目が覚めたら別れましょう
私は14歳だったはずなのに、ある日、目が覚めたらいきなり6つも歳を取っていた。駆けつけた医師とメイドの話を総合すると、頭を打って直近6年の記憶を失ってしまったらしい。一通り診察を受けた後、改めて部屋を見回すとそこはやっぱり知らない場所だった。実家よりすごく豪華だ。
「ここはどこなの?」
ベッドに横になったままそう言うと、そばに控えていたメイドは困ったような顔をして黙ってしまった。
「医師に確認してまいります」
ここがどこなのかを答えるのに医師の許可が必要なのかと不思議だったけど、やがて戻ってきたメイドのミーナはこの屋敷はキャンベル侯爵邸なのだとだけ言った。私はまだ社交界にデビューしていない身とは言え、さすがに侯爵家の名前くらいは知っているはずだけど、聞いたことのない家名だった。そう言えばミーナの話す言葉のアクセントも少し違う気がする。ここは社交の場にも参加しにくい辺境の地なのかしら。
「私はなぜここにいるの?」
「医師に確認を…」
そう言って部屋を出て、戻ってきたミーナは、今度は答えを教えてくれなかった。
「一度にお話しして混乱しては負担になるので、とのことでございます」
そういうものなのか。
「じゃあ、あなたが私について知っていることを教えて?」
「ルイサ様はご自分のことをほとんどお話しになりませんでしたので」
結局私は頭を打って記憶を失ったらしいことと、私がいま20歳であること以外、大したことは分からなかった。
3日後、家主であるキャンベル侯爵様がお見舞いに来てくれた。相変わらず私がなぜ侯爵家に滞在しているのかは謎だったけど、とても優しい方だった。部屋に入ってきた彼は14年生きてきた中で見たこともない美しい人で、じろじろと見てしまったかもしれない。
何より侯爵様だと言うから壮年の紳士を想像していたら、現れたのが27歳の青年で、余計にびっくりしてしまった。
「お加減はいかがですか?」
社交界デビューもしていない子どもの私にも敬語を使ってくださるなんて、と感激した後に、そう言えば自分は20歳なのだと思い出して不思議な感じがした。
「もう打ったところも痛みません。元気なのですが医師が一週間は安静にしておくようにと」
「退屈でしょうが、もう少し辛抱してください」
そう言ってなぜか申し訳無さそうに微笑む紳士を私はじっと見つめた。突然現れたこの大人の男性を前にするとなんだか胸が痛むような気がして、20歳の私は彼が好きだったんだろうかと戸惑った。美しい人だけど、この一回り以上年上のおじさんを?
「私の顔を見て何か思い出しましたか」
キャンベル侯爵が期待と、どこか不安の入り混じったような瞳を向けてきた。
こちらが不躾に侯爵様をじろじろと見るものだから、怒ってしまわれたのかもしれない。心なしか耳が赤くなっていたから。おじさんだと思ったことはバレてないはず。
「いいえ全く。ただ侯爵様のような方とどこでご縁があったのか不思議で」
侯爵様も私の疑問には答えてくれなかった。
その後も侯爵様は毎日お見舞いに来てくれて、でも、なぜ私がこの屋敷にいるのかはやっぱり誰も教えてくれなかった。
***
「そろそろ家に帰りたいわ」
それを聞いたミーナは困った顔をした。医師の言う一週間はとうに過ぎたのに、いつもの『医師に確認』も無かったので、侯爵様に直談判することにした。
「侯爵様、そろそろ我が家に帰りたいのですが」
「実は…ここは王都から少し離れた場所にある土地なのですが、私が戻ってすぐ後の山崩れで道が寸断されてしまったのです。急いで直させていますが、範囲が広くて。馬車が通れるようになるまでもう少し待っていただけますか」
「侯爵様が巻き込まれなくて良かった」
「それよりもルイサ、その侯爵様、と言うのは…」
そこまで言って黙られたけど、私は特に聞き返さなかった。
***
侯爵様はもちろん、屋敷のみんなも良くしてくれるし、ジタバタするのはやめて復旧までお世話になることにした。
外出もままならない私を気遣ってか侯爵様が頻繁にお茶に誘ってくれる。
そうやって穏やかに過ごしていた時、屋敷に客人が現れた。馬車は通れないけど、馬なら何とか通れるくらいにはなったとのこと。侯爵様は良くしてくださるけど、いい加減に帰りたい。客人にいきなり道の復旧の様子を聞くのは不躾かしら?
