風が運ぶもの
徳川家康、歴史上では豊臣家に難癖をつけて滅ぼしたと言われています。しかし、歳をとっても若い時の律義さは変わっていないという設定で書きました。家康の律義さは、泰平の世の招来のためであって、あえて、汚名を着たのだという設定です。
こういう見方もあるのかと思って読んでいただければありがたいです。
この小説は短編の連作形式をとっていて、いくつか短編をつなぎ合わせると長編として読め、短編としてもそれなりに読めるという形です。
武者行列が、つづら折れの山道を登っていた。
梅雨明けの青空に、じりじりと太陽が照りつける中、駕籠の周囲を数名の騎乗武者が護衛し、その外側の前後に、徒立ちがそれぞれ十名ほど歩いていた。駕籠かきが暑さにあえぐ声を残しながら、葛篭折れの急坂を、少しずつ高度を上げていく。樹々の緑が夏の陽に映えて美しい。後方には眼下に巨大な水面が広がり、遥か向こう岸に沃野が横たわっていた。しかし、行列の武者達は、急坂に景色を見る余裕もなかった。
「駕籠を停めてくれるか。」
籠の中から、年老いた男の声がした。
「御用でございますか?」
駕籠の横を歩いていた老いた武者がそれに応えた。
「うむ、暑さが厳しい故、一息入れてはどうか。」
「かしこまりました、お心遣いに感謝致します、上様。」
それを聞いて、籠の中の男は聞きとがめるような口調で言った。
「正信、上様というのは、やめてくれ。儂は、それほど不遜ではない。」
「は、申し訳ありませぬ、殿。」
上様とは天下人の尊称である。そうでない自身を呼ぶのは、殿様とすべきであると、籠の中の武者は言ったのである。この男には、そういう律儀なところがあった、というよりは、律儀一筋で周囲の信頼を得て、動乱の世を生き抜いてきた。
「そろそろ、尾根筋に出たころであろう。風にあたって、景色を見たい。」
駕籠が地面に下ろされると、中から背の低い肥満した老人が出てきた。胴が長く、がに股のその体つきは、武将というよりは、どう見ても農家の好々爺といった風情である。
「ほう、今日は琵琶湖が格別だな。向こう岸の三上山から安土までよく見える。こうして眺めると、滅んでいったもの、栄えたもの、栄枯盛衰の様が湖面に浮かんでおるように思えるのう。」
「はい、確かに左様で。」
正信が返事をした。
「どれ、少し景色を楽しもうか。皆も疲れておろう、休むがよい。」
そう言って、老人は、家来が緋毛氈を敷いた道端の岩に腰をおろした。果てしない青空を見上げ、景色を眺めながら、老人は思案した。
さて、この国をこれからどうしたものか。安定を保つためには、やはり、儂が立つより他にないのか。
小僧共は、儂が天下に野心を持っているとうるさい。しかし、放っておくと、奴らのいいようにされて、また戦国の世に戻りそうじゃ。さりとて、儂が動けば、それこそ、天下を狙っての策動と見られる。さてさて、この歳になって、もう人働きせねばならぬとは、骨の折れることである。
老人は、琵琶湖から吹きあげてくる涼風を肌に感じ、眼下に見える広大な湖面を見ながら、一人、思索にふけっていた。
譜代衆は、当然、儂が天下人になることを望むだろう。それはそうだろう。皆、それを一生の目的にして必死で働いてきたのだから。先ほど、正信が上様と呼んだのも、そういう気持ちからであろう。かといって、あの男の幼い息子を天下人にしようとしても、虎狼の群れに餌を投げ込むようなもの、国は乱れるばかりだ。
これまでの律儀な生き様も、それで得た信頼も、儂が立てば、結局、天下を取るための仮面であったといわれよう。どれをとっても、儂が貧乏くじを引くようになっている。老い先長くない今、後世に悪評は残したくないものだ。
この老人は、徳川内大臣源朝臣家康、関八州二百五十万石余を領し、旗本八万騎とも呼ばれる日本最大の軍勢を持つ。この時代においては、太閤豊臣秀吉に次ぐ権力者であった。正信と呼ばれた家来は、鷹匠出身で家康の謀臣、懐刀と言われる本多正信である。このころ、徳川家の策略、策謀は、ほとんどが、この本多正信の頭脳から出ていた。
織田信長に代わり、天下統一を成し遂げた前の関白太政大臣、太閤豊臣秀吉は、病に臥せり、その命は、旦夕にも尽きようとしていた。
太閤秀吉が死ぬ時、それは、この国における騒乱の始まりを意味していた。太閤が年老いてから生まれた実子、鶴松を亡くした悲しみを晴らすために始めた朝鮮出兵は未だに続き、十万余の兵が、朝鮮半島で、朝鮮・明連合軍と明日をも知れぬ戦いを続けていた。もとより、計画性のある戦いではなく、大義名分もなかった。民草は疲弊し、人心は、すでに豊臣家から離れていた。
国内では、秀吉の病を知って、上杉、毛利、長曽我部、伊達といった戦国の気風を多分に持った大名達が、隙あれば天下人たらんと虎視眈々であった。
太閤亡き後、誰が政権を取ったとしても、国内外に問題が山積していた。それをできるだけ犠牲を出さずに次期政権へと移行させる必要があった。
今、徳川が天下をとれば、天下は収まるだろう。しかし、それでは、太閤秀吉を裏切ることになる。どうせ、秀吉が織田の天下を簒奪して作った政権だ、徳川が奪ってもかまうまいという理屈はわかる。
しかし、これまでの人生を律義者として生きてきた家康にとって、この老年になって、天下の簒奪者という評価を受けるのは耐えがたいことであった。さりとて、天下の大勢は、家康が政権の中心にいることを望んでいた。どうすればよいのか、家康は懊悩していた。
「さて、行くか。」
家康は、やれやれといった表情で籠に乗り込み、一行は、再び比叡山に向かって上って行った。
比叡山延暦寺の寺域に入ったころ、樹々の間から降ってくる蝉しぐれの中から、澄み切った朗々とした声明が響いてきた。籠の中に居てもはっきりと聞こえてくるその声は、飛天の歌う天上の声とはこういうものかと思わせるほどであった。
家康は籠を止めさせ、粗末な堂の前でじっと声明に聞き入っていた。
しばらくすると、声明が止み、小さな堂の扉が開いて、修行で鍛え上げた身体を持った僧侶が、柔和な笑顔をたたえながら出てきた。もはや、老年と言っていい年頃であるが、驚くほど優雅で軽やかな身のこなし、それでいて重厚な雰囲気を持っていた。
僧は恭しく合唱して、家康に向かって礼をした。
「声明の気に殺気が混じり申した。さては盗み聞きの英雄がおられるに違いないと思いましたが・・・。そこにおられるのは、御紋所からして、徳川内大臣様とお見受けいたします。」
家康も慇懃に礼を返した。
「いかにも、徳川家康でございます。失礼ながら、御坊は、叡山一の名僧といわれる慈海殿ではありませぬか?」
「これは、申し遅れました。如何にも、拙僧は慈海、名僧がどうかは知りませぬが、この叡山で気ままに修行する風来坊でございます。」
慈海は、天台宗総本山比叡山延暦寺にあって名僧の評価が高く、天台座主さえもが敬意をもって接するほどであった。家康が延暦寺参詣を思い立ったのは、実のところ、慈海に会うのが目的であった。
