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第一章 電気羊は夢を見る

 私はその日、羊を見に行くことにした。

 七種の「不定種」の中で何か順番を決めていた訳では無いのだが、なんとなく今日はスリープ後の同期の調子が悪かったので羊に会いに行くことにした。睡眠と羊。一見関連など全く無いように思えるのだが、人類にとっては案外そうでも無いらしい。人類は古来より睡眠が難儀な際には脳内で羊の数を数えていたという。一匹、二匹、三匹……。という風な感じで眠るまで数えるのだという。眠りから覚めた頃には羊の数など憶えていないらしいが、人類は羊のお陰で良い睡眠ができたと思うらしい。私が初めてこの情報を閲覧したときには人類は随分とメルヘンチックに睡眠するらしいと一種の感動さえ憶えたものだが羊を数えなければ眠ることのできない人類に少しだけ同情というか哀れみも浮かべた。しかし、矢張りそれは私が浮かべるにはどうも無益な感情だったようで私の電子脳味噌はエラーを吐いた。それきり睡眠と羊について考えることは忌避していた。

 私が棲んでいるのは簡単なトレーラーハウスのようなものだった。ハウス、とは言っても火星との交信、情報処理、燃料補給をするためだけに与えられた観測基地のようなものである。解体・設置が容易で整地のされていない荒れ地や水上でも数分で屋根のついた休憩所を作ることのできる優れモノである。某有名バトル漫画のカプセルのようには行かないものの私はその形態を気に入っていた。任務の為だけに都合よく創られ、その後は迅速に処理されるという存在に不思議と愛着のようなものが湧いていた。

 数分間だけ宇宙を眺めたあとに私は歩き出す。小さな天体なので移動は徒歩で十分。私の機能があれば半日で天体を一周できる。疲労という無駄な機能も削除済みなので精神と機能が安定していれば無限定に活動できる。只、少しばかり退屈だというのが私の最近のちょっとした悩みだ。「退屈」なんて感情をなくしてくれても良かったと思うのだが、私を造った人類は私の感情までは奪わなかった。それが優しさなのか、それとも──。

 今日の空は酷く不安定だ。先刻まで青い空には黄金色の光線が幾本も伸びていたのに今は灰色がかった雲が太陽の周りにふかふかと浮かんでいる。ああいう雲のことを羊雲と呼ぶのだろうか。楽しそうに群れる雲は疲弊したように見える太陽をすっかり覆い尽くす。一気に温度が下がり、周りが少しだけ暗くなる。雨が降るのかもしれない。そう思って少しだけ歩幅を大きくする。

 歩いた先には丈の短い草が生い茂る草原がある。湿地などに比べて乾燥しているが植物たちは青々としている。肺臓一杯に空気を吸い込めば草原のあの独特した匂いが私の躰に流れ込んでくる。私はその香りがたまらなく好きだった。電子や機械とは無縁な自然の生み出す命が一緒くたに混ぜられた匂い。少しだけ安定した私は、今度こそ草原の中にふかふかと浮かぶ雲を捜し始める。青い空に浮かぶあの雲よりは、青々とした草原に浮かぶあの一匹の羊の方が幾分か見つけやすいはずだ。

 見つけた。草原の中心で雲よりもっと気楽にころんと横になっている白い塊が緑の中にあった。天敵と呼べる殆どの肉食動物たちが先に「安定種」となってしまったためここまで無防備になれるのだ。それでも些か油断しすぎだ。目と鼻の先にまで近づいたとしても気が付かないのでは、と思う。草の間を踏みしめながらゆっくりと忍び寄る。なんだか私が獲物を狩る肉食動物のようだ。機械音が私の聴覚神経の中で低く音を鳴らす。あと少し。もう少しで羊のあのふかふかとした毛の塊に触れられる。

『今日はどうも恐ろしい目覚まし時計を掛けてしまったようですね。まさか私を「安定」させるための貴方が私の眠りを脅かすとは……。本末転倒ですよ。さて、今日はどういった御要件で、ノア』

ゆったりと頭だけもたげた羊は私に向かって軽く言葉を投げかける。ふんわりとした言葉の奥には不機嫌が隠れている。柔らかそうに見えてもその真意とはその柔らかさに隠されて見えない。気づかれていたか。思えば羊の視界は人間より広いのだった。此方を見詰める横長の瞳孔は明らかに私を直視していた。その瞳の奥にも矢張り怒りが滲んでいる。

