「不細工と付き合うわけない」と言われた夜、私は自分の顔を初めて憎んだ
「不細工と付き合うわけないだろ」
その言葉は、思ったよりも普通の声で放たれた。
怒ってもいないし、照れてもいない。
ただ、事実を述べるみたいに。
「勘違いするなよ。金と都合がよかっただけだ」
通話が切れたあと、私はしばらくスマートフォンを耳に当てたまま動けなかった。
切れた音は、ちゃんと聞いた。
それでも、体が反応しなかった。
夜だった。
カーテンの隙間から、街灯の光が細く伸びている。
いつもと同じ部屋。
いつもと同じ、安いラグ。
いつもと同じ、散らかった机。
なのに、世界の置き方だけが、少しずれてしまった気がした。
宮坂透子、二十二歳。
社会人四年目。
特別な経歴も、特別な才能もない。
自分の顔について、考えないように生きてきた。
鏡は毎日見ていたけれど、深くは見なかった。
可愛くないことは、分かっていた。
でも、致命的だとも思っていなかった。
――中身を見てくれる人は、いるはずだ。
――努力していれば、いつか選ばれる。
そう思うことで、何とか自分を保ってきた。
だから、彼の言葉は効いた。
顔を否定されただけじゃない。
私が信じてきた「逃げ道」そのものを、塞がれた。
床に座り込む。
泣こうとしても、涙は出なかった。
代わりに、頭の中がやけに静かになった。
――じゃあ。
――私は、何を信じて生きればいい?
立ち上がって、鏡の前に行く。
電気はつけない。
薄暗いまま、自分の顔を見る。
そこにいたのは、
彼に「不細工」と言われた女だった。
目が小さいわけじゃない。
鼻が極端に低いわけでもない。
ただ、印象に残らない。
誰かの“二番目”にいそうな顔。
誰かの“ついで”で思い出される顔。
私は、その顔を見つめながら、初めてはっきり思った。
「……嫌だ」
小さな声だった。
でも、はっきりした感情だった。
この顔で、また同じことを繰り返すのが嫌だ。
信じて、尽くして、
最後に「最初から選ばれてなかった」と知るのが嫌だ。
顔を変えたい、と思ったのはその時だった。
衝動じゃない。
激情でもない。
静かな、決断だった。
翌日、私は普通に出社した。
仕事もした。
同僚と雑談もした。
でも、頭の片隅にずっと残っている。
――顔。
昼休み、スマートフォンで「整形」という文字を打ち込む。
検索結果を、すぐに閉じる。
心臓が、少し速くなる。
家に帰って、また検索する。
症例写真を見る。
費用を見る。
ダウンタイム、リスク、副作用。
怖い。
でも、目を逸らさない。
数日、それを繰り返した。
誰にも言わないまま、
少しずつ、覚悟を積み上げていく。
――この顔で生きる苦しさ。
――顔を変える怖さ。
天秤は、静かに傾いていった。
カウンセリング予約のボタンを押したとき、
手は震えていた。
それでも、キャンセルはしなかった。
病院の待合室は、妙に静かだった。
雑誌を読む人。
スマートフォンを見る人。
誰も、誰とも目を合わせない。
医師は淡々と説明した。
期待しすぎないこと。
完璧にはならないこと。
元には戻らないこと。
私は、頷いた。
「分かっています」
分かっていた。
完璧になりたいんじゃない。
もう一度、自分を信じたいだけだ。
手術の日が決まる。
帰り道、駅のホームで電車を待ちながら、
ガラスに映る自分を見た。
この顔を見るのも、あと少し。
そう思うと、少しだけ胸が苦しくなった。
嫌いになった顔なのに、
二十二年間、一緒に生きてきた顔だった。
――ごめんね。
そう思った自分に、少し驚いた。
手術当日の朝、目覚ましが鳴る前に目が覚めた。
外はまだ薄暗く、カーテン越しの光も弱い。
体を起こすと、心臓が早く打っているのが分かった。
逃げたい、という気持ちはなかった。
ただ、戻れない場所に行く前の、静かな緊張があった。
洗面所で顔を洗う。
水をかけるたび、鏡の中の顔が歪む。
――今日で最後。
そう思うと、不思議と感情が湧かなかった。
悲しいわけでも、嬉しいわけでもない。
ただ、区切りをつける日だと理解しているだけだった。
病院へ向かう電車の中は、通勤客で混んでいた。
スーツ姿の人たちが、スマートフォンを見たり、目を閉じたりしている。
この中の誰一人、