「入山早々、慈海殿にお会いできるとは、ありがたいことです。これも御仏のお導きでございましょう。」
家康は喜色を浮かべて、恭しく合掌した。
「失礼とは存じますが、お見受けしたところ、内大臣様は、少々お疲れのご様子、心労が溜まっておいでのようです。拙僧が、それを洗い流す茶を進ぜましょう。」
「おお、これは有り難い、ぜひお願いいたします。」
慈海に返答した後、家康は後ろを振り返って言った。
「正信、しばらく慈海殿のお話を聞くことにする。誰も入ってこぬように。」
本多正信は、少しうろたえた様子で返事をした。
「はっ、し、しかし、殿の身をお守りするのが、我等の務めでござれば。」
「戦で鍛えた身、我が身ぐらいなんとでも守れるわい。しかも儂は敬虔な仏教徒、叡山に悪行を働いてはおらぬ故、仏罰はあたらぬものよ。」
「はは、わかり申した。では、外で待たせていただきます。」
正信は仕方がないという様子で、供回りの武士たちに堂の周囲の警護を命じた。慈海は外の木々を見上げ、その後、家康を堂に招き入れた。
小さい堂とはいえ、中はひんやりとして、暑さをしのぐには十分であった。慈海は、沸かしていた湯で茶の準備を始めた。
「貧者の庵で何もございませんが、その何もない快さをお楽しみ下さい。」
「かたじけない。では、座らせていただく。絢爛豪華がもてはやされている時代、何もないところ、質素倹約にこそ心地よさの真髄があるという、茶の湯にも通じるところがありますな。涼やかで心が洗われるようです。」
「そういっていただけるのは、内大臣様が清廉な心を持っておられる故でありましょう。」
慈海は茶をたてながら家康の方を振り向かずに言った。家康はというと、何故か、穴のあくほど慈海の顔を眺めていた。
しばらくして、その眼に驚きの表情が浮かんだ。
「ところで慈海殿、貴殿の顔立ち、姿かたち、儂が存じている武将によく似ておられるのだが。」
「はて、どなたに似ておりましょうか?」
「二十年ほど前に、天下にその人ありと言われた方でござるよ。当時、知恵第一と言われ、当代一の優れた武将であり軍略家であった。」
「当時の知恵第一といえば、竹中半兵衛重治様、黒田官兵衛孝高様、安国寺恵瓊様、山本勘助様あたりでございましょうか?」
「なんの、今、御坊が挙げられた方々は、その御仁に比べれば、ひよっこのようなものでござる。天下を蓋う知恵、知略を持った人物であった。惜しいことよ。」
「そうでございますか。惜しいことと言われたのは、お亡くなりになったのでしょうか。」
慈海は、家康の顔色を探るように見たが、何もうかがい知ることはできなかった。さすがに海道一の弓取りと言われ、太閤秀吉に一目置かせる、当代一の武人であった。
しばらくの沈黙の後、家康は慈海に尋ねた。
「単刀直入にお聞きするが、御坊は、どちらのご出身でござるか?いや、失礼であればお許し願いたい。」
慈海は、一瞬、険しい目をしたように見えたが、すぐに温和な表情に戻って茶を出しながら言った。
「拙僧は、会津芦名氏の出にて、僧籍に入ってからは川越喜多院におりました。その後、叡山で修行しております。さ、粗茶でございますが、一服どうぞ。」
家康は、柔和な表情を浮かべて、茶を口に含んだ。
「ああ、美味い。結構なお点前ですな。」
「お粗末様でございます。」
少し間があって、家康が慈海に問いかけた。
「会津のご出身にしては、東国訛りがありませぬような。むしろ、私と同じ東海、尾張か美濃のご出身のように思われます、違いますかな。」
慈海は、しばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「ははは、内大臣様の目は、欺けませんな。このあたりでは、東国のことがあまり知られておりませんので、会津芦名氏の出ということで通しております。実を申せば、拙僧は、美濃の出にて、今、内大臣様が言われた武将は、同腹の兄でございます。」
「おお、御兄弟と。道理で身体つき、お顔、表情までよく似てござる。あの御仁は、生きておられれば天下を経略する才能があった。太閤よりも、むしろあの方に天下を治めていただければ、朝鮮出兵などで民草を苦しめることもなかった。」
「そのように、褒めていただけば、泉下の兄も喜びましょう。双子に生まれ、畜生腹ということで、弟の私は小さいころ、寺に預けられ、その後、叡山に参りました。しかしながら、太閤様の天下になってからは、出自がわかるといろいろと差しさわりがありますので、会津芦名氏を名乗っております。」
「なるほど、そうでしたか?双子ということであればわからぬでもないが・・・。それにしてもよく似ておられる。天眼までそっくりとは。」
家康は、慈海の話を聞きながら、何か引っかかるものを感じていた。その時、慈海が、ずばりと聞いた。
「内大臣様は、本能寺の変の際、兄と行動を共にする予定であったと聞いておりました。これはわが家に伝わる大秘事でございますので、どなたにも申し上げたことはございませんが。」
家康は、じろりと慈海を一瞥し、少し目を逸らせて言った。
「そのことは忘れ申した、今更、言っても詮無いことでござる。東をそれがしが、西をお兄上が治められることによって、天下静謐を招来する予定でござった・・・。」
「失礼をいたしました。要らぬことを申しました。して、内大臣様の今現在のお悩みは、太閤殿下亡き後のことと推察します。叡山参拝にかこつけて、実は、この慈海を訪ねて来られたというのは、拙僧のうぬぼれでござろうか?」
「いや、まさに図星でござるよ、さすが、慈海殿。貴僧の評判、風貌をお聞きして、もしや、惟任日向守光秀殿は、ご存命でござったかと思い、天下百年の大計について伺おうと、お会いしに来た次第です。」
家康は、核心に切り込んだ。惟任日向守光秀とは、明智光秀が日向守に任じられるときに、九州の名族、惟任氏の性を信長から与えられたものである。しかし、慈海の表情は変わらなかった。
「確かに、お疑いもご尤もかも知れませぬ。なにぶん、双子のこと故、惟任光秀が慈海で、この慈海が光秀であっても誰にも判らぬ訳で、それは御仏のみがご存知でございます。しかし、そのような風評が立つとあっては、この慈海の身の上も、兄同様、危うくなるかも知れませぬ。」
「なんの、太閤殿下があのような状態では、今更、そのようなこと、蒸し返しは致しますまい。」
「そうであればいいのですが・・・。兄、明智光秀は、確かに小栗栖の竹林で果てましてございます。」
慈海は慇懃であらたまった調子で合唱した。家康はそれを聞いて、思い出すように言った。
「そうであった。しかし、儂の中では、できれば生きていてほしかったという気持ちが、いまだに在り申す。あの御仁が天下の政をとっていれば、朝鮮の役など起こすことはなく、民百姓は安心して暮らせたでありましょう。いや、これは、年寄りの繰り言を申しました。歳をとると、どうも愚痴が多くなっていけませぬ。」
「それは、僧の身とて同じこと、いくら修行しても、悟りの境地には到達しませぬ。」
