻酔が入る。


 意識が遠くなりながら、私は考えた。


 ――本当に、これでよかったのか。

 ――この先、後悔しないのか。


 答えは出なかった。

 でも、戻りたいとも思わなかった。


 それで十分だと感じたところで、意識が途切れた。



 目が覚めたとき、顔全体が重く、熱を持っていた。

 包帯で視界も狭い。


 時間がどれくらい経ったのか、分からない。

 看護師の声が聞こえ、名前を呼ばれる。


 私は、ちゃんと返事をした。


 痛みはあった。

 でも、それは想像していたよりも「普通の痛み」だった。


 激痛ではない。

 ただ、鈍く、逃げ場のない痛み。


 それが、逆に現実味を持たせた。


 ――ああ、終わったんだ。


 その日の夜、家に戻る。

 鏡は、見なかった。


 見る勇気がなかったわけじゃない。

 今は、まだ見る意味がないと分かっていた。


 数日は、腫れと内出血が続いた。

 食事も思うようにできない。


 仕事は休みを取った。

 同僚には、体調不良とだけ伝えた。


 誰にも言わない。

 誰にも見せない。


 この時間は、私と私だけのものだった。


 鏡を見るのは、夜だけにした。

 包帯越しに、輪郭が少しずつ変わっていくのが分かる。


 怖さが、少しずつ、形を変えていく。


 ――もし、変わってなかったら。

 ――もし、思っていたほどじゃなかったら。


 不安は消えない。

 でも、それでも前に進んでいるという感覚はあった。


 包帯が外れた日、

 私は、しばらく鏡の前で動けなかった。


 知らない顔、というほどではない。

 でも、確実に「前の私」ではなかった。


 目元の印象が違う。

 輪郭が柔らかい。


 ……きれい、という言葉より先に、

 **「疲れにくそうな顔だ」**と思った。


 その感覚に、少し救われた。


 完璧じゃない。

 でも、この顔なら、生きていける。


 それが、最初の実感だった。



 外に出るのは、少し時間がかかった。

 腫れが完全に引くまで、人目が怖かった。


 でも、ある日、思い切って駅まで歩いた。


 誰も、私を見ない。

 ――と思ったのは、最初の数分だけだった。


 視線が、触れる。


 以前とは違う種類の視線。


 露骨ではない。

 でも、確実に「一瞬、止まる」。


 コンビニで会計をするとき、店員が目を合わせて微笑んだ。

 それだけのことなのに、胸の奥がざわついた。


 ――今まで、なかった。


 何度か外出を繰り返すうちに、

 私は気づき始めた。


 世界は急に変わったわけじゃない。

 ゆっくり、態度を変えている。


 それが、少し怖かった。


 ある日の夕方、駅前で声をかけられた。


「すみません」


 振り向くと、スーツ姿の男性が立っていた。

 営業でも、ナンパでもない。

 そのどちらとも違う距離感。


「芸能事務所です。少し、お話だけでも――」


 一瞬、息が止まる。


 ――やっぱり。


 嬉しさより先に、納得が来た。


 顔が変わったからだ。

 それ以外の理由は、ない。


 でも、不思議と嫌じゃなかった。


 この世界は、最初からそういうルールだったのだと、

 やっと理解できたから。


「……話だけなら」


 自分でも驚くほど、落ち着いた声だった。



 事務所は、想像よりも静かだった。

 華やかさより、実務的な空気。


 通された部屋で待っていると、

 社長だという男が入ってきた。


 神崎正義。


 彼は座るなり、私を見た。


 じっと。

 長く。


「顔はいい」


 それだけ言う。


 褒められた、という感覚はなかった。

 値踏みされた、という方が近い。


「だが、それだけで残れる場所じゃない」


 私は頷いた。


「分かっています」


「……ほう」


 少しだけ、興味を持ったような目。


「君、作り直しているな」


 心臓が、一瞬だけ強く打った。


 でも、否定はしなかった。


「はい」


 神崎は、少しだけ鼻で笑った。


「隠さないのか」


「聞かれたら、嘘はつきません」


 神崎はしばらく黙り、言った。


「事情はいらない。努力も語るな。

 結果だけ出せ。それができるなら、残れる」


 冷たい言葉だった。

 でも、透子はその冷たさに救われた。


 同情も、理解も、いらない。

 必要なのは、席だけだ。


「やります」


 即答だった。


 その瞬間、

 後ろで控えていた男性と目が合った。


 新人マネージャーだという、朝霧。


 彼は、何も言わなかった。

 でも、視線だけで分かった。


