ブレーキが壊れちゃったの……
相変わらず、ぴんと糸で吊られているように背筋の伸びた千登世は、エレベーターの高度がどんどんと上がっていく間一度も口を開くことは無かった。
真一文字に結ばれた唇を開かないのは、先ほどの行為の所為か、今から対面をしないといけない面倒ごとの所為なのかは俺には分からなかった。
エレベーターが目的の階で止まり、目的地までは恐らくドアtoドアなのだろう。
扉が開いていくと共に俺がこれまで足を踏み入れたことのない世界が目に入ってくる。
当たり前のように貸し切りにされたレストランには少し離れたテーブルに座った、何処か千登世に似た男性が何とも言えない曖昧な表情で千登世に向かって軽く手を挙げていた。
あの人がきっと年頃的に千登世の父親だろうな。
そんなことを考えていると、千登世は俺にだけ聞こえる小さな声で言う。
「……行きましょう」
「あいよ」
護衛ということでお邪魔させてもらっているわけだし、千登世をエスコートするわけもなく、ただ前を歩く千登世の後ろに付き従うように俺も着いて行く。
千登世が徹氏の隣の席に着いたので、俺は一応何かあった時に直ぐに対応できる程度の距離を取って立つ。
「……やぁ千登世、久しぶり」
「えぇ、お父様もお久しぶりです。お元気そうでよかったわ」
――聞いていた通り、親子仲は良いんだな
思ったより和やかに千登世と話す鷺森徹氏と千登世の様子を見て、どこか安心している自分が居た。
徹氏は一瞬千登世の後ろに立つ俺に目線を向けて、直ぐに護衛か何かだと納得したのか一姫さんから聞いているのか定かではないが、とにかく俺の事はいないものとしてくれるようで何よりである。
「まぁ何とかね……毎日お義父さんにいじめられているよ」
「あら、お爺様に告げ口してしまおうかしら」
「辞めてくれよ、なんて言われるか分かったもんじゃない」
千登世の軽口に徹氏は、怖い怖いと言いながら身を竦ませていた。
「さて、お義父さんはもう少ししたら来るそうだ。それまでお二人で話でもしたらどうだい?旭君と直接話すのは初めてだろう?」
「初めまして、加住旭です。……実をいうと一年ほど前、ちいさい集まりの時に一度、千登世さんには挨拶をさせていただいたんですが、覚えていらっしゃいますか?」
徹氏はそう言って正面の男性を紹介するが、これじゃあまるっきりお見合いじゃないか。千登世は大丈夫だろうか……俺は後ろでひやひやとしてしまうが千登世も流石にある程度覚悟はできていたのか直ぐに口を開いた。
「勿論覚えてますよ、お久しぶりですね、加住さん」
「はは、嬉しいですね。てっきり忘れられているのかと思ってました」
「加住さんのことは、お父様からも話をよく聞いていたので忘れるなんて、とても」
「そんな買い被りすぎですよ、徹さん」
「いや、そんなことはないさ。君はお義父さんにも覚えられているのだし、謙遜も過ぎればただの嫌味になってしまうよ?」
三人で話す輪には別に入るつもりは無いが、それこそあったばかりの時のような硬い口調で話す千登世も相まって、皆誰かが作った台本を読み上げている様で居心地の悪さを感じてしまう。
こんなに楽しそうじゃない千登世は見たことが無い。犬猿の中の伊万里と話すときですら、今日、この場に比べたらよっぽど楽しそうなぐらいだ。
「オイオイ。なんだ、俺抜きでえらい楽しそうじゃねえか」
何も知らない人が見れば楽しそうに話していた三人はその老人に声を掛けられた瞬間ピシと固まってしまう。辛うじて身じろぎできたのは千登世のみ。
決して大きな声を出しているわけでは無い、歳を重ねている人特有のしゃがれた声だった。それに少し離れている俺ですら丹田が少し震えたのだ。
護衛している以上、辺りには気を張っていたし、勿論エレベーターの扉が開いたのは視界に入っていた。問題はその俺より少し背の高い老人が近くに来ていたことに、声を聴いて初めて気が付いたということだ。
存在感が無い、なんてことはあり得ない、声ですらこれだ、カリスマだの年の功じゃ説明のつかないなこれは、千登世や伊万里の同類か?