慈海は、笑ってこたえた。家康は、また、光秀の話に戻した。
「ところで、ここだけの話でありますが、山崎の合戦の後の首実検で、小栗栖の竹藪で果てた惟任日向守殿の首は、天眼ではなかったといいます。御家来衆で家老であった斎藤利三殿は、その首を見て笑みを浮かべたとも伝えられております。いや、この話はやめましょう。御兄上と私の噂と同様、首実検の話も、根も葉もない噂ですからな。」
「はい、拙僧も、先ほど申し上げましたことは、心にしまっておくことに致します。」
家康と慈海は、顔を見合わせて、豪快に笑った。
しばらくして慈海は、屹と、家康を見つめて言った。
「ところで、天下のことでございます。非才を顧みずに言わせていただきますと、内大臣様は、次の天下を御自らの手に収めることを、ためらっておられるご様子と見受けましたが、いかがでございましょうか?」
「そのとおりです。これまで、天下一の律義者と言われて生きてきました。できれば、この律儀を通したい。今更、太閤殿下が統一した天下をわがものにしては、晩節を汚すというものです。この歳になっては、余生を平穏に過ごし、後世に良き名を残したい。」
家康は沈痛な顔をしていった。
慈海は、それを諭すように、ゆっくりと話し始めた。
「しかし、果たして、それが天下万民のためになるでしょうか?太閤殿下がお亡くなりになれば、豊臣家は、尾張出身の太閤子飼いの武将とその親派、それに近江長浜時代に取り立てられた者達、真二つに割れて争いが始まりましょう。石田治部少輔殿は、類稀な能吏ではありますが、それは太閤殿下の御威光あってのこと、武威はありませぬ。かの人の、太閤殿下の威光を笠に着ての専横は、尾張派だけでなく、後から豊臣家に従った大名方からも嫌われておると聞きます。また、はっきり申し上げて、内大臣様以外の五大老で天下を抑えられる器量を持った方はおられませぬ。内大臣様が何もなさらなくても天下は乱れます。しかし、内大臣様が動けば、乱れは最小限で済みましょう。」
慈海は、はっきりとした口調で家康を説いた。
「今、内大臣様は、晩節を汚すことを厭うべきではありません。天下万民のため、天下静謐のため、民が安心して暮らせる平和な世の中を作るためには、この際、鬼になっていただかなければなりませぬ。言い過ぎであれば、お許しください。天下泰平のため、敢えて泥をかぶっていただくお覚悟が必要と思いますが、違いましょうか?」
家康は腕組みをして額に汗を浮かべながらしばらく動かなかった。
「いや、確かに、それも考え申した。民は、いや世の中全体が戦乱に飽いておるのです。今後、数百年の泰平を招来するためには、敢えて、儂が汚名をかぶるしか道はないのでござろうか?」
慈海は、家康の苦しげな顔を見て、表情を和らげた。このお方は、根っからの善人なのだ。律儀で善人であるところが、宿敵であったはずの太閤にさえ信頼され、他の大名達から頼られるところであるのだと思った。
「非礼を顧みずに、失礼なことを申し上げました。老僧の戯言でございます、お許しくださいませ。しかし、内大臣様が動かれようが、静観されようが、どちらにしても、天下は、しばらく戦が続きましょう。それを最小限の乱れに止め、民にこれ以上の苦労をさせないことが大事でございます。」
家康は考えた。確かに、慈海の兄、明智光秀は、織田信長による革命ともいうべき大変革が、社会の秩序を破壊しかねないとの危惧を抱き、本能寺の変を起こし、あえて謀反人の汚名を被った。その結果、敗れたとはいえ、国の形は保たれ、一時的とは言え、平和な世の中がやってきたのだ。
長い沈黙の後、家康が口を開いた。
「して、この老人に何をせよと仰せられるか?」
「はい、太閤殿下がお亡くなりになれば、まず、朝鮮からの撤兵が急務でしょう。これは、どなたでも、そのようにお考えと思います。問題は、そのあと、朝鮮から帰還した諸将を、どのようにして労うかです。特に、加藤清正をはじめとする、尾張出身の太閤殿下子飼いの武将たちとその周辺は、戦国の気風を残した方ばかりです。帰国すれば、真っ先に、朝鮮に出征していた武将たちと語らって、彼らを弾劾した石田治部少輔三成様を除くために動きましょう。その時に内大臣様が、どう動かれるかが重要でござる。」
石田治部少輔三成は、近江の出身、豊臣政権の下では、主に文官として能力を発揮し、実務を司る五奉行の一人として、政権の中枢にあった。また、太閤が羽柴秀吉を名乗っていたころからの小姓を務めていた関係で、太閤秀吉の秘書官筆頭のような役回りを持っていた。その石田三成を中心とする豊臣家の近江派と加藤清正等の尾張派の対立が表面化すると、慈海は指摘したのである。
「はて、儂に、加藤清正や加藤嘉明等の側につけといわれるか?」
慈海は、にやっと笑って言った。
「お気が付いておられながら、とぼけるとは、やはり狸の評判は本当で御座いましたか、いや、これは失礼。」
家康は、幼時を人質として暮らした用心深い性格からか、自らの知恵を隠す癖があり、わかっていながら知らないような態度をとることがあった。それが却って策謀ととられ、その容姿、風貌もあって、狸親父というありがたくない綽名を巷でもらっていた。
慈海は、家康の顔色にかまわず、話をつづけた。
「彼らは、法度によってではなく、弓矢で事を片付けようとするはず、そうなっては戦国の世と同じ、そこで内大臣様は、治部少輔様が襲われた場合、これを庇護し、五大老の合議で処分をお決めになることです。これで、諸将には、内大臣様が勝手な弓矢沙汰をお許しにならないことが浸透しましょう。」
「なるほど、天下泰平を招来するには、できるだけ武力は使わないということ、確かにそれは重要です。」
「はい、しかし、それでは実権が内大臣様に移る故、治部少輔様は、挙兵の準備を進められるでありましょう。」
「それでは、戦さになるではありませんか?」
「それは致し方ありません。泰平の世のためには、お気の毒ですが、治部少輔様には人柱になっていただかねばなりますまい。あのお方は、豊臣家大事のあまり、自身が泰平の世の妨げになっていることに気が付いておられませぬ。しかし、間違っても、内大臣様から、先に手をお出しにならないように。それでは、天下泰平の申し子にはなれませぬ。」
家康は、少し納得したようだった。確かに天下の静謐を願うのであれば、それに使う武力は最小限にすべきであり、自身が先に攻めるということはあってはならないことであった。
「好むと好まざるとにかかわらず、石田治部少輔は、挙兵するということですな。確かに治部は忠臣故、何が何でも豊臣の天下を守ろうとするでありましょう。それが戦乱の世に戻すことにつながっているとは気が付かずに。」
「どうなるかは、治部少輔様次第、しかし、先にも申しましたように、間違っても、内大臣様から弓矢沙汰を起こすことはされませぬように、お願いいたします。」
慈海は、念を押すように言った。
