三十八時限目 月ノ宮照史は答えを導かない[中]
お客様の来店を知らせるドアベルが鳴った。洗い物をしていた手を止めて、膝下収納の扉に設置した吸盤タイプのタオル掛けに下げた白いタオルで濡れた手を拭く。一連の行動を傍から見れば、店主が謝意を込めてお辞儀をしているように見えなくもない。そうなるようにと意図したわけではないが、お客様に対してなにもアクションを起こさないよりは、いい意味で勘違いして貰えるほうが損は無い。
顔を上げて玄関口を見やると、振り子時計の横に見知った少年が立っていた。佐竹義信君、通称〈佐竹〉の愛称──と言ってよいものかはわからないが──で呼ばれている彼は、妹の楓と同じクラスだ。佐竹君は藍色の半袖ポロシャツに桑色の七分丈カーゴパンツを合わせたラフな格好で、ネックレスなどの装飾品は付けていない。その分、茶色に染めた髪をワックスで立たせている。整った顔立ちは父親に似たのか。然し、どこか姉の面影がちらつく。兄弟揃ってご両親のいいところを受け継いだのだろう。
彼は、なにやら思いつめたような顔を浮かべていた。職業柄、常連様の顔色には過敏で、入店時の立ち振る舞いである程度は把握できる。おそらく『恋の悩みかな』と当たりをつけた。
彼を含む常連高校生メンバーは特殊な関係を築いていた。鶴賀優志君を取り合うような構図で、互いに牽制し合っている姿を何度か目撃した。答えは未だに出ていない。
楓が同性に恋心を抱いていると知ったときは驚いたが、妹はボクと違って聡明な子だ。口を挟まずとも、自分で答えを導き出すだろう。でも、彼は違う。自分が同性に恋心を抱いているのを受け入れるべきなのか、延々と悩み続けているように思える。
男が男に恋をする心境は知る由も無いとはいえど、鶴賀君の女装は別人と見紛えるほど完成していた。彼女を選ぶということ即ち『同性と付き合う』に直結するのだ。戸惑うのも無理はない。
台風の目の中にいる鶴賀優志君は、物事に対して斜めに構える嫌いがある。
彼を落とすのは大学入試より難しいだろう。他人行儀に『難儀だなあ……』と、心の中で呟いてから声を掛けた。
「いらっしゃい」
「ちわッス……」
一歩一歩確かめるように歩き、ボクの前で立ち止まる。佐竹君は店内の様子をキョロキョロと窺った。
「忙しい……? ところ、すんません」
「いや、大丈夫だよ」
暇そうですね、の意味が込められているように感じたが、彼はそういう性格ではない。返す言葉に皮肉を混ぜてもよかったのだが、真剣な表情を見て冗談を言う雰囲気ではないと悟った。
「相談したいことがあって……、いいッスか?」
「構わないよ。喫茶店のマスターの役割は、お客様の悩みを訊くのも含まれているからね」
「……あッス」
然し、喫茶店のマスターは答えを出さない。あくまでも訊くだけだ。アドバイスはしても、『こうするべきだ』と道を示すのはタブーである。状況によってはそうせざるを得ない場面もあるだろうけれど、基本は訊くのみだ。
彼の悩みを訊いて『こうしろ』と指示した場合、ボクは彼の行動に対して責任を負わなければならなくなる。ボクと彼の立場は店主と客。その均衡を崩してはならない、というのが暗黙のルールだ。
「今日は暑いからアイスにするかい?」
昼を越えれば気温が四〇度を上回るそうだ。アスファルトからの照り返しも含めれば、体感温度はそれ以上に感じる。車のボンネットがフライパンの代わりになるような暑さ。こういう日には、キリッと冷えたアイスコーヒーが美味しい。
佐竹君はカウンター席に座って、メニュー表を確認する。彼の瞳が左から右へと流れ、ざっと見終えて元の位置へ戻した。面長の顔がボクを見る。男子高校生にしては綺麗な顔だ。ニキビも無く、手入れもしている印象を受けた。
「じゃあ、バニラで」
「バニラ?」
思いもよらぬ答えに、堪らずおうむ返しをしてしまった。バニラ……、求人のアレではないよね? 言葉そのままであれば、ボクの提案を勘違いしたと捉えるべきだろう。
「そっちのアイスを薦めたわけではないのだけれど……。まあ、いいか」
冷凍庫から自家製のバニラアイスが入っているケースを取り出して、ガラス製のアイスクリームカップに盛り付ける。自家製のアイスはカチカチに凍るので取るのが大変だったりするが、コツを掴めばどうということもない。昔は苦手だったアイスクリームディッシャーの使い方も、いまとなってはお手の物だ。最後に、ミントの葉を添えれば出来上がり。
──どうぞ、召し上がれ。
──いただきます……うめえ。
「それはよかった」
この調子で食べ進めれば、四口くらいで食べ終えるだろう。まだ他にお客様も来店していないから、悩み相談はその後でも遅くはない。
この子たちが抱えている問題はデリケートではあるけれど、免許取得の筆記試験のような嫌らしい引っ掛け問題でもある。カンニング紛いのウルトラ教室があれば憂苦に悩まされる必要も無いとはいえ、恋愛のハウツー本を読んでも理解できない難しさがあるのもまた事実だ。それゆえに、答えを導く方程式を知らない彼らは、複雑怪奇な難問だ、と悩み続けている。
ボクが答えを教授しても彼らのためにはならないし、納得もしない。1+1の答えにだって、ああだこうだと疑問を持つような子たちなのだ。
若いな、と思う。
嫌というほど思い知らされる現実に直面して、真っ向勝負を挑もうとする大人は少ない。答えが〈2〉であるならば、疑問を抱かず受け入れて、『その答えこそが真理である』と悟ったように訳知り顔を披露したほうが楽だからだ。
佐竹君は最後の一口をアイスクリームカップに残して、なにか閃いたとでも言いたげにスプーンを止めた。
「バニラアイスにコーヒーをかけたら、普通に美味そうッスね」
「それを〝アフォガート〟っていうんだ」
お姉さんはよく注文するよ、と付け加えたらどういう反応を示すのか、興味はある。因みに、彼女は『アホガード』と言って注文するのだが、彼はどうだろうか。
「あほがーど……? 俺の攻撃が全然通らなそうな名前ッスね」
血は争えないらしい。
【備考】
読んで頂きまして、誠にありがとうございます。
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by 瀬野 或
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