「はじめまして、ですね?」
事前に侯爵様に聞いていた話では会ったことがあるらしいのに、記憶が無い私にそう言って挨拶してくれた。この方も品があって侯爵様と同じくらいの大人の男性だけど、侯爵様相手と違って胸が痛まなかったので安心して話すことが出来た。
「……アーノルドとは楽しく話せたようで、良かった」
アーノルド様が帰られた後、いつも優しい侯爵様にしては珍しく、少し無愛想に言った。
「そうですか? あんなにかっこいい方は私の周りにはおらず、少し緊張してしまいました。カップをつまむ指先まで優雅でらっしゃって。でもアーノルド様はお優しいし気さくな方だったのでつい話し過ぎたかも」
「私のことは侯爵様で、アーノルドのことはもう名前で呼ぶのですか」
「で、でも私、侯爵様の下のお名前は存じませんし…」
私の言葉にあからさまにむっとした顔をした侯爵様は、言葉じりに重ねるように言った。
「ラザロ・キャンベルです」
いつも穏やかな侯爵様と言えども、私のような下々の者が名前を存じ上げないという無礼にはお怒りになるのだと思ったが、さらに重ねて言った。
「以後は名前で呼んでください。あなたは私の妻なのですからあまり軽率なことをされては困ります」
「えぇっ!?」
侯爵様はしまったという顔をした。
(私は14歳で結婚したの?)
少し論点のズレた私の考えを読んだかのように言った。後で考えれば侯爵様が夫であることの方がよほど大問題のような気もするけど、私も動揺していたのかもしれない。
「……結婚は2年前です。混乱させてはいけないと思い、折を見て話すつもりでした」
(2年ということは…18歳と25歳で結婚か。私も貴族の端くれ、政略結婚としてはおかしくは無いわね。)
「でもうちは男爵家ですよ?もっと相応しいご令嬢がたくさんいらしたのでは?」
「結婚の経緯についてはもう少し時間をください」
「はぁ」
逗留先の屋敷の主人だと思っていたら、夫だったとは。道理でしょっちゅう来るはずだわ。
でも愛されてはいなそう。侯爵様は優しいけど、目覚めて一言目から他人行儀だったし、私達が夫婦だって教えてくれなかったし、絶対に触れてこないもの。愛してもいない妻の様子を気にしてくれるなんて、たぶんいい方だわ。
そもそもどうして気づかなかったのかしら。キャンベル侯爵家と言えば、隣国クレルヴで、王統の公爵家をも凌ぐ権勢を誇る家門だわ。ミーナのアクセントはクレルヴのものだったのね。おそらく婚姻にかこつけて男爵領は併合されたというところかしら。自分がここに留まらざるを得なかった理由が見えてきた気がした。
***
「ねぇミーナ。侯爵様、あ、ラザロ様との出会いのきっかけとか知ってる?」
すっかり打ち解けたミーナに髪を梳かされながら、気安く話しかける。
「申し訳ありません。ご自分で思い出されるまでは不用意にお話ししないように指示されております」
「そうよねぇ。でもさー……ラザロ様って27歳でしょ? おじさんじゃない? 政略結婚なさるような高位貴族の方々ならともかく、私はしがない男爵令嬢よ?」
返事はもらえないと分かっているので、一人ブツブツと呟いた。
実際は20歳と27歳だから決しておじさんでは無いのは分かっているんだけど、どうしても自分は14歳だとしか思えなくて、一回り以上も上の大人なんてやっぱりおじさんだった。理屈では政略結婚の事情も分かるけど、14歳の心がついてこない。
そんなことを考えているとミーナがポツリとつぶやいた。
「お二人は…お似合いでしたよ」
珍しく、いや、初めて過去のことに触れたミーナの表情をうかがったが、それ以上は話すつもりは無いようだった。
でも、ラザロ様とはカラダの関係も無かったぽくない?町のお姉様方や使用人達から実体験を十分過ぎるほど聞かされてきたから分かるわ。多分これは白い結婚と言うやつね。
貴族と言っても男爵家の我が家より、金持ちの商人の方がよっぽど貴族らしい暮らしをしていた。使用人もほとんどおらず、自分のことは何でもしていたし、12で母が死んで、あまり私に関心の無い父親と二人になったときから覚悟はしていた。特にその頃はクレルヴ国との関係が悪化していたし、町に出れば何かしらの働き口にはありつける自信があった。意に染まぬ結婚を強いられるくらいなら、町で暮らそうと14の時点で私は既に考えていたはずだ。
そのはずなのに、18歳の私はなぜここに来ることを決めたのかしら。よほどの好条件を提示された?それとも脅されたり?でも、白い結婚ということは何か事情があるのね。
