わからなくなった場所で
春の雨のような気配が、胸の奥にずっと残っている。
美咲は、ある日ふと気づいた。
「私は、人の気持ちがわからなくなっている」
その思いは、胸の奥を小さく痛くさせた。
かつては、誰かのまなざしに敏感だった。
声の揺れ、指先の震え、言葉にならないものがすぐにわかった。
けれど、あまりにたくさんの「気持ち」が押し寄せてきたとき、
どこかで、自分の心を閉じてしまったのかもしれない。
――あなたは優しすぎるから、全部を受け取ろうとしなくていい。
そんな言葉をくれた人がいた気がする。けれど、美咲はそれすら思い出せない。
それでも、最近になってようやく、ひとつの感覚が戻ってきた。
「わからないと、思っている自分」がいることに、気づいたのだ。
かつてなら、わかったつもりで頷いていた場面。
今の美咲は、ただ静かに、聞こうとしている。
言葉にならないものの奥に、まだ言葉にならないまま残っているものがあると信じて。
「ごめんね、いま、ちゃんとはわからないけど……ちゃんとここにいるよ」
そう言えるようになったとき、
その場にいた誰かが、ふっと力を抜いたように、息を吐いた。
わからないことを怖れずに、
わからない場所に立ち続けること。
それは、美咲にとって、かつてよりも深く人に寄り添える在り方だった。
そして今日もまた、小さな雨音のように、心の奥が言う。
「それで、いいんだよ」