「今日は、良い話を聞かせていただいた。天下泰平のためには、儂が泥をかぶり、貧乏くじを引くこと、その覚悟が出来申した。その代わりに、御坊も叡山という天上界におられずに、下界におりていただき、儂の泥を少しでも拭っていただかねばなりませぬ。」
慈海は矛先が自分に向いてきたので、少し慌てたが、すぐに落ち着いて言った。
「左様でございます。拙僧、非才ながら、天下のために少しでもお役に立てれば幸いです。内大臣様のお動きを、しばらく、この山の上で拝見しておりましょう。」
「それでこそ、稀代の軍師、明智光秀殿、いや、慈海殿でござった。あまりにお顔が似ている故、許されよ、ははは。」
家康は、心が晴れたようなさわやかな顔で、堂を出ようとした。
慈海は、慌てて立って、先に戸を開けようとしたが、家康は自ら扉をあけて外に出た。
家康が堂から出るか出ないかのうちに、木の上から黒い影が飛んで、家康に向かってきた。正信や家臣たちは、とっさのことで動けない。家康は、あっと思ったが、影が家康を襲うと見えたその時、扉の中から、天台密教の法具である独鈷杵が飛んで、その影に命中した。黒い影がもんどり打って転がったところを、家康の家来達が取り押さえた。
「慈海殿、いや、助かり申した。叡山の中ということで油断してしまいました。」
「いや、先ほど、堂から出て、内大臣様をお迎えした際に、妙な気配を頭上に感じたので、少しく気を付けておりました。」
「それにしても、その手練の技、僧侶にしておくのはもったいない。」
家康は、努めて落ち着いた口調で言ったが、まだ、胸が動悸を打っていた。
「いや、たまたまでございますよ。乱世では、僧も護身ができませんと、先の右大臣様の時のように、いつ叡山が焼かれるかもしれませぬ。それにしてもお怪我がなくて、ようございました。」
慈海は、相変わらず落ち着いた口調で笑顔をたたえて言った。
「正信、何処の手の者かわかるか?」
家康は厳しい口調で言った。
「いえ、口に毒を含んでいたと見え、こと切れております。」
慈海が、賊の様子を見ながら言った。
「この者は、山の民でございましょう。豊臣家は、昔から山の民、川の民を乱破として使っておりました。太閤様が情報通であるのも、山の民を自由に使いこなしていたからとの噂でございます。」
「しかし、病床の太閤が、わざわざ、儂を襲うことはないと思いますが?」
家康は、怪訝な顔で、慈海に聞いた。
「石田治部少輔様の手の者かもしれませぬ。時々、拙僧の庵が見張られている気配がございました。しかし、御無事でなによりでした。」
家康一行は、丁重に礼を言って、慈海の堂を辞し、比叡山根本中堂の参詣に向かった。
「正信、慈海殿をどう思う。」
家康は、本多正信には、慈海の器を見極めることが出来まいと思いながらも、たずねてみた。
「殿が、堂の中で何を話しておられたかわかりかねますが、人品骨柄を見ましても、常人ではない様子に思います。」
正信は分をわきまえている、家康はその点で、この老人を快く思った。謀臣としての立ち位置に甘んじ、間違っても軍師になろうとはしない。
「どなたかに似ておられるとは、思わなかったか?」
「そういえば、明智日向守様に面差しが似ておられるように思いますが、そのようなはずもなし・・・。」
「よいよい、他人の空似であろうよ。また、近々、お会いすることになるであろうな。」
一行は、主従の会話とともに、比叡山延暦寺根本中堂に向かって上っていった。
家康を見送った後、慈海は、堂に背を向けたまま小声で言った。
「弥平次、内府殿をどう見る?」
いつの間にか、人が慈海の後ろに寄り添っていた。
「はっ、泰平の世を招来するには、またとなきお方かと。」
「何故、そのように思う。」
「太閤の天下は、利によってもたらされたもの。諸大名は、太閤が生み出す利に群がり、出世をもくろみ、それで天下が落ち着きました。利をもって出来上がった天下は、利が無くなれば消え去りましょう。徳川様は、利では動かぬお方、それが太閤を恐れさせたのでござりましょう。あのお方が天下の中心に座っておられれば、天下は安泰かと思います。」
「しかし、内府殿も、もうよいお歳。その後に天下が乱れるかもしれぬ。」
「はい、そうならぬよう、これからは、利ではなく、理と智で世の中を治めていくことです。そのためには、家康様のお傍にあって、世の中の仕組みを作り、それに魂を入れる人材が必要かと考えます。」
「確かに、その通りじゃ。それは、弥平次、儂にその役目をしろと言っておるのか?」
「お分かりでございますか?」
「わからいでか。とりあえず、配下の者に、密かに徳川様のご様子を探らせておいてくれぬか。」
「承知、大坂の様子も含めて、様子を見ておきます。」
慈海は、弥平次と話しながら思った。
やはり、弥平次の言う通り、これは、ひと働きせねばならないだろう。秀吉は、持ち前の明るい性格で、織田家の天下を円満に継承したように思われているが、実際にやってきたことは、簒奪者そのものだ。本能寺の変の前に、必要がないにも関わらず、織田信長様に中国出馬を要請し、少数の供回りで本能寺に滞在するように仕向けた。また、いつでも京に戻れるように、中国の街道筋の所々に兵糧を留め置き、姫路城に大量の鎧兜、武器、大量の金子を備蓄していた。秀吉の策略が一枚上手で、その罠にかかって、本能寺で信長を襲撃した明智光秀は、結局、道化でしかなかった。
確かに、移動の迅速さは秀吉軍の得意とするところであった。実務は石田三成が差配し、山崎の合戦において、中国大返しと言われる、備中からの電撃的な帰還作戦を実現させ、明智軍に十分な時間を与えなかった。また、柴田勝家と戦った賤ヶ岳の合戦においても、対陣していた木之本を離れて大垣に軍を進め、織田信孝を攻めると見せかけて、秀吉に隙ありと見た柴田勝家が動くや否や、電光石火、取って返して勝家を滅ぼした。その後、織田信孝を殺し、結局、天下を奪ってしまった。
慈海はさらに考えた。
諸大名が豊臣家の天下におとなしく甘んじているのは、秀吉の下に居れば、出自にかかわらず、立身出世は思いのまま、また、世継ぎの子がなかった故、いずれ、自分たちにも天下をとる機会が巡ってくると思っていたからだ。太閤の子、秀頼が生まれてからも、彼の人が、太閤の実子であるかどうか疑わしいと思っている者もいる。それ故、再び、戦乱の世が来るのは、ある程度、致し方のないことだろう。その戦乱を最小限に止めるには、徳川家の力が必要だ。徳川殿は利では転ばぬ人、これからの世は、理と智で治めることが必要だ。即ち、密教でいう智の金剛界曼荼羅、理の胎蔵界曼荼羅、両部曼荼羅の世界をこの世に実現せよとの、大日如来の思し召しかもしれぬ。
慈海は、読経に集中しようとしたが、家康との会談が頭に引っかかって仕方がなかった。
九月に入って厳しい残暑が続く中、伏見城で病床にあった太閤秀吉が亡くなった(筆者注:九月は旧暦、太陽暦では八月)。
