棘のない日々
赦しの夜が明けた朝、空はどこまでも澄んでいた。
まるで、心の底に沈んでいた澱が晴れたかのように。
イリナは工房を後にした。
もう、あの場所に縛られる理由はなかった。
レオンもまた、彼女に「ありがとう」も「さようなら」も言わなかった。だがそれでよかった。必要な言葉は、昨夜すでに交わされた。
⸻
数日後。イリナは王都の図書塔の管理職に志願した。
長く避けていた魔法と感情の記録を、今度は逃げずに読み解きたいと思ったからだ。
感情魔法は危険だとされ、研究も制限されている。
だが彼女は思う。
感情を無視して魔法を扱う方が、ずっと恐ろしいのではないかと。
「心を知る者でなければ、力は持てないべきよね……」
そう呟いて、彼女は古びた感情術の巻物に指を滑らせた。
⸻
一方、レオンは廃工房を改修し、小さな魔道具修理屋を始めた。
魔法そのものを使うことはもうない。だが、力に頼らず、壊れたものを修復することで、誰かの役に立てるのならそれでいいと思えた。
ある日、少女がひとり、壊れたペンダントを持って訪れた。
「これ……母が昔、大事にしてたものなんです」
「直るかわからないが、見てみるよ」
器用に部品を分解し、慎重に魔力の通り道をたどる。
やがてペンダントはふたたび光を取り戻した。
少女は嬉しそうに笑った。
「ありがとう、おじさん! 魔法使いみたい!」
レオンは肩をすくめた。
「いや、俺はただの修理屋さ。魔法使いなんかじゃない」
でもその目は、少しだけ誇らしげだった。
⸻
ある日の午後、手紙が届いた。
差出人は書いていない。けれど、文字の癖ですぐにわかった。
『心は、忘れることで癒えるのではなく、思い出すことで赦せると知りました。
どうか、あなたの日々にも、棘のない時間が流れますように。』
レオンは手紙を畳んで、陽の当たる窓辺に置いた。
過去は過去だ。それでも、赦しは未来へ続く魔法になる。
⸻
魔法のように消えない傷もある。
けれど、魔法のように――
優しさや赦しが、心をあたためることもある。
そして、そんな日々のなかで、棘は少しずつ、抜け落ちていく。
⸻
[完]