四百七十九時限目 ソイスープでは代わりにならない
心が痛い。
痛みの正体を私は知っていて、だけど、知りたくなかった。
隠してしまいたかった。
見て見ぬ振りを続けていれば、痛みの名前を忘れられると思った。でも、心を劈くような痛みは日に日に増して、無視することもできず、なかったことにもできなかった。
彼女に恋をして、彼をすきになって、友だちという関係になったのに、近づけたはずなのに、それでも、私と彼との間には、半透明で分厚い壁がある。
届かないもどかしさに、それでも立ち向かおうと努力をした。最低だと非難されてもしかたがないことや、軽蔑されても仕方がないことだって率先して行った。
その全ては、彼女に、彼に振り向いて欲しい一心だった。
いまにして思えば、自分の欲望を曝け出しただけだったのかもしれない。彼は彼女でもあるのだから、私の裸を見たくらいで心を揺さぶれるはずもないのに。
自分がやってきたことが全部無駄だと思ったら、涙が溢れていた。
それだけじゃない。
彼のことをすきになった〈彼〉は、私よりもずっと彼の傍にいる。
バスに揺られていたあの時間に、私の好意は〈彼〉よりも劣るんじゃないか? と脳裏を過ぎったら涙が止まらなかった。
〈彼〉はずっと彼を見続けている。
私はいつも、彼のなかにいる彼女を見ていた。
そこに大きな差ができた。
私にこの差を埋めることは、叶わないだろう。
「メリークリスマス、なんて言う気分にはなれないわね」
閑散とした公孫樹並木を歩きながら自嘲気味に呟く。
私の右腕にあった温もりは、帰りの電車に揺られるうちに消えてしまった。
ユウちゃんの熱を残しておきたくって、ろうそくの火種を護るように意識を集中させていたのだけれども、私の集中力では最後まで護ることができなかった。
精神的にも、肉体的にも疲労がピークを迎えていた。わあっ! と叫びたい気分だった。
大声を出せたら胸の中にある棘も一緒に飛び出してくれないかしら? そんな非常識な行動はしたくないけれど、それで気が済むならやって損はないわね。どうせ大声を出しても、黒く染まったヘドロ状の憂いは消えてくれないでしょうけど。
いつも通りに足が動かない。
錆び付いた歯車に油も注さずに無理矢理動かそうとしているような、ギシギシ嫌な音を立てる滑車を動かしているような──歩道に雪が積もっているせいで歩きにくいというのもある。
ぽうと闇夜を照らす自動販売機の明かりに導かれるように、私の足は自ずと自販機の前で留まった。
楓のプレゼントもあることだし、濡れてしまう前に帰宅したほうが懸命だってことは重々承知だ。
然し、私の意識は自販機に向いたままだった。
慣れた手つきでバッグから財布を取り出し、コイン投入口に一〇〇円を入れる。
大手メーカーの自動販売機よりも安価で、奇抜な飲料を販売しているマイナーメーカーの自販機。
ラインナップには、おしるこ、お味噌汁、ミルクセーキなどが並んでいて、ミルクセーキのボタンには『売り切れ』の表示が出ていた。
「そんなに美味しいの? ミルクセーキって」
奇抜過ぎる商品のなかでも比較的まともであるコーヒーは、見慣れないデザインで、とてもではないけれど購入する気にはなれず、かといって、甘ったるいロイヤルミルクティーを飲みたいとも思わない。
緑色に光るボタンをぼうと眺めていた私の指は、何故かお味噌汁のボタンを押していた。
「どうしてお味噌汁なんて買ったのかしら」
熱々のお味噌汁缶を右ポケットに入れてユウちゃんの温もりを再現してみようとしたけれど、こんなに人工的な熱ではなかった。
もっと優しさに満ち溢れていて、柔らかかったはずだ。
自動販売機を通り過ぎて数分、バッグのなかにある携帯端末が鳴った。