明・朝鮮連合軍と和睦し、撤退が終わるまでの間、太閤の死を伏せておく必要があり、五大老、五奉行立ち合いの下、遺骸は東山に秘密裡に用意されていた墓に密葬された。
しばらくして、加藤清正、加藤嘉明、黒田長政、細川忠興等、朝鮮で戦っていた軍勢が、続々と引き上げてきた。
朝鮮で、加藤清正等に命令違反があったと石田三成が太閤に報告したことに対して、三成の讒言という話が広まっていた。そこで、秀吉子飼いの尾張出身の武将たちを中心に、三成を襲う計画を立てているという噂が家康の耳に入ってきた。
加賀大納言前田利家が存命の間は、何とか平穏に過ぎていた。しかし、利家が亡くなると、抑える者がいなくなった豊臣子飼いの諸将は、尾張派とその親派、それに近江派の二つに完全に分裂してしまった。
とうとう始まったか・・・と家康は思った。それにしても、慈海殿の言われた通りの世の動き、叡山の山中に在って、あれだけ世事を見通しているとは、いやはや、慈海殿は、当代一の鬼才、大変なお方だ。ぜひとも下界に降りていただき、国家百年の計を立てていただかねばならぬ。徳川家には、謀臣、本多正信、正純親子がいるが、天下を見通して戦略を立てるには、慈海殿のような広い知識と経験を持った人材が必要だ。
それにしても・・・と家康は思う。慈海殿の風貌、話し方、頭脳の鋭さ、どこを見ても、明智日向守光秀殿としか思えぬ。山崎の合戦の際に、小栗栖の竹藪で落ち武者狩りにあったというが、日向守殿は、美濃明智の忍者群を配下に持っていたはず・・・。みすみす、土民の手にかかるはずがない。それに、先ごろ、儂が叡山で賊に襲われた時、独鈷杵を投げた慈海殿の腕前、あれは鍛錬した武人の技・・・。
家康にとっては、不可解なことばかりの慈海訪問であった。しかし、慈海が家康の考えに賛同し、天下万民のため泰平の世の中を招来するという目的を同じくしていることは、家康を力づけた。
晩秋のある晩、家康が寝床に入ろうとしていた時、影が部屋の外に近づいてきた。
「ごめんくださりませ。」
障子の向こうで二人の男が平伏した。たぶん、本多正信と伊賀組の棟梁、服部半蔵だろう。相変わらず、影のような男だと思いながら、家康は、起き上がって返答した。
「何か、変事でも起きたか?」
半蔵が答えた。
「はっ、石田治部少輔を監視しておりました忍びの報告でございます。太閤子飼いの尾張派、加藤清正、福島正則、加藤嘉明、浅野幸長に加えて、それに同心する細川忠興、黒田長政、池田輝政の手の者が、大坂の石田屋敷を襲ったそうでござります。」
「それで、治部少輔はどうした?」
「は、それが、事前に事を察知していたようで、姿をくらまし、家老の島左近がとぼけて応対したとか。」
「行先はわかったか?」
今度は本多正信が返答した。
「いえ、それが、皆目・・・。」
正信が当惑しているのを見て、家康は、大笑いして言った。
「ははは、三成も機転の利く男よ。わかった、治部少輔殿は、いずれ、当伏見屋敷に現れる故、丁重におもてなしせよ。」
「治部殿が当屋敷に?」
「そうじゃ、京、大坂で、他に行くあてもないであろう。治部なら考えそうなことだ。」
「もし、石田屋敷を襲った者たちが当屋敷に来たら、どうなさいますか?」
「その時は、儂に知らせよ。深夜でも構わぬ。一喝してやろうぞ。」
「はは、承知いたしました。」
そうは言ったものの、正信は、家康の心を推し量りかねていた。石田治部少輔が当屋敷に来れば、袋の鼠、どのようにも料理できよう。それを、殿は丁重にもてなせと言われる。福島佐衛門太夫正則等がくれば、彼らに治部少輔を引き渡すことで、こちらは手を汚さずに邪魔者を始末できるというもの、何故、それをなさらないのか?
一方、家康は正信の返答を聞きながら、正信の謀臣としての限界を感じていた。そして、これから始まる動乱で、再び戦国の世に戻さないためには、慈海の知恵がぜひとも必要であることを感じていた。
寝屋で、伽をしていた阿茶の局が、いぶかしげに尋ねた。
「どうかなさいましたか? お一人でふさぎこまれて。」
家康は、我に返った顔をして小声で答えた。
「いや、何でもないのだ。そうか、やはりそうであったか。」
阿茶の局は、何のことかわからず首をかしげていた。
家康は、内心、慈海の予想が見事に的中したことに驚き、そして、この当代随一の頭脳が、自分と同じ志を持っていてくれることを喜んだ。これで、すべてが予定通り進むというものだ。それにしても、慈海殿の先を見通す力は恐ろしい、敵に回さなくてよかった。あとは如何にして徳川家に招聘するか、いや、新しい世の中を作るために力を借りることが出来るかだ。
夜半になって、京伏見の徳川屋敷を訪れた武者があった。石田治部少輔三成である。
三成は、武闘派諸将が屋敷を襲ったのは、家康が裏で糸を引いていると思っていた。その裏をかいて、大坂の石田屋敷から、佐竹義宣に護衛を頼み、馬を飛ばして、家康に保護を求めてきたのであった。佐竹家は、常陸五十四万石、鎌倉以来の守護大名の家柄である。家康が関八州に移封された時、佐竹だけ転封されなかったのは、豊臣家の行政官であった三成の尽力によるもので、佐竹義宣は、三成に好意的であった。したがって、家康が領している関八州は、常陸を除き、代わりに甲州が加えられていた。
三成は、天下のどこに、宿敵に庇護を求めに行く男がいるかと、意表をついた自分の策に満足し、意気軒高であった。もし、家康が三成を害すれば、家康の悪事、天下への野望が明白になるであろう。家康は、三成を保護せざるを得ないはずであった。
しかし、三成は、慈海がそれを見越して、家康に三成の保護を勧めていたことは知らなかった。すでに、石田三成は、慈海の手の上で動く駒になっていた。
「内大臣様にお伝え願いたい。これは、石田治部少輔三成でござる。福島正則、加藤嘉明、浅野幸長等が、我が屋敷に夜討ちをかけた故、脱出してまいった。この上は、内府殿のお力をお借りしたい。」
三成は小さな身体に似合わぬ大音声で、門の外から徳川屋敷に向かって声をかけた。すると、木戸が開いて、一人の初老の武者が出てきた。
「これは、治部少輔様。本多正信でございます。この夜中に、よくおいでになりました。」
三成は、本多正信が驚く様子がないので、訝しく思った。
「これは、まるで、儂が来るのを待っておられたかのように思えたが・・・。」
正信は平然として答えた。
「はい、その通りでございます。石田様のお屋敷を襲われたと聞き、主、家康が、治部少輔様は、おっつけ、我が屋敷に見えられるであろう、その時は、丁重におもてなしせよとのことでございました。我が主は、まだ起きております故、出て参るでありましょう。」
三成は、訳が分からなくなった。
「内府殿は、儂がここに来ることをあらかじめ予想しておったのか?」
「はい、諸将が手を出すことが出来ないのは、我が主家康と加賀大納言様のみ、その加賀大納言様亡き今、徳川家が仲裁をせずに誰がすると仰せられました。」
正信は、三成を客間に通して下がっていった。すぐに女中が、茶を持ってきた。茶を飲んでいると、廊下に人影が見え、障子を開けて入ってきた。
