序章
「明日は遊園地だから、早く来いよ。」
彼氏に言われ、本堂玲香はぷうっとふくれた。
「分かってるよ、拓也!」
最後にニコッと笑い、玲香は手を振った。
「じゃあね、拓也。」
「じゃあな、玲香。」
玲香は踵を返し、自宅へと向かった。
「あー・・・、疲れたな。」
と言いながらも、「遊園地、遊園地~」と歌いながら帰った。
見慣れた玄関を通り、誰もいない家へ入った。
「ただいま。」
駆け足で階段を駆け上がり、部屋へ入った。
玲香は、あっと叫びそうになった。
煙が充満している。
とても煙たい。
すでに部屋は、黒煙で覆い隠されていた。
よく見ると、ヒーターから炎が上がっていた。
煙のせいで、悲鳴も上げられない。
部屋に入りすぎたせいで、出口が見つからない。
十分も費やして、玲香はドアを見つけた。
急いで取っ手をつかみ、玲香は廊下に逃れた。
しかし、足はフラフラだった。
玲香はめまいで吐きそうになった。
おぼつかない足取りで、階段を降り、電話へと手を伸ばした。
受話器を取った。
震えた手で番号を押す。
プルル・・、プルル・・・。
それが限界だった。
玲香は受話器を握ったまま倒れこんだ。
”もしもし?お母さんだけど玲香?・・・もしもし?もしもし!?”
「お母さん・・・。」
”れ、玲香?玲香!!”
玲香の手から、受話器が落ちた。
そのまま、本堂玲香は23年という短い人生を終え、この世から去っていった。
「ふわぁ・・・。」
玲香は寝ぼけた顔で、うっすら目を開きながらあくびをした。
目をこすって、スマホを置いていた辺りに手を伸ばした。
玲香の手は、空をつかみ、バランスを崩した。
「わあっ!」
玲香はベットから転がり落ちた。
慌てて起き上がった。
そのとたん、きゃ、と悲鳴を上げた。
なぜなら見慣れた部屋ではなかったからだ。
木造の、古ぼけたこじんまりとした部屋だった。
「ここ、どこなの!?」
玲香は思い出した。
死んだのだ。
・・・いや、ここに生きている。
そのとたん、記憶が渦を巻き、縮こまった。
広く空いた記憶の部屋に、別の記憶がなだれ込んできた。
名前、エリー・ルワンド。
8歳の女の子。
家族は四人で12歳の姉ジュリア、父グラン、母エレナを持つ。
母方の姉はルエナで夫はユーク、従兄にあたる息子はルーク。
父方の弟はゲント、妻はソフィア、従弟、従妹にあたる子はクラルとキリア。
好きな食べ物は果物。
嫌いな食べ物は苦い野菜。
秘める才は驚くべきもので強大だが、自身も、他人も気づいていない・・・。
玲香は頭を抱えた。
私はエリーなんかじゃない。片仮名の外国名じゃない。
本堂玲香なのに。
どんなに願っても本堂玲香の記憶は縮こまるばかりだった。
玲香はふらふらと立ち上がった。
玲香は立ち上がると、正面に鏡を見つけた。
肩までの黒髪ではなく、長い腰までの茶髪。
黒と白のストライプのパジャマではなく、よれよれの灰色の寝間着。
165センチあった背は、130センチにかわっている。
切れ目ではなく、ぱっちりとした目。
その目に涙が浮かんだ。
玲香はつぶやいた。
「もう、・・・本堂玲香じゃない。」
その時、本堂玲香はエリー・ルワンドへ、完全に変わったのだった。