これってフラグですか?
結局その後居間に戻った千登世嬢を追って俺も居間に戻ったが、千登世嬢は自分で口にした通り、傍から見る限りでは初めて俺が今に顔を出した時に比べれば伊万里に対しての敵愾心も鳴りを潜め、仲は悪くとも喧嘩するほどではないと言った風な様子で俺も肩をなでおろした。
「これで満足?」
明日も仕事があるとのことで帰路に就いた棗さんと伊万里の二人を玄関先で見送った千登世嬢はつまらなそうに鼻で息を吐いてからそう言う。
こうもあからさまに機嫌を悪くされると、何故と聞いてみたくなるものの、ただ無表情でこちらを見つめる千登世嬢から発せられるぴりついた雰囲気に閉口せざるを得ない。
何をそんなに怒ってるんだか……
「まぁ、お疲れ。二人も帰ったし、俺もそろそろ帰るかな」
合間を見て、二人にも母親の退院の時に顔を出してくれるかも聞けたし、千登世嬢の機嫌が絶望的に悪い事を除けば概ね三人にどう連絡すれば良いのかと悩んでいたことが一気に片付いたので俺としては、今日のこのイベントは悪くないものだった。
無論そんなことを馬鹿正直に言えば千登世嬢は怒髪天を衝く勢いで怒り出すに違いないが。
「少し待ちなさい」
俺が未だに機嫌の悪い千登世嬢にそう言い残して身を翻そうとした時だった。
千登世嬢はどうも少し所在なさげに俺を呼び止めた。
伊万里が帰ったことで多少はマシになったとは言え、俺の小動物としての勘がその呼び止めに反応すると良い事がないぞと言っているような気がした。
「……なんだよ」
そんなことは分かっていても、拳一つ分だけ離れた距離で正面から呼び止められてしまっては、それを無視するわけにも行かないわけで。
俺が恐る恐る、千登世嬢に向き直って聞き直すと、千登世嬢は微かに身じろぎし、小さな小さな、まるで呟きのような大きさでぽそりと言葉を放った。
「その……郁真は大儀の事呼び捨てで呼ぶのね」
「まぁ、そう呼べって言われてるからな」
「私は、嬢なのに?」
「おい、マジでどうしたんだよ?」
千登世嬢はぽつぽつと呟くように、言葉を続けるが、目だけは真っすぐ俺の目を射抜いていて、そう、まるで柄じゃない。
俺が知っている千登世嬢は、大儀伊万里という小悪魔が絡んだとて、機嫌が悪くなりこそしてもこんなふうに弱ったように言葉を紡ぐ人ではないはずだ。
俺に見せつけるようにしてぎゅうと握りこんんだ手の甲は白くて、行き場のないナニカを俺に求めている様に思えて仕方がなかった。
千登世嬢は俺の問いには答えず、かと言って、自分から何か言うわけでもなく、ただ、俺の目を見つめたまま握りこんでいた手のひらを自分の背中に隠した。
意味が分からん……
正直、今日家に顔を出してからずっと思っていたことだが、まず、仲が悪いと言っていたはずなのに伊万里が家に来るのを許したこと、家に呼んだ割にずっと機嫌が悪い事、廊下で話を聞いた時に何も教えてくれなかった事。
勿論、今この状況だって。
「黙られたって分からんぞ」
このまま、玄関で二人で黙りこくっていたところで何にもならないし、俺はガシガシと頭を掻きながら、あからさまに普段と様子の異なる千登世嬢を改めて見ても、千登世嬢は相変わらず口を開くつもりは無いようで口は真一文字に結ばれていた。
いざこうして、何も話さず立ち尽くしている千登世嬢を見ると、普通の中学生のように見えてしまって、勉強こそできるが、女子と碌に関係を持ったことも無い俺には千登世嬢が俺に何を求めているのかなんて分かるはずも無かった。
「……千登世」
「はぁ?」
どれだけ二人で立ち尽くしていたことだろうか、やっと千登世嬢が口にしたのはそんな言葉だった。
余りに脈絡のない言葉だったせいで、俺は首を傾げてしまう。
「私の名前は?」
「……鷺森千登世だろ」
「そうね、それに嬢なんて単語は?」
「ついて無いな」
「そういう事よ」
「……どういう事よ」
つまりなんだ?ずっと機嫌が悪かったのは伊万里の事を俺が呼び捨てにしていることで?同じように自分の事を呼び捨てで呼べと。
何だかとても分かりずらいお嬢様からの命令に、言葉が帰ってくるまで身構えていたのが馬鹿みたいだ。
「……千登世。これで良いのか?」
