えぇ~千登世さんなんか怖いよぉ
これまで生きてきて、これほどまでに重い空気に巻き込まれたことなどあるだろうか?
いや、ないだろう。
睨み合いすらせずに、ただ静かに沸々と湧き上がる怒りをその体から滲ませる竜と、そんな竜をまるで嘲るようにニコニコと笑みを浮かべながら、キッチンでコーヒを入れる俺を眺めている虎。
そんな雰囲気に巻き込まれて、心配そうな様子で竜を眺めて身を竦めているウサギとそんなウサギの腕にしがみついて、さて、面白いことになったぞと嫌な笑みを浮かべる幼女。
そんな改めて整理したところで全く持って整理しきれない混沌とした下手に合図になるような何かが起こった瞬間とんでもないことになりそうな一触即発の空間を出来るだけ視界から外しながら、俺は黙々とカタカタと沸騰し始めたポッドの蓋が奏でる音を聞きながら、「どうしてこうなったんだ……」と誰にも言えないその一言を口腔の中に留めながら、こんな状況が出来上がった最初の出来事を思い浮かべた。
◇
「郁真~今日もバイト?」
「ん、そうだな。なんかあったか?」
学校の授業がすべて終わり、俺が帰りの準備を進めていると武智君がこちらに手を振りながらそう言ってきた。
今日も学校が終われば千登世嬢の家に行って、ここ最近は仕事というよりはただ仕事中の千登世嬢との雑談となり果てた千登世嬢の護衛の仕事があるので、まるでバイトが無ければ何かしようと言いたげだった武智君には申し訳ないと思いつつ正直に仕事があると返す。
「あ~やっぱか。いやほら、そろそろテストが近いから、暇なら郁真に教えてもらおうと思ってさ」
「あ~そう言えばそうだったな。でも悪い、今日は無理だなぁ日曜とかなら今週は多分暇だと思うけど?」
「おう、それじゃあまた日曜日に勉強会しようぜ」
武智君の言うように、そろそろテストが近いこともあって、俺自身今まで以上に予習復習に力は入れていた。
確かに教えることで理解が深まることも多かったので、バイトを始めてからも暇を見ては武智君や千曲さんたまにクラスの皆と一緒に勉強会のような物はしていたので、恐らく今日のお誘いも勉強会をしないか?と言う物だったようで、俺の返事を聞いて武智君は少し肩を落としたものの、直ぐに「また連絡するわ!」と言って、手を振って教室から出て行った。
教室から出て行った武智君の背中を眺めてから、机に掛かった鞄を手に取ろうと瞬間、携帯がブルと震えた。
俺は携帯を手に取って通知を確認すると、珍しい事に千登世嬢からの連絡だった。
千登世嬢は基本的に仕事で俺が千登世嬢の家に行く時は何か用事があったとしてもどうせ家で会うのだからと滅多に連絡は寄越さないので、今みたく家に俺が行く日にもかかわらず連絡が来るのは、何かよっぽどのことが有ったのだろうと、少し嫌な予感を感じながらもLINEを開いて千登世嬢からのメッセージを確認した。
千登世『早く来なさい。いと早く。風のように早く』
「えぇ……こっわ」
メッセージを確認すると千登世嬢からどこまで急かすんだと聞きたくなるほど同じことを繰り返し強調するようにとにかく俺に早く家に来いと言う千登世嬢に恐怖してしまう。
「てか、絶対厄介ごとだろ……取り敢えず、分かりましたっと」
千登世嬢がここまで急かしている以上、遅れた時が怖いし俺は教室にまだ残っていたクラスの皆に軽く挨拶だけして足早に学校を出た。
◇
で、千登世嬢の家に着いて、玄関にある靴の数に嫌な予感を学校の時以上に強めながら居間に入るとこの状況である。
これ、不可避だろ……
なぜこの状況になったんだと思いなおしたところで、圧倒的理不尽に直面したこの状況に俺はそんなどうしようもない感想を抱いた。