男爵領は読み通りキャンベル家に併合されたらしい。父も領地にいないらしいから、もう帰るところは無いということ。それなら町で暮らすからもう出て行っていいかしら。詳しい事情はやっぱり分からなかったけど、ぼんやりと状況がつかめてきた。
大体妻だと言いながら、私の部屋だというこの場所、客間じゃないの?侯爵様の寝室とは対極だわ。
***
ルイサとの結婚の話が出た2年前は、父の急死により想定よりかなり早くキャンベル家を継ぐことになって、正直なところ余裕が無かった。いずれは結婚も必要だと考えていたが、直前まで争っていた国の、いい噂を聞かない厄介な娘を押し付けられたことに少なからず腹も立った。冷静に考えればその怒りの矛先は彼女では無く、キャンベル家の力を削ぐためにこの結婚を誘導した政敵に向けるべきものであったのに。
18歳で他国の伯爵家に嫁いで来た彼女が、彼女なりに歩み寄ろうとしてくれているのは分かっていたのに。忙しさを言い訳に彼女のことは放っておいた。
一目で彼女に心を奪われたのが自分でも分かったから。
領民を、国を優先すべきなのに、そんな浮ついた自分から目を逸らすためにそれ以降は彼女をなるべく遠ざけた。結婚して半年も経つ頃には完全に屋敷に戻らなくなった。
旧男爵領の安全を保証して、彼女には最低限の衣食住を与え、侯爵家に迷惑をかけなければ自由に暮らしていいと伝えた。少し前まで争っていた国で敵国出身の娘に自由などあるはず無いのに、そんなことも私は思いやれなかった。友人もいない国で、気軽に出歩くことも出来ない敵国の地で、守る夫も不在でどう自由に暮らせたというのか。
戦争終結と結婚から1年半ほどが過ぎ、やっと戦後の領地の整理や保障の話が一段落して、少し余裕が出来た。合わせる顔が無かったが、“妻”の様子も気になって仕方が無かった。
久しぶりに戻った屋敷は大きく変わった様子は無かった。彼女の部屋は元々客間だったところをそのまま使っていたから、私の部屋とは対極にある。ノックするとしばらく間を置いて返事があった。
『少しいいですか』
私が部屋に入ると、彼女はメイドにお茶の用意を指示してソファに座った。
『戦争の後処理がある程度終わりました。これからはもう少しこちらに帰って来られると思います』
『そうですか』
『あなたのご両親は一生幽閉されることが決まりました。力及ばず申し訳ないが、処刑は何とか回避させました』
(二度と会うことは無いだろうし、どうでもいいわ)
彼女が小さく何かを呟いたが、聞き返しても2度は口にしてくれなかった。
その日から、私は彼女と夕食を共にすることにした。口数は多くないと思ったが、慣れてくると意外とお喋りな女性だった。あちこち飛ぶ彼女の話に夢中になるあまり、自分のした仕打ちも忘れて、これから上手くやっていけるかもしれない、などと都合のいいことを考えたりした。
結婚当初は彼女からよく話しかけてくれていたから、おごりがあったのだろう。伸ばされた手を振り払っていたと言うのに。私への期待など彼女の中ではすっかり消え失せていたというのに。
そんなことにも気づかず、私は愚かにも彼女に愛を乞うた。しかも間違った言葉で。
*
『過去の男達を忘れさせてみせます。だからこれからは私だけを見てくれませんか』
屋敷に戻って半年経つ頃には、夕食後に私の部屋で2人で酒を飲むようになっていた。と言っても酒を口実に、彼女が話すのをずっと見ていたかっただけだ。彼女も楽しそうにしてくれていると思っていた。そして、私は彼女の手を取りそう言った。私の言葉を聞いて彼女は悲しそうに目を伏せた。
男遊びが激しい女だという前評判と、目の前にいる女性との落差に違和感を抱いていたのに、あの頃の自分はそれを直接質すことも出来ずに、ただ自分の気持ちを押し付けるような情けない人間だった。彼女はそっと私の手を離し、部屋を出て行った。
*
次の日、王宮から呼び出しがあり、少し屋敷を空けることになった。普段は一週間は滞在する王都だが、彼女と気まずいまま出てきた屋敷に早く帰りたくて用件を急いで済ませた。
幼い頃からの友人のアーノルドにだけは滞在を知らせて、帰る日の前日の夜に夕食に誘った。
『それにしても人違いで良かったなぁ』
『何の話だ?』
『だから奥方だよ。遊び人だったのは後妻の娘の方だったらしいじゃないか。まあ隣国と言えど戦中はあちらの国内の情報は入りづらかったからな』