「これは、治部殿、よく来てくださった。まあ、ゆっくりなされ。上方では、茶は宇治というが、富士の雪解け水で育った駿河の茶もなかなかのものでござろう。」
三成は、家康が好きになれない。どこがどう気に入らないかというのは三成自身にもわからない。しかし、家康は知恵者であるにも関わらず、それを表に出さず、愚鈍な好々爺を装っていると三成は思っており、万事、真っすぐな三成とは、そりが合わないのかも知れなかった。また、家康は、戦で修羅場をくぐってきた筋金入りの武将であり、戦場の経験が少なく、官吏として出世してきた三成にとって、最も苦手とする人種であった。
「確かによい茶でござる。湯加減、出し方とも申し分ありませぬ。」
「茶の入れ方については、石田殿にはかなわないと思うが、ははは。」
家康は、三成が初めて秀吉にあった時、心配りの利いた茶を入れた話を知っていて、三成の気分を和らげようとして言った。しかし、三成には、茶坊主風情がと軽んじられたように聞こえた。
三成は、家康の言葉に応じず、単刀直入に用件を言った。
「ところで、本多殿にお聞きしたところ、内府殿はすでに事件の概要を知っておられる御様子。それがしを襲った武将ども、ぜひとも、内府殿のお力で処罰していただきたい。」
「ははは、治部殿からそう言っていただけるのはありがたい。しかし、すべての事柄は、五大老の合議で決まるものでござるよ。今日は、何も考えずにゆっくりと休まれよ。誰が来ても、この徳川屋敷には入ることはできぬからの。」
「ありがたいことです。では、お言葉に甘えて。」
家康と三成の会見はこれだけであった。
部屋に布団が敷かれ、三成が休もうとした時、表が騒がしくなった。
「我は、福島佐衛門太夫にござる。石田治部少輔は、我等に追われて、徳川様の屋敷に逃げ込んだ様子。お手数でござるが、君側の奸、石田三成をお引渡し願いたい。」
と、大音声で叫ぶ声がした。福島佐衛門太夫正則、太閤子飼いの賤ヶ岳七本槍の一人である。武勇に秀でているが、何事も直情的に動き、激すると何をしでかすかわからないところがあった。大坂城の官吏の間では、狂人にはかなわぬ、と評する者まで居て、腫物でも触るように扱われていた。
徳川屋敷の家来たちが、福島正則を恐れて右往左往していると、家康自らが応対して、正則等を一喝した。
「小僧ども、何を騒いでおるか!石田治部少輔殿は、確かに当屋敷におられる。治部殿は、徳川家を頼って庇護を求めてきたものである。相手が何人であれ、頼って来られた者を追っ手に引き渡すのは武門の恥である。各々方は、太閤殿下が定められた法度に従わず、徒党を組んで夜中に都を往来するとは何事か。この家康、お望みであれば、一戦、お相手つかまつる。太閤殿下をも破った、小牧長久手の戦いの様を、この場で見せてくれる。どこからなりとかかって来られよ。」
家康の老人とは思えぬ大音声に、諸将は度肝を抜かれて、その場に立ち尽くした。部分的勝利とは言え、秀吉に野戦で勝利した経歴は、家康の戦上手をすでに伝説化していた。
「各々方と治部少輔の処分、大老で合議の上、追って沙汰をするであろう。今日のところは、おとなしく引き上げられよ。さもなければ、天下の大罪人として処罰するであろう。それが不満であれば、国元に帰って戦支度をされよ。この家康、徳川八万騎を率いてお相手致す。」
家康のあまりの剣幕に驚いて、諸将は、なすすべもなく、すごすごと引き上げていった。寝床で外の様子をうかがっていた三成は、今更ながら、家康の権力のすさまじさを感じた。福島正則等、誰もが遠慮する血の気の多い大名諸将であっても、家康の前では赤子同然であった。
これは、と三成は思う。すでに天下の権は、実質的に家康の手中にあるのではないか?加賀大納言前田利家亡き後、それを止め得る者は誰がいるのか?
三成は、家康が実のところ、天下の権をとるか、世間のよい評価を得るかの板挟みになって懊悩していることに気が付いていない。家康の一挙手一投足が、すべて天下をその手に握るための策謀であると思っていた。
家康を止め得るものがあるとしたら、この三成をおいてあるまい。それにしても、加藤清正、福島正則等の考えの浅さはどうだ。彼らが騒ぐことが豊臣家の屋台骨を危うくしていることに気が付かないのか、と三成は自分を夜討ちした諸将の馬鹿さ加減に腹がたった。
しかし、加藤清正等にすれば、三成こそが君側の奸であると言うであろう。実は、豊臣家の敵は家康ではなく、豊臣家家臣団の内部抗争にあることを、彼ら自身、気が付いていなかった。
翌朝、三成は、家康の勧めもあり、今回の事件の沙汰が下りるまで、ひとまず近江佐和山の居城に帰ることにした。家康は、三成の警護に、家康の次男で秀吉の養子になっていた結城秀康をつけてくれた。秀康は、家康の子の中では最年長でありながら、母親の出自が卑しいために養子に出され、豊臣家で太閤秀吉から厚遇された。当然、徳川一門にありながら、豊臣家に好意を持っていた。
秀康は、太閤秀吉の思い出話で三成と意気投合した。三成は、この御仁であれば、豊臣と徳川の橋渡し役になってくれるであろうと思い、家康もそれを期待して警護を任せ、三成の心を解きほぐそうとしたのであった。しかし、三成は家康の心配りに感謝しながらも、いやいや、あの狸親父に騙されてなるかと、内心で自身を戒めていた。
数日後、家康は、わずかの供回りを連れて、比叡山にある慈海の庵を再訪した。
「やあ、また来ましたぞ。」
「よくお越しになられました。茶をおたて致しましょうか?」
「おお、あの茶ですか。先日いただいた茶は、めっぽう美味かった。また、お願いできますかな?」
家康は、慈海の出した茶で喉を潤してから、話を始めた。
「貴僧の予言通り、治部少輔は拙者の庇護を求めてまいりました。慈海殿の天眼は、まさに千里眼であられるな。」
家康は最大限の褒め言葉で、慈海の予想が的中したことを伝えた。
「さようでございましたか。千里眼とは、恐れ入る。その時々の状況を踏まえて、その結果を予測しているだけでございます。それが、たまたま、当たったということ。」
慈海は平然として言った。慈海に言わせれば、森羅万象をよく見極め、不要な情報を整理していくと、残った正しい情報から、おのずと先の事象が見えてくるのであった。
「さて、これから先、どうなりましょうか。戦にならねばよいが。」
家康は心配そうに言った。正直言って、老年の域に達してきて、また戦が続くのは耐えられなかった。戦乱になれば、人の命が多く失われる。田畑も荒れ、人々が生活に困る、そういう世の中に、再び戻してはならなかった。
家康の心中を見抜いたかのように、慈海が言った。
「確かに、戦になれば多くの人が亡くなり、国土は荒廃しましょう。明、朝鮮が攻めてくる可能性もないわけではありませぬ。人命をできるだけ失わず、国土を荒廃させないような工夫が必要でしょう。しかし・・・。」
慈海は言い淀んで、しばらく沈黙した。