私が今日、顔を変えることを知らない。
その事実が、少しだけ心を軽くした。
受付を済ませ、待合室で呼ばれるのを待つ。
名前が呼ばれた瞬間、背中に小さな緊張が走った。
更衣室で服を脱ぎ、手術着に着替える。
布の感触が、やけに現実的だった。
ベッドに横になり、ライトが顔の上に来る。
医師が「これから始めます」と言う。
麻酔が入る。
意識が遠くなりながら、私は考えた。
――本当に、これでよかったのか。
――この先、後悔しないのか。
答えは出なかった。
でも、戻りたいとも思わなかった。
それで十分だと感じたところで、意識が途切れた。
⸻
目が覚めたとき、顔全体が重く、熱を持っていた。
包帯で視界も狭い。
時間がどれくらい経ったのか、分からない。
看護師の声が聞こえ、名前を呼ばれる。
私は、ちゃんと返事をした。
痛みはあった。
でも、それは想像していたよりも「普通の痛み」だった。
激痛ではない。
ただ、鈍く、逃げ場のない痛み。
それが、逆に現実味を持たせた。
――ああ、終わったんだ。
その日の夜、家に戻る。
鏡は、見なかった。
見る勇気がなかったわけじゃない。
今は、まだ見る意味がないと分かっていた。
数日は、腫れと内出血が続いた。
食事も思うようにできない。
仕事は休みを取った。
同僚には、体調不良とだけ伝えた。
誰にも言わない。
誰にも見せない。
この時間は、私と私だけのものだった。
鏡を見るのは、夜だけにした。
包帯越しに、輪郭が少しずつ変わっていくのが分かる。
怖さが、少しずつ、形を変えていく。
――もし、変わってなかったら。
――もし、思っていたほどじゃなかったら。
不安は消えない。
でも、それでも前に進んでいるという感覚はあった。
包帯が外れた日、
私は、しばらく鏡の前で動けなかった。
知らない顔、というほどではない。
でも、確実に「前の私」ではなかった。
目元の印象が違う。
輪郭が柔らかい。
……きれい、という言葉より先に、
**「疲れにくそうな顔だ」**と思った。
その感覚に、少し救われた。
完璧じゃない。
でも、この顔なら、生きていける。
それが、最初の実感だった。
⸻
外に出るのは、少し時間がかかった。
腫れが完全に引くまで、人目が怖かった。
でも、ある日、思い切って駅まで歩いた。
誰も、私を見ない。
――と思ったのは、最初の数分だけだった。
視線が、触れる。
以前とは違う種類の視線。
露骨ではない。
でも、確実に「一瞬、止まる」。
コンビニで会計をするとき、店員が目を合わせて微笑んだ。
それだけのことなのに、胸の奥がざわついた。
――今まで、なかった。
何度か外出を繰り返すうちに、
私は気づき始めた。
世界は急に変わったわけじゃない。
ゆっくり、態度を変えている。
それが、少し怖かった。
ある日の夕方、駅前で声をかけられた。
「すみません」
振り向くと、スーツ姿の男性が立っていた。
営業でも、ナンパでもない。
そのどちらとも違う距離感。
「芸能事務所です。少し、お話だけでも――」
一瞬、息が止まる。
――やっぱり。
嬉しさより先に、納得が来た。
顔が変わったからだ。
それ以外の理由は、ない。
でも、不思議と嫌じゃなかった。
この世界は、最初からそういうルールだったのだと、
やっと理解できたから。
「……話だけなら」
自分でも驚くほど、落ち着いた声だった。
⸻
事務所は、想像よりも静かだった。
華やかさより、実務的な空気。
通された部屋で待っていると、
社長だという男が入ってきた。
神崎正義。
彼は座るなり、私を見た。
じっと。
長く。
「顔はいい」
それだけ言う。
褒められた、という感覚はなかった。
値踏みされた、という方が近い。
「だが、それだけで残れる場所じゃない」
私は頷いた。
「分かっています」
「……ほう」
少しだけ、興味を持ったような目。
「君、作り直しているな」
心臓が、一瞬だけ強く打った。
でも、否定はしなかった。
「はい」
神崎は、少しだけ鼻で笑った。
「隠さないのか」
「聞かれたら、嘘はつきません」
神崎はしばらく黙り、言った。
「事情はいらない。努力も語るな。
結果だけ出せ。それができるなら、残れる」
冷たい言葉だった。
でも、透子はその冷たさに救われた。
