第十四話 王立学園ペルシディウス
一日十三時間の勉強漬けを乗り越え、エレオノーラは無事王立学園ペルシディウスに入学できた。ツートップはならなかったが、エレオノーラ個人としては上出来である。
『勉強嫌いの私がここまでこられましたのよ。もっと褒められて称えられるべきですわ』
エレオノーラは内心そんな思いでいっぱいなのだが、しょせん五十位以下の彼女に華々しい役は回ってこず、普通の生徒として入学式に参加した。
もちろんリディアンは新入生代表として登壇し、列席した上級生や同学年のレディを一瞬にして虜にした。
「なんて美しい方かしら……!」
「淡い髪色と白い制服がとてもお似合いですわっ!」
「一部の者たちがリディアン様を恐怖の大王だとか噂をしていますけど、天使のように美しいリディアン様が恐ろしいわけありませんわ」
「そうですわ! 王権を貶めたい教皇派のデマに決まっていますわ!」
なまじ顔が優しそうに見えるため、リディアンの恐ろしい噂を真に受けるものはいないのである。人格破綻者とも知らず、『カッコ良くて素敵な優しい王子様』と認識されてしまった。
それゆえ有力貴族の令嬢はリディアンを射止めようと無謀な野望を抱いた。構図としてはデビュタントと似通っているが、デビュタントでリディアンに近づけたものはほぼいない。
だが、学園となればすれ違うことも十分に可能である。
『もしかしたら手が届くかもしれない』
その絶妙な距離感が、乙女の心をかき立てたのである。
一般の女性徒ですらこうなのだから、家柄も権力も美貌も教養も持ち合わせている令嬢ともなれば、より過激である。
宰相の娘アデライドは帰宅そうそう使用人にあたりちらした。
「リディアン様があんなに素敵な方だなんて知りませんでしたわ!お母さまの希望でユズフ王国で過ごしましたけど、こんなことなら王国に残っているんでしたわ!わたくしが婚約者選びのお茶会に出席していれば、あのような女が選ばれるわけありませんでしたもの」
彼女の母メディラマは隣国ユズフ王国の貴族である。
体が弱い彼女はユズフ王国で静養していたので、アデライドは母にくっついてユズフ王国で過ごした。
「お父様! なぜわたくしをラヘンディアに残して下さらなかったの!!」
「わ、わしとしてお前と離れたくなかったよ。だが、激務過ぎてほぼ屋敷に帰れないわしと一緒に居るより、メディマナと一緒に居る方が良いと思って……。そうか、お前はわしと一緒に居たかったのか……可哀そうなことをしてしまったなあ」
グズンと涙ぐむ宰相はとてもいい奴である。
だがアデライドの怒りは別方向にある。
「出遅れましたけれど、わたくしの方が美しいし教養もありますし、なんとしても未来の王妃の座を頂くわ!!」
一方、他の令嬢たちも似たり寄ったりである。
なにしろ、歴代の王妃の中には伯爵や男爵家……はては平民出身の王妃もいる。「わたくしたちにもチャンスがある!」と虎視眈々とリディアンを狙い始めた。
そんな彼女らの嫉妬を浴びるのは現婚約者のエレオノーラである。
心優しい令嬢と名高いが、実際のところはあいもかわらず虎視眈々と『龍の祠』のクソガキに復讐の機会を狙い、下町の不良を子飼いにしたり、法務府の役人を買収したり、武器や毒物など定期的に商人から買い入れている。
もはや屋根裏部屋は武器庫と化し、地下牢は教会の異端審問拷問部屋にひけをとらない設備を誇っている。
そんなことは知らない令嬢たちはエレオノーラに嫌がらせをし始めた。
「ムキー! リディアン様を独り占めするなんてひどいですわ!」
ドルーズ辺境伯の娘シェルミアは廊下ですれ違いざま、エレオノーラの足を引っかけようと足を伸ばした。
しかし、エレオノーラは体幹が抜群(努力のたまものである)なので、逆にすっ転んだのはシェルミアの方だった。
『こ、こんなハズでは……っ! 恥をかかすのは失敗しましたけれど、これはこれで好機ですわ!』
強かなシェルミアは転んでもただでは起きなかった。
両手で顔を覆ってさめざめと泣き始めたのだ。
「グスっ……グスっ! 酷いですわエレオノーラ様! わざとわたくしに足を引っかけるなんて!」
と一転被害者ぶってわざとらしく床に倒れたままエレオノーラを見上げる。
休み時間というのもあり、行き交う生徒が足を止めてシェルミアとエレオノーラを見る。
顔をしかめる生徒も多く、エレオノーラに向けられるのは非難の視線である。
普通の令嬢ならたじろぐだろうが、売られた喧嘩は倍にして返す主義のエレオノーラはむしろ堂々としていた。