いや、この老人こそが千登世のアレの源流なんだろうな……と何となく理解できてしまった。
一姫さんと比べても、明らかな格上。俺は自然と何が起きても直ぐに千登世を守るため動けるように腰を軽く落とす。
「あん?なんだお前」
老人はそんな俺に気が付いたのか、声なんかと比にならないぐらいの変な力を持っている奴ら特有のアレを叩きつけてくるが、二人で多少慣れていることもあるし老人と千登世の間に壁を作るように動く。
――俺の最低限の仕事は肉壁になる事だ。そう覚悟を決めて本当に心からやりたかないが、しょうがない覚悟を決めよう。
「なんだ?俺が当てたのに動けんのかよ?……いいなお前。千登世のだろ?名前は」
「……はい。千登世さんの護衛の真似事をやらせて頂いてます、飯田郁真です」
俺が老人に言われるまま自己紹介を済ませると、これまでの重くのしかかってくるような空気が霧散する。
俺以外の三人も空気が軽くなったことで少しほっとしたような表情を浮かべている。
「……真似事ねえ?家の若いのよりよっぱど使えそうだけどなぁ?千登世コイツ俺にくれよ」
ドカッと椅子に勢いよく腰を据えた老人こと生素氏の言葉に、俺は千登世の方を向いてブンブンと首を振る。
冗談じゃない。千登世を軽く凌駕するアレを浴びて「ハイ!ついていきます!」なんて言えるほど俺の肝っ玉はでかくない。
千登世は久々にいつも見せてくれる笑みを浮かべて、生素氏のおねだりに対して口を開く。
「ごめんなさいね、お爺様この子は私のモノなのよ」
「んだよ、つまんねえな。このしょっぱいのより、よっぽど旨そうなのによぉ」
しょっぱいと言いながら加住さんを指さす生素氏。
指を指された加住氏と言えば、まさか反論するわけにも行かず、落ち込んで小さくなってしまった。
「おい徹、こんな面白い奴居んなら先言えや」
「……すいません。一姫からは何も聞いておらず……」
「あぁまあいい。どうせあの女狐が隠してたんだろ、旨いもんは塒に隠して自分で食おうとしてんだよ、どうせ。相変わらずジメジメしていかんな、あいつは」
「お爺様、あんまり一姫をいじめないで上げてくださいな」
「虐めちゃいねーよ、ったくあの女狐扱いずらいったらありゃしねえ」
おお……ここに来てから初めて千登世がちゃんと自分の言葉を話しているところを見た。
二人の事は嫌いじゃないと言った千登世の言葉に嘘はなく、他人の俺から見ても普通に家族団らんの会話が繰り広げられている。
加住さん?完全に気配を消してるよ……可哀想に。
「そんで?千登世はコイツと番うんか?」
生素氏が唐突にそんな事を口にする。
あんまりの言い草に千登世は軽く目を見開く。しかし、直ぐに薄っすらと笑い俺の方を見ながら悪戯めいた表情をつくった。
「お爺様、私はそのつもりなのに、この子が逃げるのよ?ひどいでしょう?」
「え!?そうなのかい?……余計な事してしまったかな」
徹氏は千登世の言葉に申し訳なさそうに肩を落としている。
にやにやと笑う千登世に抗議の目線を送っても素知らぬ態度で返される俺の様子に生素氏も愉快そうに胸元のポケットから煙草を取り出し、手慣れた様子で火をつける。
あぁ……さらに加住さんが小さく……
「別に女でも居んのかよ?」
「最近とても可愛らしい女の子に告白されたみたいよ」
「カカッ!いいねえ、やっぱ男はそうじゃねえと」
「私としては、笑い事じゃないのだけれど、ね?」
千登世は俺の方を向いたまま「ね?」としなを作ってくる。
生素氏は咥え煙草をふかしながら腕を組み俺の方を見て話し始めた。
「まぁ家もめんどくせえ家だしな。それもあんじゃあねえの?」
「家の事は関係ないのよお爺様?私十六になったら鷺森じゃなくなるつもりだもの」
「そりゃあ千登世が前から言ってる事だし、いいけどよぉ」
「私、お嫁さんになるのよ」
俺は夫さんになるのか?
「はーなるほどねえ?一年後にゃ飯田千登世ってか?いっちょまえに女の顔しやがって」
いよいよ口を挟まないと俺の関係ない所で将来が完全に気められてしまいそうなので口を挟まざるを得ない。
「すいません、あの、なんか。勝手に話が進められている気が……」
「郁真、いやなの?さっき下であんなに私の事乱暴にしたのに……」
「その……飯田くん、ほら避妊はちゃんとね」
いや、俺が乱暴にされたんだけどね。
このままではお見合いの直前に一発かましてる馬鹿にされてしまう……
納得がいったとでも言いたげに頷いている生素氏に見当違いの心配をする徹氏に場所が場所じゃなければ叫び声を上げたい所だ。
「その年ごろなら、そりゃどこだってシたいわな」
「いや、本当にそういう事をしていたわけでは無くてですね」
「いい、いい。おらあ分かってるぜ。千登世のついでによ、その告白してきた女も囲っちまえよ」
「それは、許さないわ。ぜったい。もしそんな事を郁真がしたら私どうなっちゃうかわからないもの」
勝手に勘違いをして下品なことを言い出す生素氏にすぐさま千登世が鋭い目で俺と生素氏を睨みつけながら言った。
きっと千登世がどうにかなっちゃったときは俺なんてぐちゃぐちゃにされちゃんだろう。俺は分かるんだ。というか千登世さんなんかエレベーター時のあれからブレーキって壊れちゃったかんじですかね?
「まぁなんにせよ、そこまで千登世の覚悟決まってんなら俺はもうなんも言わんぜ、徹も今回みたいなことすんなや」
「いや僕も千登世に幸せになって欲しくてしたことなんですが……どうにも余計なお世話だったようで、今後はお二人を応援するよ」
「お爺様もお父様もそうしていただくと助かりますわ」
気を使って料理を出すタイミングを計っていたウェイターさんが話にひと段落を付いたことを察したのか、テーブルに料理が並べられていく。
というかそもそも、これは俺必要だったのか?ほとんど覚悟決まっちゃった千登世がすべての問題を片づけてしまったのだから。俺の家でしおらしく悩んでいた千登世さんは何処に行ってしまったんだろう。
「え、俺って千登世と結婚するんですか?」
「ちげえのか?」
「ちがうのかい?」
「するのよ。……いや?」
あれー?おっかしいな。彼氏彼女も、プロポーズも全部すっ飛ばして結婚することになったんだが。
何より可哀想なのは今も気配を消しながらちみちみと料理を口に運ぶ加住さんだ。
一姫さんが言っていた、「俺が行けば丸く収まる」という言葉の意味が痛いほど身に染みた。
一度覚悟さえ決まってしまえば、自分で全てをかき回して自分の都合の良いように丸く収めてしまったのだから。