 ――見られている。




 レッスンは、静かに始まった。


 怒鳴られることも、露骨に笑われることもない。

 でも、だからこそ、逃げ場がなかった。


 鏡の前で立ち位置を確認する。

 隣には、十代の女の子がいる。

 彼女は、最初から「そこにいていい顔」をしていた。


 私は、そうじゃない。


 歌う。

 動く。

 止められる。


「もう一回」


 理由は言われない。

 ダメとも言われない。


 ただ、やり直し。


 その繰り返しが、じわじわ効いた。


 顔が変わっただけで、

 本当に、私はここに立っていいのか。


 そんな疑問が、毎日、少しずつ大きくなる。


 休憩時間、誰も話しかけてこない。

 かといって、避けられているわけでもない。


 ただ、距離がある。


 私は、その距離の測り方が分からなかった。



 朝霧は、相変わらず何も言わない。


 立ち位置を示す。

 時間を告げる。

 水を渡す。


 それだけ。


 ある日、レッスン後に声をかけた。


「……私、浮いてますか」


 朝霧は、すぐには答えなかった。

 少し考えてから、言う。


「浮いてる、というより」


 一拍。


「まだ、地面に足を置いてない感じです」


「……どういう」


「落ちるのが怖い人の立ち方です」


 胸の奥を、正確に突かれた。


「整形したこと、関係ありますか」


 朝霧は、初めて私を真正面から見た。


「あります。でも、それだけじゃない」


「……」


「ここにいる人は、全員、何かを失う覚悟で来てます。

 時間、普通の生活、居場所」


 彼は続ける。


「透子さんは、もう一つ、失った」


 私は、息を止めた。


「“戻れる場所”です」


 その言葉は、静かだった。

 でも、重かった。


 整形前の私には、戻れない。

 でも、今の私は、まだ居場所がない。


 宙に浮いている。


 それが、私だった。



 その夜、家に帰ってから、久しぶりに昔の写真を見た。


 整形前の顔。

 笑っているけれど、どこか遠慮している目。


 この人は、

 ここに来る覚悟がなかった。


 でも、確かに、私だった。


「……ごめん」


 そう呟いたとき、

 なぜか涙が一滴だけ落ちた。


 後悔じゃない。

 罪悪感でもない。


 ただ、区切りだった。



 数日後、

 小さなステージに立つ機会が与えられた。


 観客は少ない。

 関係者と、数人の招待客だけ。


 でも、空気は本番だった。


 ステージ袖で待っているとき、

 胸の奥が冷たくなる。


 怖い。

 逃げたい。


 ――ここに立つ資格があるのか。


 その瞬間、朝霧が言った。


「逃げないでください」


 命令じゃない。

 叱責でもない。


 事実確認みたいな声。


「透子さんは、もう逃げる人じゃない」


 その言葉で、

 私は一歩、前に出た。



 ライトが当たる。


 一瞬、何も見えなくなる。


 でも、目を閉じない。


 私は、客席を見た。


 そこで――

 見覚えのある横顔を見つけた。


 悠斗。


 元彼。


 隣には、知らない女。

 腕を組み、余裕のある表情。


 彼は、私を見ていない。


 それでいい。


 私は、マイクを握った。



 歌い出しで、声が少し揺れた。

 でも、止めない。


 整形した顔。

 作り直した輪郭。


 それでも、

 この声は、私のものだ。


 歌いながら、思った。


 私は、

 誰かに選ばれるために、ここに立っているんじゃない。


 自分が立つと決めたから、立っている。


 サビで、胸の奥が熱くなった。

 怖さが、消えたわけじゃない。


 でも、怖さの居場所が、

 「邪魔」から「燃料」に変わった。



 歌い終わったとき、

 拍手が起きた。


 大きくはない。

 でも、確かだった。


 ステージ袖に戻ると、

 朝霧が一言だけ言った。


「今、地面に立ってました」


 それで、十分だった。



 休憩中、

 背後から声がした。


「……すみません」


 振り向く。


 悠斗だった。


 彼は、困惑した顔をしている。


「さっきの人……名前、聞いても」


 私は、少しだけ考えた。


 そして、答えた。


「あなた、昔こう言いましたよね」


 悠斗が眉をひそめる。


「不細工と付き合うわけないって」


 空気が止まる。


「……透子?」


 私は頷いた。


「透子です」


 悠斗は、言葉を失った。

 視線が、私の顔をなぞる。


 値踏みじゃない。

 理解しようとする目。


 でも、遅い。