同情も、理解も、いらない。
必要なのは、席だけだ。
「やります」
即答だった。
その瞬間、
後ろで控えていた男性と目が合った。
新人マネージャーだという、朝霧。
彼は、何も言わなかった。
でも、視線だけで分かった。
――見られている。
レッスンは、静かに始まった。
怒鳴られることも、露骨に笑われることもない。
でも、だからこそ、逃げ場がなかった。
鏡の前で立ち位置を確認する。
隣には、十代の女の子がいる。
彼女は、最初から「そこにいていい顔」をしていた。
私は、そうじゃない。
歌う。
動く。
止められる。
「もう一回」
理由は言われない。
ダメとも言われない。
ただ、やり直し。
その繰り返しが、じわじわ効いた。
顔が変わっただけで、
本当に、私はここに立っていいのか。
そんな疑問が、毎日、少しずつ大きくなる。
休憩時間、誰も話しかけてこない。
かといって、避けられているわけでもない。
ただ、距離がある。
私は、その距離の測り方が分からなかった。
⸻
朝霧は、相変わらず何も言わない。
立ち位置を示す。
時間を告げる。
水を渡す。
それだけ。
ある日、レッスン後に声をかけた。
「……私、浮いてますか」
朝霧は、すぐには答えなかった。
少し考えてから、言う。
「浮いてる、というより」
一拍。
「まだ、地面に足を置いてない感じです」
「……どういう」
「落ちるのが怖い人の立ち方です」
胸の奥を、正確に突かれた。
「整形したこと、関係ありますか」
朝霧は、初めて私を真正面から見た。
「あります。でも、それだけじゃない」
「……」
「ここにいる人は、全員、何かを失う覚悟で来てます。
時間、普通の生活、居場所」
彼は続ける。
「透子さんは、もう一つ、失った」
私は、息を止めた。
「“戻れる場所”です」
その言葉は、静かだった。
でも、重かった。
整形前の私には、戻れない。
でも、今の私は、まだ居場所がない。
宙に浮いている。
それが、私だった。
⸻
その夜、家に帰ってから、久しぶりに昔の写真を見た。
整形前の顔。
笑っているけれど、どこか遠慮している目。
この人は、
ここに来る覚悟がなかった。
でも、確かに、私だった。
「……ごめん」
そう呟いたとき、
なぜか涙が一滴だけ落ちた。
後悔じゃない。
罪悪感でもない。
ただ、区切りだった。
⸻
数日後、
小さなステージに立つ機会が与えられた。
観客は少ない。
関係者と、数人の招待客だけ。
でも、空気は本番だった。
ステージ袖で待っているとき、
胸の奥が冷たくなる。
怖い。
逃げたい。
――ここに立つ資格があるのか。
その瞬間、朝霧が言った。
「逃げないでください」
命令じゃない。
叱責でもない。
事実確認みたいな声。
「透子さんは、もう逃げる人じゃない」
その言葉で、
私は一歩、前に出た。
⸻
ライトが当たる。
一瞬、何も見えなくなる。
でも、目を閉じない。
私は、客席を見た。
そこで――
見覚えのある横顔を見つけた。
悠斗。
元彼。
隣には、知らない女。
腕を組み、余裕のある表情。
彼は、私を見ていない。
それでいい。
私は、マイクを握った。
⸻
歌い出しで、声が少し揺れた。
でも、止めない。
整形した顔。
作り直した輪郭。
それでも、
この声は、私のものだ。
歌いながら、思った。
私は、
誰かに選ばれるために、ここに立っているんじゃない。
自分が立つと決めたから、立っている。
サビで、胸の奥が熱くなった。
怖さが、消えたわけじゃない。
でも、怖さの居場所が、
「邪魔」から「燃料」に変わった。
⸻
歌い終わったとき、
拍手が起きた。
大きくはない。
でも、確かだった。
ステージ袖に戻ると、
朝霧が一言だけ言った。
「今、地面に立ってました」
それで、十分だった。
⸻
休憩中、
背後から声がした。
「……すみません」
振り向く。
悠斗だった。
彼は、困惑した顔をしている。
「さっきの人……名前、聞いても」
私は、少しだけ考えた。
そして、答えた。
「あなた、昔こう言いましたよね」
悠斗が眉をひそめる。
「不細工と付き合うわけないって」
空気が止まる。
「……透子?」
私は頷いた。
「透子です」
悠斗は、言葉を失った。
視線が、私の顔をなぞる。