普段であれば千登世嬢以外には千果や一姫さんしかいないはずの居間には、今何故か伊万里と棗さん、千果がそれぞれ腰を下ろしており、先ほど説明したように千登世嬢に言われてコーヒーを淹れる俺を面白い物を見るような目で見る伊万里、明らかに怒りをたぎらせている千登世嬢、どうすれば良いのか分からずおろおろとしている棗さん。その棗さんの腕を抱いて完全に他人事の野次馬根性でにやにやと嫌な笑みを浮かべている千果という混沌極まる状況が出来上がっている。
正直怖いのはいつ爆発するか湧かない千登世嬢と何をしでかすのか分からない伊万里の二人で、棗さんと千果の二人はそこまで心配しなくとも良いだろう。
取り敢えず、淹れ終わったコーヒーを全員が囲んでいるテーブルのそれぞれの前に置く。千果はコーヒーが得意ではないので普通のコップに入れたジュースだが。
「あ、有難うございます」
「郁真ありがとー」
一先ず棗さんと千果の無害コンビは目の前に置かれたコーヒーカップを見て、一旦この空気が替わるのを予想してか素直に感謝を返してくれた。
問題は爆弾二人である。
「…………」
「あ、先輩ありがとっ意外と家庭的なんだね?」
「…………チッ」
怖えよ。
わざととしか思えないほど、棗さんと千果の二人を挟んでソファーに座っている千登世嬢を挑発するように、伊万里はマグカップを置くために伊万里の隣に立った俺の服の裾をちょこんと可愛らしくつまみながら上目遣いという、逆に笑えるほど完璧に千登世嬢の精神を逆なでする。
伊万里のそんな仕草を見て、千登世嬢は小さく舌打ちを漏らすが、なんだかんだ長い事付き合っている俺でも千登世嬢の舌打ちなんてそうそう聞いたこと無いぞ……
「……伊万里、砂糖とかミルクは?」
「伊万里?」
「……あ」
千登世嬢は勿論棗さんのコーヒー飲み方は知っていたので、知っている通りにコーヒーを淹れたが、伊万里の好みは分からず取り敢えずブラックで持ってきて後で好きなように飲んでもらおうと思って聞いた一言だったが、千登世嬢にとってはそんなことよりも俺の言った「伊万里」に引っかかって、じろりと俺をめねつけて問い詰めるように言う。
俺は千登世嬢の様子を見て、別にただの呼び名なので普段であれば失言とは言えないが、今この場の状況を思うと失言以外の何物でもなかった。
「郁真はこの女狐とそんなに仲いいのね」
「……いや、まぁ言うても普通に呼び名だろ」
「それに、先輩……ねぇ」
「ち、千登世ちゃん……?なんか怖いよ?」
「良いのよ、別に?郁真が誰とどんな呼び名で話していても、ね」
めらめらと黒い炎のような物を立ち昇らせる千登世嬢に隣の棗さんもあわあわと千登世嬢をなだめるように肩に手を置いているが今の千登世嬢にとっては親友の棗さんの宥めも効果は薄いようだった。
「えぇ~千登世さんなんか怖いよぉ」
「あの、大儀さん?駄目押しするの止めませんか?」
「大儀さん?先輩、いつもみたいに伊万里って呼んでくれないの?」
「今は、さすがに無理だろ……」
「いけず」
「伊万里ちゃんって普段こんな感じなんだねぇ」
伊万里は千登世嬢が自分が俺に何かするたびに炎を立ち昇らせているのを知ってか知らずか、俺が何といおうが気にせずに二人きりの時のように振舞っている。
そのせいで千登世の爆発が刻一刻と近づいている気がするが、俺が何か言ったところで伊万里が辞めてくれるはずも無かった。
千果は完全に他人事ということもあって、テレビで見たことのある伊万里の普段の様子にどこか自分に通ずるものを感じたのか、ほのぼのとした様子で言うが、この場にいる中で俺と棗さんだけは、もはや何か言うことも無くなり始めた千登世嬢が何時爆発するのかと恐怖していた。
 




