三〇時限目 憂鬱雲は雨を招く[後]
授業は後半に差し掛かった。
塩爺の授業は嫌いじゃないけど、できることなら午前中にして欲しい。
午前中ならどうにか眠気に対抗できるのに、塩爺の世界史は午後の授業に偏っている。
授業割りに悪意すら感じるが、決められたカリキュラムに不当を申せない学生の身分では、泣き寝入りする他にない。
寝たらだめだ、と目をゴシゴシと擦ったり、ハンカチで顔を拭いたり、別のことを考えて眠気を紛らわせようともしたが、これ以上は無理だ。
視界がどんどんぼやけて、意識が混濁し始めた頃、授業の終わりを告げるチャイムが教室に響いた。
「助かった……」
安堵とともに零れた言葉は、だれかさんの背伸びをする声に掻き消された。
この眠気を助長しているのは塩爺だけのせいじゃないのでは?
と、そんなことを不意に思う。
夏が、すぐそこまで迫ってきている。
太陽光の温かさも相俟って、眠気を助長させているんだろう。
空は青く、こんなにも澄み渡っているのに、僕の心には分厚い雲が幾重にも重なって、いまにも雨が降り出しそうな気分だった。
* * *
ダンデライオンへ向かう道中、考えていた。
僕たちはそれぞれが個人であり、異なる価値観や考えを持っている。
価値観をぶつけ合うのが議論というのならば、価値観や考えを持たない者が議会に出席しても場違いなだけだ。
会議に欠席するからこそ、出席する者たちの邪魔をしないという意思表示であり、その選択も尊重されるべきなのだ。
だが、日本という国には『出ることに意味がある』という、大層ご立派なスローガンを掲げている者が大半で、欠席は常に悪として語られる。
そんなの、どう考えてもおかしい。
『逃げることは間違いじゃない』
なんて、慈悲深い言葉をかけておきながら、いざ逃げると『どうして逃げたんだ』って追求される。
これは、『逃げること自体は間違いじゃないが、逃亡した結果は自己責任である』的なトラップに他ならず、このトラップに引っかかった者は、折檻よりも苦しい仕打ちを受けさせられるのだ。
どう足掻いても絶望しか残されていないのなら、極力、心的ダメージの少ない絶望へ進むのが利口と言える。
絶望に向かって進むしか選択肢は与えられないような状況に追い込まれた時点で、自分の運命を呪うしかないのだ。
これから始まるであろう話し合いに緊張して、僕らを取り巻く空気が重たく感じる。
彼らは一体、どんな『答え』を用意したんだろうか。
少しずつ店に近づいていく。
昼間はあんなに晴れていたのに、いまは分厚い雲が空を包み、静かに流れる風は雨の匂いを運んでいた。
話し合いが終わる頃には一雨来そうだな、と思った。
生憎、傘は持って来てないけど、コンビニで適当なビニール傘を買えばいいか。
最寄駅に到着する頃には雨が止んで、電車の中についさっき買ったビニール傘を車内に忘れるんだろう。
「雨、降りそうですね」
月ノ宮さんは、だれに訊ねるでもなくボソッと呟いた。
「やっべ。傘持ってねえ」
「スタンプ二倍とかないかしら?」
天野さんだけはなんとも現実的というか、考え方が逞しいけど、ダンデライオンにスタンプカードなんてサービスは存在しないので、残念だけど受け入れてもらうしかない。
照史さんに提案すれば、スタンプカード作成を検討してくれるかもしれない。だけど、対価に見合った集客もないから、スタンプカードの実現は難しいだろうな。
言葉数少なく歩き慣れた道を進み、ダンデライオンの店頭で足を止めた。
「佐竹さん。入らないのですか?」
「そうよ。早く進みなさいよ」
「あ、ああ……。わるい」
とは言いつつも、佐竹はドアノブに手を掛けたまま、その場で立ち尽くしている。
「佐竹?」
僕が訊ねると、佐竹はおそるおそる振り返った。
幽霊でも見たのかってくらい顔面蒼白で、気まずそうに唇を噛み締めている。
助けを求めるように見つめられても、僕が手を貸すはずがないだろう? と睨めるように視線をぶつけたら、観念したのか大きな溜め息を吐き出して、またドアノブに手をかけた。
「どうなっても知らねえからな」
「は?」
佐竹はダンデライオンの店内に、なにを見たのだろうか。
そうまでして入店を拒むには、相応の理由があるはずだが、佐竹の口からは語られない。
『自分の目で確かめろ』
とでも言いたげに、「開くぞ」と一声してから、佐竹は意を決してドアノブを回した。
かろりんころりんとドアベルが鳴る。
店内は昨日同様に、雰囲気のあるジャズが流れていて、珈琲の芳ばしい香りが充満していた。
入口横に置かれた振り子時計は、今日も暢気に振り子をゆらゆらさせて僕らを出迎えてくれる。
いつもと変わりなく、閑散としたダンデライオンの日常風景があった。……だが、そこに似つかわしくない人物が入口付近のカウンター席で、両手の指を絡めるように交差させて座っている。
目が合うと、じとっとした笑みを浮かべられて、背筋がざわざわっと粟立つのを感じた。
なるほど。
これはたしかに、入店を拒みたくもなる。
「もう、なんなのよ。アンタの目の前に見えない壁でもあるわけ?」
憤懣遣る方無いと憤る天野さんの気持ちもわからなくないが、『見えない壁』っていうのは言い得て妙だな。
その人は、とても越えられそうにない障壁だ。
このタイミングで出くわすなんて、運が悪いという他にないけど、そうだとしても、監視でもしてたのかってくらいタイミングがよ過ぎる。
いいや、『観察』って言葉に言い換えたほうが適切だと思う。
僕にとっては師匠とも呼べる人物で、佐竹にとっては実の姉の佐竹琴美が珈琲を飲みながら、僕たちを待ち構えていた。
【備考】
この度は『女装男子のインビジブルな恋愛事情。』をご覧頂きまして、誠にありがとうございます。
今回の物語はどうだったでしょうか?
皆様のご期待に添えるように全力で書いていますが、まだまだ実力不足な私です。次はより面白い作品が書けるように、これからも努力して参ります。
【瀬野 或からのお願い】
この作品を読んで「面白い! 応援したい!」と思って頂けましたら、お手数では御座いますが『感想』『ブックマーク』『評価(最新話の下部にあります)等』をして下さると、大変励みになりますので、どうかよろしくお願いします。
【誤字報告について】
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「報告したら不快に思われるかも」
と躊躇されるかも知れませんが、そもそも『ミスしているのは自分の責任』なので、逆恨みするような真似は絶対にしません。どうかご安心してご報告下さいませ。勿論、誤字しないのが一番よいのですが……。
報告、非常に助かっております。
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メインストーリーを進めながら、時間がある時に過去投稿分の改稿・修正作業を行っております。
改稿・修正作業はまだまだ終わりませんが、完成した分は『活動報告・Twitter』にて、投稿が済み次第お知らせ致します。
最後になりますが、現在ブクマして下さっている方々や、更新してないか確認をしに来て下さる方々、本当にありがとうございます。
完結を目指してこれからも書いて参りますので、引き続き応援して下さると嬉しいです。
これからも、
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を、よろしくお願い致します。
by 瀬野 或
【誤字報告】
・現在報告無し