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果歩が指定したドラッグストアは、先ほど明良が行ったY字路の右の道を百メートルほど歩いたところにあった。明良は店員に教えてもらいながら果歩に指示されたベビー用品を買った。
早足で元来た道を戻る。住宅街から商店街に出、坂を下って駅前のロータリーへ。ロータリーの右側が二階建ての駅舎で、左側には飲食店が数店並んでいる。果歩が言ったのはその飲食店のうちの一つの喫茶店だった。
店に入った。薄暗い店内には右奥にカウンター厨房があって、そこを半分囲むようにL字型にテーブル席が並んでいた。暗い色合いの木板の床、木のテーブル、グレーの布張りの椅子。意外に内装は新しく清潔だった。その店内を、ガラス戸から射し込む昼下がりの陽射しが照らしていた。射し込んだ光は空中に舞う細かな埃を照らし、店を暖めて間延びした空気を醸し出していた。
果歩は厨房から一番遠い店の入り口近くのソファー席で、赤ん坊をあやしていた。
「新城くん」
呼ばれて明良は彼女の席に向かった。平日の昼下がりだからだろうか、それとも単に流行っていないのか、他に客はいなかった。
「買ってきてくれた?」
「はい」
明良がテーブルに買った物が入っているレジ袋を置くと、
「ありがとう」
透きとおるような笑顔が返ってきた。この笑顔に何度だまされ、翻弄されてきたことだろう。そう思いながら明良はコートを脱ぎ果歩の向かいの椅子に掛け、そこに座った。果歩は片手を伸ばしてレジ袋を引き寄せて、中を確認し始めた。
「いらっしゃいませ」
そこで白髪の小柄な老店主がおしぼりと水を持って席までやってきた。明良はすでに果歩の席にコーヒーがあるのを見て、
「こちらにもホットコーヒーを」
と言った。
「かしこまりました」
「それから」
果歩が割り込んできた。
「さっきもお願いしましたけど、この子にあげるミルクのお湯を一緒にお願いできますか? ご迷惑なのは分かっているんですけど」
「承知しました」
マスターは表情をぴくりとも変えずに答える。
「本当すみません、突然友達――この子のお母さん――が体調崩しちゃって、急遽預かることになって。私たちも困っているっていうか」
果歩がそう嘘を連ねるのを、明良は(そういうことにしたわけか)と思いながら黙って聞いた。
「だいじょうぶですよ」
マスターは相変わらず表情ひとつ変えず、お追従のひとつも言わずにそれだけ答えて厨房へ戻っていった。
赤ん坊は果歩の腕の中で割と大人しくしていた。乳児に縁が無い明良は、赤ん坊が生後何ヶ月くらいなのか、まるで分からなかった。果歩に聞くと、「多分八ヶ月くらいだと思う」という答えが返ってきた。なぜそう思うのか重ねて尋ねると、さっき明良がいない時にソファーをハイハイしようとしたのと、歯が下の前歯二本だけ生えているからだという。(子供がいないのにずいぶん詳しいな)彼女の答えを聞いて明良は思った。
お湯を待つ間改めて赤ん坊をこれからどうするか話し合った。明良は警察に連れて行くべきだと再び主張したが、果歩はやはり自分たちの仕事内容を理由にそれを峻拒した。万一自分たちが捕まれば夫や部下にも迷惑がかかると言う。話し合いは平行線になった。二人の力関係からいって自然と果歩の意見がその場を通りそうになった。
「でも、だからってどうするんです?」
警察には行かないという果歩の意見が押し通されかかると、明良は聞いた。果歩は腕に抱えた赤ん坊の、あどけない瞳をじっと見つめ、
「白崎さえ良ければ私たちで預かる」
と言った。明良はびっくりした。
「いやいやいや、誘拐ですよそれ。立派な犯罪です。それこそ警察にばれたらどうするんですか」
「うん……そうなっちゃうかな」
「乳児の失踪ですよ? きっとすぐ捜索願が出されて、即座に警察が動いて、それなりのニュースにもなりますよ。そうなったら会社にも大迷惑じゃないですか」
果歩は視線を赤ん坊の顔に落としたまま、じっと明良の主張を聞いた。そして、「じゃあどうすればいいの」と呟いた。
「だから警察に――」
明良がそう言いかけたところで、マスターがお盆を持ってやってきたので、明良は話を切った。
明良のホットコーヒーと、小ぶりなガラスのふた無しピッチャーが二つ、テーブルに置かれた。ピッチャーの片方からは湯気が上がっている。
「こちらのピッチャーは温度調節するための水です。これでよろしかったでしょうか?」
マスターが湯気の上がっていない方のピッチャーを示して言い、果歩が礼を述べるとマスターはコクリとうなずいて厨房へ戻っていった。
果歩はミルク作りにとりかかった。哺乳瓶のキャップと乳首部分を外し、粉ミルクを計量スプーンで量って瓶に入れた。そこへお湯入りピッチャーのお湯を注ぎ、乳首部分を着けて瓶を振り、粉ミルクを溶かした。粉が溶けたら再び乳首を外して今度は水を目分量で入れた。
「熱すぎるかな? やったのずいぶん昔だからよく分からないな」
果歩はそう独り言を呟きながら乳首を瓶に装着し、軽く振った。瓶の底を手のひらで触り、
「うん、まあ……だいじょうぶかな」
とまた呟いた。赤ん坊の背を左手で支え、その口に右手で持った哺乳瓶の乳首を含ませた。
「あつっ!」
赤ん坊はそう叫んで顔を哺乳瓶から逸らせた。
一瞬、間が空いた。(え?)という空気がその場に広がった。
それから果歩が、
「ふふっ、今『熱い』って言ったみたいに聞こえたね」
と言った。
「はは、そうですね」
明良も果歩に話を合わせた。
「お腹すいてるでしょ? ほら、おっぱいだよー」
果歩はそう言ってもう一度哺乳瓶を赤ん坊の口に含ませた。すると赤ん坊は即座に勢いよく顔を背け、
「熱い熱い! だから熱いって言うとるやろ! ワシャ上島竜平か!」
とキーキー声の関西弁で叫んだ。