6-2
重そうな扉を全開にし、ドアノブから手を離した後で、赤ん坊の母親は固まった。
母親は若かった。まだ二十五歳前後といった年ごろだろう。小柄でややふっくらして、黒髪に化粧をしていない顔が、意外にも真面目そうな印象を明良に与えた。
(てっきり髪を染めて化粧の濃い、ギャルじみた人が出てくるかと思ったけど)
明良は母親を見て思った。
母親は表情をフリーズさせて、果歩が抱いている赤ん坊を見、すぐ視線を外して果歩と明良に向かって、
「なんですか?」
と呟いた。
明良が改めて観察すると、母親のキツネ目の下には大きな隈が青黒く広がり、唇はリップクリームすらつけていないらしく、乾燥してささくれだっていた。髪もしばらく美容室などに行っていないようで、伸ばしっぱなしになってぼさぼさしている。よくよく見れば彼女の困窮はその顔に確かににじみ出ているのだった。
母親は目を血走らせて、キッと果歩を見据えながら、時々赤ん坊にちらちら視線を送った。
「なんですか、って?」
果歩が口を開いた。
「分かってますよね? この子、あなたの赤ちゃんですよね?」
「はい? 知りません。なんですかあなたたち」
「知らない?」
果歩の声が興奮を帯びつつあったので、明良はまずいな、と思って割って入った。
「全部分かってるんですよ、お母さん。僕が駅前の商店街でこの子を拾ったんです。それでこの辺りのお家を回って尋ねて、あなたのお子さんだって判明したんです。それからこのアパートのご近所さんにも話を伺って。そうですよね果歩さん?」
明良が水を向けると果歩はちょっと冷静さを取り戻して話を合わせた。
「そう、そこのお隣のお隣――102号室の方――が、あなたのところの子供だって証言してくれました」
母親はきょどきょど不安そうに視線を果歩と明良に行き来させた。そこへ果歩が畳みかけた。
「これ、育児放棄ですよ? それにこの子の体にあるミミズ腫れ、虐待の痕だよね?」
「……」
母親の顔が青白く凍りついた。
「この子のことを考えると、やっぱりあなたが育てるのが一番良いと思うけど、約束できる? 二度とこんな虐待とか育児放棄しないって。じゃないと私たち、児相に連絡しないといけない」
「あああああーっ」
母親が泣き崩れた。玄関口にしゃがみこみ、顔をうつむけた。髪が両頬に落ちてその顔を隠した。母親はそのまま、あああーっ、あああーっ、と泣き声をあげ、その間にごめんなさい、ごめんなさい、と小声で誰かに謝罪していた。
(良かった、どうやら)
赤ん坊を自分の子と認めてくれそうだ。赤ん坊を引き取るかどうかまでは分からないが、児童相談所に保護させるところくらいまでは協力してくれるだろう――と明良は安堵した。
そのまま母親はしばらく泣き続けた。明良と果歩は泣くままにさせておいた。やがて母親がふらりと立ち上がった。そこへ果歩が一歩近寄って、赤ん坊を渡そうとした。
「ほら、抱いてあげて?」
すると母親は、両手を胸の前で腕組みさせた。
「嫌です」
「は?」
「絶対嫌です。もう私無理」
「いや、あなたの子なんだよね?」
「はい。でも他の女性と不倫していた人の子供だと思うと、全然」
そこで母親は少し言葉を切った。それから冷たい目で赤ん坊を見、
「全然愛せないんです。この子のこと。大きくなるにつれてあの人に似てきている気がするし。育児だって半端じゃなく大変だし、誰も頼れる人がいない。とにかくもう無理。あなたたちでどこかへ引き取らせてもらえませんか」
「あなたねえっ」
果歩がハスキー声で叫んだ。あ、爆発した、と明良は端で見ながら思った。
「あなたの子でしょ? 望んだかどうか知らないけど、あなたが作った子だよねっ? 避妊せずにできちゃったのかどうかとか、その辺は知らないけど。でもね、この世の中には望んでも子供を持てない人が山ほどいるんだよ。それを――確かにこの子のお父さんに問題がある、けど責任の半分はあなたにあるんじゃない! ふざけるな!」
(ああ、ぶち壊しだ、ぶち壊し!)
明良は怒鳴り散らす果歩の左隣であたふたし、「果歩さん、果歩さん、せめて児相に……」となだめようとした。
と、果歩の罵詈がひと休憩したところで、それまで極めて大人しくしていた赤ん坊が、
「そやでえ!」
叫んだ。他三人がびくっとしてそちらに視線を向けた。
「おかん、あんたなあ、散々可愛がってくれたからに……。ワシがあんたに何したっちゅうねん! そりゃ確かに前世でワシはヤクザやった、人に言えんことも散々してきたわ。人も殺した。だからってこれはないわ! あんまりやわあ! あんただってワシを育てんのしんどいかも知れん、でもワシだってなあ、あんたなんかに育てられんのお断りや! こちとらうんざりしてんねん! うんざりしてんねん!」
(二回言った)
明良が思った瞬間、赤ん坊はそれだけわめくと、あああーっ、と赤ん坊の精神状態に戻って泣き始めた。
母親はきょとんとした顔をして、
「え、なに……」
と呟いた。すると赤ん坊はまたヤクザだったころの大人の精神状態に一瞬で戻り、
「え、なに、やないねん! だいたいあんた自分の子をこの寒い中街中に、それもあんな道路の真ん中に捨ててくるって――」
わめき始めた。
「果歩さん! ひとまず行きましょう! まずいですって!」
何がまずいのかもはやよく分からなかったが、明良はそう果歩に言った。果歩も、
「そう、そうだね!」
と慌てて、二人で、
「じゃあすみません」
「おじゃましました」
と口々に母親に述べると、小走りでアパートの前から逃げ出した。その間赤ん坊は果歩の腕の中で「このボケ! 中途半端なブス!」などと母親への悪口をがなりたて続けた。
母親はまだ事態が理解できていないのだろう、引きつった恐怖の表情を顔に浮かべたまま、玄関に立ち尽くしていた。




