続・なろうの★1は〝好評価〟じゃね? てな話
過日、我が毒エッセイ『【天然危険物】なろうの★1は〝好評価〟なんじゃね? てな話』に対し、示唆に富む御意見をいただきまして。
それを踏まえた補完の必要があろうかと、エッセイとしてしたためました。
そうした経緯ゆえ、今回は茶番無しの一人語りです。
当該の御意見の一部を原文のまま議題として引用し、質疑応答の態をとりましたが──
一個人へのアンサーではなく、創作界隈のみなさんに向けての論談として読んでいただけたなら幸いです。
◆ ◆ ◆
議題①【自分の作品を傑作に違いないと思う事は、おかしなことなのでしょうか?】
物書きが自著の出来栄えに自信を持つこと自体を、おかしいとは思いません。
傑作を書くぞと意気込み、これぞ我が会心の作との自負をもって小説を世に送り出すのは、物書きにとってごく自然な心理でしょう。
ですが「傑作に違いない」と考えるのは、いささか危険に思います。
「我ながら傑作だわ」という自信と「傑作に違いない」という確信は、思考の主述関係においてまったくの別物。
後者は自作品に対する自信ではなく、それを生んだ己を誇る自尊のあらわれなのです。
逆説的に言うなら、よほど尊大でなければ「傑作に違いない」とは思えないでしょう。
しかるに、ここで問題になるのが、その尊大さに見合うだけの実績があるかどうか。
あるなら、いいのですが──
相応の実績を伴わない自尊は虚栄に過ぎない。
裏をかえせば、実力がなくても虚栄を育てることはできてしまうわけです。
だから、ともすればほしいままに膨れてゆく……
僕が件のエッセイにおいて、〈自信と自尊が指数関数的に直結してる〉と評して危惧したのは、まさにそれなのです。
自負・自信との語呂を意識するあまり〝自尊〟と表現しましたが、正確には虚栄と書くべきでしたね。
カラ元気も元気には違いなく、虚栄も創作活動のモチベーションとなりえますが、それは危うい諸刃の剣。
内なるエコーチェンバー効果で肥大化した虚栄は傲りをまとい、傍目には正当と思われる論評にも激昂したり、あるいは鬱屈する要因となるからです。
そもそも相応の実力に裏打ちされた自信・自尊は、簡単には壊れません。
たとえば人気作家にはそれなりにアンチがいたりしますが、多くのファンの支持という事実に保証されたプライドは、有象無象のアンチにディスられたぐらいでは揺るがない。
本当の自信・自尊は、なろうで★1もらった程度ではビクともしないのです。
対して、根拠の無い虚栄は壊れやすい。
〝空虚な見栄〟は、ネガティブな批評を論理的に撥ねのける(あるいは受け流す)鎧にはなりえず、メンタルは裸も同然。
だから★1をもらったぐらいで簡単に傷付いてしまう──
実際、そのせいで不毛な言い争いをしたり、創作意欲を失くしてしまったりする人、ときおり見かけますよね。
さらにこじれて「俺の傑作が理解できない奴らはクソだ」となり、闇墜ちしてアンチなろうと化す人もいます。
あげくには「今のラノベはクソだ」と言い切る御仁まで……
そうした殺伐とした事象は、大多数のまっとうな読者や作者にとって不快でしかありません。
しかも、わざわざ感想欄等で嫌がらせをしてくるアンチまでいる始末。
その多くは、高過ぎるプライドを持て余して自壊した物書きだったりします。
そんなふうに闇墜ちする引き金のひとつに〝★システムの解釈のすれ違い〟があるのではないかと考え、★1好評価説を称えるエッセイを書いたわけです。
過大な自信・自尊を持たないほうが純粋に創作を愉しめるよ、というメッセージを行間にこめたつもりで──
◆ ◆ ◆
参考までに、ここで件のエッセイで用いた画像を転載しておきます。
言うまでもなく、僕の★システムに対するスタンスは解釈②。
「ポイントを入れて作者を応援しましょう」とのメッセージからして、ゼロ起点の加点式評価とみなすのが自然ですし、精神衛生上も好ましいかと。
★1も好意的な評価には違いないとなれば、気に病む人も減るでしょ?