『もしもし姉さん? 帰りが遅いようだけど、雪は大丈夫?』
「平気よ。要件はそれだけ?」
『ああ、うん。まあ、それだけ』
「そう。じゃ、切るわよ」
『ちょっと待って』
私が携帯端末を耳から離すと、奏翔は焦ったように声を大にした。
『迎えにいこうかって、母さんが』
「……別にいいわよ。もうすぐ着くから、そう伝えて」
迎えにくるならもっと早く連絡を寄越して欲しかったが、駅に到着した時点でそう提案されても同じように断っていただろう。
いまはだれとも会いたくない。
喩え、それが家族であっても。
数秒の間を開けて、
『気をつけて帰ってこいってさ』
それだけを私に伝えると、通話を終了させた。
奏翔の声は、昔よりも大分低くなった。
どんどん大人に近づいていく弟の成長を喜ばしく思う反面、いつまでも子どもではいられないのね、と寂しくも思う。
一時期は反抗期になり、私や両親に対して素っ気ない態度を取っていた奏翔だけれど、優志君に悩みを打ち明けて、自分なりに消化できたのかもしれない。
それは本来、姉である私の役目なのだが……。
「私の弟なのに、笑ってしまうわ」
尤も、『女装してみたい』なんて面と向かって言われたら、頭ごなしに否定してしまいそうだ。クラスメイトに優志君がいてくれてよかった。でも、奏翔も優志君に懐いているみたいで、ちょっぴりヤキモチを妬いていたりする。
二人の間柄は師匠と弟子、琴美さんと優志君のような関係に近い。
部屋でこっそり女声の練習をしているの訊いてしまったときは、思春期の男子が一人遊びしているような、見てはいけない行為を見てしまったような感覚になった。
優志君もそうやって練習してきたのかと思うと、どれだけの努力を積み重ねたのかが窺える。
「奏翔が前を向けるなら、女装もひとつの手段として協力すべきなのかしら」
十字路を左折して、電信柱を三つ過ぎると私の家が見えた。
──ああ、終わってしまった。
帰宅すると、嫌でもそう実感させられてしまう。
夢のような時間はとっくに終わっていて、それでも終わらなくないと帰り道をゆっくり歩いてきたのに、終わるときはこうもあっさりと終わってしまうものだ。
「姉さん、夕飯はどうするの?」
コンコンコン、とリズムよく部屋のドアをノックした奏翔が、ドアを開かずに言う。
「チキンとケーキあるけど」
「あとで食べるわ」
「ふうん」
「なによ」
「べつに」
なにか言いたそうな奏翔は、暫くドアの前に立っていた様子だけど、私がそれ以上語らないのを面白く思わなかったのか、ドタドタと乱暴に階段を下りていく音が、私の部屋にまで届いていた。
ベッドに突っ伏していた私は立ち上がり、窓を遮っているカーテンを開いた。
お隣さん家の屋根はシュガーパウダーを振り掛けたブラウニーのようで、それを見てユウちゃんがくれたドーナツを思い出す。
紅色のラッピング袋のなかに薄いビニール袋という二重構造で、三つのドーナツが並ぶ。
四つは縁起が悪いし、一人で食べるには五つだと多過ぎるから、間を取って三つにしたのかな。
五つでも問題なく食べられるけど。
まあその、食べ過ぎてもあれよね。
私はそのなかのひとつ、オーソドックスな味を食べた。
──ほんのり甘くて、上品な味。
ミスドのドーナツも美味しいけど、ユウちゃんのドーナツも勝らずとも劣らずだ。
飲み物が欲しくなって、コートに入れっぱなしになっているお味噌汁缶を思い出した。
「ドーナツにお味噌汁はないわね」
半分食べ終えたドーナツを、ティッシュを敷いた机の上に置いて、時間が経ってぬるくなったお味噌汁を握り締めながら部屋を出た。──このお味噌汁缶は奏翔にあげよう。
姉からのクリスマスプレゼントがお味噌汁だと知った奏翔がどんな顔をするのか、いまから楽しみね。
【修正報告】
・報告無し。