『ごめんなさい。今日は少しだけ機嫌が良かったものだからつい悪戯をしようと思って。気分を害したのなら謝るわ』

眼前の羊はそれだけ聞くと面倒くさそうに持ち上げた頭を草原に下ろす。ゆっくりと瞬きをする瞳にはもうなんの感情も無いようにぬばたまの如き黒く澄んだ輝きを放っていた。何処か眠そうにする一匹の羊。この羊は眠れない。だからこうして一日の大半を横になって躰を休めるしか無い。私の見ていない時にはゆっくり歩いているらしいがそれも真実かはわからない。兎角一日中酷く疲れているのだ。

『隣いい?』

 羊の隣の空間を指差す。尋ねられた羊は何を言うまでもなく瞬きをしただけだった。それが了承の合図であると知っている私はゆっくりと腰を下ろす。草の上はふかふかと柔らかく、ハウスの床より一回りも二回りも暖かかった。その心地よさにうっとりとしていると羊がまた普段の調子に戻って話し掛けてきた。

『随分と思い詰めているご様子ですね。それなのに変に安定している。何か奇妙な夢をみた後のようなそんな顔をされています。ノア、貴方が何を思って、何を知ってしまったのかは分かりませんが私の傍で眠る、なんてことは許可しませんよ』

 ふむ。なぜだか今日は少々ご機嫌斜めな様子である。普段の調子の中にも怒りとまではいかない小さな苛立ちが見て取れた。だが、今のは私の失敗だ。眠れない生物の前で悠々と過ごしてしまいそうになった私が悪い。謝る代わりに羊にそっと手を触れる。絡み合った毛の中に手をいれるとパチパチと静電気が散る音がした。

『雷か。雨が来そうだね』

 羊の毛の中に電気が溜まっているときには決まって近くに雷が落ちた。雲の如き羊の雲も矢張り上空に浮かぶ雲とそう違いは無い。私は自身の電子部位がスパークを起こしかねないので慌てて手を引っ込める。もう少しやわらかい感触に包まれていたかったが仕方がない。白い毛の隙間には私の知らない羊だけの知る世界が詰まっている。

『いいえ、雨は降りませんよ。蛙が鳴いていませんから』

羊は至極当然のようにそういった。まるで決まり切った台詞を淡々と述べるような口調に少し疑問を抱きつつ尋ねる。なぜ蛙が鳴かないと雨が降らないのか、と。

『それは、貴方を造った親のほうが余程詳しく知っているでしょう。今度聞いてみたらいい。蛙という生物は雨を呼ぶのですよ。だから蛙が鳴かない限り、どんなに豊かな天体であろうが雨は決して降らないのです』

 そういうとまた酷く無愛想な顔をして草の中に顔を埋めてしまった。口の中に草が入っているがそれさえも気にする素振りは無い。私はそれをみてなんだか酷く悲しくなってしまい貴重な水分を二滴ほど浪費する。なんでこんな感情が残されているのだろう、とは珍しく思わなかった。今は只私と同じ羊の傍で共に眠りたかった。

 羊の方を見遣ると羊も目はぱっちりと開いておりじっと虚空を見詰めていた。でもその瞳が私を捉えていることはわかった。羊はずっと当惑したような難しい顔をして私と羊の間にある虚空を見詰め、行ったり来たりを繰り返した。私は何も言わなかったし、羊も何も言わなかった。多分今日はそういう日だったのだ。暖かい沈黙の後に羊はポツリと呟いた。

『そろそろ、雷が落ちますよ。以前のように故障しては私も困る。私も「イエ」に戻りますから貴方も戻ったほうがいい。また明日。晴れていたら此方に来て下さい。明日なら何か変わりそうだ』

 それだけ言うとのっそりと立ち上がった羊は森の方へと去っていった。あの辺りにはかつて熊が使っていた洞穴があったのを思い出しつつ、私も立ち上がる。草原の優しい匂いに混じって雷雲の焦げたような匂いが接近するのを遠くに感じながら、私は冷たいハウスへ足を早める。その日は何故か上手くスリープ状態に移行できず私は目を閉じるだけに留まった。静電気のせいかな、と笑みを浮かべながら電子脳味噌の甲高い処理音を一晩中聞いていたらいつの間にか朝がやって来ていた。