それに、たとえ相手が嫌がらせのつもりで★1を入れたとしても、「君、加点式評価の意味わかってる? ともあれ2ポイントくれてサンキューな」と笑えるし。
ちなみに「★5以外は要らん」とおっしゃるゴーマニストさんは論外なので、不平不満は床下に穴でも掘って叫んでください
では、本題に戻りましょう。
◆ ◆ ◆
議題②【自分の作品に対して望む評価が得られなかった時に、酷く落ち込むのは当然の事だと思っており、相手に対して憤慨するのは不当な八つ当たりだと思っています。この両者を本質的に同じと言われては、とても納得できません】
気に障る人もいましょうが、この点について、僕の考えは変わりません。
前述のように、ひどく落ち込むのも、憤慨するのも、過ぎたるプライドに起因する一種の適応障害(重度のストレス反応)と思われるからです。
もちろん、精魂こめた自作品が思い願うような評価を得られなかったら、誰でも大なり小なり落胆するでしょう。
僕だって切ないですし、ディスられればカチンときます。
でも、★1にブチ切れて食ってかかる(他責)とか、悲観のあまり創作をやめてしまう(自壊)というのは、過剰反応ではないでしょうか。
この他責と自壊を〝本質的に同じ〟と言い切る論説に嫌悪感をおぼえる人がいようことは想像に難くなく、叩かれるだろうと覚悟していました。
幸い、いただいたのは理性的な反論で、おかげで僕もいま一度冷静に問い直すことができましたが──
やはり考えは変わりませんでした。
事実、★1に強い拒否反応を示す人には、おおむね共通する傲りが見て取れます。
よしんば上記の解釈①のように考え、★1を侮辱と感じたのだとしても、です。
ここで少し視点を変えて、作者と読者の関係性を恋愛にたとえてみましょう。
自信をもって書いた小説が読者にウケたなら、いわば相思相愛。
ウケなかったなら、ふられて片想いに終わったといえます。
注目すべきは、ふられたときの反応です。
普通は縁が無かったとして諦めるか、折を見て再挑戦するか、でしょう。
この場合、再挑戦は新たな作品で勝負することを意味します。
で、ここからが本題。
もし「私は異性にモテるに違いない」と確信し、「私を好きにならないのはおかしい」と憤慨する人がいたら──
みなさん、どう思います?
なんて傲慢なんだ、と思いませんか?
また逆に、フラれたショックで廃人同然になってしまう人がいたら、どうでしょう。
なにもそこまで……と思いませんか?