『はっ! このわたくしに喧嘩を売るなんてとんだ愚か者ですわね。どう料理してやろうかしら』
内心高笑いのエレオノーラは久しぶりの獲物に大歓喜である。
しかし、エレオノーラは急に視界が暗くなった。
背の高いリディアンがエレオノーラを庇うように前に立ったからである。
「さっきから見ていたけど、君の方こそエレオノーラを転ばそうとしていたよね? それに失敗したからってエレオノーラを加害者に仕立て上げる君こそひどいと思うけど?」
リディアンはシェルミアに冷ややかな視線を送る。
冷たい視線にシェルミアは震え上がった。
「あ……あの、わたくしはそんなつもりでは……。気が動転してしまって……事故……。そうですわ。事故ですわ!」
シェルミアはなんとかごまかし切ろうと考えた。
さらには実家の威光を振りかざし始めた。
「リディアン様。父の名にかけて誓いますわ! わたくしの父はドルーズ辺境伯ですの。わたくしはシェルミア・パリニアル・ドルーズですわ!」
シェルミアの父は南方を治める辺境伯である。南方には好戦的な国グーデンテールが控え、シェルミアの家は国防の要である。
自分を罰すれば父が黙っていないぞとシェルミアは勝ち誇ったような顔をした。もちろんエレオノーラにである。
『こ、この女。いい度胸ですわ!! いいですわその喧嘩買って差し上げるわ!!』
前回の失敗(ルリーヌ抹殺しそこなった事件)があるので、リディアンが口を開く前にエレオノーラは言った。
「ええ、事故ですわね!!」
満面の笑みで言い切るエレオノーラに周囲だけではなく、リディアンもシェルミアも驚く。
ちなみに、はたから見れば助け舟を出したように見えるのだが、エレオノーラは気付いていない。
「シェルミアさん。ドレス捌きがお上手ではないから仕方ありませんわね。わたくしでよろしければ教えて差し上げるわ。今日の放課後ぜひ我が家にいらして」
エレオノーラは嫣然と微笑む。
自分のテリトリーに引きずり込めればあとはもうエレオノーラの思うがままである。
いつか使おうと鉄を仕込んだ靴(重くて足が上がらない)もあるし、一部分だけ滑りやすいように改造したダンスルームもある。
エレオノーラの微笑は悪意の塊だった。
しかし反論するのはリディアンである。
「いくらエレオノーラの頼みとはいえ君に怪我をさせようとした者を許す気にはなれないな」
いつもエレオノーラに甘いリディアンだが、今回ばかりは違うらしい。
リディアンは人前でめったに表情を崩さないのだが眉は上がって瞳孔が開き、嚙みつくような視線をシェルミアに向けている。
エレオノーラですらビクっと怖くなったほどである。
「エレオノーラに嫉妬して貶めようとした者は多数いたけど、害を加えようとしたのは君が初めてだよ。シェルミア・ドルーズ」
リディアンの声は低い。地を這う声とはまさにこのことだ。怒りがビンビン伝わってくる。
「あ、あのっ!殿下っ!わたくしの父はドルーズ辺境伯でっ……南方をおさ、め」
シェルミアの言葉は途中で途切れた。
リディアンが最後まで言わせなかったからだ。
「それが何?」
はじめてリディアンがシェルミアに向けて笑顔を向けた。
笑っているのに深い怒りを抱えているのが伝わり、ヒィっとシェルミアは喉から悲鳴を上げる。
エレオノーラは『このままだとわたくしの出番が!せっかく用意した鉄靴を使う機会がなくなるわっ!』と慌てて、
「お待ちくださいませ! わたくしのために怒ってくださるのは嬉しいですけど、女性を怖がらせてはいけませんわ。それに事故ですもの。ね?」
エレオノーラは慈愛の笑みを浮かべる。
何も知らない者が見れば、暴君を諫める聖女に見えただろう。
だがエレオノーラの目的は己に牙をむいた田舎者を自分の手で<自主規制>して<自主規制>することである。酷い女である。
「エレオノーラ。君が優しいのは知っているけれど、怪我をさせられそうだったんだよ? 本当なら床に蛙のように這いつくばって無様な姿をさらしているのは君だったんだ。とてもじゃないが僕は許す気になれない」
リディアンが困ったように眉を下げる。
『まあ、リディアン様のこんな顔初めてですわ。そういえば真っ向から意見が対立したことなどありませんでしたわね。はっ! 今まで喧嘩がなかったのはリディアン様がわたくしを優先して下さったからですわっ!!』
エレオノーラはリディアンの愛を感じ、胸がいっぱいになる。