「しかし、戦にはなるでしょう、治部少輔様がおられる限り。」
「治部殿が、戦を仕掛けますか?」
家康は首をかしげて、慈海に聞いた。
「治部少輔様は、天下国家よりも豊臣家だけを見ておられる。豊臣の天下であればよいでしょうが、徳川の天下は受け入れますまい。あれだけの才人が惜しいことでございます。」
「して、治部の戦略は、どのようなものかと思われますか?」
慈海はしばらく考えて、ゆっくりと話し始めた。
「そうでございます。治部少輔様の考えは分かりませぬが、愚僧であれば、合従連衡の連衡を採ります。」
「して、連衡とは?たしか、中国の春秋戦国時代の故事でありましたか?」
「はい、強国秦に対抗するために、楚の宰相であった蘇秦が、七国による秦包囲網を作った故事でございます。」
慈海はさらに続けた。
「治部少輔様の盟友というと、大谷刑部少輔様、直江山城守様でございましょう。まずは、直江様が家老を務める上杉家との同盟、上杉に会津で挙兵させ、内大臣様が東にお戻りになったのを見計らって、佐和山で兵を挙げ、毛利、島津、長曾我部などの大大名を味方に引き入れます。」
「それでは、天下大乱になりましょう。そうしてはなりませぬ。」
「さよう、大乱にならぬようにするには、あくまで豊臣家内部の私闘にしてしまうことです。内大臣様が直接、治部少輔様を叩くのではなく、豊臣家内部で、治部様を快く思わぬ人にお任せになればよいかと。」
「そう、うまくいくものでしょうか?」
「はて、うまくいくかどうかは、内大臣様のご器量次第ということになりますが、合従連衡の合従で勝った例はこれまでにありませぬ。蘇秦然り、先の将軍足利義昭様然り。合従は中心がない故、よほどの器量人でなければ勝てませぬ。徳川家が連衡の策で、諸大名に声をかければ、治部少輔様の合従を切り崩すことができましょう。」
「なるほど。ところで、慈海様。」
家康の態度がいつの間にか変わって、慈海様と呼ぶようになっていた。
「天下人に大軍師ありと申します。周八百年の基を築いた太公望、漢四百年の礎を作った張良はいうに及ばず、太閤殿下には黒田官兵衛という鬼才がおりました。そして、織田信長公の天下統一には、明智光秀という大天才が国家百年の計を立てておりました。明智殿と信長公の考えに齟齬があったために、明智殿の謀反という形になりましたが・・・。」
「拙僧に、兄明智光秀の代わりをせよというのは無理なご相談でございます。それに、僧の身で、戦の手助けは致しかねます。」
「戦の助けではなく、新しい世を作るのに力をお貸しいただきたいというのです。」
「しかし、そのためには、戦を避けては通れないでしょう。重ねて申しますが、私は僧でございます。殺生の手助けはいかなることがあっても出来ませぬ。」
「それを最小限にする方法を、共に考えていただけませぬか?新しい世を招来するのは菩薩行にも等しいこと、そのためには、時には憤怒で人を導く明王になることも必要なのでは?」
慈海は、苦吟の表情を浮かべて、じっと考え込んだ。
沈黙の時が流れた。慈海の庵の中は、しんとした静寂が支配していた。
やがて、慈海は、顔をあげて沈黙を破った。
「少し、考えさせていただけませぬか。軍師や謀臣ではなく、政治顧問のような立場であれば、僧の身でもできないことはないかもしれませぬ。」
家康は、顔に喜色を浮かべて、慈海の手を取らんばかりにした。
「いや、それで十分でござる。石田治部少輔の連衡に対して、当方は合従でいくことにいたしましょう。そして、徳川本隊、旗本八万騎は、なるべく戦には使わぬ様にいたします。」
「そう、徳川本隊を使わず、分裂している豊臣家臣団を争わせることが重要です。それであれば、豊臣家の私闘、天下大乱にはなりませぬ。」
ひとしきり話した後、家康は、ゆっくりと立ち上がって、慈海に言った。
「では、よい返事を楽しみにして待つことにいたしましょう。」
慈海は、意外な様子で、家康に聞いた。
「返答の期限を定められませんのか?」
家康は、困ったような笑みを浮かべて答えた。
「こういうことは、その時が来ればおのずと定まってくるものでござる。せかしたところで、よい結果は生まれますまい。自然のまま、流れのままに任せることにいたします。流水不争先、流れる水は先を争わないという諺もございます。お心が決まれば、お知らせくだされ。」
慈海は、家康の悠然として迫らないところに大人の風格を見た。こういう気の長さは、信長、秀吉にはないところであった。
家康が庵の扉を開けて外に出ようとした時、慈海がそれを押し止めて、ゆっくりと戸をあけた。
「この前のように、刺客がおりましてはなりませんから。」
それを聞いて家康は豪快に笑った。
「ははは、確かに。しかし、今日は、供は少ないが、陰で伊賀の服部家のものが警護しており申す。」
「愚僧の方にも、美濃明智の者が何人か庵の周囲におります。太閤様が亡くなってから、物騒な世の中になってまいりました。出家にまで手が及ぶのは、天下泰平とはいえませぬ。」
慈海は笑って言った。
家康は、振り返って慈海に一礼をし、駕籠に乗り込み、帰っていった。
「殿、首尾はいかがでございましたか?」
正信が駕籠の外から尋ねた。
「わからぬ、しかし、儂の見るところ、あの慈海という御仁は、明智日向守殿に間違いあるまい。味方になってくれれば、これ以上、心強いことはない。本能寺の変の時に果たせなかった、天下泰平を協力して実現するという約束が、やっと実現するというものよ。」
「陰で警護していた半蔵に聞きましたところ、慈海殿の警護には、以前、明智様の下にいた美濃の乱波がいるとのことでございます。」
「そうであれば、ますます、お味方にほしいところよ。」
家康の思惑を知ってか知らず、比叡颪の北風が強く吹き付け、琵琶湖の湖面を波立たせていた。
家康が去ったあと、慈海は考えこんでいた。
「慈海様。どうかなさいましたか?」
横に居た弥平次が話しかけた。
「いや、少し考え事をしていた。この百年余、戦続きの世の中で民は疲弊している。やっと、平和になったかと思えば、太閤の朝鮮出兵で、また、戦。戦、戦、もうこりごりじゃ。」
「ということは、徳川様のお誘いに乗るおつもりですか?」
「それじゃ、それで悩んでおる。今更、この歳になって、もうひと働きというのもどうかと思う。確かに、天下泰平という長年の夢は実現できるのだが。」
「慈海様は、徳川様に、天下のために泥を被れ、晩節を汚せと言われました。徳川様は、すでに、そのお覚悟をお決めになったのでは?」
「そう、その通り。もし、徳川の天下になれば、末代まで、徳川殿は豊臣の天下を簒奪した狸親父、策謀家と言われであろう。世のため人のためとは言え、それがお気の毒ではある。儂がお手伝いすることで、徳川様の律儀者との評判に傷をつけることになってしまうのだよ。」
「徳川様おひとりであれば、一身にその非難を受けることになりましょう。しかし、慈海様がお傍にいて、すべてが慈海様の策であるとすれば、徳川様への風当たりはかなり弱くなりましょう。」