私はすぐさまその場を切り上げ、慌てて王都を後にした。
しかし彼女はその日の朝、庭に流れる小さな川のほとりで滑って頭を打ち、目覚めた時には記憶の一部を失っていた。
私のことを忘れていたのはショックだったが、彼女が無くした記憶はどれも彼女に優しくないものばかりだったので、正直に言ってどこかホッとしたところもあった。悲しいことばかりだったこの6年間のことを彼女に伝えて彼女をもう一度傷つけたくなかった。
私のことも忘れてしまったということは、彼女にとって私も消したい過去の一つだったということだ。
これからどう接していくか迷った。私の顔など見たくないかもしれない。そのせいで彼女の嫌な記憶が甦るのも申し訳ない。しかし、“帰る場所”は彼女にはもはやこの屋敷以外無いのだった。
聡明でお喋り好きなところは変わっていなかったが、記憶が欠けた彼女は以前の彼女より明るかった。本来の彼女はこうだったのだろう。16歳で後妻とその娘が突然家にやって来て、18歳になったとたん敵国に嫁がされたのだ。彼女の明るさを奪った責任の一端が自分にあると気づき、どうしようもない後悔に襲われた。
***
私の記憶が欠けてから1年経った。21歳になったけど、意識の上ではやっぱりまだ15歳くらいだった。
相変わらず失くした記憶の欠片は戻らないまま。ただ、記憶を失ってしばらく後、机の引き出しから日記のようなものが見つかった。淡々と事実だけを書き連ねているのは意図的なものだと分かる。以前の自分は、日記には思ったことなども浮かぶままに書き連ねていたと思う。ここでは誰かに読まれることを警戒したのだろう。
それによると、初めて顔を合わせた日に『衣食住と領民の安全は保証するから余計なことをするな』と侯爵様に言われたらしい。それでも過去の私は健気にも、話しかけるなどして歩み寄りを図ったらしかった。残念ながら努力は実を結ばず、侯爵様が屋敷に帰ってこない日々が一年も続いている。初めは侯爵様の動向がメモされていたがだんだんと間隔が空いていき、やがて完全に記載が途絶えた。事実だけが書かれているのに、過去の自分の侯爵様への期待がしぼんでいき、ついに尽きたことがありありと分かった。
過去の私はなぜこの環境に耐えているのかと思ったが、おそらく私が逃げ出すことでかつての領民への待遇が悪くなるのを恐れたのだろう。貧乏で名ばかり貴族の我が家は、市井の民とは距離が近かった。
私が残ったところでそれが保証されるとも思えなかったけど、それでも彼らが心配だったのだと思う。
つまり、私は領民を人質に取られて望まぬ結婚をした、憐れな泡沫貴族令嬢だった。優しそうに見えた“夫”も所詮私を駒にしか思ってないのだ。“余計なこと”なんてする権限も無い。政略結婚の夫婦なんていくらでもいるはずなのに、私には妻の部屋さえ与えられていなかった。
1年ほど間を空けて、また日記がぼつりぼつりと記されていた。
戦後の処理が落ち着いたのか、侯爵様はまた屋敷に戻って来るようになったようだった。2人の関係に大きな変化は無いようにも読めた。ただ、侯爵様に夕食に誘われる回数が徐々に増えて、記憶を失う直前には毎食共にしていたらしい。仕事が一段落したのだろう。
侯爵様に期待しなくなってからの方が、案外侯爵様とは上手くやっていたようだった。こちらも目の前に人がいれば侯爵様相手でも気を遣わずに好きなように話しかけるし、侯爵様も仕事が落ち着いて哀れな同居人に話しかける余裕が多少生まれていたのだろうか。
そして、侯爵様が王宮に呼び出されて数日不在にするという記述を最後に、日記は終わっていた。
目の前にいる27歳のラザロ様は優しくてこのまま本当の夫婦になれるかもしれないと思うたび、かつての自分が綴った日記が私を冷静にしてくれた。
*
「今度ウフリドに行きませんか?我が家の領地ですが飛び地で離れていて、頻繁に視察には行けてなくて。これまで遠出もなかなか出来ず申し訳ありませんでした」
「ウフリドというと、国一番の湖がある?」
男爵家にいる時は旅行をする余裕なんて無かったし、こちらに来てからは言うまでもない。
ラザロ様との旅行と言うのは気になったが、母が読んでくれた絵本に出てきた大きな湖を見てみたいという好奇心の方が勝った。
旅行などしたことが無いから、必要な準備についてラザロ様に教えてもらったりミーナに手伝ってもらったりして、何とか体裁を整えた。
