ゆるゆる非日常
「つかれた…」
転勤に伴い、怒涛のような日々から引越しを終え、布団も何も敷いていないマットレスにぐったりと沈む。
社会人になってからはじめた一人暮らしは個人的には快適で、特に不満はない。
荷物もそこまで多くないし、今回の引越しもそこまでしんどくないだろうと高を括っていたのが間違いだった。
そりゃ前回の引越しは学生でなんなら休みでお気楽そのもの。
今回は社会人で休みを取得できたといえども日々の仕事に引き継ぎが追加され、ドタバタする中で準備なんて順調に進む訳もなく、前日徹夜でダンボールに詰め込むだけ詰め込んで来た状態。
このダンボール開けて中身探しながら片付けるんか…とうんざりしてくるが、他に人もおらず、やるのは自分だけ。
仕方ない
ふぅ、とため息ひとつついて、とりあえずコンビニで買ってきたスティックパンを口にくわえながら、部屋の収納のクローゼットをフルオープンした。
ら、クローゼットの中に扉があった。
いやなにこの扉。
クローゼットの中に扉?ん?
しかもこの部屋は角部屋で、このクローゼットの向こうは部屋がない。
開けたら外で、アイキャンフライになるやつだよ位置的に。
「…えぇ…」
思わず口から声が出て、この状況に少なからず驚いてる。
とりあえず開けたら壁ってこともあるだろう。
まさか骨が出てくるでもあるまいし…いや出てきたらどうしよう…?
心臓がいつもより早くて、腕に着けていたスマートウォッチがブー!と心拍がおかしいことを知らせている。
ここは腹を括るしかないのか…見て見ぬふりをすればいいのだろうけれど、何かあっても困るし気になって安眠できる気もしない。
スマホですぐに電話をかけられるようにして、おそるおそる、そっとその扉のノブを持ってきて手前に引く。
鍵かかってるとかある?とそんな希望は叶わず、カチャリとゆっくり手前に動く扉。
そして隙間から感じたのは光で、まじでこれ外でアイキャンフライでは!?と、隙間から外を覗いた。
「うっそだぁ…」
その視界に入ったのは、草原と青空。
ゆっくり扉を押して閉めて、自分は今どこにいるのか今一度確認をする。
ここは日本国内で、一人暮らし用のマンションの5階で、今日から私の家。
そして今日の天気は晴れてたけど今は太陽は沈んだ時間。
だが先程の扉の先は、晴れ渡る青空に、草原が目に入った。
これ風景写真にしたら売れそうと感じるぐらいには素敵な場所。
もう一度ゆっくり扉を引くと、やっぱりそこは晴れ渡る青空に、草原があり、空気も綺麗。
えぇ…何が起きてるの?と、扉から出ないままその場所を眺める。
ザァっと草原を揺らす風が気持ちいい。
「転生してないけど異世界行けちゃうとかってやつ?」
ピンポーン!