このように失恋の痛手を引きずる人は、恋に破れてもなお対象(もしくは恋愛という行為自体)に強く依存している心理状態にあります。
それが長く続くのは、傍目には豆腐メンタルにもみえますが、精神医学的には強固なエゴのしわざ。
なにしろ自分の恋愛感情にばかり頓着し、結果として相手の自由意思を受け容れずにいるわけですから。
それって傲慢ですよね。
つまり、フラれて憤慨するのも、病的に落ち込むのも、情動の鉾先が違うだけで根は同じ。
どちらも社会性を欠いた傲りの発露なのです。
その暴走を防ぐ手立ては唯一、客観的事実にもどづく自己認識を心がけること。
すなわち虚ろな自尊を持たないことしかありません。
くしくも、ここで話は議題①につながります。
あえて断定的に言いますが──
書けば売れると言われるような人気作家でないかぎり、自分の小説を「傑作に違いない」と考えるのは自信を擬した傲りです。
それが創作意欲に繋がっているなら、安易に否定できるものではないのかもないけれど、だとしても「危ういな」というのが僕の正直な印象。
なんとなれば、そのエゴはガラスのように脆く、ひとたび砕け散れば剥き出しのメンタルを切り裂く凶器と化すからです。
それで自滅するだけなら、第三者の脅威ではありません。が、虚ろな自尊は他責に転化しやすく、内なる凶器が狂気を帯びて他人に向けられることがある。
いわゆる闇墜ち(病み墜ち)です。
純粋に創作を愉しみたい人にとって、害意をふりまく闇墜ちさんは迷惑ですし、ときには実害が及ぶこともあります。
その芽を少しでも摘みたいというのも、★1好評価説を推す理由のひとつです。
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議題③【自分の作品を自分自身で、本当に拙作・凡作と思いながらも、その作品を他者に読んで欲しいと思う感情が良く理解できないのです】
自分の作品を拙作・拙著などと呼ぶことに疑問、あるいは嫌悪感を呈する意見。
ときおり話題になりますよね、これ。
でも、拙作・拙著は言葉の綾で、さほど深い意味は無かったりします。
客人を茶でもてなすとき、日本人は「粗茶ですが」と言ったりする。
たとえ最高級の玉露であっても。
また、贈り物には一言「つまらない物ですが」などと言い添える。
「あなたには、どのような品もつまらない物でしょうが、どうかお納めください」と、相手を立てる言葉。
日本人独特の謙譲表現ですね。
これを真に受けて「つまらない物を寄越すとは失礼な!」と激怒する人がいたら、どう思います?
変ですよね。
少なくとも一般的な日本人の感覚としては。
僕なら、その場で「あんた何様?」と口走ってしまうかも。
ともあれ、拙作・拙著という表現は日本独特の形式的な社会文化で、本当に〝拙い〟と思ってるわけではない、と考えるのが肝要ではないでしょうか。
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議題④【作者自身ですら傑作とは思っていない作品を読みたいとは思いません】
これは議題③から派生する問題ですね。
発想自体は御尤も、なのですが──
前述の通り、拙作・拙著と称する作家が本気で自作品を駄作・凡作と思ってるわけではない、ということで解決ではないかと。
たとえば僕とても、他人様に小説を披露するからには「我ながら上出来じゃん♪」と小躍りするぐらいの自負はあります。
少なくとも、およそ小説の態をなしていない駄作、とは思っていません。
けれども一方で、「こんな傑作を書いちゃう俺ってば天才だし」的な自尊に酔わないよう努めてもいます。
そうした自戒の意味で、僕は自著を拙作と呼ぶのです。
ちなみに、拙作・拙著等の表現を嫌う傾向は社会心理学的に説明することもできますが、それはこのエッセイの主旨ではないので自重します。
◆ ◆ ◆
さて──
思いの外、長くなってしまったので、ここらで切り上げるとしましょう。
推敲中「ちょっと好戦的な内容かな」と思いもしましたが、なればこそ本作自体が〝ガラスのエゴ〟を見定める試金石になると考え、あえてそのまま放つことにしました。
もし、このエッセイを読んで度し難い怒りに震えるなら(以下略)……
つまりは、そういう仕掛けです。
なお、本作はあくまでも僕個人の意思表示であり、異論を排撃する意図はありません。
なので異論は異論として受け容れ、感想欄での反論・反証は差し控えることにします。
感想欄は開けておき、頂戴した御意見には必ず目を通しますが、今回に限り基本的に回答はいたしません。
あしからず、御了承ください。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
──了──
【追補】
※①の一文における適応障害への言及は、個別の事例に診断をくだすものではなく、当該の事象全般に対する包括的な私見です。
訂正をうながす御意見をいただきましたが、専門家の助言をふまえたうえで法的・倫理的な問題は無いと判断し、現状のままとしました。
いかがでしたか?
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もちろん1個でもありがたや。
でもって、ついでに他の拙作にも目を通してもらえると、もれなく感涙にむせぶのであります。
では、また。
いつか、どこかで──