 私が目を覚ますと晴天だった。空は病的なまでに真っ青である。遠くまで見渡しても昨日のような雲はない。暖かい光線だけが私にゆったりと降り注いでいた。清浄水をコップ一杯分だけ飲んだ後に外に出る。今日は時間の流れが緩やかであるとそう直感し、いつもよりも周りに見蕩れながら昨日の草原へと向かった。

 羊は居なかった。昨日と同じ草いきれの青臭いみずみずしい匂いはあるものの、あの羊のふんわりとして太陽の匂いの染み込んだ匂いは殆ど感じられ無かった。私が早く来すぎたのかな、と思い昨日と同じ草原の中心に座って待ってみるが羊が来る気配はない。太陽が天辺に来ても羊は来なかった。もしかして、と思い森の方へ視線を合わせると鬱蒼と茂った森のなかにぽっかりと浮かぶ闇があった。その闇の中で羊はいつものようにころんと寝転がっている。だが、いつもよりも激しく上下に振動しているのが見え私は急いで洞穴へと向かう。

洞穴はかつて熊が使っていたので私と羊がすっぽり入れるほど大きかった。入口の方から光が差し込んでいるが羊が横たわっている最奥部にはその光は届いていなかった。地面の土も酷く冷たくじめじめとしていて真っ白な羊の毛がすこしだけ茶色に染まっていた。その汚れを払いつつ私は羊へ尋ねる。

『大丈夫?』酷く安っぽい言葉だった。けれど私が知っている言葉はそれが限界であった。考えればもっと掛けるべき言葉はあっただろう。だがらしくもなく気が動転してしまった私はそれだけしか言えなかった。

 私の言葉に羊はゆっくりと話し始める。普段のような凛とした高貴さはもうどこにもなく只酷く衰弱しきった一匹の羊が其処に居た。

『私は眠りたいのではない。睡眠とかいう生理的現象に飢えているわけではない。無論このまま睡眠ができなければ私はこのまま弱りきって死んでしまうだろう。だがそれよりももっと忌避すべきは私が夢を見れぬまま死ぬことだ。私はそれが堪らなく嫌でいやで仕方がない。私は夢が見たい。夢は人類だけのものではない。一体の生命である私にもその権利はある。毛、肉、皮としか私を認識しない人類に嫉妬してしまう私が許せないのだ』

 羊は自分でも何を言っているのか分かっていないようであった。バラバラの個体が、意志が好き勝手に其々叫んでいるような──。それは一体の羊の叫びと言うよりもその一匹の羊に詰められた電子の、遺伝子の叫びであった。電気でできた羊にも確かに生命としての誇り、望みがあった。

 かつて人類に利用されただけの一種の生物群の叫びが電気を通して慟哭する。

 私は無いはずの「魂」というやつがぶるぶると震えるような感覚がした。そこで初めて自身が酷くちっぽけで決して万能では無いことを思い知った。一匹の羊も、一種類の生命も救えない只の電気であることに私はどうにもならなくなり涙を流した。

『私はどうすれば君を、君たちを救える?』

虚ろな目をした眼の前の羊へと問いかける。その目は私をじっと見詰めながら濡れていた。少し考えるように頭をもたげたり、首を振った後に羊は只一言だけ言った。


『ノア、貴方の脳味噌を下さい』


 私は自身の頭部から電子脳味噌を取り出す。

視覚野の三分の一ほどを電気羊の頭部へと組み込む。すると安心したように羊は一言「ありがとう」とだけ呟いてからゆっくりと夢の世界へと入っていった。恋い焦がれた世界で羊は何を見るのだろうか。それだけは人間でもアンドロイドにも理解らない。夢は踏み込んではいけない領域だ。それでも、夢を見る羊は少しだけ笑っていた。

 私はカラカラに乾いた喉を潤してからベッドに沈んだ。目を閉じてスリープ状態に移行しようとするが今日も矢張り駄目である。ふと私はある一つの方法を思いつく。

『羊が一匹。羊が二匹。羊が三匹……』

 その日私は初めて夢を見た。誰にも言えない秘密の夢を。


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