「リディアン様の気持ち、とても嬉しいですわ。でもご心配なさらないで? 何もわたくしは簡単に許すわけではありませんわ。彼女にマナーとドレス捌きを教えて差し上げるつもりよ。もしそれで彼女の行いが直らなかったら、その時にリディアン様のお気のすむようになさったらいかが?」
エレオノーラの言葉にリディアンはしぶしぶ折れた。
「わかったよ。エレオノーラの案を取ることにしよう。ねえ、君。もし改心しなかったらそのときは覚悟してね? 君の父がいくら王国に貢献してようとも、あらゆる手段を講じて君を潰すから」
リディアンは起き上がるのを助ける(というよりは脅す)ため手を伸ばしたとき、小さい声で耳打ちした。
シェルミアはその場で泡を吹いて気絶した。
シェルミアは後日大量のお詫びの品をもってエレオノーラの屋敷……バゼスティルマ公爵家に参じ、
「エレオノーラ様!この度は申し訳ありません!あなたに嫉妬して転ばそうと画策したわたくしめを王太子殿下の手よりお救い下さいましたこと、まことに感謝いたします!」
と、応接間で土下座した。
彼女の圧力はすごく、「どうぞわたくしめを奴隷としてお使いくださいませ!トイレ掃除でも洗濯でも馬小屋掃除でもなんでもいたします!エレオノーラ様の下僕として!ぜひ!」
彼女は必死だった。
なにしろ命が懸かっているのだ。
リディアンの脅し文句を思い出すだけで体中が戦慄する。
シェルミアが五体満足でいられるのもエレオノーラのおかげなのである。
誠心誠意謝るシェルミアだが、エレオノーラは彼女の圧力に腰が引き気味である。
根っからの悪役令嬢だが、箱入りお嬢様のエレオノーラが命を懸けたシェルミアの気迫に勝てるはずがない。
『と、とりあえずダンスルームで転ばせ……ま、まあ。なんて怖いお顔かしら。ここまで酷いと鏡張りの部屋に連れて行きたくないですわね。こうなったら靴を履かせるまでですわ』
せめて鉄靴でも履かせようとしたのだが、シェルミアは頑なに受け取らない。
「エレオノーラ様から下賜されるのは光栄ですが、罪ある身で受け取れません」
シェルミアは涙目で辞退した。
なにしろエレオノーラに粗相をしたらあの恐怖の大王が容赦なくシェルミアを断罪してくる。
シェルミアは必死になって断るが、エレオノーラはもはや意地である。
今までさんざん空振りしたエレオノーラにとってシェルミアはやっと手に入れた断罪対象である。
「お願いですから受け取って!!」
「恐れ多いですうう!!!!」
令嬢二人の応酬が深夜まで続いた。
エレオノーラの熱意がついにシェルミアの心を動かし、受け取ってもらえたのである。
眠くて頭がもうろうするエレオノーラに対してシェルミアは感涙でむせび泣いている。
「ありがとうございます!この鉄靴は宝とし、エレオノーラ様の慈悲を代々伝えていきます!」
『ち、違いますわ!! 欲しいのは笑顔じゃなくて屈辱に塗れた表情ですわ……!!』
感謝ではなく絶望の悲鳴をくれとエレオノーラは襲い来る睡魔と戦いながら思ったが、嫌味や皮肉が言えるほど頭に余裕などなかった。
エレオノーラの口から洩れるのは「オホホホ」くらいである。
シェルミアは鉄靴を胸に抱き、何度も何度もエレオノーラにお礼を言って公爵家から帰路に就いた。
シェルミアに渡した鉄靴はエレオノーラが職人に作らせた一点モノである。
職人気質の親方は「姫君が足用防具を求めるなどよほどのことがあったに違いない」と、女性にも扱いやすいように新素材の合金で軽量化を図り、デザインは鍛冶協会のツテを使って貴婦人に人気のあるデザイナーを起用した。
淡いピンク色を下地にし(生地は最高級と呼ばれるメルテ皮。北部に生息するメルテ鹿の毛皮である)、縁を小さなパールで飾り付け、金糸銀糸で華やかに刺しゅうを施している。生地の下は合金であるが、外見は大変華やかである。
シェルミアをすっ転ばせるために用意した鉄靴は豪華なショーケースに入れられ、ドルーズ辺境伯の屋敷に宝として飾られることになった。
シェルミアは父母に『わたくしの無礼を未来の王妃様であるエレオノーラ様は寛大にもお許しになり、これを下さったのです!』と涙ながらに自分の罪を告白し、厳格な辺境伯は娘を叱りつつも、エレオノーラの広い器に感銘を受けた。
「防具を必要とされるほどエレオノーラ嬢はご苦労をされているらしい。エレオノーラ嬢に難あれば何をおいても助けよう」と誓った。
遠い南方の地でエレオノーラの味方が増えたが、本人は知らない。