ラザロ様は、ウフリドに行って留守にする間の仕事も片付けておかないといけないのに、あれこれと私に気を配ってくれた。いつでも優しくて、私も気が緩んだのだと思う。
「侯爵様がその優しさの半分でも向けてくださっていたら、過去の私はあそこまで失望しなくて済んだんでしょうね」
すぐに失言に気づいたけど、紛れもない本音でもあった。記憶はひと欠片も戻らなかったけど、あの日記は間違いなく自分が書いたものだと直感していた。21歳の私と15歳の私は地続きだ。けれどどこか21歳の私のことは俯瞰で見ている感覚があって、21歳の自分について思わず口に出してしまった。
怒らせたかしらと慌てて見上げると、予想に反してラザロ様は顔色を失っていた。
「私はあなたに本当に取り返しのつかないことを…」
そう言って頭を下げるので驚いて止めた。
「ごめんなさい。ラザロ様を責めているわけではないのです。6年間の記憶は無いのであまり実感も無くて、正直なところ今の私に謝られても無意味です。あっ」
ラザロ様の傷に塩を塗り込んだことに、またすぐに気づいたけど、どうも出来ない。私はまだ15歳だもの。そう自分の中で言い訳したが本当は失われた期間の経験値のようなものは何となく体に残っていて、21歳ほどの落ち着きも無いけど、15歳ほど子供でもなかった。
*
気まずさを残しながら、ウフリドに行く日がやって来た。通常は一泊して2日かけて出向くことも多いらしく、早朝に出て屋敷に到着したのは日が暮れてからだった。
領地の端にたどり着いたのは日暮れ前で、暗くなってからも領地内をしばらく移動した。護衛がいるとは言え夜も動けるのは安全な証拠だ。それだけでいい町だと分かる。
翌日は、ラザロ様が町中や農地を案内してくれた。管理が行き届いていて、ラザロ様が領地の隅々まで気を配っていることが伝わってきた。領民たちの表情も明るい。ラザロ様と別れたらここに住まわせてもらおうかな。なぜかそのとき胸がチクリと痛んだ。
*
あっという間にウフリドでの一週間は過ぎて、帰る日になった。出掛けから少し雲行きが怪しいとは思ったけど、思ったより激しい雨に結局途中で宿を取ることになった。いつもより簡素な食事を済ませ、内扉でつながったラザロ様の部屋で就寝まで少しお酒でも飲まないかと誘われた。
「ルイサ、あなたに改めて謝罪したい。私のところに来てくれたあなたを、何よりも大切にするべきでした」
ラザロ様が改まって言った。
「お義姉さんの悪評をあなたのものだと勘違いして、あなたにふさわしくない扱いをしてしまった」
「どんな悪評?」
「……男好きで身持ちの悪い女性だと」
「それを私だと思ったの?そう見えた?」
私にはその時の記憶どころか義姉がいることもいま初めて知ったから、怒りよりも可笑しくなってしまった。ここに来たときの18歳の私がどうだったか分からないけど、今とそう変わらないだろうに悪女に見えたのかしら。
「清楚で可憐で、それでいて意志の強そうな瞳が輝いていて、少し低めの声が耳に心地良くて、男が狂うのは間違いないだろうと思った」
(誰のこと?)
「結婚した後、その考えは確信にかわりました。使用人達と話しているあなたは表情がくるくると変わって可愛かったし、私の方に駆け寄ってくれるあなたは天使かと思った。近づいたら危険だと思ったんです。私の仕事にはあなたの祖国に不利なものもあったし、冷静な判断が出来なくなると」
(ちょっと聞き取れないところがあるわね)
「それで、しばらく屋敷を離れたのです。そして戻ったとき、間違った形で一足飛びに愛を伝えてしまった」
私はそのとき、この一年間にこの目で見てきたことと、過去の日記と、自分自身で感じたことを思い浮かべた。
「わたし、ラザロ様のことは信頼してるんです」
「ありがとう」
「屋敷を出ていかなかったのは男爵家の領民たちが心配だったからなのですが、ラザロ様は私がいてもいなくても領民たちを誠実に支えてくれる方だと分かります」
私が出て行くと思ったのか、ラザロ様がすがるような目で私を見つめる。
「宝石もドレスも好きだけど無いなら無いで良くて」
「うん」
「きらびやかなパーティも」
「分かるよ」
「でも今のラザロ様のことは好きみたい」
「!」
「意外と顔に出るところとか」
「それはあなたにだけだ」
「領地のことを最優先になさるところとか」
「それは当然のことで、誇るようなことではありません」
「でも記憶が戻ったら嫌いになるかも」
「それでもそばにいて欲しい」
「すべてを思い出して、もしも私の目が覚めたら別れましょう」