となんというタイミングで鳴ったインターホンに、一旦クローゼットの扉は閉めて玄関に向かった。
玄関で荷物を受け取り、さてどうしようとクローゼットの前で考える。
これが異世界転生や異世界召喚ものならば神様が現れて、きっと私に説明をしてくれるのだろうが、いまも普通に荷物を受け取れたあたり私は死んでいない。
そう、生きてる。ありがとう。
ということは、明日は木曜日で有給にしているが、明後日は普通に仕事だ。
そうなると、やらねばならないことが沢山ある。
「とりあえず仕事着出しておかないと」
冷静?いやいや、情報の処理が追いつかなくてとりあえずやることやらなきゃと思っただけよ。
ということで、でかでかとマッキーで服!!と書かれたダンボールを開けてクローゼットの扉のない方にかけていく。
幸い服はクローゼットの半分ほどで収まるため、扉の前は何も置かなくてよさそうだ。
その間も考える。
この扉の向こうは日本なのか、いやそもそも地球上のどこかなのか。
風があったし、空気があったから生き物はいるかもしれない。
地球と同じようなところなのか、それとも科学技術などがとんでもなく発展していてロボット、むしろアンドロイドやヒューマノイドなどがいるのだろうか。
動物は同じだろうか。それとも違うのだろうか。
モンスターと言われるものがいるのか、魔法を使う世界なのか、それとも中世のように剣で生きていくような世界なのだろうか。
「説明書が欲しい…」
思わずそう呟いたら、バサ!と紙の束が落ちる音がして心臓が跳ねる。
またスマートウォッチからブー!と心拍がおかしいことを知らされ、わかってる!と心臓を抑える。
すると先程までそんなもの無かったでしょ?ていうところに、なにそれタウンページ?というものが落ちている。
ただし表紙は黄色くない。キャラメルのような色味で革表紙のようなものに守られている。
読めってことですかっていうかどこから現れたのこれ…とゆっくり近づいて人差し指でつついてみる。
特に動いたりはしないので、説明書が欲しいというつぶやきに対して、仕方ないなぁということで与えられた救済措置的なものだろうか。
「誰かに観察されてる可能性はとりあえず目をつぶろう…」
こんな無から有を作り出すのは人間業ではないし、そういう所を気にしてしまうともうキャパオーバーしてしまう。
ぶっちゃけ事故物件扱いにならんのかこれ…とは思ったけど、家賃半分会社持ちですし…黙っておきましょう、はい。
この分厚い説明書はあらかた部屋を片付けて、寝支度が終わってから読むとしよう。そうしよう。と、ベッド横のテーブルに説明書を置いて、日常生活ができるよう荷物を片づける。
数枚のお皿とカトラリー。
フライパンと雪平鍋。
調味料とお米、引越しまでに消費しきれなかったパスタや缶詰。
冷蔵庫の中には現在飲み物だけ。
明日には冷蔵庫の中身を買いに行かないと。
荷物はほぼ片付いたので、空いたダンボールを縛って玄関に置いておく。
さっさと風呂に入って珈琲でも飲みながらさっきの説明書を読んでみようかとお風呂の準備を進めることにした。
頭にフェイスタオルを巻き付け、ゆるいスウェットにアイスコーヒーを持ってベッドに腰かける。
頭の水分をある程度タオルが吸った辺りでドライヤーで乾かすが、面倒だなといつも思う。
短くすれば楽なのに、くせ毛のため余計に手間がかかってしまう。
「さてと」
ペラリとめくった分厚い説明書。
日本語で書かれていて、まずは読めることに安堵のため息をもらす。
「ノーラの説明書…」
このノーラとは、きっとあの扉の向こうの世界のことだろう。
世界にノーラという国、もしくは村があるのかもしれない。だが、地球上にはなく、どこか別の世界なのかもしれない。
そんな私の考えを先読みしていたかのように、次のページには、このノーラは地球上にはなく、別の次元にある所詮異世界の名前である。と、書かれていた。
なるほどわかりやすい。
この説明書は読み手がわかりやすくなるよう説明が書かれているようで、正直助かった。
わざわざむずかしい言葉で書かれてしまうと、だからどういうことやねんと理解に少し時間を要してしまう。
しかも疲れた頭では一文理解するのに時間がかかる。
「ノーラ、ねぇ」
いまは閉じたクローゼットの向こう側にある扉を思いながら、説明書を捲っていく。
ぺらりと捲れば、その世界は地球とは似て異なるものであること。
地球ほど科学技術は発展していないこと。
またその代わりに魔法や魔術、錬金術などが存在すること。
そしてモンスターが存在し、それらを討伐して賞金を得て生活する者がいること。
読めば読むほどファンタジーな世界が扉の向こうに存在していることが理解出来る。
「あるんだなぁ…」
ぽつりと呟いた言葉の後、当然の疑問が心に沸きあがる。
「それで私にどうしろと…」
その瞬間どこからとも無く風が吹き、分厚い説明書がバラバラと捲られていく。
そしてぱらりと止まったページに一文。
『楽しんできてください』
「…あ、はい」
そんなわけで、ゆるゆると異世界探索を始めようと思います。
ゆるゆる書いていく予定