余りの馬鹿らしさに、俺がため息交じりにそう言うと、これまで弱弱しい様子だったのが嘘のように千登世は胸を張って口角を上げる。
「ま、まあまあね」
「……はあ。そんぐらい普通に言えよ」
「何よ!結構緊張するものよ!?」
何だか今日一日、気をもんでいたのが馬鹿らしくなって肩を落としながら千登世にそう言うと、拗ねたように居間に戻ろうとする俺の背中をぽかぽかと叩きながら後ろをついてくる。
正直まだ今日の意味不明な出来事の内一つが片付いただけだが、千登世が元通りになっただけでもだいぶ気が楽になった。
どうも千登世が弱っている様子は俺にとって十分に違和感を感じさせてくるようで、ぽかぽかと背中を叩いて文句を言い続ける千登世の方がよっぽど、らしい。
「それじゃあ、俺帰るから。千登世は……まぁいいか、千果も千登世の言うこと聞いていい子にしとけよ」
「え!何何?郁真ちとねえの事呼び捨てしてるじゃん」
「そうしろって言われたんでな」
「言ってないわ!」
「ちとねえ言ってないって」
「めんどくせぇ」
取り敢えず荷物を纏めて居間にいる千果に挨拶をしてから帰ろうと思ったが、千果の性格を考えたら当然とも思えるが直ぐに俺の千登世の呼び方が変わっていることに気が付いて食いついてきた。
千登世も千登世で、確かに口にはしてないが、あんなのはほぼ口にしたのと同じようなもんだろう。
これ以上二人に付き合っているとただでさえ結構遅い時間なのにも関わらず、家に帰るのが遅くなってしまう。
「ああ、そう、母さんの退院の時は頼むな」
「……明後日よね?何かと郁真にも世話になってるし、顔ぐらいは出させて頂戴」
「まぁ伊万里も来るからその時ぐらいは仲良くしてくれよ」
「知ってるわよ!それに今となっては私の方が上位存在だもの、下位の輩に噛み付かれたところで何にも思わないわ」
「千果も行くからね~」
お前は何処の昏き海から出るものだと突っ込みを入れたくなる千登世の言葉を適当に手のひらで流しながら、お気楽な様子で言う千果の頭を軽くなでてから俺は鞄を肩にかけた。
「あ、そういえばもうちょっとしたら千果から重大発表がありまーす」
「おい。今から帰るって時に気になること言うなよ」
「えへへ、まぁまぁ、楽しみにしておいてね」
「千果?私も知らないわよ?」
「ちとねえにも秘密~」
「取り敢えず、今日はもう俺帰るから、その千果の話はまた今度な」
千果の言葉に千登世の方が食いついていて、千登世は千果の方を抱いてブンブンとゆするが、千果は笑いながらされるがままにされていた。
これ以上二人に付き合っていると、本当に深夜になってしまいそうだったので、さっさと俺は居間を後にした。
◇
俺は居間を後にして、玄関で靴ベラを手に持ったまま靴を履こうとしていると、毎度のことだが気配の無い一姫さんが俺の背後に立って言った。
「郁真、お嬢を頼むぞ」
ただでさえ今日は意味の分からない事ばかりで、一姫さんが言った言葉も今の俺にはまるで意味が分からない事だった。
「……何をいまさら、俺だって最低限の仕事はしますよ」
「そうか」
靴を履き終わって地面にこつんとつま先をぶつけて、背を向けながら一姫さんに短く返事をして玄関を後にした。
◇
「超暗いし……」
外に出てみれば完全に日は落ち、ジジ……と街灯が音を立てながらぼんやりと照らす帰り道を眺めながらそんな呟きが漏れてしまった。
俺は帰り道を進みながら肌寒くなってきた外気から自身の首元を少しでも守ろうと首を竦めた。
別に首を竦めたところで、マフラーなんて物は巻いちゃいないが、いくらかはマシに思えた。
一から十まで意味の分からない事ばかりの一日ではあったが、後から思いなおすと、この日が概ねこれから俺に訪れる受難に対する所謂フラグであったに違いない。
この話と次の話で二章は終わりです。
伊万里の話少し短くないか?と思われる方もいるでしょうが、一章と同じように三章は千登世、伊万里の話になります。加えて三章がこの小説の最終章になります。
これまでこの小説を応援していただいた皆さん、これまでに比べれば短くはなりますが完結まで、応援の程よろしくお願い致します。
by白熊獣




