正式に雇われることになりました。
「シッ……!」
千登世嬢は相も変わらず一直線に俺の顔面を狙って右拳を突き出してくる。
普通に考えればカモ同然の一撃だが、千登世嬢の一撃はそう簡単にはいかない。半年前の焼き直しの様に俺は右腕を前に出し、全身を使って千登世嬢の怪力をいなし、関節を極めるために距離を詰める。
完全に千登世嬢の拳の勢いを消すことは出来ず、右腕に鋭い痛みが走るが、動かないと言うわけでもないので今は歯を食いしばって我慢だ。
俺は一姫さんとの地獄の訓練を思い出し、千登世嬢の一撃を受け止めている右腕をそのまま千登世嬢の右腕に絡ませ、完全にフリーの左手を千登世嬢の方に当て関節を極めに行く。
「……ちょ!それ反則!」
俺が千登世嬢を完全戦闘不能に持ち込む寸前に、千登世嬢は完全に関節が極まってはいないとは言え、本来であれば痛みで碌に力も入らないはずだが、俺にからめとられている右腕の力だけで俺を持ち上げていく。
「か、勝てばいいのよ!」
――ドンッ!
「ぐえ……」
千登世嬢は俺を持ち上げていた右腕をそのまま振り下ろし、俺は地面に叩け付けられて呻き声を上げた。
「……千登世嬢!負けそうになったからって力業で解決すんなよ!」
「ふ、ふん!私が勝ったのには変わりないわ!」
千登世嬢はほとんど関節を極められていた状態から無理やり自身の怪力を使って勝利したことに少しは負い目を感じているようだった。
「……それにしても郁真が半年でここまで強くなるとはね。なんだか癪に障るわ……」
「いや、強くなってって言ったの千登世嬢じゃんか」
千登世嬢はここまで俺が善戦するとは思っていなかったのか、どこか悔しそうにしていた。
「それはそうだけど……」
「なら、良いだろ?」
「まぁ、実際郁真がここまで化けるとは私も思ってなかったぞ?お嬢もそう思うだろ?」
俺と千登世嬢は組手の後に話し込んでいるとそれまで審判としても守ってくれていた一姫さんがそう話しかけてきた。
「そうね。……そうだ郁真、これからは正式に私に雇われない?勿論個々での契約ではなく、葛西セキュリティサービス所属の郁真を雇うと言った形でね」
一姫さんの言った言葉は千登世嬢にも同意だったのか大人しく頷いていた。
そして千登世嬢は正式に忘れかけていたが一応俺が葛西セキュリティサービスに所属しているという事も考えてくれているようで、これまでの適当な関係ではなく、きちんと葛西セキュリティサービスを通した契約をする気はあるかと聞いてきた。
ただ問題は俺自身いまいち、葛西セキュリティサービスを通して契約をすることで変わることが分からないと言うことだ。
「それって今までと何か違うのか?」
俺が正直に千登世嬢に聞くと、千登世嬢は呆れたように息を吐いて説明してくれるようだ。
「はぁ……。まぁいいわ、今までは葛西セキュリティサービスの関係者の鬼頭さん紹介してもらった郁真個人に働いてもらっていたけど、これからはきちんと葛西セキュリティサービスを通しての契約になるから、普通のアルバイトみたいに働きたいときに働けるようになるし、働けば働くほど郁真の葛西セキュリティサービスでの評価も上がって新しい仕事を紹介してもらえたりすると思うわ。まぁ雇用条件は雇い主によって違うから、そこは自分で雇い主と話し合いなさい」
千登世嬢は割と詳しく正式に契約をすることによって得られる利点を説明してくれたが、いまいち理解できない。
「うーん分かるようで分からん」
「まぁ簡単に言えば今迄みたいに週7で、みたいな無理な勤務時間じゃなくなって、たまに葛西セキュリティサービスの方から私以外にも護衛する人を紹介してもらえるって感じかしら」
「へぇ~。」
「案外嬉しそうじゃないのね?」
千登世嬢は俺が喜ぶと思っていたのか微妙な反応の俺を見て不思議そうにしている
「いや、だってなんかあんまり実感がないと言うか……」
「まぁ、それもそうよね。取りあえず、頑張れば給料がもっと上がると思っておけばいいわ。勿論私に正式に雇われる形になったら、今までよりも給料を高くしてあげる」
「ほんとですか!?じゃあ正式に雇われます!……ちなみに給料は幾らぐらいに?」
千登世嬢は俺が一番わかりやすい説明をしてくれた。
給料が上がると言われてしまっては断る事なんて出来るわけがない。俺は現在は日給二万五千円で雇われているが、一体給料が上がるとなると幾らになるのか気になって千登世嬢に詰め寄る。
「一応、葛西セキュリティサービスを通すことになるから私自身の支払う金額は四万ぐらいだと思うけど……多分、仲介料等その他諸々を引かれて郁真には三万から三万五千円ぐらいは入るんじゃないのかしら」
「それは大変だ!早く!早く葛西セキュリティサービスに行きましょう!ね?ほら早く正式に契約しに行きましょう!」
俺が何のリスクもなく、日給が五千円から一万円上がると言われてしまえば興奮してしまうのもしょうがないだろう。
「まぁ、一旦その話はまた今度にしましょう。取り合えず郁真もこの半年である程度の実力をつけたのだから、今までの訓練しかしてないなんちゃって護衛では無く、ちゃんとした護衛として私に仕えなさい。良いわね?」
千登世嬢は俺の金に対する執着心を気にも留めず、真面目な様子でそう言った。
これまでの俺は千登世嬢の言う通り地獄のようなということを一旦置いておけば訓練をして居るだけで給料を貰っていると言った恵まれ具合だったが、こうして千登世嬢や一姫さんからのお墨付きをもらった今、受けた恩は返さねばならないだろう。
「分かった。今まで受けた恩はちゃんと返すつもりだ。これからちゃんと千登世嬢の護衛として頑張るよ」
「分かっているのならばいいわ。これからよろしく頼むわね」
千登世嬢はそう言って俺に手を差し述べてくる。
「ああ」
俺も千登世嬢から差し出された手を取って千登世嬢と千登世嬢と仲良くなる前は決してそんなことできないと思っていた握手を千登世嬢と交わした。
こうして半年の修行を経て正式に千登世嬢に雇われ、護衛として働くことになった俺は、この時はこれから想像も出来ない出来事に巻き込まれていくとは思いもしなかった。




