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明良は数秒間窓の外を見続けていた。今起きた事象が現実にあったことだと信じられず、思考が停止した。それから、寿司屋にいる誰か他の人が、赤ん坊の転がっていったのを見ていないか確認したくなり、ぐるりと店内を見回した。カウンターでは相変わらず板前と初老男性が雑談をしている。店の奥に続く出入り口の手前に着物姿の女将が立って、用ができるのを待っている。明良の向かいでは果歩がビールを飲んでいる。自分以外の誰も、窓の外を見てはいなかったようである。
店を見回し、果歩の顔に視線を戻したところで、明良はようやく事態の深刻さに気付いた。急いで箸を置き、あぐらを解いて小上がりを降りようとした。
「新城くん? どうしたの?」
果歩が不思議そうに声を掛けてくる。
「今赤ちゃんが――」
明良は小上がりの上がり口に置いてあった自分の革靴を履こうとした。なかなか足が入らない。
「赤ちゃん?」
明良は靴を履く動作を止めずに果歩の顔を見た。白い肌をアルコールで桃色に染めて、いぶかしげな表情をあざと可愛い顔に浮かべていた。
(言ったところで信じてもらえるわけがない)
そう思った明良はそこで靴をようやく履き終え、
「ちょっと出ます!」
スラックスに上はワイシャツと下着だけという格好のまま大急ぎで店を出た。カラカラカラッと引き戸が小気味よく鳴った。
外に出ると、すさまじい強さの風が坂上から吹いてきて、センター分けの明良の髪を乱した。薄着の体の芯までその風の冷たさが凍みたが、気にしている場合ではない。明良は赤ん坊が転がっていったなだらかな坂の下、自分から見て左側に目をやった。
人気のない、シャッターの下りた店ばかりの寂れた商店街の景色が明良の視界に広がった。アーケードは無く、道の両端に並ぶ商店の屋根と屋根の間には、雲ひとつ無い冬空が青く覗いていた。
「きゃははは」
その時再び赤ん坊の笑い声がしたので、明良はそこを見た。道を寿司屋から二十メートルほど下ったところ、アスファルトのほぼ真ん中に赤ん坊がいた。風に吹かれてそこまで転がっていったのだろう。この瞬間に限って風は一瞬止んでいたため、赤ん坊は仰向けになってそこに止まっていた。
明良は太った腹を揺らして何年ぶりかという全速力で赤ん坊の元へ走った。
運よく強い風は吹かず、明良は赤ん坊のところへたどりつき、無事抱き上げることができた。赤ん坊は明良の腕の中でぐにゃぐにゃし、子供も甥姪もいない明良はどう抱っこすればいいか難儀した。片手を尻の下に、片手を後頭部に添えてどうにかバランスを取った。
赤ん坊は水色のもこもこしたフリース素材のベビー服を着ていて、靴は履いていなかった。その足は小さな靴下を履かされているだけであった。アスファルトの砂がベビー服のあちこちについていて、明良の手に触れざらざらした。
明良は赤ん坊を抱き上げると、改めて辺りをキョロキョロ見回した。赤ん坊の親、あるいは保護者がその辺にいるのではないかと思ったからだった。しかし商店街には明良と赤ん坊の他に人っ子ひとり見えなかった。
明良は道を引き返して坂の上へ小走りに走った。赤ん坊は坂の上から転がってきた。だったら坂の上へ行けば赤ん坊の親がいるのではないか、と考えたのである。
「きゃっきゃっきゃ」
赤ん坊は明良がどすどす足を踏み下ろすごとに笑い声をあげた。その能天気な反応が、何かしらの障害のある子なのかも知れないと明良に感じさせた。
寿司屋を通り越し、しばらく行くと商店街は終わって、道は右にカーブを描いている。そのカーブの途中で道はY字に分かれている。Y字の左の道は相変わらず坂となって続き、その様子は明良のいた位置からも見えたのだが、右の道はカーブの加減で先が見えない。
(もしかしたら、あの別れ道の先にこの子の親が)
明良はそう思い、走った。
Y字路の右の道まで出た。そこは商店街から住宅街へと変わる変わり目の場所だった。明良は道のずっと先まで目をこらしたが――、赤ん坊の親らしき人はいなかった。