倫敦 時折、春 〜紅時〜
紅時の瞳に映るのは儚い影。
只、只管に懐かしい風景の中に居る男性。必ず手を差し伸べて微笑む。
「段差があるよ。」
他愛もない会話。
心が早鐘を打って、紅時は手を取る。毎回毎回自分の体が五月蠅い。
横に並んで歩くのが当たり前の事なのに、自分を不安にさせる男性。横顔を見たくて、そっと視線をずらすと、木蓮が見えた。
紅時から感嘆の言葉が零れると、男性の手を引っ張った。早く見たい。間近で、見たい。と足が動く。
「大丈夫だよ。逃げたりしないから……。ゆっくり見ておいで……。」
烟る様な木蓮の香りの中、男と紅時が佇む。りっぱな大木が何本も植わっている。男性の視点が紅時と木蓮を行き来する。
「やっと笑顔になった。」
紅時は指を指し、木蓮の話をする。どれも男性の植物辞典の記憶なのだが、言葉が止まらない。
其の言葉を一語一句頷いて聞いている男性。
紅時の手を木蓮の幹に触れさせた。
「此れが其の木だよ。触ってみると、挿絵と違うだろう。」
紅時が頷くと、まるで祝福されている様に木蓮の香りがする。ああ、男性と居る此の時間が幸せなのだと、気が付く。
細められた瞳に映っているのは、紅時しかいない。
「其処の椅子にいるから、自然に歩いてごらん。」
指差すベンチに嫌な気持ちになる紅時。もう少し話したい。もう少し側に居たい。
紅時の時間の殆どを、男性が占めている。
ああ、何と長い時間を共にしたのだろう。
ああ、何と長い時間、共に飯を食べただろう。
ああ、何と長い時間、待ち侘びただろう。
紅時は、言霊が流れる様に息をする。
『先生!』
紅時が瞳を開いた時には、既に記憶のある天井だった。
「夢か……。」
知っている毎日の夢から覚める時の絶望。
何時もの郭の天井だったからだ。
紅時は立ち上がり、誰よりも早く支度をし始めた。又、同じ日常を生きねばならぬ。
倫敦 時折、春 で本編を公開しています。
歴史好き、ボーイズラブ好きは読んでみて下さい。