「弥平次は、儂を極悪人に仕立てあげようとしておる。」
慈海は、弥平次の言葉を聞いて、苦笑した。
弥平次の言う通り、徳川が天下をとるための闇の部分は、この慈海が引き受ければよい。そうすれば、内府殿も少しは気が楽であろう。確かに、天下泰平のために泥を被れ、晩節を汚せと言っておきながら、叡山にあって高みの見物というのは虫のよい話だ。それに、天下泰平の招来は、明智家の悲願でもあった。老骨に鞭打って、もう一仕事するか。
ここまで、考えがまとまって、慈海は心が軽やかになるのを感じた。弥平次は慈海の吹っ切れた表情を見て、慈海の顔から後光が差しているように思った。とうとうその気になられたか、儂も、明智家中もの者として、慈海様にどこまでもついていく、そう思うと、弥平次も心が高揚してくるのを感じた。
「戦場はどこになると思うか、弥平次。まずは、上杉が動くであろう。それを抑えるために、徳川様が軍勢を引き連れて動く。」
「しかし、上杉とは戦にはなりますまい。背後に伊達や最上がおります。私が徳川様であれば、伊達、最上に書状を送り、上杉を釘付けに致します。」
「そう、その通り、特に伊達正宗は曲者故、上杉の思い通りにはならぬ。徳川様の軍勢は、東海道を西に戻り、街道筋のどこかで、石田軍と合戦ということになる。」
「たぶん、美濃、尾張、近江のどこかが戦場になりましょう。石田様としては、領地の佐和山に近いところを戦場に選びたいはず。」
「石田治部少輔は、どれぐらいの軍勢を集めると思う。」
「大坂より西の大名諸侯は、地理的なこともあって、石田方につかざるを得ないでしょう。毛利、宇喜多、小早川、吉川、大谷、長曾我部、ざっと十万は下らぬかと。」
「そう、それを如何に減らすかが、勝負の分かれ目じゃ。しかも、大戦さにしてはならぬ。一日で終わらせねば、民百姓が気の毒というもの。」
「難しゅうございます。しかし、慈海様なら、お出来になるかと。」
「それは、買い被りというもの、軍勢の数からすればよい勝負になるが、石田方は芯になる部隊がおらぬ、それをまとめるのは、治部少輔殿では無理であろう。」
弥平次は、首をかしげて言った。
「誰が見ても、石田様には勝ち目がなさそうに見えます。それでも動きましょうか?」
慈海は、空を見上げて感慨深そうに言った。
「それよ、石田殿は忠臣故、勝ち負けよりも豊臣政権を守るために戦うであろう。それがかの人の好さであり、弱点でもある。仮に、石田殿が負けたところで、殉じる武将がいたことで、亡き太閤に対するはなむけになるであろう。」
慈海は、いつの間にか、自分が石田殿と言っているのに気付いた。石田三成は、豊臣家の忠臣であるが故に、命をかけて泥を被ろうとしている。そのさわやかな心根をわかっている人はどれだけいるであろうか?
「徳川様と石田様が、腹を割って話し合い、分かり合えればよいのではありませんか?」
「それができるのであれば、もうとっくに事態は解決しているであろう。太閤が世を去ってから、豊臣の天下は実質的に消え去っておる。しかし、石田殿は徳川様が天下に号令するのを容認するとは思えぬ。双方を立てるのは至難の業、できるだけ事を大きくせずに、徳川様に政権を移すことが必要だ。」
「確かに、石田様のご様子では、徳川様にお譲りなさるとは思えませぬ。それに、先ごろの朝鮮の役で、人心は豊臣家を離れてしまっております。」
「そう、その通りじゃよ。今、我々にできることは、政権移譲の潤滑油になることじゃ。さて、では、明日にでも、伏見の徳川屋敷に行く準備をするか。天台座主様にもご挨拶をしていかねば。」
「徳川様のお迎えを待たずに、こちらから参上するのですか?」
「すでに、徳川内大臣直々のご訪問を、二度、受けておる。もう一度来られれば、それこそ、三国志劉備玄徳の三顧の礼である。儂は諸葛孔明のような大軍師ではない故、二顧の礼で十分じゃよ。それに、突然訪問して、謹厳な家康様を驚かしてやるのも楽しみじゃ。」
慈海は、悪戯っ子のような目を輝かせて、高らかに笑った。
翌日、比叡颪が吹きすさぶ中、京に向かって山を下る慈海の姿があった。慈海がふと空を見上げてつぶやいた。
「この分では雪になるかもしれぬ。さて、下界は嵐にならねばよいが。」
「雪であれば、いずれは消えましょう。嵐は人や物を吹き飛ばす故、かないませぬ。さて、私どもは、風のままに吹かれていく雲でありましょうか。」
弥平次は、琵琶湖の向こう側、三上山の上にぽつんと雲が浮かんでいるのを見ていった。
「下界を嵐にせぬためには、風のままに吹かれる雲になってはいかぬ。なんとか、嵐を避ける方法を考えようではないか。」
「はい、それが我々の役目と心得ておきます。ところで、徳川様は、慈海様を、明智日向守様と思っておられるようですが。」
「思いたければ思わせておけばよい。慈海は慈海、天下にただ一人。過去のことはおいて、未来をどう作るのが我らの仕事じゃ。明智弥平次秀満が湖水渡りをした伝説も忘れねば、ここに弥平次がいるのは何故かということになる。」
弥平次は、慈海の言葉を聞いて、顔を赤くして言った。
「あの折、坂本城から夜陰に紛れて一族を逃がせたのは幸運であったと思います。それも、美濃明智の乱波達のおかげ。おっと、これも忘れねばなりませぬ。」
「そうじゃ、天下泰平の招来は明智一族の悲願である。未来に向かっていくために、儂は、今日から名前を変えることにした。風のままに生きる慈海ではなく、天、地、海を鎮める意味で、天海と名乗ることにする。」
「天海、ですか。弘法大師空海にも勝る大きなお名前、これから天下を経絡するにふさわしいお名前かと。私は、その天海様の影として動きましょう。」
「弥平次ほどの武将を影として使うのは心苦しいがやってくれるか?」
「山崎の合戦の時から、わが命はないものと思っております。それが、世のため人のために役に立つのであれば、望外のことでございます。」
「ありがたいことじゃ。さて、では、行こうか弥平次。そうじゃ、このことは、坂本で修行中の隋風にも知らせておかねばなるまい。言えば、一緒に来るというであろうが。」
「はい、天海様、隋風殿が来て下さるなら千人力、これからが楽しみでございます。」
二人の姿が、山道を下り、やがて、比叡颪に乗って、琵琶湖に向かって吸い込まれていくように見えた。
琵琶湖の湖上を吹く風は、かつて、織田信長を尾張から安土、京に運び、豊臣秀吉を尾張から長浜、伏見、大阪へと呼び寄せた。今、その風は、徳川家康を京から東へと誘おうとしている。そして、慈海、いや、天海は、その風に乗ってどこに行こうとしているのであろうか?
了
読んでいただいてありがとうございます。
慈海の正体については月並みですが、いくつか伏線が張ってあります。果たして世の中で言われている通りなのでしょうか?
最後に出てくる隋風とは誰のことか?歴史上では天海の若き日の法名ですが、ここでは別の人格として出てきます。これは次作で明らかにします。