「今は……綺麗だな」


 その言葉を聞いて、

 私ははっきり分かった。


 もう、この人の言葉では、何も動かない。


「ありがとうございます」


 私は、静かに言った。


「でも、あなたに評価される必要は、もうありません」


 悠斗は、何も言えなかった。




 悠斗は、しばらくその場に立ち尽くしていた。

 何か言おうとして、言葉が見つからない顔。


 その様子を、私はもう追わなかった。


 追わなくていい。

 追わないと決めた。


 楽屋へ戻る途中、廊下の白い壁がやけに眩しかった。

 さっきまで、あんなに怖かった場所なのに。


 朝霧が、少し遅れて入ってくる。


「……」


 彼は何も言わなかった。

 でも、その沈黙は、今までとは違った。


 “確認”の沈黙だった。


 私は、先に口を開いた。


「さっきの人、元彼です」


 朝霧は、驚いた様子を見せなかった。


「そうですか」


「……昔、私の顔を理由に、切り捨てられました」


 一度、息を吸う。


「でも、今はもう、何も言われませんでした」


 朝霧は、少し考えてから言った。


「言われなかった、というのは」


 一拍。


「もう、立場が逆だからです」


 その言葉を聞いたとき、

 胸の奥で何かが、静かに落ち着いた。


 勝った、という感覚ではない。

 取り返した、という実感。



 その夜、事務所に呼ばれた。


 小さな会議室。

 社長の神崎が、資料を閉じる。


「今日のステージ、見た」


 私は、背筋を伸ばした。


「君は、自分がどう見られているかを、分かって立っていた」


 それは、初めての言い方だった。

 評価でも、試しでもない。


「顔を売ったわけじゃない。

 同情を引いたわけでもない」


 神崎は、私をまっすぐ見た。


「“ここに立つ理由”を、ちゃんと持っていた」


 机の上に、一枚の紙が置かれる。


「契約する」


 短い一言。

 余計な装飾はなかった。


 私は、深く頭を下げた。


「ありがとうございます」


 声は、震えていなかった。


「条件は変わらない」


 神崎は続ける。


「過去を売るな。

 整形を語るな。

 被害者になるな」


「はい」


「だが」


 一瞬、言葉が止まる。


「立った事実は、消えない」


 それだけだった。

 でも、それで十分だった。



 事務所を出ると、夜風が冷たかった。

 深呼吸をすると、肺の奥まで空気が入る。


 スマートフォンが振動する。

 画面には、見覚えのある名前。


 悠斗。


 メッセージは短かった。


『さっきは、ごめん。

 話したい』


 私は、画面を少しだけ見つめてから、

 何も返さず、ブロックした。


 怒りはない。

 憎しみもない。


 ただ、もう関係がない。


 それだけだった。



 家に帰り、電気をつける。

 いつもの部屋。

 いつものラグ。

 でも、世界の置き方は、もうずれていない。


 洗面所で、鏡の前に立つ。


 整形した顔。

 作り直した輪郭。


 それでも、目の奥にいるのは、

 あの夜、床に座り込んでいた私だ。


 違うのは、姿勢だけ。


 私は、鏡の中の自分に言った。


「ここまで、よく来たね」


 声に出して、そう言った。


 整形は、逃げじゃなかった。

 魔法でもなかった。


 ただ、

 自分で立つ場所を選び直しただけだ。



 数日後、レッスンの合間、

 若い女の子が小さな声で話しかけてきた。


「……あの、透子さんって、

 最初から、怖くなかったんですか」


 私は、少し考えた。


「怖かったよ」


「……今も?」


「今も」


 彼女は、少し驚いた顔をした。


「でも、立ってる」


 そう付け足すと、

 彼女は小さく笑った。


 その笑顔を見て、私は思った。


 誰かに選ばれる物語じゃない。

 誰かを見返す物語でもない。


 これは、

 自分で自分を立たせる物語だ。



 夜、駅のホームで電車を待つ。

 ガラスに映る自分は、少しだけ背筋が伸びている。


 派手じゃない。

 完璧でもない。


 でも、ここにいる理由を、私は知っている。


 電車が来て、扉が開く。


 私は、迷わず乗り込んだ。


 怖いまま、進む。

 それでいい。


 顔を変えたあとから始まる人生で、

 私はもう、誰にも値段をつけさせない。


 立つと決めた場所に、

 ちゃんと、自分の足で立つ。


 それが、私の本物だ。

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