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――話を、この風の強い日から数年前に遡って始めなければならない。
*
「新城さん」
狭い、雑然とした研究室の自席に座って専門書を読んでいた時、明良は教授に呼ばれた。
「はい」
この時研究室には明良と赴任したばかりの女性教授しかいなかった。明良はなんだろうとぼけっと考えながら、研究室の奥、他のデスクから独立している教授のデスクに向かった。
明良がデスクの前に立つと、教授の広井は椅子に座って洒落っ気のない薄化粧の塩顔を能面のように無表情にし、
「この前の博論の中間審査だけど、ちょっと厳しそうですよ」
早口で言った。
明良は背中がかあっと熱くなり、両脇から汗が吹き出てくるのを感じた。意味も無く四角いフレームの眼鏡のブリッジを中指で押し上げた。
「はあ」
とりあえずそれだけ返事をした。
広井は散らかった机の左側に置いてあった、A4のプリント用紙の束を手に取った。明良が博士論文中間審査で提出した、博士論文概要のレジュメであった。
「『夏目漱石『こころ』と旧帝国大学における同性愛文化との関連性』。このテーマ、W大学の石川先生も、新潟J大学の河内先生もすでに同様の主旨の論文を発表されているよね? 私、漱石は専門じゃないけどそれくらいは知っています。新しい知見が何もないじゃない。論文には何か新しい知見が必要。学部の学生だって知っていることだよね?」
「でも越田先生は、これで進めてよいと。これまでの先行論文の論旨をまとめて、改めて漱石の同性愛思想を掘り下げるというのがこの論文の主眼でして――」
広井は痩せて肉の薄い額にすっと一筋血管を青く浮かび上がらせた。
「それも先行論文の論の寄せ集めに過ぎない感があります。越田先生がどう言ったか知らないけど、私はこれでは中間審査通せない。審査に立ち会った他の先生達が難色を示してる。何か新しい知見は今からでも付け加えられないの?」
「……」
「それから新城さん、もっと大切なことなんだけど、査読付研究誌か学会誌に掲載された論文は? 提出されたって聞いてないけど」
「……それは、越田先生はおいおいでいいと」
広井はプリント用紙に落としていた眼を上げ、明良を睨み、
「おいおい?」
と反問してはあーっとため息をついた。
「査読付研究誌か学会誌に載った論文が少なくとも一点無ければ、博士論文の提出は受け付けない。研究誌・学会誌掲載論文の提出期限は博士課程三年生の六月中までとする。当大学の規定です。知りませんでしたか?」
「いえ……」
「百歩譲って博論の内容はなんとかこれで通せる、かも知れない。でも規定を破ってまで博士号はあげられません。あなたが思っているより、大学の博士号というのはオフィシャルなもので、それで、いい? これがより重要なことだけど、この社会というのはルールを破ろうとする人にはあまり優しくできていない。研究誌か学会誌に論文を掲載させる、少なくともその見通しを立てる。それから博論に新しい知見を付ける。今すぐに取りかかってください。以上です」
広井はそこまで一方的に言うと、レジュメを脇に押しやりノートパソコンを机の中央に引き寄せ、何かの作業に入った。
それが明良の大学院博士課程最終年の初夏のことだった。残念ながら、明良の能力では広井に指定された二つの条件をその年度中にクリアするのは到底無理であった。留年が視野に入った。
明良は女手一人で彼を育ててくれていた母に相談した。母はとてもこれ以上学費を出す余裕はないと言った。仮に半年ないし一年留年したとして、それできちんと卒業できるならば消費者金融にでもなんにでも行く。だが広井の出してきた条件では、一年限り留年しても必ず卒業できる保障がない。そんなものに金はかけられない――それが、才能に限界の見え始めた息子に対する親としての結論だった。
哀れな明良は狂奔した。広井と母親、そして大学の学生課を何度も行き来し、どうにか当年度中に博士号を取らせてもらうかせめて留年、最悪でも休学させてもらえるように頼み込んだ。しかし広井は言うことを変えず、母は金を出すことにうんと言わず、学生課は休学するにしても授業料の半額(!)の費用が一年毎に必要だと説明するばかりだった。
結局博士論文の改稿も、研究論文の雑誌掲載もできないまま、その年の九月に明良は大学院を退学した。
この時、彼の人生はレールから脱線して、坂を転がり落ち始めたと言っていい。
その原因は大学一年生のころからずっと指導してくれていた越田という老教授の身体に癌が見つかって突然退職し、明良にとっては厳格すぎる広井が代わりに担当教授になったことにあった。
「君は不器用だが熱意があって少しずつだが成長している。いつかものになるかも知れない。まあ、ゆっくりやっていこう」
修士論文の講評時、越田教授はそう明良を褒めてくれたのだった。明良はその言葉をずっと大切に胸にしまい、励みとしていた。越田教授はどこまでも優しく寛大で、明良の博士号取得も前向きに応援してくれていた。そのコネクションが突如無くなって、明良になんの愛情も持たない、さらにはどうにもウマの合わない女性教授が担当となってしまったことが、明良の不幸だった。