値踏みじゃない。
理解しようとする目。
でも、遅い。
「今は……綺麗だな」
その言葉を聞いて、
私ははっきり分かった。
もう、この人の言葉では、何も動かない。
「ありがとうございます」
私は、静かに言った。
「でも、あなたに評価される必要は、もうありません」
悠斗は、何も言えなかった。
悠斗は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
何か言おうとして、言葉が見つからない顔。
その様子を、私はもう追わなかった。
追わなくていい。
追わないと決めた。
楽屋へ戻る途中、廊下の白い壁がやけに眩しかった。
さっきまで、あんなに怖かった場所なのに。
朝霧が、少し遅れて入ってくる。
「……」
彼は何も言わなかった。
でも、その沈黙は、今までとは違った。
“確認”の沈黙だった。
私は、先に口を開いた。
「さっきの人、元彼です」
朝霧は、驚いた様子を見せなかった。
「そうですか」
「……昔、私の顔を理由に、切り捨てられました」
一度、息を吸う。
「でも、今はもう、何も言われませんでした」
朝霧は、少し考えてから言った。
「言われなかった、というのは」
一拍。
「もう、立場が逆だからです」
その言葉を聞いたとき、
胸の奥で何かが、静かに落ち着いた。
勝った、という感覚ではない。
取り返した、という実感。
⸻
その夜、事務所に呼ばれた。
小さな会議室。
社長の神崎が、資料を閉じる。
「今日のステージ、見た」
私は、背筋を伸ばした。
「君は、自分がどう見られているかを、分かって立っていた」
それは、初めての言い方だった。
評価でも、試しでもない。
「顔を売ったわけじゃない。
同情を引いたわけでもない」
神崎は、私をまっすぐ見た。
「“ここに立つ理由”を、ちゃんと持っていた」
机の上に、一枚の紙が置かれる。
「契約する」
短い一言。
余計な装飾はなかった。
私は、深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
声は、震えていなかった。
「条件は変わらない」
神崎は続ける。
「過去を売るな。
整形を語るな。
被害者になるな」
「はい」
「だが」
一瞬、言葉が止まる。
「立った事実は、消えない」
それだけだった。
でも、それで十分だった。
⸻
事務所を出ると、夜風が冷たかった。
深呼吸をすると、肺の奥まで空気が入る。
スマートフォンが振動する。
画面には、見覚えのある名前。
悠斗。
メッセージは短かった。
『さっきは、ごめん。
話したい』
私は、画面を少しだけ見つめてから、
何も返さず、ブロックした。
怒りはない。
憎しみもない。
ただ、もう関係がない。
それだけだった。
⸻
家に帰り、電気をつける。
いつもの部屋。
いつものラグ。
でも、世界の置き方は、もうずれていない。
洗面所で、鏡の前に立つ。
整形した顔。
作り直した輪郭。
それでも、目の奥にいるのは、
あの夜、床に座り込んでいた私だ。
違うのは、姿勢だけ。
私は、鏡の中の自分に言った。
「ここまで、よく来たね」
声に出して、そう言った。
整形は、逃げじゃなかった。
魔法でもなかった。
ただ、
自分で立つ場所を選び直しただけだ。
⸻
数日後、レッスンの合間、
若い女の子が小さな声で話しかけてきた。
「……あの、透子さんって、
最初から、怖くなかったんですか」
私は、少し考えた。
「怖かったよ」
「……今も?」
「今も」
彼女は、少し驚いた顔をした。
「でも、立ってる」
そう付け足すと、
彼女は小さく笑った。
その笑顔を見て、私は思った。
誰かに選ばれる物語じゃない。
誰かを見返す物語でもない。
これは、
自分で自分を立たせる物語だ。
⸻
夜、駅のホームで電車を待つ。
ガラスに映る自分は、少しだけ背筋が伸びている。
派手じゃない。
完璧でもない。
でも、ここにいる理由を、私は知っている。
電車が来て、扉が開く。
私は、迷わず乗り込んだ。
怖いまま、進む。
それでいい。
顔を変えたあとから始まる人生で、
私はもう、誰にも値段をつけさせない。
立つと決めた場所に、
ちゃんと、自分の足で立つ。
それが、私の本物だ。




