ヤバいじゃん
お久しぶりです
嫌だ嫌だと言っていても否応にも結局時間は来るものだ。
それは、そう今みたいに。
例えば、一姫さんと話して少しは芽生えた俺のやる気もホテルのエントランスで名前を告げた瞬間に通された部屋でいつの間にか用意されていたスーツ。
コレに着替えろという圧を感じて、千登世の護衛で多少は着慣れたはずのスーツが生地からして俺が生きている間に着ることのないような値段の物と気が付いた瞬間とか。
例えば着替えを済ませて部屋で待っていると、ノックも無しに部屋の扉が開きそちらに視線を向けると、千登世が「なんでいるのか」と言わんばかりに目を見開いて、俺の方を見て呆れたようにため息をついたものの、少し嬉しそうに頬を綻ばせたとか。
「……まあ、そのなんだ?俺も一緒に行くわ」
「ふふ、郁真は私の護衛だものね」
「千登世も着替えるんだろ?俺ちょっと出てるよ」
「まあ、そうね。……見ても良いのよ?」
俺がドアに手を掛け外に出ようとすると、千登世が少しふざけたような口調で俺の背中に向かってそう声を掛けてくる。
どうも今日は千登世の機嫌がいいみたいだ。
「後が怖いから遠慮しておくよ」
「あらそう」
千登世もああは言ったものの本気のつもりではないだろう。
俺がひらひらと手を振って外に出ると同時に面白くもなさそうな千登世の返事が聞こえてきた。
――――――――
「良いわよ」
部屋の中で千登世が着替えているので扉の横に立ってたまに時間を確認していると、部屋の中から千登世の声が聞こえてきたので、俺も部屋の中に戻る。
部屋の中に戻ると、千登世はそれはもうどこぞのお嬢様と言われても違和感が全くない恰好に変わっていた。
実際どこぞのお嬢様なのでそこまで不思議なことではないのだが……
「……何よ」
「いんや?」
千登世は俺のその少し驚いたような視線に気が付いたのか、少し頬を膨らませている。
「部屋の中に入ったら見慣れないお嬢様が居て驚いただけだ」
「……普段の私はお嬢様ではないと?」
「いやいや、千登世はいつでもお嬢様だよ」
「そうね」
主に態度がな。
というのは冗談で、実際千登世と知り合ってから、千登世が俺の知っている普通の女の子みたいに気を緩めているのは見たことが無い。千果や棗さんと遊んでいる時だって何処かに線が引かれていたし、それは今こうして千登世が置かれている状況からも普通ではいられないのは俺だって分かる。
それが良い事なのかというのはさておき、だ。
時計を見れば徹氏、正素氏との食事会の時間まで幾ばくも無く、それは千登世も分かっているのか、今日の初めに顔を合わせた時よりはまだマシではあるがいまだに表情の硬い千登世を鼓舞するように俺は言う。
「まあ、取り敢えず今日は俺が居るんだし、そこまで気負うな」
「……そうね、私も郁真がいるなら少しは心強いわ。……少しよ?少し」
千登世は俺の言葉を聞いて少し息を吐いて息を吸った時にはいつもとほぼ変わらない表情に戻る。
「それじゃあ、行きますか」
「そうね……そう言えば郁真が来ることはお父様とお爺様は知っているのかしら」
「え、その辺は一姫さんが上手い事やってくれてるんじゃないのか?」
「一姫はほら、郁真に対しては結構雑だもの」
千登世の言葉を聞いて改めて先ほど俺をここまで送ってくれた一姫さんのこれまでの俺に対する態度を思い出してみるものの、千登世の言葉を否定できるような要素が一つも無くて少しずつ体が冷えてきた気がする。
「これさ、仮に一姫さんが俺の事伝えてなかったらヤバくない?」
「やばいも何も、食事会に参加できないんじゃないかしら?レストランを貸し切りでやるって聞いてるし」
あっけらかんという千登世になんでお前はそんなに冷静なんだ!と言いたくなるが、これはさんざん一緒に行かないと言っておきながら、急に参加を決めた俺のせいでもあるし、一姫さんや千登世を責める権利は俺にはない。
「ふふ、そんなに慌てなくても大丈夫よ、私が連れていきたいと言ったらお父様は断らないわ」
「もしダメだったら俺何しに来た人?ってなるじゃん」
「ふふふ、そうかもね」
俺の慌てた様子を見て満足したのか千登世は笑いながら俺の先をどんどん進んでいく、俺も千登世に置いて行かれないように着いて行くが千登世の足取りがやけに早く、エレベーターの扉の前まで千登世に追いつくことは出来なかった。